※真ん中らへん薄暗い。
その少女は、自分の事を〝造られたモノ〟のように言い表す。
その少女は、自分が時折抱く感情を〝妙なモノ〟として処理している。
その少女――アルティナ・オライオンは、更地のようだった自身の心に芽生えつつあるものが存在している事に、まだ、気付いていない。
「アルティナ」
リィンの呼びかけに、仮眠を取っていた彼女はゆっくりと瞳を押し上げた。横たえていた体を起こして、まだぼんやりとした表情で周囲を見回す。
「状況把握。意識断絶より……」
「まだ三時間くらいかな。すまない、連戦で疲れていたところを起こしてしまって」
「……? 何故、あなたが謝るのですか?」
申し訳なさそうに、リィンは言う。その理由を理解出来ないアルティナは、首を傾げて問いかけるだけだった。
「何故、って言われてもな……」
リィンからしてみれば、アルティナはまだまだ子供だ。十分に休ませてやりたいのが本音だし、更に言ってしまえば、戦場に同行させる事にだって抵抗があった。クロスベル戦線の時から監視役兼パートナーとして死線を何度も潜って来たとはいえ、振り返れば、そこに居るのは小さな少女だ。
言葉を詰まらせるリィン。簡素なベッドから降りて、アルティナはそんな彼を見上げる。
「私にとって睡眠は、さほど重要なものではありません。眠らない事で任務を遂行出来ないようでは〝欠陥品〟と同義ですから」
「……君は……」
淡々と話すアルティナに対して、リィンは何も言う事が出来なかった。
その言葉を否定するには付き合いが浅すぎるし、そもそも、彼は彼女が何者なのかすら知らないのだ。
『あれ……。……なんでボク……』
『あはは、やだな……。……ボク、オジサンに言われて潜り込んだだけなのに…………なんでこんな……』
リィンの頭をふと過ぎったのは、おそらくアルティナと〝同じ〟であろう仲間の一人、ミリアムの事だった。《Ⅶ組》最後の戦い――ロア・ルシファリアの試練を乗り越えた後、ミリアムが自然と流していたものは、彼女の〝心〟に宿ったものがあると教えてくれた。それは、悲しい、という感情が分からないと言っていたミリアムが、確かに成長した証なのだと。
薄々、彼はミリアムとアルティナがどういった存在なのか、感付いてはいた。確信していたわけではない。接する中で浮上した一つの仮定を、そんな事はあり得ないと否定する事が出来ず、リィンはそれを心の奥底に留めている。
「……」
リィンはアルティナに言ってやりたかった。自分の事をまるで〝モノ〟のような言い方はしないでくれ、と。
けれど、その言葉をかけてやろうとすると、リィンの喉に何かが蓋をして、言葉が出ないように抑え込んでしまう。理由は、彼の中でもはっきりとはしていない。
「話が逸れました。私を起こした理由を教えてください。任務ですか」
「っと――そうだった。……近くに猟兵達がいるらしいんだ。《クラウ=ソラス》は、大丈夫そうか? さっきの戦いで、少しダメージを負っていたようだけど」
「……」
太刀を手にしたリィンは、表情を隠すかのようにアルティナへと背を向ける。その手に籠もった力の理由を察する事が出来ない彼女は、ただただこくりと頷いて、顕現させた《クラウ=ソラス》の状態を確認した。
「問題ありません。行きましょう」
分かった、とリィンは簡潔に返答して歩き出す。その心に渦巻くものに気付かぬまま、〝任務〟としてアルティナはその一アージュほど後ろをついていく。
時刻は夜明けの少し前。
雨が降り出しそうな、重い鉛のような空が、灰色の騎士と黒兎を次の戦場へと誘っていた。
◆ ◆
いつから意識が緋に塗り潰されたのか、リィンは憶えていなかった。
猟兵達を前にして太刀を抜き放ち、襲い来る刃と銃弾の中を駆け抜けた。そこから何分経って、どれほどの猟兵を斬り伏せたのか分からなくなって来た頃から、彼の記憶は途絶えてしまっていた。
「……終わった、のか」
リィンの独り言は、雨音のせいか、近くのアルティナに辛うじて届くくらいの小さいものだった。
鉛の空を見上げて、彼は目を閉じる。何が正しくて、何が間違っているのか、見失いかけたそれは、狂わされた羅針盤のように不安定に揺らめく。それが引鉄となっているのかは定かでないが、彼の内側に眠る制御不能な獣は、こうして時折リィンを飲み込み、緋色へと染める。
