TwitterSSまとめ(Ⅲ~Ⅳ発売前まで)

※台詞から勝手に妄想を広げたⅣフライング妄想含みます。

【届いても届かない】

 そっくりな髪の色と、瞳の色。見慣れているようで、見慣れていない色だ。
「……俺の顔に、何か?」
 無意識に見つめてしまっていたのか、テーブルを挟んで反対側に居るリィンは、困惑したように視線を彷徨わせている。
 ――当然の反応だった。〝知り合って間もない人間〟にまじまじと見られたって、困るだけだろう。
 思考を追い払うように、一旦視線を外して、クロウは手を打つ。
「っと――そうだ。俺とお前の関係なんだが」
 そう告げると、リィンは怪訝そうな顔をする。
「……関係?」
「おう。ズバリ〝悪友〟ってトコだ」
「……悪友……?」
「悪いダチって事だよ。色々やったんだぜ、俺とお前で」
「え……そうなのか? 悪いダチ、って……そんなに悪い事をしたのか?」
「クク、今はご想像にお任せってな。また機会があったら話してやるよ」
 更に困惑しているリィン。ひらりと手を振って、クロウはそれ以上の追求を遮った。
 その機会が来ない事を少しだけ願いつつ、腰掛けていたソファから立ち上がる。
「?」
 微かな、金属音のようなものが聞こえた直後。
 向き合って座っていたリィンの足元まで、銀の光が一つ転がっていった。
「クロウ。ミラを落としたぞ」
「あー……手、滑らせちまった」
 屈んで拾い、リィンは特にそれを気にする事はせず、すぐにクロウへと渡した。
 リィンの手の内で一度だけ光った五十ミラコインは、何も語らない。何も思い起こさせないし、何も思い出させないらしい。
「悪り、サンキュな」
 小さな銀を受け取って、クロウは自嘲気味に笑う。
 リィンは本当に、大切にしていたはずのものを忘れてしまっているのだと――こんな気持ちで《蒼のジークフリード》と対峙していたのかと、痛感しながら。

【まいごのかえりみち】

 泣いている――小さな子どもが、この黄昏と暗闇が渦巻く、閉じられた世界のどこかで。
 微かに届くその声に、聞き覚えはない。ただ、自分が知っている誰かなのではないかと、己の心に告げる自分が居た。漠然としたもの、ではあったが。
「誰か、居るのかよ?」
 クロウがそう問いかけると、ぴたりとそれは聞こえなくなる。反響する事のない彼の声は、空間の中へと溶けていった。
 気配はまだ、なくなってない。クロウが一歩踏み出すと、反応するかのように、見覚えのある景色が左右に現れる。色褪せたそれらは、次々と浮かんでは消えていく。
 ――ユミルの雪山。アイゼンガルド連峰。トリスタやリーヴスの街。数え切れないほどの思い出を作ったであろう、士官学院。
 この箱庭の主が誰なのか、クロウにはもう見当がついていた。先程の泣いている声と、等号で結べる事にもだ。
 先の見えない世界。崩れた思い出と記憶の欠片が道の両側に降り積もり、幾つも小さな山を作り出す。それは失いたくないと思って手を伸ばしても、守りきれなかったものたちだ。
 そこにあるのは、破れたアルバム、真紅の飾りが付着した誰かの帽子、真っ黒に塗り潰された帝国の地図、折れた太刀、ひび割れた写真立て、壊れたARCUS、それと――

