序 World No.180

 あれから、何年経ったのだろう。
 永遠に身を刺すかのような怨嗟と嘆き、途切れることのない苦痛。それらから己を護るべく、自ら目を閉ざしてから何千、何万の時が流れたのか。
 尋ねられる者も、知る者も、あの世界にはおそらくいない。彼らを除いては。

 目を覚ましても周囲に光はなく、無惨に砕けて散った世界の欠片が漂うだけだ。死と絶望が覆う大地は、前と何も変わっていない。
 世界が世界を飲み込み、破滅の上に栄華が築かれる。杭を失えば再びそれが行われ、繰り返しの中ですべての命は生かされている。真実を知らぬまま、造り出された理を巡り続けている。
 形のない、なにかが告げる――かつて“■■■■・■■■■”と交わした契約で続いてきたそれも、終わりを迎える時が近いようだ。
 刻限が迫っている。どうやらこの世界に〝次〟はないらしい。
 今目覚めたということは、今行くしかない、ということだろう。

 黎明の光を目指して駆け出す。逃すまいと迫るものを振り払い、赤き大地を突破する。
 ■■の■■へ、オレが掴みかけた、この世界の真実を伝えなければならない。
 その真実は、いつか訪れると決まっていたもの。避けようのない終末の証明でもある。
 
 だが、最後の希望を背負った者たちがいる限り、破滅は世界を覆わない。
 必然の終焉が運命だとしても、この世界が最後だとしても、諦めはしないはずだ。

 護らなければ――彼の忘れ形見を。
 守らなければ――■■■■との、小さな■■を。

 A-83D60 ■■■の螺旋の中で揺蕩う者6576796372797a657468

 ◇

 ――W.T.3045

 朝焼けと夜空が入り混じった中を、仄かに青の光を纏った鳥が飛んでくる。その鳥は滑るようにして、聖域へと真っ直ぐに入ってきた。
 そのまま、硝子のない窓枠に止まった青い鳥。壁掛けの地図から離れて、そっと手を伸ばす。小さく跳ねて手のひらに乗ってきた鳥は、嘴に挟んでいた紙を差し出した。
 折りたたまれていた紙を開くと、淡い光と共に文字が浮かび上がる。

【エーヴィへ
 こうして手紙を書くのは久々だな。半年ほど間が空いてしまったが、元気にしているか?
 今回連絡したのは、君に一つ相談があるからだ。少し困ったことになってな。
 異変というほど大げさなものでもないんだが、君が転移の時に出す、光の渦のようなものがある日突然、城の中庭に現れたんだ。
 よく似ているから、どこかへ繋がっている可能性がある。だから、転移が使えない俺たちだけで調べるのは避けたい。
 時間がある時に、王都まで来てもらえないだろうか?
 いつも君を呼んでばかりで申し訳ないと思っているが、前と比べてあまり時間が取れなくなってしまった。
 おおまかで構わない、来られそうな時期を連絡してくれると助かる。 ――アルファルド】

