ライノの花はまた、

 トールズ士官学院に、春がやってくる。窓を開けて大きく伸びをしたクロウは、窓枠に寄りかかってぼんやりと景色を眺め始めた。
 明日に入学式を控えた校内は、新入生を迎えるために慌ただしく動いていた。主に忙しそうにしているのは生徒会の面々だ。会長のトワを筆頭に、ばたばたと校内を駆け回って準備を進めている。
「……お」
 考え事をしていれば、と、クロウは僅かに身を乗り出した。大量の書類を抱えたトワが、危なっかしい様子で中庭を歩いているのを見つけたからだ。ややふらつきながらも、動く書類の塔は少しづつ生徒会室のある学生会館へと向かっている。
 相変わらずだなオイ、と苦笑するクロウ。風が吹いたら飛んでしまいそうなほどの量だ。そもそも、あんなに抱えて前は見えているのかーーそれ以上気にかけるより先に、体が動いていた。
 周りを見回せば、夕方だからか、幸いな事に誰もいない。教官達も職員室で準備に追われているだろう。橙が差し込む中庭にはトワ一人だけだ。
 ここは二階。いちいち階段を降りるのも面倒だし誰もいないならいいか、と、クロウは窓枠に足を掛ける。

「おーい、トワ」

「あれ、クロウく…………わわっ! あ、危ないよっ!」
 呼ばれて振り返り、クロウが何をしようとしているのかすぐに察したトワは、目を丸くして立ち止まった。ぐらりと傾きかけた書類を慌てて持ち直して、けれど止める事も出来ずに、アワアワとした様子でクロウを見上げている。
「大丈夫だって」
 得意気に笑って見せてから、クロウは窓枠に手を掛けてぶら下がる。一瞬の停止。校舎の壁と向き合った直後、たん、とそれを逆上がりの要領で力強く蹴り上げて、後方へ飛び退きながら体を宙へと躍らせた。一回転する世界。一秒ほど正面に捉えた空は、初めてこの高さから飛び降りた日と同じような色をしていた。
 ぽかん、といった様子でそれを見つめているトワの表情は、クロウからは見えない。風を切って、よっと、と彼が着地して立ち上がるまで、彼女はそんな様子で彼を見ていた。
「トワさーん?」
 少しだけ屈んで目線を合わせてから、戯けた調子でクロウが声をかければ、トワがはっとして彼の目を見つめる。
「どーよ、オレ様の華麗な着地は」
「……どうって……クロウ君、あんまり危ない事しちゃダメだよ? 教官達に見つかったら、階段使いなさいって怒られちゃうだろうし。それに明日からはわたし達、先輩になるんだから」
「誰か居たらやらねぇって。……っと、それよりなんだよ、その書類? まだ残ってたのか?」
 新入生の情報の整理、クラスごとに配布する書類の区分、その合間に寄せられる数々の依頼ーー生徒会の会長に任命されたトワは、一体一日にどれほどの事務仕事をしているのか。ずらりと並んだ文字と積み上げられた紙を想像するだけで眠くなってくるな、とクロウは苦笑を浮かべる。
「ううん、まだ先のものなんだけど……明日から忙しくなりそうだし、今日のうちに出来るところまで片付けちゃおうかなって」
 生徒会長として、頑張らないと。そう言って張り切っているトワは、皆をちゃんと引っ張っていこうと強く決意しているようだった。
「おー、その意気だぜ。けどな、自分の体の事もちょっとは気遣えよ? ……”リーダー”が倒れちまったら、色々大変だろうしな」
 クロウは右手でトワの頭を軽くぽんと叩いて、彼女が抱えていた書類を三分の二ほど持って行ってしまった。あ、とトワが零すのを聞いて、彼は夕陽を受けながら振り返って立ち止まる。
 地平の果てに沈もうとしているそれは空を橙に染め上げ、クロウの銀髪にもその色を添える。背後から飲み込まれてそのまま攫われてしまいそうなほどに、彼は夕暮れが似合っていた。溶け込んでしまいそうだと表現してもいいかもしれない。
 橙を取り込んだ緋と翠の瞳が、交差する。
 目の前にいるのに何故かクロウが遠く感じてしまって、トワは思わず一歩踏み出した。たった数歩の距離にいるのにーーすぐそこにいるのに、間に透明な壁があるような、そんな気がしてならなかった。
 ”人当たりはいいけどどこか虚ろな”クロウとトワ達は初めは衝突こそあったものの、今ではすっかり打ち解けて四人で一緒に居る事が多くなっていた。壁などなくなったと、思っていた。けれどトワは時折、見えない何かに阻まれているような、妙な感覚に陥るのだ。
「……クロウ君、」
 トワだけでなく、ジョルジュやアンゼリカも同様かもしれない。薄っすらとした、見えているようで見えていないそれを追求しようとすれば、クロウは自然に逸らしてしまう。
 呼ばれて、彼がトワの方を見る。そこにいるのは、いつもの”クロウ”だった。
「ちょうどよかったぜ。生徒会室に忘れ物しちまったんだよな~、買ったばっかの雑誌」
 いつもの飄々とした様子の裏側に何かを隠して、クロウがゆっくりと歩き出す。
 行こうぜ、と言われてしまってトワはそれ以上何も言う事が出来ず、こくりと頷いて彼の後を追った。