「リィン」

 ぽつり、とクロウは呟いた。道の先に、壊れた鎖を握り締めて蹲り、体を震わせる子どもが居るのを見付けたからだ。
 子どもはクロウに呼ばれても、振り返らない。声を押し殺すように、ただその場で静かに泣いている。
「リィン。……帰ろうぜ」
「かえれないよ」
 前に屈んで、クロウは小さな肩に手を置く。
 子どもは――リィンは顔を上げずに、拒むように首を横に振った。
「ぼくがこわしちゃったんだ。大事なものを、ぜんぶ」
「くやしいよ……くるしいよ。かなしいよ」
「だれも、守れなかったんだ」
「なにも……できなかった」
 懺悔のように紡がれる言葉。細い腕に残った鎖の痕が痛々しく、傷付き所々が破れた服には赤い色が滲んでいた。
 クロウは一度だけ、銀が混じったリィンの髪を撫でる。
「確かにそうかもしれねえ。二度と取り返せないモンだってある……けどな、リィン。一つ忘れてるぜ。……終わっちゃいねーんだ。俺達はまだ諍える。明日を掴むためにな」
「……」
 どこのどいつに影響されたのやら、と、言いながらクロウは思っていた。それでも、自然と、言葉が零れ落ちていた事に違いはない。
「これ、持っとけ」
 懐を探って取り出したものを、クロウはリィンに手渡す。
「……五十ミラ、コイン?」
「おう。前にお前に渡したヤツだが……今となっちゃ〝因縁付きの御守り〟ってトコか」
「それ……ほんとに、お守りなの?」
 戸惑った様子でコインを受け取ったリィンは、初めて顔を上げる。ずっと泣いていたのか――否、あの力故のものか、瞳は僅かに赤い。

「クク、心配すんなって。――そいつの利子、ちゃんと返しきってやっからよ」

【木漏れ日の在り処】

 柔らかい陽射しが妙に眩しく感じて、反射的に手を翳す。
「……?」
 見覚えのない場所。目の前に続いているのは、脳内のアルバムをどれだけ捲っても、見つかる事のない景色だった。一歩踏み出せば、確かに地を踏む感覚がある。夢なのか現実なのか――前者であるはずなのに、見失いそうになる。
 頭を振って、リィンは道の先、森の奥を見た。やはり記憶にはない場所だったものの、本当にそうなのかと感じている自分も居る。
「……やっぱり知っている場所、なのか?」
 その正体を確かめたいという気持ちに背を押されて、リィンはゆっくりと歩き出した。

 穏やかな森が続く。争いとは無縁そうだと感じずにはいられないくらいに、心地のいい静けさが満ちていた。
 時間が経過しているのかは彼には分からなかったが、一時間ほど歩いた頃――木々の合間に家が見えて、リィンは一旦足を止める。
「こんなところに人が……?」
 どういう人物が住んでいるのだろう。単純に気になるものの、不用意に近付くのも危険かもしれない。距離を置いて様子を伺うべきだろうか。
 リィンがそんな事を考えていた、その時だった。
「あら、どちら様――」
 後ろから声がする。彼が振り向くと、黒髪の女性と目が合う。
「!」
 黎明を秘めたような色が、リィンを映し出した。
「……あなたは……」
 瞳を揺らす女性。それは彼も同じだった。その色は毎朝鏡で見ているし、少しだけ癖のある黒髪にも、既視感があるからだ。
 彼の記憶の中に、自分を産んでくれた母の姿はない。名を聞いただけで、他に知っているのは、自分の顔立ちが母親似である事くらいだ。
 それでも、気付かないはずがないのだ。察しないはずが、分からないわけがなかった。
「……」
「……あの、俺は」
 最初に、何と言うべきなのか。どう接すればいいのか分からず、リィンは言葉を詰まらせる。
 信じてもらえるのか。最後に彼女が見た自分は五歳――まだまだ幼い子どもだ。
 子どもから大人になった。身長だって当然伸びたし、面影はあるかもしれないが顔付きも違う。正直に告げたところで、首を傾げられるだけなのでは――。
「…………――リィン」
 歩み寄って来ていた女性は、リィンを真っ直ぐに見つめる。疑問符を浮かべる事もせず、突然現れた青年が誰なのかを確信した様子で、名前を呼んだ。