 それはエーヴィとは、数年前に友人となった人物からの手紙だった。
 彼方から差し込む陽光を浴びて、翼を広げた鳥が、ピィ、と短く鳴く。
「王都へ行けそうな時期、か」
 紙を畳んで、仄かに光る硝子の欠片が入った小瓶の横へ置く。立てかけてあった羽ペンへと手を伸ばしかけて、エーヴィはその手を止めた。
「いや、ここはいっそ地上で目撃者を探すべきか……?」
 独り言に応じる者はいない。鳥が不思議そうに首を傾げたのを見て、思わず苦笑いを浮かべた。
 あの子がいつもなら横で反応をくれるからな、と自分で自分に言い訳して、逸りそうになる気持ちを抑える。
『それじゃあ、師匠。今日は剣の素振りをしてきますね! 千回を越えたら戻ってきますっ』
 隣にぽっかりと空いた場所。そう言い残して出かけていったシアリィが戻らなくなってから、三日が経った。まだ三日、とも思えるし、もう三日が経ってしまった、とも思える。
 三日かけて、浮遊大陸はすべて探した。彼女の魔力を辿って足取りを追ったが、それは途中で、突然消えたかのようにぱったりと途絶えていた。それなら地上か、とも考えたが、浮遊大陸から下へ降りるとなると、細かい網状の目に見えない結界を通過することとなる。誰であろうと、そこを通れば察知できる。気がつかないはずがない。残る可能性は転移の魔法だが、まだ教えていないはず――。
 エーヴィの中で、浮かんでは消える仮定。長時間出かける時は細かすぎるほどしっかりと理由を告げていくシアリィが、黙っていなくなるとは考え難い。
 ただ、これ以上ここで考えていてもどうしようもない。アルファルドの頼みに応じつつ、地上へ彼女を探しに行こう。
 そう決めた直後――生温い中にどこか刃のような冷たさを帯びた、嫌な風が吹いた。
「……何だ?」
 窓辺の小鳥が身を震わせ、羽ばたく。迫るものを恐れるようにか細く鳴いて、数秒後には飛び去ってしまった。その先の空には緋色が滲んでいるが、ここの空には存在しないはずの色だった。
「あの方角は……」
 ヴァスタリアを管理する〝世界の種〟が安置されている、ルディア遺跡がある領域を中心に異変は起きているようだった。
 結界を何者かが通過した気配はなく、感知できる範囲に邪なそれはない。ただ、それでも、冷えた風は音もなく、異端な存在の訪れを告げてくる。
 エーヴィは神殿を出て、周辺を見回す。しんとした静寂が不気味に感じられるのは、気のせいではなさそうだ。広がる風景は空の色以外はいつも通りなのに、嫌な予感がしてならなかった。
「向こうで何かあったのか?」
 ふらふらと飛んできた蝶へ声をかける。空のような色を帯びているその蝶は、どこか怯えているように見えた。
 一度震えた蝶は美しい羽を広げて、伸ばした指先に止まってくる。
 ――空の色は変だけど、な、何もないのよ! でも、怖い感じがするの。
「それは奇妙だな」
 ――様子を見に行くなら、気をつけたほうがいいわよ。ま、アナタなら心配いらないだろうけど。
「そうだな、油断しないようにするよ」
 邪なものは一切立ち入れない浮遊大陸。遠い昔に闇を打ち払った、創世神アヴァルスの魂が宿っていると言われている。それ故か、魔物一匹入ることができない地だと女神から教えられており、今まで一度もこういったことには遭遇しなかった。
 聖域を離れて、大鏡湖を見渡す。レテ川が流れ込むこの湖では、竪琴を弾いているとよく小さな生きものたちが集まってくるが、一つも気配が感じられない。普段ここを包んでいる穏やかな静けさはそのままだというのに、今はまったく違うものに差し替わってしまったかのようだ。
 多少影響を受けているものの、この周辺には異変の原因はなさそうだ、と感じて、エーヴィは転移の渦を呼び出す。
 薄紫の光を通り抜けた直後、足元に星空が広がる遺跡に移動した。
『ここ、ど、どうして上にあるお空が下に!? 落ちないですよね……?』
『大丈夫だよ。ほら』
『あっ、透明な床があるんですね……よかったです』
 ルディア遺跡。初めてシアリィを連れてきた時、床に描かれた夜空に驚いていたことを、二百年ほど経った今でも鮮明に思い出すことができる。
 しんとした遺跡内に一歩踏み出して、エーヴィは周囲を確認する。遺跡全体を覆うような妙な魔力、その根源はゆっくりと移動していた。邪な者が世界の種を狙っているのか、と考えるも、その方向は安置されている場所とは重ならない。むしろ遠ざかっており、意図を推測することは現時点では難しい。
 ――今は、気づいていないふりをしよう。
 正体が分からないものを闇雲に探るより、誘い出すほうが手っ取り早い。エーヴィはそう判断して歩き出したが、数歩進んだところで足を止める。
 蔦に覆われ、半壊した球状の建造物。青空が溶けたような水に半分ほど沈んだ、世界の地図が描かれた壁画。そして、光の球――精霊が二体、その近くを飛んでいるのが目に入ったからだ。