 しんとした生徒会室の窓を開ければ、爽やかな風が吹き込んでくる。机に書類を置いて、クロウは開いた窓からほんの少しだけ身を乗り出した。見える範囲に学院生は見当たらない。
「クロウ君、どうもありがとね」
「はは、礼なんていらねぇよ」
 頭の後ろで腕を組んで、クロウが壁に寄りかかる。椅子に座ったトワがさっそく書類を捲り始めたのを見て、彼は再び窓の外へと視線を向けた。
「……」
「……」
 沈黙。だがそれは決して気まずいものではなく、寧ろ心地よいものだった。
 クロウの緋には、見慣れた風景が映し出されている。風に交じってひらりと舞っていった白は、昨日辺りから咲き出したライノの花びらだろうか。新入生を迎えるかのように咲いたそれらは、来年もきっと、綺麗に咲いてくれるのだろう。
 窓枠に頬杖をついて、クロウは空を見上げる。ーー来年。何気なく手を伸ばして掴もうとした何かが、するりと抜けて落ちていくような、妙な感覚。その頃の事を思って、ふ、と彼は一瞬だけ眉を下げて笑った。有り得ない未来の事を考えても仕方がないと、もうその思考は片隅へと追いやった。
 くるりとクロウが後ろを向けば、トワが窓に背を向けて積み上げた書類と闘っている。このペースだと、すべて終わらせるのに二時間もかからないだろう。
 開け放った窓から一枚、ライノの花びらが舞い込む。そっとそれを手で掴んで、クロウは懐から同様に白い花びらを気付かれないように取り出した。中庭でトワを見かける前に、ある事の為に摘んでおいたライノの花。そんなに時間は経っていないから、それらはまだ、綺麗な白を保ったままだ。
 そんなクロウには気付かずに、机のスペースを開けようと、トワが端に積んでいた本を幾つか腕に抱えて立ち上がる。
 横にある本棚へ、彼女がそれらを一旦収めようとしたーーその時。

「トワ」

 突然目の前をゆっくりと落ちていった白に驚いて、一時停止したトワ。間を空けずにひらひらと降り注ぐものがライノの花びらだと気付くまで、少しだけ間があった。
「ライノの花をゆっくり眺める暇もないくらい多忙な、我らが生徒会長へ」
 あちこちに白をくっつけて振り返ったトワに、クロウはぱちりと片目を瞑ってそう言った。いつも頑張っているこの小さな生徒会長は、あちこちに咲き誇るライノの花さえも、のんびりと眺めてはいられないのだ。
 花びらを一枚手に取って、トワが笑う。陽だまりのようなあたたかさを持った笑顔。
「えへへ。綺麗だねぇ」
「だろ? たまには立ち止まって見てみろって」
 ずっと歩いていたら見えないものもあるのだと、彼は言う。
「うんっ。クロウ君やジョルジュ君、アンちゃんと一緒にのんびり見たいなぁ」
 頑張って時間作るね。そう宣言したトワにクロウは、無茶はすんなよ、と返した。

