1-1 リコリスは水沫のごとく

 眼前に迫る火球。川沿いの草花を焼きながら、焔に闇を巻き込んだ塊が宙を飛ぶ。
 回避は間に合わない。直撃したところで少し火傷する程度だと判断したものの、目前の〝相手〟の正体が把握できていない以上、攻撃は下手に受けるべきではない――それ以上考える前に、エーヴィは長剣を取り出して足元の清流を魔力で掬い上げる。
裂けアリアス!」
 頬を僅かに焦がす灼熱は、一体どこから沸き出たものなのか。透明な水が炎弾を打ち消し、短い雨が降った。
 蒸気の向こうで少女が――シアリィが無邪気に笑った直後、大きく跳躍した。
「師匠、せっかくなので手合わせしてください!」
 長剣をそのままにしつつ、容赦なく振り下ろされた光の剣を軽く跳んで避ける。
「駄目だ。手合わせはいつも、木の剣でやっていただろ」
「たまにはいいじゃないですか、本物の剣でも」
 彼女の純粋な瞳に光が宿っておらず、奥が見えない緋色は、数千年前に世界中の空を染め上げたものとよく似ていた。
 いつもより数倍の重さがある剣を受け止める。そこにあるのは、かつて技を教えた末に振るわれるようになった真っ直ぐな剣ではなく、何かによって書き換えられた歪な剣だった。
 修行中のような純粋な気持ちで向けられた刃なら、どんなによかっただろう。
 早く異変の原因を突き止めなければ、と、エーヴィは微かに逸る心を抑える。シアリィの心を歪めた何者かに対する感情は、一旦端へと置いておいた。
「それとも、この体を傷つけるのが嫌なんですか?」
「……そんな甘いことは言っていられない」
 当然だ、とは返さない。返せるはずがない。
 僅かに入り込んだ沈黙を肯定と捉えたのか否か、彼女は剣を振り上げた。
 地と闇の魔力が、収束した直後に上方向へと拡散される。
「そうですよね。だって、ずっと一緒にいたんですから」
 崩落する遺跡の天井。瓦礫は川へと降り注ぎ、水の流れを阻む。空洞へ広がった闇に押されて、差し込んでいた光が消えていった。
 薄暗くなった川辺で、光をなくした刃が迫る。風が位置を知らせるそれを敢えて受け止め、シアリィの足を払って姿勢を崩した。
 数秒だけでもあればいい、と、素早く魔力を変換する。漂うものを振り払い、エーヴィの手元には灼熱の風が集った。
猛る焔の颶風ソル・フレイジオ!」
 元々が花である彼女は、地の属性を有していても火が苦手な体質だった。火傷がなかなか治らず、しばらく布を巻いていたこともある。
 それは本能として残っているのか、シアリィはすぐにその場から飛び退く。
「わあ、やっと本気になってくれたんですね」
 世界の種がある方向から、気づかれないように少しずつ引き離す。狙いがそちらであろうとなかろうと、世界を管理するほど膨大な力を備えているそれに、邪なものを近づけさせるわけにはいかなかった。
「君を殺すつもりはない」
「だとしたら、どうするんですか」
 邪なものに完全に染まってしまったのなら、殺してでも止めるのが正しいのかもしれない。二百年近く共にいる彼女を、己の手で、確実に。
 ただ、彼女は〝まだ〟残っている。エーヴィはそう感じ取っていた。戦い方がひどく不安定なのは、その証拠なのではないかと推測したからだ。
「目を覚ませ! 君は――」
 飛来する火球を再度弾く。爆風を相殺する。走る雷撃を長剣で裂き、エーヴィはシアリィの額へ切っ先を突き付けた。少しでも動かせば、鋭い刃が彼女のことを刺し貫けるほどの距離だ。
 大切な愛弟子にこんなことをしたくはなかったが、今はそのようなことを考えている場合ではない。
「わたしは正気ですよ」
「そうだったらそんなことは言わない」
 この戦いを長引かせてはいけない。直感がそう告げた。無理矢理操られているのだとしたら、身体に負担がかかる可能性が高いからだ。
 現に、使えないはずの攻撃魔法を放つにつれて、彼女の魔力は少しずつ弱まっている。完全になくなってしまえば、二度と取り戻すことができなくなるかもしれない。
 躊躇はするな、と自身に言い聞かせて、エーヴィはシアリィの腕を掴み、強く引き倒した。
打ち払えレーツェ、シアリィ――すまない!」
 長剣を素早く持ち替えて、光の力を集める。そのまま、柄の部分で彼女の首の横を強く叩いた。得体のしれないものが〝憑いている〟以上、手加減などしている余裕はない。
 崩れ落ちるシアリィの体を支えると、小さく呻いたあとに、ゆっくりと瞳を開いた。
「……ぅ……し、しょう……?」
 そこには二百年近く見てきた、穏やかな色があった。
「オレの声が聞こえるか?」
「はい、きこえ……ます……。わたし、は、けほっ」
「無理はしなくていい、少し休むんだ」
「…………」