「リィン。おかえりなさい」

 とん、と正面から寄りかかられて、リィンはその体を支える。鼓動を確認するような仕草に、心の奥が締め付けられるような感覚がした。
「……どうして……どうして、分かったんですか? 俺の事を」
 聞くまでもないと分かっていた。きっと自分と同じだろう、という事も。
 それでも敢えて、といった様子のリィンを、彼女は目元を一度拭ってから強く抱き締める。
「大事な息子の事が、分からないはずがないでしょう? こんなに大きくなって……もう、会えないって……思っていたのに……」
 小さな震えが直接伝わって、細い腕が彼の背に回される。ああ、この人は本当に母親なのだと実感して、リィンは何も言う事が出来なかった。
「本当に、おかえり……おかえりなさい、リィン」
「…………」
 母――カーシャを抱き締め返す事で、彼は歪む視界をなんとか元に戻す。
 目の前にしても、共に過ごしたはずのあたたかい日々の断片が拾えない事が、どうしようもなく悔しかった。

「ただいま。……俺……もう、二十歳になったんだ。――母さん」

 リィンは、二度と言えないと思っていた言葉を告げた。話したい事も聞きたい事もたくさんあるのだと、想いを込める。
 零れそうなものを押し込めて、声が震えていない事だけを祈りながら。

【あの日に壊れた約束をしよう】

 背負った想いの重さを、計る事が出来るのは心だけだと言ったのは、どこの誰だっただろう。
 数字が増え続ける秤はまだ、明確なそれを出せずにいる。
「クロウ」
「ん?」
「ありがとう」
 自然に零れた、リィンのその言葉を受けて、クロウは肩を竦める。
「あのなあ、それは何に対してだよ?」
「色々と、ってところかな」
 遠くの空を見つめて、そう呟くリィン。
 色々、という言葉の内訳は存在しない。否、答えきれないからこそ存在しない、と言った方が正しいのかもしれない。
「リィン」
 クロウはぽつりと、彼の名を呼んだ。様々な感情が入り混じったような、少し珍しい声色で。
「何だ――って、痛っ」
 振り向いた先に指が用意されていた事に気付かず、リィンはクロウに軽く額を弾かれた。
「バカ、相変わらずお前は礼を言うのが早えっつの。今のタイミングじゃ、俺たちがこれから死にに行くみてぇじゃねーか」
 リィンは一度だけ額を擦り、クロウの言葉に苦笑する。
「死にに行く、か。はは……ごめん、そんなつもりはなかったんだ」
 胸に手を当てて、リィンは何かを思い返すように目を閉じる。

「この戦いの先に、俺たちが行き着けると信じてる未来は……いつか……いつか、帰れると信じてた明日だから」

 過去を想い、未来を願う。
 行き着く先に繋がる答えが己の軌跡にあると、リィンは信じているのだ。
「……」
「何度も遠のいた。何度も消えそうになった。もう……叶わない、砕けた夢だって思った。思い描いたものとは、完全に同じじゃない。だけど、俺は――……!」
 リィンの言葉を遮るように、空気を震わせるような咆哮が響き渡る。
 二人の後ろで待機していたヴァリマールとオルディーネが、準備が整ったと告げる代わりに、静かに核を点滅させた。
「っと、お喋りしている時間はなさそうだぜ。続きは後だ」
「ああ。……今は……目の前の事を、なんとかしないと」
 騎神へと乗り込む寸前、リィンはクロウの肩を掴む。絶望の中でも消えていなかった光を瞳に宿して、彼は告げた。
「絶対に帰るぞ。俺たちを信じてくれた、みんなのところへ……クロウ、お前もだからな」
「クク、どっかで似たような事を言われたな。――心配すんな。これ以上、守れなくしちまう約束を増やす気はねぇっての」
 拳をぶつけて、二人は頷き合う。
「行くぞ、クロウ!」
「おうよ。やってやろうぜ、リィン!」
 灰色と蒼色の軌跡が、託されたものを乗せて飛翔する。
 明日への鼓動が響く胸に、一つ約束を増やして、二人はただ前を見据えた。

【THE LEGEND OF HEROES】

 空を二つの境界線が覆い、少しずつ、橙が夜に滲んでいく。影を落としていくそれらは、緋の帝都を更に深く染め上げていた。
 深い青の外套と銀色の髪が、やや温い風に揺れる。舞い落ち、それに乗って空へと飛んで行った一枚の木の葉を少しだけ目で追って、死者が静かに眠る地への来訪者は歩き出す。
 ――〝彼〟の訃報を聞いたのは、一年半ほど前だったな。
 小さくもなく、大きすぎない花束を手に、彼女は――オーレリアは一人、ヒンメル霊園を訪れていた。
 初めて知った名も、聞いた事のある名も刻まれている墓石の横を通り抜けていく。草を踏む音だけがある霊園。他は、すべて静寂に包まれていた。