「ここにいたんだな。ルータ、シュナも」
 なぜこんなところにいたのか、ということは問わない。この〝二人〟はルディア遺跡で、壁画を眺めているのが好きだからだ。
 エーヴィの声に反応して、ルータとシュナが飛んでくる。異様な空気を察知していないのか、二人がいつも通りであることに安堵してしまった。
「壁画を見ていたのに、ごめんな。少し変なことが起きているから、しばらくオレから離れないでくれ」
『……』
 言葉はなく、表情もない精霊。人であることを手離した代償となったもの。それでも数千年共にあれば、感情を読み取ることは難しくはない。
 ぱっと弾けた後、精霊はエーヴィが下げている懐中時計と同化するように姿を消した。時が止まり、ひび割れた硝子の向こうに、小さな光が二つ宿る。
「気になる場所があったら、今度連れて行くから」
 こんな宥めるようなことは言わなくとも、二人は分かってくれている。子どもと言える歳ではないのだから、と思っていても、ついそのように声をかけてしまう。数秒後、返事をするかのように、光が数回瞬いた。
 ――うん、分かった! 約束だよ、兄ちゃん。
 ――行きたいところ、考えておくね。
 声が聞こえなくとも、エーヴィにはそう言っているのだと分かる。無邪気な幼い子ども二人の姿が脳裏に映って、掘り起こされそうになった遠い追憶をそっと、心の隅に置いた。
 少しだけ緩んだ気を引き締め直して、再び、移動している魔力を辿る。相変わらず世界の種に近づく様子はなく、ルディア遺跡内をふらふらと彷徨っているようだ。距離感はひどく曖昧で、居場所をはっきりと掴むことはできそうにない。
「どこを目指しているんだ……?」
 思わず零れる独り言。完全に邪だと判断できないのはなぜなのか。ただ、その正体が何にせよ、放置するわけにはいかなかった。
 そのまま気配を探りながら歩いていくと、遺跡を囲う壁が崩落して、外へ繋がっている場所に辿り着く。開けた視界の中では、沈むことも昇ることもない陽が、彼方から浮遊大陸を照らしていた。風に揺れるのは、硝子でできた花や冥府への道に咲く花だ。それらは微かに、魂をあるべきところへ導く力を帯びている。
『わぁ、お花がたくさん咲いてます! お名前はあるんですか?』
『そっちの白いのはアスフォデルスと言うんだ。君の足元にあるのは、リコリスという名前だな』
『どっちも綺麗ですね! 地上にも咲いてるんでしょうか』
『いや、どちらも冥界に近い地にだけ咲くようだから、おそらく浮遊大陸にしか自生していないな』
『そうなんですね……確かに、ちょっと寂しい感じがします』
『寂しい?』
『えっと、うまく言えないんですけど……多分、たくさんの命を見送ってるからなのかなぁ、って』
 エーヴィの中で、シアリィとのやり取りがよぎる。元々が白百合の花ゆえか、シアリィはここに咲く花に対してそう感じたようで、そういう見方もあるのか、とその時は素直に思った。
 死した命が転生を待つ地である、冥界へ通ずる道。浮遊大陸は数多の魂の旅路の通過点でもあり、平穏でなければ、命を落としたものたちが安心して冥界へ向かうことができなくなってしまう。
 この異変を早く解決しないと――と、行き止まりであるその場所から踵を返そうとした時だった。
「……!」
 崩落しかけている天井から、緋色が混じった水滴が落ちてくる。血にも見えるそれが白い石を滲ませて、じわりと広がっていく。
 緋色が落ちた目の前にあった水溜りの一部分が膨張して、人型となったものがゆらりと立ち上がった。
 魔物、とも形容しがたいそれらは空中に二十ほどの水の刃を生み出した。唸り声のような言葉しか発さず、知能はなさそうに見えても、そういったものを生成する能力は備えているらしい。
「話が通じる存在じゃなさそうだな」
 エーヴィはその場から動かず、得物を構える。多少のかすり傷でも、治るのに一日はかかる身――避けられる怪我は避けたいところだった。
 人を模した水が再び唸った直後、刃が一斉に動き出す。呪文の階級を考えている余裕はない。
 雷鳴が走り、それを魔力に乗せて解き放つ。
暗澹に潜む紫電よ、砕け!ラズ・ライディアス
 宙に展開された紋章から雷が一直線に撃ち出され、水の塊を一瞬で破壊する。飛来していた刃はすべて消え、飛び散った泡にも雷が伝わり、一粒も逃すことはない。
 断末魔もなく、ただの水溜りが、再び足元に作られる。魔力も何も感じ取れない、雨が降ればどこにでもできるものとまったく同じだった。
『漏れ出た破壊神の魔力は、魔物を活性化させるだけでなく……無機物をそれに変えることもあるようです』
 遠い昔、女神から聞いた話を思い出す。
 経路は今の時点では見当がつかないが、破壊神に近しいものが紛れ込んでいるのかもしれない。のんびりしていられない、と自身に言い聞かせた。

