※ほぼツーライ。
夢だ、と。夢の中にいてもそう判断することができた。
「もう少し、共に戦えると思っていたのですが」
惜しむような、それでいて、どこかこうなることを予期していたような表情。
見えない壁に阻まれて、彼は目の前にいるのに遠く感じられる。
「ですが、あなたはもう、道標がなくても見失うことはありません。自分で選ぶことができる」
彼がよくしていた仕草。太陽が昇る前の空を切り取ったような不思議な色の瞳は、安堵のそれを帯びている。
一歩、ゆっくりと下がる彼。その先には何もない。眩しいくらいの白があるだけで、ヴァネッサには何も見えなかった。
「あなたなら、大丈夫です。だから」
世界から消失する音と色彩。それらは脆い硝子のごとく散っていく。
口を動かされても、何も聞こえない。舞う欠片がその動きさえも読ませまいと邪魔をする。
ヴァネッサが名前を呼ぶ前に、彼の姿はかき消されるように見えなくなった。
◆
「……!」
見慣れた天井。いつもの空気。ヴァネッサが目を覚ましたのは、音のある世界の中だった。
反射的に素早く体を起こして、支度をする。白黒になっていく夢の記憶が心に引っかかっていようとも、時間の流れは止まらない。今日もまた、騎士候補生としての一日がやってくるのだから。
「……」
差し込む陽光。窓の向こうの、雲一つない青空。
賑わう講堂。生徒が行き交う長い、長い廊下。
構内を歩きながら、つい、ヴァネッサは視線をあちこちに向けてしまっていた。毎日のように見ているあの姿を探しているのだと、自分で気づいてはいた。
――あれは夢だ。現実ではない。
改めて自分にそう言い聞かせるようなことでもないというのに、一体なぜ、引っかかったまま取れないのだろう。
目的もなく歩き回っても、なかなか視界に彼が映らないことに、徐々に焦燥感が募る。こういう時に限って、どうしてなかなか見つからないのか。
「ヴァネッサ、どうしたの? 何か探してる?」
中庭に差しかかったところで同級生から声をかけられて、ヴァネッサはぴたりと立ち止まった。
素直に答えるべきか、それとも。
数秒の逡巡ののち、彼女のほうを振り返り、口を開いた。
「…………リュシアンを、探していた。見かけなかったか?」
「あれ、そういえば今朝から見かけないね。どこか出かけてるのかな?」
見かけたら教えるよ、と気を遣ってくれた彼女に短く礼を言って、ヴァネッサは踵を返した。
いつの間にか敷地内のはずれまで来てしまっていたことに気づいて、立ち止まる。こんな場所には、居るはずがない――そう思いつつも、ヴァネッサは周囲を見回してしまっていた。
ここには生徒の姿はなく、耳に届けられるのは風の穏やかな音だけだった。帝国と戦争をしている最中とは思えないくらいに優しいそれが吹き抜ける、心地よい静寂に満たされている。
「……現、実」
夢ならば、ここまで感覚ははっきりしていない。音も、匂いも、きっと明確には分からない。
独り言すらも飲み込む静かな空間を見遣りながら、ヴァネッサは、探している人物のことを思い浮かべた。
イーディス騎士学校が誇る精鋭クラス、ブレイズの筆頭を務めるリュシアンは、屈指の実力者だ。戦場では彼は舞うように剣を振るい、軽やかな身のこなしで相手を翻弄する。鋭い斬撃と高威力の衝撃波を織り交ぜた彼の戦い方は、どこか踊るように優雅でもある。騎士学校内では〝のんびり屋〟或いは〝ふわふわしている〟という印象を抱いている者も少なくはないが、腕前は確かなのだ。
ジルドラ帝国とユール連邦が行っている戦いは、遊びではない。容赦なく命を狩り、狩られる戦争だった。人手不足の連邦で、そんな実力者として認められているリュシアンには、危険な任務が割り振られることもあるだろう。
――実力はよく知っている。それでも、彼に万が一のことがあったら?
――今朝の夢が、その暗示なのだとしたら? 姿が見当たらないのは、まさか?
らしくもない、と自分で感じる考えがよぎって、心を冷たいものが伝った、その時。
「どうかしましたか?」
「っ!」
見計らったかのようなタイミングで、聞き慣れた声が上から降ってきた。
顔を上げるのと同時に、ヴァネッサはその声の主を認識して、名を呼ぶ。
「リュ、リュシアン!? 何故、そんなところに――」
微塵も気配を感じ取れなかったことに己の鍛錬不足を痛感しつつ、何故か木の上に腰かけている彼――リュシアンと視線を合わせる。
「木から降りられない子を見かけたので、助けてあげようと思いまして」
「降りられない子……?」
すると、リュシアンは苦笑しつつ、腕の中のふわふわしたものを見せた。
彼の袖にしがみついた小さな生き物が、ひょっこりと顔を出す。
「こ、子猫」
「首輪が付いているので、どこかで飼われている子なのでしょう」
リュシアンは子猫を抱えたまま、ヴァネッサの前に軽く跳んで降りてくる。それでも逃げることなく、子猫は大人しくしていた。
「困りましたねえ。まさかここの敷地内に迷い込んでくるとは」
「飼い主が探しているかもしれません。後で、街の掲示板を確認してみます」
「放すのも考えましたが、そうですね。一度見ておきましょうか」
そっと撫でられて、子猫が小さく鳴く。首輪に付いている鈴がちりん、と音を鳴らした。
「ところで、ヴァネッサさん」
猫探しの依頼が貼り出されていそうな掲示板を、ヴァネッサが脳裏で描いた街の地図で探していると、リュシアンから声がかけられる。
「どう、しましたか? 私の顔に何か……」
「なにか、探し物でもされていましたか?」
「っ!? いや、その、私は」
「違うようでしたら失礼しました。ただ、そのような表情に見えたものですから」
同級生に分かるのなら、リュシアンに見抜かれないわけがなかった。そもそも、こんな人気のない場所に来る理由も、そう多くは作ることができない。ごまかしても意味がない、とヴァネッサは判断した。
「いえ。確かに探していましたが、もう大丈夫です」
「そうでしたか。見つかったのならよかったです」
穏やかな笑み。確信があっても、その裏側に隠してしまう時の表情だな――とヴァネッサは感じたものの、続ける言葉が上手く見つからず、会話はそこで一旦途切れる。
子猫が再び鳴くまでの数秒間、ヴァネッサはリュシアンと黙って目を合わせていた。
「さて。この子も早く家に帰りたいでしょうし、行きましょうか」
先に歩き出したリュシアンの先には、あたたかな光が伸びている。
眩しくもあり、かすかな温もりも感じられる光。それが永遠のものではないことは、ヴァネッサも理解していた。
それでも、今は。
「……はい!」
ヴァネッサを見て、陽だまりの中、リュシアンの腕の中の子猫が長く鳴いた。
2022.01.23