「クロウ・アームブラスト――か」

 オーレリアは一番奥、この中では新しい方であろう墓の前で足を止めた。そこに名が刻まれ、眠っているのは〝蒼の騎士〟と呼ばれていた青年だ。
 ぽつりと呟いた名は、満ちる静寂の中に消えていく。
「そなたとは数回話した程度の関係とはいえ、同じ貴族連合に属していた身。遅くなってしまったが、手向けさせてもらうとしよう」
 彼女は墓石の前に屈んで、花を供える。黙祷しながら、オーレリアは追憶した。
 一発の銃声が始まりを告げた、帝国内戦。激戦区となった西部。年を越える日、突然届けられた、総主宰であるカイエン公の逮捕と、蒼の騎士の訃報。ジュノー海上要塞への撤兵と籠城。取引の末、守るべきものの為に帝国政府の尖兵となる道を選び、北方へと侵攻した刻。
「かの戦役、幾多の人間が命を散らした。消えた未来の数は計り知れまい。……名だけ刻まれた空の墓が、一体幾つ存在しているやら」
 聞き慣れてしまった砲撃の音。硝煙と砂塵が覆い、火の粉が舞う戦場で、まだまだ先があったであろう命を散らした者は、決して少なくはなかった。常勝無敗を誇り、損失を最小限に止めたとはいえ、失ったものがゼロというわけではない。
 貴女のように強くなりたいと、尊敬の眼差しを向けてきた者。守りたい者の為に、戦場へと出て行った者。自分の信念に従って、機甲兵に乗り込んだ者――崩れた瓦礫、巻き起こった爆風は、それらを容赦なく飲み込み、一つしかない命を押し潰してしまった。
 それでも、オーレリアは総司令として立ち続けた。後ろに退けなかったからでも、前に進むしかなかったからでもない。胸中にあったのは、抱いたものと守るべきものの為に戦うという、確固たる意志と信念だった。
「一度、そなたに問われた事があったな。帝国時報に書かれた〝英雄〟という称号を、どう思うかを」
 問われた直後に緊急で出撃する事となってしまい、結局、返答は出来ていない。
 それが、オーレリアがクロウと交わした、最後の会話だったからだ。

「人によって、英雄という言葉の捉え方は異なるだろう。戦果を上げ凱旋した者、何かを救った者、或いは守った者……正解のない問いのようなものだ。――私にとっては、それを背負うという事は、あらゆるものを乗り越える事と等しいと思っている。成したから英雄なのではない、成すからこそ英雄なのだ」

 超克。そのように在り続ける為の信念に寄り添う、英雄という言葉。彼女はそれを枷だとも、錘だとも思っていない。
 オーレリアは顔を上げた。空を溶かしていく黒が、そこにはある。
『アンタが《黄金の羅刹》か。あんまり会う機会はねえと思うが……ま、宜しく頼むぜ』
 立ち上がり踵を返したオーレリアは、数アージュ離れてから立ち止まる。
「……」
 彼女が振り向いた先では、供えられた花束がただ、夕陽を受けて色を吸い込んでいた。

 ◆

 大地を呑み込んでいく暗黒。白銀の巨船から見る世界は、一体どこへ向かおうとしているのか。終焉を招いた者と、それを広げていく者達の明確な目的は、未だに闇の中だった。
 ――私には、成す事がある。
 底のない昏闇に諍う者達。その内の一つ、ヴァイスラント決起軍の将として、オーレリアは宝剣を手に立ち上がる。相手が強大な力を持つ騎神であろうと、軍勢であろうと、彼女は退かない。己が成したいと思った事を抱いて進み、立ち塞がる者には容赦はしない。
 一対多数。或いは、人の身では到底敵わないであろう存在との対峙。何も知らぬ者が見れば、無謀だと思える戦いだ。
 ――だから何だというのだ?
 手中にあるのは、諍い、道を切り拓き、帝国の未来を掴み取る為の力だ。過信しているからではなく、信じ抜いたからこそ、彼女は戦場に立っている。

