xxx the future

 人間、奇妙だったり不思議だったりすることに慣れてしまうと、些細なことでは驚かなくなってしまう。信じていたものがくるりと覆された旅を経ていれば、尚更のことだ。
 アルフェンたちとのそれを経た今、そのような現象にはもう遭遇することはそうないだろう――そんなことを思ったのは、数ヶ月ほど前のことだった。
「テュオハリム様、どうなさったのですか? 空っぽの鳥籠をお持ちになって」
 飼われていたものが逃げてしまったのなら、お探ししますよ!
 お任せを、と自信のある様子でそう言った新入りの騎士は、その鳥籠の中で羽を震わせる小さなものに気づいていないらしい。

 ◆

 ぱりぱり、と、今いる場所にはやや不釣り合いな音がする。
 地平の果てに沈もうとする陽光は、最後まで穏やかにヴィスキントの街を照らしてゆく。柔らかな橙の光が徐々に細くなり、果てのない空を夜へと明け渡す頃――テュオハリムは自室で、キサラと共に地道に木の実の殻を剥いていた。
 当然、自分たちが食べる分ではない。
「今日はほぼ、あなたの肩の上にいた、と」
「一日中、だ。さぞ奇妙な光景だったろう」
 見えていれば、の話だが――と付け足して、テュオハリムは自身の肩で寛ぐ小鳥を見る。自分の話がされていると分かるのか、小鳥は顔を上げて、そのまま僅かに首を傾げた。
 遡ること一週間ほど前、突然アウテリーナ宮に現れた、謎の小鳥。人に対して怯えることなく、テュオハリムの前へと降りてきたその黒混じりのその小鳥は、どこかほんのりと既視感を覚えるような色彩を帯びていた。どこかから脱走してきたのか、とテュオハリムは考えたが、特にそれらしき話はヴィスキント内では出ていない、とキサラは言う。
 小鳥は何故かテュオハリムの肩かキサラの頭上をすぐに定位置として、逃げることもなくそのまま居候を開始する。端から見れば相当妙な光景だったが、周囲の人間がそれに対して触れてくることは一切なかった。
 そう、珍しい色をしているものの、どこにでもいそうな小鳥ではあった――なぜか〝テュオハリムとキサラにしか認識できない〟という点を除けば。
「午前中に少し調べましたが、ダナの鳥類図鑑には載っていませんでした」
 使用人たちは誰一人として小鳥の存在を捉えられず、彼らからしてみれば、テュオハリムがある日突然、何も入っていない金色の鳥籠を持ち出してきたようにしか見えないだろう。
「既存の生態系が変化したのか……否、私と君にしか視認できていないことを踏まえると、その線もなさそうだ」
「ぴーちく」
 ぱーちく、と繋がりそうな鳴き声を上げたあと、小鳥は周囲をきょろきょろと見る。その小さな瞳には何が映っているのか。人よりもあらゆるものが大きく見えるのだろう。
 隅に〝D〟と刻印が施された、金の縁取りが美しい小皿へ木の実を入れると、ぴょこんと乗って嘴でつつき始めた。
「それにしても、あなたが何かの世話をしている姿を見るのは新鮮ですね」
「使用人にこれを処理させるわけにはいくまい。肴にできなくもないがね」
「そうでしょうか。あなたなら、何とでも理由は作れると思いますが」
「だとしたら、少し気分転換がしたくなったのかもしれんな」
 ダナとレナ。二つの世界を揺るがしたあの出来事のあと、〝元〟が付くとはいえ頭将として唯一残っていたテュオハリムは、ヴィスキントとレネギスを行き来することとなった。書類仕事と対談ばかりの日々の中、無心で行える作業というのも悪くはない、ということをテュオハリムが実感したのは、比較的最近のことだ。
 着替えすら自力でしていなかった頃の自分に話したら、何と言われるだろう。それをなんとなく想像しようとしたが、小皿から鳴ったからん、という音で思考を止める。
 腹を空かせていたのか、あっという間に一つ目の木の実を食べてしまった小鳥は、その殻に乗って左右にゆらゆらと揺れ始めた。その前にある二つ目の木の実がなくなるのも、そう遠くはなさそうだ。
「気分転換ですか。それなら今度、釣りに行きませんか? 良い場所を見つけたんです」
「そうだな。君が言うのなら、間違いないのだろう」
「期待していてください。落胆はさせません」
 釣りへの想いがうかがえるような面持ちで、キサラが力強く頷く。そこにないはずの釣り具が見えた気がして、テュオハリムは思わず、僅かに表情を緩める。
 水流の音、木々とそよ風の音――そこにしかない〝音楽〟を聴きながら釣りに興じる時間は貴重で、心安らぐものでもあった。キサラが隣にいるがゆえの安心感があるのも事実だ。
 自然の中でしか聴くことができない音。人が奏でる旋律だけが音楽ではない、ということは、かつてアルフェンと話したことでもある。
「? 外へ出たいのでしょうか」
 脳内で先の予定を見て、いつ頃なら時間が取れそうか、とテュオハリムが考えていると、キサラがそう零す。
 いつの間に木の実を完食して、これまたいつの間に移動していたのか、小鳥が窓枠の前をうろうろしていたからだった。
「数日前にも、こうしたことがあったな。明け方には戻ってきていたが」
 近寄って、テュオハリムは窓を開ける。本来は外を自由に飛ぶ生き物だ。時折広い空を飛びたくもなるだろう、とも思っている。
「……」
「キサラ?」
 小鳥は窓から飛んでいったが、少し離れた木に止まった。そこから動かず、言いたいことがあるかのように、じっと窓の前に立つキサラを見つめている。
 彼女もその視線に何かを感じ取っているのか、小鳥を見たまま動かない。会話もないまま、長くもあり、短くもある時間が過ぎる。
 こういう時、どう声をかけるべきか――テュオハリムが半歩踏み出しかけた時、キサラがゆっくりと振り返った。
「少し、散歩に出ませんか」
 唐突な誘いだったが、特に断る理由もない。気晴らしに夜風に当たるのはよくあることだ。
 行こう、と返すと、外から控えめな鳴き声がした。