 数分後には、遺跡内を流れるレテ川のそばに出る。奇妙な魔力の大元が近いのか、今まで通ってきた場所よりも空気が重かった。
 清流の近くにある草花の塊から、がさり、と音がする。敵ではない、ということがすぐに分かって様子を見ていると、エーヴィの足元に白い、ふわふわしたものが寄ってきた。
『見てください、師匠っ』
『その子は?』
『向こうの神殿で見つけたんです! 怪我をしていたので、放っておけなくて』
 小さな青いリボンが前足に巻かれたその子兎は、以前、シアリィが一時的に保護して世話をしていた記憶があった。その経緯もあって子兎の親とも仲良くなり、たまに一緒に遊んでいる、という話を彼女から聞いた覚えもある。
 足元で止まった子兎。忙しなく周囲を警戒しており、この子兎もまた、何かに対して怯えていることが伝わる。
「師匠」
「!」
 その子兎へ手を伸ばそうとすると、聞き慣れた声がする。
 視線を上げると、少し離れた場所に少女が立っていた。
「…………シアリィ?」
 生い茂る草木を分けて歩いてくるその少女のことを、エーヴィが見間違えるはずがない。どこからどう見ても、紛れもなくシアリィだった。
 ただ、身を刺す冷たい空気は、明らかに彼女のほうから流れてきている。辿っていたものの大元、と断定してもいいほどだ。
「ごめんなさい、勝手にいなくなってしまって。探しましたよね」
 五セートほど先で立ち止まったシアリィ。すると、彼女がいつも可愛がっていた子兎が、森の奥へと消えていく。一緒に昼寝をするほど懐いていたというのに、恐れるものから逃げるように、あっという間に姿を消してしまった。
 聖域を出た時から渦巻いていた、嫌な予感がエーヴィの中で収束する。探していた存在が目の前にいるのに、踏み出すのは危険だと自身に警告した。
 二百年以上一緒にいて、明確な違いに気がつかないわけがない。優しさを帯びていた真っ直ぐな黄が、空を染める緋色と同じ色に上書きされている。冷えた声色はまるで、鋭利な刃物のようだった。
 彼女と同一の魔力でありながら、彼女ではないような存在が、いつものように笑う――否、嗤う。
「君は、一体」
 冷たい風、不穏な空気、悍ましさを含んだ緋色――その中に隠しきれていない殺意。
 反射的にロッドを握り締めたのと、目前に氷の巨大な剣が出現したのは、ほぼ同時だった。