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「……当分、トリスタには来れないかなぁ……」
 TRISTA STATIONーーその文字を見上げて、トワがぽつりと独り言を呟いた。
 卒業後、幾つかの非政府組織を巡る事にしたトワは、今日トリスタを発つ。見慣れた景色に別れを告げて、自分の考えを見極める為に、新たな一歩を踏み出そうとしている。
 ただひたすらに前へ、と。その言葉はちゃんと、トワ達にも伝わったようだ。リィンが伝えてくれたのだろうか。本当は自分で言うべきだったのだが、約束を守れなくしてしまったのは、どこの誰だったか。
 リィンがトワ達と交わした約束ーーあいつらと一緒に卒業する、というそれを守れていたら今頃どうなっていたのだろうと、ふと思う。何事もなく学院に戻って卒業式を迎えている自分の姿がちっとも想像出来なくて、込み上げた苦笑の代わりに息を吐いておいた。

『数多の困難や現実を前にただ立ち竦むのではなく、ある一つの想いを抱いて明日へ続く道を歩んでいく。それを”夢”と言うのよ』

 取り戻してみせると、追いかけてきたリィン達。やれるもんならやってみろと、走って距離を離しはしたものの、伸ばされる手を振り払う事は出来なかった。
 夢。夢だった。自分が目を閉ざした瞬間に叶わなくなってしまった、夢。結局トワ達には最期まで会えず、こうして近くに居ても、その目に自分が映ることはなかった。当たり前の事、なのだが。
 時計を確認して、トワが駅へと歩き出す。そろそろ時間らしい。まだ咲いていないライノの花の蕾を名残惜しそうに見つめながら、先日別れたゼリカやジョルジュから受け取ったものを大切そうに鞄の中へと入れた。代わりに、予め買っておいた切符を取り出す。
 風が吹いて、草木が揺れる。
 懐に残っていた真っ白な花びらをその風に乗せてみれば、まるで分かっているかのように、真っ直ぐにトワのところへと運んでくれた。
 実体のないライノの花びらは、見えないはずだったーーが、トワは、飛んできたそれをしっかりと視界に捉えていた。
「…………えっ?」
 ライノの花はまだ、咲いていない。蕾の下で、咲く時期を待っている。それなのにどこからか花びらが飛んできた事に驚いて、トワは立ち止まった。
 振り返ったトワと視線が合ったような気がしたが、合っていないのだろう。それでも、合っていてほしい、と願ってしまう自分がどこかにいるのを否定できない。
「クロウ、君?」
 視線は合わない。合っているようで、合わない。当然だ、と自身に言い聞かせる。こっちは見えていても、あっちには見えていないのだから。けれど、ここに居る事が分かっているかのように、トワは真っ直ぐにこっちを見つめている。

 頑張れよ。いや、頑張りすぎんなよ?

 届くはずのない声は、届いているような気がした。数日前、ゼリカやジョルジュにも同様の言葉を掛けたが、二人とも、なんだか気付いているような気がしたのだ。
 潤んだ目をごしごしと赤くならない程度に擦り、トワが笑って頷く。止まった鼓動が一度だけ動いた。届いた事が、単純に嬉しいと思った。
 それは、フェイクだと思って築き上げた”学院生のクロウ・アームブラスト”として、なのか、それとも。
『必ず、クロウ君を取り戻してみせるから……!』
 オーロックス砦で交わした、トワ達との最後の会話。目と目を合わせて出来なかったそれは、まさか最後のものになってしまうとは思ってもいなかった。それに未練があったからなのか、何故かこうして魂だけ取り残されるという事態に陥ってしまったがーーずっと心につっかえていた何かが、すっと溶かされるような気がした。
 街を歩いていても、誰の目にも留まる事はない。ぶつかりそうになっても、避ける必要もない。便利な体だなと思いながらも、寂しさを覚えてしまっていたのは否定できない。鉄血宰相を狙撃した因果応報だと分かっていても、まだ、生きていたかった気持ちはあった。
 そこで再認識したのは、やっぱり、この街や学院で失った青春を謳歌してしまっていたのだという事だった。居心地のいい居場所で、また、戻れていたかもしれない場所。二度と帰れない時間の中へと消え去ってしまったが、かけがえのない仲間と過ごした時間は永遠のものだと誰かが言っていた。
 この街が、好きだった。あいつらが、好きだった。それはきっと、偽りのない感情なのだろうと思えた。

「またね」

 街の音に紛れてしまいそうなほどの、小さな声。それでもちゃんと、耳に届いた。
 ひらりと手を振る。

「おう。ーーまたな」

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キツラさんのクロウとトワのイラストをもとにさせていただきました!

ライノの花咲いてそうな気もしますが3月の先輩組の動きがイマイチ分からんので大目に見てください(

7/19 ちょこっとだけ加筆。ほんとうに少しだけだけど。