 ◆

 すっかり日が落ちたヴィスキントを見渡すことができる、小高い丘。小鳥がテュオハリムの肩の上へ戻ったのは、そこへ二人が足を踏み入れた頃だった。
 人がいるところの証でもあるあたたかな灯りが視界に入る。夜空の下を吹き抜けてゆく風が静寂に溶ける。
 夜の暗さに紛れそうだったが、小鳥は二人を誘導するように少しずつ移動していたため、見失うことはなかった。
「まるで連れて来られたかのようだが……この場所に、心当たりは?」
 何の変哲もない場所。少し開けているくらいで、ズーグルの住処があった、というわけでもなさそうだった。
「……ここは昔、兄と初めて夜空を観察した場所なんです。思えば、随分と来ていませんでした」
 かつて、残酷な真実を伝えるため、虚水となって消えてしまったキサラの兄――ミキゥダ。その様子がすぐに脳裏に思い浮かぶ。
 今はもう彼方にあるけれど、かけがえのない、一緒に過ごした時間。その中で彼と話したという、空の話、星の話、緑の話。
 テュオハリムの知らないミキゥダの話を、キサラは少しだけ語った。旅の最中と比較すると控えめだったが、彼女なりに自制している、のかもしれない。
「あの日、兄と一緒に見た空と変わりません。ですが、あの頃よりも広く感じます」
「……それは君の見える世界が広がった、ということかね?」
「間違いなく。あの旅がなければきっと、狭いままでしたから――と感じるのは、あらゆるものの見方が変わったからでしょう」
「……」
 キサラの手のひらに小鳥が乗った。ぴぃ、と微かな声がする。
 その小さなものが帯びている黒は、近いようで遠い記憶の中の断片と重なろうとする。
「テュオ」
「?」
「あなたにとって、未来、とはどうあるものですか」
 向けられている視線は二人分――否、一人と一羽分、というほうが正しい。
 ただ、二人、でも間違っていないような不思議な感覚があった。
「ここでそのようなことを問われるとは。想定外だな」
「なぜでしょう。今、尋ねたくなったのです」
 ヴィスキントがよく見える場所ゆえか、それとも。キサラからの問いかけに対して、テュオハリムは自身の中で言葉を探す。
 まやかしで覆っていたと思っていた、メナンシアの情景。アルフェンたちと出会い、彼らと旅をして得たものの数々。頭将として在っても、ずっと見えていなかったもの。
 踏み出すと決意した先にあったのがどういったものであったか、認識するのにそう時間はかからなかった。
「……。信じられるものである、と、今は思っている。人と人の絆、願いと意志が収束する、儚くも強固な道であると」
 形のないそれは、築かれるのも、奪われるのも紙一重だ。それでも人は、未来に理想郷を描いて歩んでゆく。
 何が未来を形成し、はるか彼方まで繋がってゆくのか。テュオハリムはそれを、既に見つけていた。
「これで答えになっているだろうか。模範解答はないと思うが」
「ええ、正解はありません。改めて聞けてよかった」
 キサラはテュオハリムへ向き直り、安堵したような表情を見せた。その後ろには、優しい夜に包まれたヴィスキントがある。
 旅をしていた時、最後の戦いへ向かう前のことを思い出した。
「あなたがそう信じるものを守れるよう、私も頑張らないといけませんね」
 星の音が聴こえる丘で、静かな時間が流れてゆく。
 小鳥は数回跳ね、一度だけその場で羽ばたいた。