I wish you good morning.

※ライフィセット=マオテラスなのでは、という考え前提。あとこうなったらもれなく死ぬのでこうならないようにと願いつつ。

 人のものとは到底思えない叫びが、鉛と穢れの空へと響き渡る。それが何を意味するのか。喰らうべきものではないものを喰らった彼女は、もう。
 脳裏に浮かび上がった優しい記憶に亀裂が走り、一気に砕け散ってしまう。
「…………ベルベット」
 少年――ライフィセットは、自身を苦しめるであろうそれの中へと、何の躊躇いもなく一歩ずつ踏み入っていく。ぴりぴりと肌を焼くような痛みが、内側から殴りかかってくるような気分の悪さが、まだ無垢な彼に容赦なく襲いかかる。
 それでも、ライフィセットは止まらない。砕けた思い出と想いを、その小さな手で血が滲むほどに強く握り締めたまま、歩き続ける。
 様々なものを映し出してきたライフィセットの無垢な瞳は、真っ直ぐにベルベットを捉えて離さない。もう引き返せない、もう戻れない、大切な存在である彼女が。
 次第に近付く距離。巻き上がっていた砂煙が徐々に、風に吹かれて消えてゆく。
「ベルベット」
 名を呼ぶ。届かないかもしれない、それでも。
「……」
 振り向いたベルベットは瞳の中で、消える事のない激情の焔を揺らめかせている。かつて宿していたあたたかな光は隠れ、今は、世界すべてを飲み込もうとする穢れの色に染まっている。あの優しい瞳は、もう見られないのだろうか。彼方へと消え去った記憶の中のページは、拾い上げる事さえさせてはくれない。
 拳を作るライフィセット。このままベルベットを放っておけば、やがて世界中へと穢れが広がってしまう。自我があろうとなかろうと、それは不変の真実だ。
 歩み寄るライフィセット。ベルベットはその場から動こうとしない。静かに、ライフィセットを見つめている。
「――――……」
 ぽつり、と零されたその名は。
 異形と化したままの腕をライフィセットへと伸ばして、ベルベットは一瞬、琥珀色を瞳へと戻した。それはすぐに隠れてしまったが、ライフィセットはそれを見逃す事なく、また一歩彼女へと近付いた。
「ベルベット。……ありがとう」
 ライフィセットは、揺れそうになる瞳を堪える。そこから零れ落ちるはずだったものの代わりの言葉は、溶け込むようにして大地へと消えた。
 舞い上がった紙葉は、淡い光を放った。
「嬉しいとか、悲しいとか、楽しいって気持ちも。僕が僕のまま進むって強さも。虫とかを見てかっこいいって思ったり、本を読んで色んなことを考えるのも……あの時ベルベットについていかなかったら、きっと、一生、感じることはなかったんだと思う」
 ベルベットについて行くと決めて共に歩き出してから、ライフィセットは心を知った。世界を識った。その小さな体に溢れ出んばかりに感情と色を詰め込んで、穢れを知らぬ瞳には鏡面のようにあらゆるものを映し出した。
 ライフィセットはベルベットの前へと踏み出して、その手をそっと掴む。
「僕がベルベットを守るって――”救う”って、決めたから」
 白に満ちてゆく世界は、どこまで広がるのか。それを知る者など、世界中どこを探しても居ないのだろう。
 飲み込まれる。白へと。
 常人ならば瞳を開いているのも辛くなるほどの、白の世界。琥珀色を取り戻したベルベットは、ゆっくりと屈む。ライフィセットとベルベット、二人の目の高さが合う。
 ぽん、と頭の上に置かれた手はあたたかい。確かな温もりを感じ取って、ライフィセットは笑った。
 ライフィセットの額と、ベルベットの額がこつりと合わせられる。それは再会の証か、別れの挨拶か。

「おやすみ。ベルベット」

 すべてが、白へと染まる。

 ◆ ◆ ◆

「お姉ちゃん、朝だよ」
 こん、と控えめに叩かれた後、少しだけ開かれた扉。
 聞き慣れたその音でベルベットが寝返りをうつと、窓から差し込む光が妙に眩しく感じられた。反射的に彼女は、それを腕で遮る。毎朝のように見ているもののはずなのに、どうしてこんなに眩しく思うのか。その原因はさっぱり分からない。
 そういえば、と。光さえ差さない闇の中へと立っていたような、奇妙な感覚がある。
「…………夢?」
 それは霞んでいて、定かでない。そもそも夢を見たのかさえ、曖昧だった。思い出そうとすればするほど、遠ざかってゆく。
「……大丈夫?」
「!」
 いつの間にか入り口から顔を出していた弟が、心配そうにベルベットを見つめている。そんなに変な表情をしていただろうか、と、彼女はすぐに戸惑いを追い払い笑いかけた。
「ううん。なんでもないよ」
 夢は夢。今ここにあるものが現実だ。そうに決まっているのだから。
 窓を開けば、風が唄う。蒼穹の旋律の中で、ただ穏やかに。
 ベルベットが振り返ればそこには、櫛を持ってにこにこと笑う弟がいる。
「おはよう、ラフィ」

 そうして今日も、何の変哲もない――けれどかけがえのない一日が、始まる。

2017.03.08