一度は自分のものに出来ていたはずのそれは、再びリィンを揺らがせる因子となっていた。
「はい」
太刀の表面を、雨粒が流れてゆく。幾つもの赤を混ぜながら。
峰打ちなどと、甘い事は言っていられない。そんなものが許される場所ではないという事は、彼はとっくに分かっていた。
――互いに命を懸けている。殺さなければ、殺される世界だ。
そう言い聞かせて彼は戦場に立ち、灰色の騎士として、剣を振るっている。
「リィンさん。一ついいですか」
ぶらりと下がった彼の手には、未だに鮮血が残る太刀が握られている。感情の宿っていない暁の瞳は、その端に黄昏の緋を僅かに滲ませている。
アルティナはそんな状態のリィンを恐れもせず、一アージュほど離れたまま平然と声を掛けた。――否、恐れるという心が、そこにはないのかもしれない。
「あなたは少々、危ういところがあると認識します。……今更の事だと思いますが」
「……」
アルティナの偽りのない言葉にリィンはただ、自嘲気味な笑みを浮かべるだけだ。
雨が降る。
戦場を流れた血を洗い流すかのように――葬られ、積み重ねられた幾多の罪の証を、この地へと溶け込ませるかのように。
雨が降る。
リィンを染めた赤は落ちなかった。太刀にも、衣服にも、心にも降り注ぎ色を付けていった真紅の雨は、消える事のない傷跡を同時に刻んでいく。
彼方から黎明が訪れるであろう時刻になっても、鉛の空に阻まれて、その光は彼らに届いてはくれない。
――雨は、止みそうにない。
太刀を鞘へと納めて、リィンは一つ、息を吐く。雨に濡れた黒髪を雫が伝い、僅かに重みを増したそれはリィンの表情を隠してしまった。
「……なくさずに、いられるんだろうか……」
ぽつりと呟かれたその言葉は、雨音の合間を潜り抜けてアルティナの耳へと届く。
「リィンさん?」
帰投すべく歩き出そうとしていた彼女は、立ち止まり振り返る。翠の瞳に真っ直ぐに見つめられて、リィンは軽く頭を掻いた。
「前、ガレリア要塞に行った時――同じクラスの友人と話した事を思い出してさ」
「?」
「大砲の音に慣れるという事は、何かをなくしてしまう事だ、って」
遠くを見ているリィンの瞳に宿ったものの正体を、アルティナは知る事が出来ない。
「大砲の……音ですか?」
「ああ。……いっそなくしてしまえば…………いや、君に話してもしょうがないよな。忘れてくれ。――俺は大丈夫だから」
クロスベル戦線に続き、ノーザンブリア併合の為の戦い。〝力〟を得た者の責任として、自分の立ち位置を探す為に、リィンがただひたすらに駆け抜けてきた戦場。
それは本当に自分が探していたものなのだろうかという葛藤は、剣を鈍らせる代わりに、彼の中の別の鍵をこじ開けようとしている。
ゆっくりと頭を振って、リィンは拠点のある方へと踵を返そうとする。
「……。今の話には、何の意味が?」
一アージュほど後ろから、アルティナは問いかける。
「意味は……ないかもしれないな。大砲もないし……俺の独り言、として捉えてくれて構わないよ。それに、さっきも言ったけど、忘れていい話だ」
また、リィンの太刀を握る手に力が籠る。その理由は相変わらず、アルティナには理解する事が出来ない。
「……分かりました」
端から聞いていれば、どこか冷たいやり取りかもしれない。けれど、このような会話を交わす事には二人とも慣れてしまっていた。
冷え切っているわけではないが、かといって、あたたかなものでもない。何とも言い難い関係を、リィンとアルティナは築いている。
「リィンさん。……いえ……〝リィン・シュバルツァー〟。もう一ついいですか」
彼の後ろ姿を歩きながらぼんやりと見ていたアルティナは、素直に生じた疑問をぶつけようとする。
「? 分かる事で良ければ……」
名をフルネームで呼んだ意図を理解しようと、リィンの脳内で巡る思考。
今よりも距離を感じるそれは、アルティナの中で、どう使い分けられているのか。推し量る事の叶わない心の内側は、彼女の性格も相俟って、リィンにとっては更に未知の領域だった。
銀の髪から雫が落ちて、少しだけ間が空く。
「何故あなたは〝大丈夫だ〟と言う時に、無理をして笑うのですか?」