 するりとシアリィの身体から抜け出た、黒い靄。創世神の加護が覆うこの浮遊大陸では、何かに宿っていないと生き残れるものではない――死霊よりも更に性質の悪いその靄は、予想通り、少し宙を彷徨ってから光となって消えていく。それは禁呪の一つ、精神を侵食して術者の意のままに対象を操る魔法だった。
 禁忌と呼べるものは遠い昔に地上から消え去り、人が強力な魔法は使えない世界。浮遊大陸の禁書区画にのみ、そういった魔法は厳重に保管されている。
「……正直、信じたくはないが。大人しく見てないで、そろそろ出てきたらどうだ」
 このようなことができる存在は、思い当たる限りでは一人しかいない。
 遺跡の奥に向けてエーヴィがそう言った直後、緋色の風が強く吹き込んだ。
「あははっ、やっぱりガラじゃないなぁ。こういうの」
 感じ取った〝身内〟の魔力。それは、そばから消えて随分と時間が経った存在がもつ、唯一のものでもある。
 眼前で膨大な魔力が弾けた直後、渦巻いた風を払って姿を現したのは、赤髪の少年だった。
「久しぶりだね。元気にはしてたみたいで何よりだ」
「ルーシェ……」
「そんな怖い顔しないでよ、その子はそのまま返すから。ただ、あんたともども、しばらく大人しくしていてもらうよ」
 創世の頃、神によって造り出された二人の使徒――その片割れである〝破壊の使徒〟の役目を担っていた少年、ルーシェ。三千年ほど前から行方不明となっており、どこを探しても見つからなかった彼が、なぜ今になって姿を現したのか。
 エーヴィは瓦礫に寄りかからせたシアリィを庇うように立ち、ルーシェを見る。この状況、どう考えても彼を味方として捉えることはできない。
「今までどこに……いや、それよりも、どうしておまえがこんなことを」
「そんなの簡単だよ。おれは破壊神側についたからね」
「!?」
 さも当然のように、ルーシェはそう告げる。
「これは計画の下準備と……なんだろう、試験みたいな感じ? まあ、それ以外にも目的はあるけど」
 魔力は数千年経っても忘れることはなく、目の前のルーシェと記憶の中のそれは完全に一致していた。操られているわけでも、偽者でもなさそうだった。
 膨らみ続ける疑問を一旦押し込めて、静かに空気中の水分を固める。それらは一瞬で小さな刃となり、敵とみなしたものを包囲する。
「それについては、今は聞いても教えてくれなさそうだな。ただ、破壊神の手先になったというのなら……」
「あれ、なんか思ってたよりも冷静だね。もっと驚くかと思ったよ。それにしても――」
 冷酷さすら感じられる金の瞳。横の髪を一度軽く払った後、ルーシェは宙で静止していた水の刃を一つ掴んで、それを消滅させる。
 連動してほかの刃も形をなくし、音を立てて床へと散った。
「その子を庇いながら、おれ相手にまともに戦えるとでも? ナメられたものだね」
 エーヴィは長剣を強く握り締める。創造の使徒と破壊の使徒、兄と弟、という扱いにはなっているものの、創世神から与えられた力はほぼ等しい。彼の言う通り、シアリィを庇いながら戦うのはやや不利だ、ということに間違いはなかった。
 それでも、向こうの思い通りにさせるわけにはいかない――まずは彼の動きを封じなければ、と、半歩下がる。
「あ、そういえば。今のおれはあんたが知らないものを持ってるよ」
「……槍?」
「そうそう。破壊神から預かった魔槍なんだけど、見てよ、このトゲトゲ。獲物は絶対逃がさないんだって。こんなのが全身に生えてるんだから、恐ろしい存在だよね」
 魔槍をくるくると回した後、ルーシェは槍の先端をエーヴィへと向ける。
 血を吸った、と言い表したくなる色を帯びた穂先は、飢えた獣の気配を纏っていた。目も牙も持っていなくとも、そう感じ取れるほど、禍々しいものが溢れている。
「んー、必中ってどういう感じなんだろうね。目の前にちょうどいいマトがあるし……試してみようか?」
 面白いものを見つけた無邪気な子どものように、ルーシェは笑った。
 直後、彼の手元を離れた魔槍が勝手に宙を舞う。その様子は生き物と表現しても過言ではなく、一直線にエーヴィ目がけて飛んでくる。必中と言うからには、どこまでも追いかけてくるのだろう。壊す以外に手段は残されていない、と判断する。
 避けてもその先で軌道を変えて、再び速度を上げながら飛ぶ魔槍。シアリィから離れても狙いを変えることはなく、標的にされていることは間違いない。
「世界を守る約束を忘れたのか」
「忘れてないよ」
 真紅を弾く。槍を手元に戻したルーシェが駆ける。放った魔法を突き抜けて、突き出された穂先を長剣で一度受け止め逸らす。
 光が宿ったままの金の瞳には、どこか哀しさが滲んでいた。
「〝あの〟約束だってそうだ。思い出さない日なんて、一度もなかった」
「……?」
「そう。そうだよ、彼は違う。違うんだよ。だって、約束を知らないんだから」