「我は羅刹、戦場を蹂躙する黄金の軍神! 宝剣アーケディアの前に跪くがよい――!」

 真紅の剣が、雲間から差し込んだ光を受けて鈍く輝いた。
 二つの流派を得た真っ直ぐな刃は、黄金の軌跡と共に、戦場に渦巻く闇を切り裂く。

【八月××日の黄昏廻】 ※微ホラー

 クロウが目を覚ましたのは、見慣れた《Ⅶ組》の教室だった。
 整頓された机と椅子、汗が滲むじとりとした暑さも、橙が眩しい夕暮れの空も――全部〝あの頃〟に毎日見たり、感じたりしていたものだ。
「……?」
 ――〝あの頃〟?
 脳内に反響した自分自身の言葉に、クロウは引っかかりを覚える。無意識だったそれが一体どういう意味なのかは、辿り着く前に霧散してしまったが。
 放課後に居眠りでもしてしまったのか、それとも。記憶が曖昧で、今日一日の事を思い返そうとしても、奇妙で耳障りなノイズが入って遮断されてしまう。
 クロウは気怠げに体を起こして、教室内を見回した。目を覚ました直後に見た時は閉まっていたはずの扉は開いており、陽の入り方の関係なのか、見えている廊下はやけに薄暗い。どこか不気味にすら感じられる。

 何かが、おかしい?

 普段は裏側に隠している、彼の鋭い勘がそう告げた。
 そこで、目の前の黒板に文字が書かれている事に気付く。つい先程までは、何も書かれていなかったというのに。

 〝にーちゃん、またあした〟
 〝がくいんでかくれんぼしたいな〟
 〝さいしょはぼくがおにだよ〟
 〝なかにわでひゃくはちかぞえるね〟
 〝いっぱいあそんでね〟

 どう見ても幼い子どもの字だった。チョークではなくペンを使って無理矢理書いたのか、文字の端から赤のインクが垂れている。思わず別の何かを連想したが、クロウは頭を振った。
 遠くなる蜩の鳴き声。釘付けにされるように、黒板を見つめるクロウ。
 彼の中に生まれた正体の分からない感情が、心の底から這い上がる。警鐘に似た音と共に。
「……とりあえず、寮に戻るか」
 椅子を引く音が響く。重い扉を開けて廊下へ出ると、やはり人の気配はない。残っている事に気付かずに施錠してしまったのか、とも考えかけたが、隠れていたワケでもないのにそんな間の抜けた話があるか、とすぐに彼は否定した。
 ふと、壁に掛かっていた日捲りのカレンダーに目が行った。年の部分は黒で塗り潰されているが、日付は読める。
 ――八月三十二日。
 心臓が鼓動を打つ。いつもより大きく。
 ――八月、三十二日。
 存在しないはずの日付が書かれている。何も間違っていないと主張するかのように。
 ――はちがつ、さんじゅうににち?
 何度目を擦ってから見ても、それは変わらない。
「オレ、寝ぼけてんのか……? それとも、ヘンな夢ってトコか」
 気味の悪さは消えない。相変わらず汗が滲むのは、暑さのせいなのだろう。苦笑した彼は、頭を掻いて歩き出す。
 クロウはまだ、持ち前の冷静さを失っていない。だから、気のせいだと思う事にした。寝ぼけているのだと言い聞かせた。
 教室を出てから、窓の外で揺れる木々の葉が無数の手のように見えるのも。
 自分の足音に合わせてもう一つ、ひたひたとしたそれが聞こえるのも。
 陽の光が差し込んで作られた影が、人の形になっているのも。
 吹き込む風の音が、時折低い唸り声を運んで来るのも。
 全部、ぜんぶ。
「……」
 懐に手を突っ込んだまま、クロウは長い廊下を歩いて行った。

 →『校門に向かってトリスタにとっとと帰ろう』
 →『その前に技術棟に行ってみるか』

2018.11.05