「……!」
問いかけられるとは思っていなかったそれに、リィンは内心で動揺する。
「俺は……無理なんて、」
「していると私は捉えます」
「……分かる、のか?」
「いえ。私にそういったものを理解する事は出来ません。ただ……この辺りに、奇妙な感覚があります。あなたの今の笑顔は、本物ではないと告げるかのようなものです。名称は不明ですが」
「え……」
リィンは思わず、少しだけ目を丸くする。無機質かつ淡々と振る舞う事が多いアルティナにしては珍しい発言だったからだ。
それは、と言葉を続けようとするリィン。けれど、そんな彼を遮るかのように、アルティナが口を開く。
「一先ず……今後は一層、あなたの性格を考慮したうえで任務にあたろうと考えます。異存はありませんか」
「……気を遣わせてすまない」
心底申し訳なさそうなリィンに対して、アルティナは再び、淡々と告げる。
「お気になさらず。監視対象を失ってしまえば、任務が遂行出来ませんから。――それだけの事です」
リィンは監視の対象で、共に作戦行動をするパートナーではあるが、与えられた任務の為に同行しているに過ぎない。
そこには何の感情もないと、アルティナは語った。
――そんな記憶が彼女の中で唐突に蘇ったのは、心を得ている証拠なのだろうか。
滴る深紅。太刀を取り落とし膝をついたリィンと、斃れる気配のない相手。
アルティナは彼の横に立つ。苦痛に歪むその顔をちらりと見て、彼女は小さくリィンの名を呟いた。
「……アルティナ、頼む……ユウナとクルトを連れて、ここから逃げてくれ――皆が退避する時間くらいは、俺が稼いでみせる……!」
教官として教え子を死なせるわけにはいかないと、リィンは言う。止まる事のない鮮血を押さえながら、退路を開き、せめて相討ちになってみせると言うかのように、彼は太刀を拾い上げる。
「……」
告げられたのは〝指示〟。逆らう事のない、絶対的なもの。
言われた通りに行動をしなくては。ユウナ・クロフォードとクルト・ヴァンダールを連れて、この場から離脱しなければと、彼女は言葉を脳内へと流し込む。
「…………」
それに従うべく踵を返そうとして、アルティナの足がぴたりと止まる。
――たった一人、手負いのリィン・シュバルツァーを、ここに残して?
英雄と称されたほどの彼とて、一人の人間に過ぎない。ここまで傷を負っているのに、これ以上一人で戦わせたらどうなるのか。退避する時間を稼ぐと言ってはいたが、その後自分はどうするつもりなのか。
先程の捨て身のようなリィンの言葉の意味を汲んだのか、彼女はその場から動けなくなってしまう。回路を通して指示が伝わっているはずなのに、体のどこかにある何かが、それを拒んでいるようだった。
「ぐっ……、アルティナ!」
太刀で飛来した衝撃波をどうにか弾いて、リィンは背後のアルティナを見遣る。
「どうしたんだ、早く行って――」
「…………理解不能です」
少し間を空けて、アルティナはそれを制するかのように、リィンの前へと進み出た。彼の一アージュ以内に踏み込んで、庇うかのように。
「あなたのその言葉も――与えられた指示に対して、私の中で反発するものがある事も」
振り返った彼女は、二つの翠に名前のない光を灯していた。
それはまだ小さなものではあったが、《Ⅶ組》で過ごす中でアルティナが得た、何物にも代え難い、輝く心の欠片だった。
「〝リィン・シュバルツァー〟の事は、ただ監視対象として見ていただけだったのに……自分で自分の事が理解出来ません。ただ――今、やるべき事は分かりました。〝任務〟ではなく、私が〝そうしたい〟と思考した行動に移ります」
凝り固まり覆る事のなかった認識は、リィンや《Ⅶ組》と関わっていくにつれて、少しずつ形を変えていった。何もない大地に顔を出した新芽のようなそれは、アルティナという個を作り上げていった。
勝ち目はないかもしれない。それでも、名前の分からない何かが、彼女へと告げている言葉があったのだ。
彼女は目前の敵を見据える。その小さな体に、一つの心を宿らせながら。
「下がってください。私が〝あなた〟を守ります。――《クラウ=ソラス》」
アルティナがその感情の名を知るまでは、あと少しだ。
2017.03.19