 何かを言い聞かせているのか、そう呟きながら頭を振るルーシェ。自分を見ているのに自分ではない誰かのことを言われている、という状況に、エーヴィは返す言葉を切る。
 ――彼は、知らないことを知っている。それなら尚更、動きを封じてすべてを聞き出すしかない。
 そう思いつつ長剣を構え直すと、魔槍が突然、向きを変えた。
「!」
「……動かないマトじゃつまらないけど、機嫌悪くされても困るししょうがないよね」
 重力の操作で加速した魔槍が、瓦礫を突き破る。その先に何があるのかは、考えるまでもなかった。
 魔法は間に合わない。剣で弾いたところで、あの生命を宿す槍は標的をすぐに狙い直す。
 それより先のことを考える前に、強く地を蹴り、真紅の矢のごとく飛来する魔槍の前へと飛び出した。
「ばかだなぁ」
 呆れるようなルーシェの言葉が、エーヴィの脳裏で反響した。
 魔槍が、右肩を貫通して壁画を削る。刺し貫かれた痛みと、叩きつけられた痛みが同時に押し寄せた。
「…………っ、これ、は」
 全身に内側から熱が広がる。見えないものに蝕まれるような感覚に、昏い閃光が眼前で瞬いた。
 血管を切り裂かれるような痛み。短く息を吐くと、同時に血の味がした。膝をつくと、足元で硝子の花が割れる。
「そんなにその子が大事? なんでもない女の子一人守るために、守り人が死ぬなんてことあっていいと思ってるわけ?」
 激痛が走る。縫い止められたかのように動かせないそこへ、前へ降りてきたルーシェは更に槍を押し込んできた。十分狙えたであろう体の中心を外してきたのはわざとなのか、否か。
 不快な音が耳に入り、鮮血が白い外套の一部を染めた。青い水が赤に染まっていく。一瞬暗くなった視界をどうにか保つべく、歯を食いしばる。
「あんたはそう簡単には死ねない体だけど……この魔槍が与える呪いは少しずつ、体中の回路を傷つける。魔法主体のあんたにとっては致命的だろうね」
 エーヴィはどうにか堪えて槍を掴む。抵抗する力は残されていない、と思われているのか、足元が水に浸かっているルーシェは魔法を発動させる気配はない。
 何に関しても油断はしたくないから、と、数千年前に話していたのはおまえだったのに――。
 彼方の光へ手を伸ばすように、消えかけのものを宿すように。意識の中で、遠のいた雷鳴を手繰り寄せる。
雷光ラズ!」
「……!?」
 一瞬でいい。狙ったところへ雷の刃を刺すのには、三秒も要らないのだ。
 濡れた体を伝った雷は、実体のない刃となって内から外へ突き出る。ルーシェの肩が僅かに裂け、血が光と共に宙を舞った。
「随分と……お喋りだな、ルーシェ。…………急所は、外してる。聞きたいことがあるからな」
 彼が怯んでいる隙に、体に鞭打って魔槍を引き抜く。
 反応が遅れたルーシェの喉を掴んで、直に雷撃を流した。
「……げほっ……誘導されたのは、おれのほう、ってわけか…………さすがに痺れる、なぁ。これ、こえ、でなくなりそう、だし」
 破壊神に怒られるかも、という言葉に、音は伴わなかった。おそらく、当分声を発することはできない。話を聞く時は治癒を施す必要がありそうだった。
 声が出ないようにすれば、高度な魔法は封じ込めることができる。とはいえ、有利になったわけでもない。自身に感電が及ばないように制御するので精一杯で、限界の先を気力で持ちこたえている状態だということは、エーヴィ自身が一番分かっていた。
 ――もう、いいか。
 突き飛ばされ、互いに離れる。彼の口の動きは、そのように言っていた。困ったように笑ったルーシェの表情は、遠い昔に見せていたものとどこも変わっていない。
 何をするつもりなのか、と思うのと同時に、ルーシェは魔槍の先端に小さく魔力を集めた。
 それは詠唱を破棄するのと同じであり、見てから止めるのはまず間に合わない。
 ――なんとか、生き残れよ。
 微かに集い、弾ける魔力。瓦礫の上で片膝をついたルーシェから告げられた、音のないその言葉に添えられた真意は何なのか。
 弱い魔法でも、脆い遺跡の床を壊すことは容易い。足元に亀裂が走ったことに気づいた時には、もう遅かった。
「……!」
 突如崩落する足場。その先に展開された転移陣。加えられた重力に、抗う時間は与えられない。
 ルディア遺跡から大鏡湖の上空へ転移で飛ばされたと理解したところで、打つ手が残されていなかった。
 どうにかシアリィを引き寄せ庇うも、そのまま彼女と共に、湖に突き落とされ湖底まで沈められてしまう。一瞬で視界が水に覆われ、傷口からは鮮血が線を描いて水面へと伸びた。

 ルーシェ、一体なぜ……?

 揺らぎ、遠のいた光が徐々に見えなくなっていく。思考が息苦しさに阻まれ、脳裏で滲む。
 こうなってしまってはもう、浮上することは不可能だろう。圧しかかる重力は消える様子がない。凍り始めた水面が意味することはたった一つだった。
 それなら、取れる行動は一つだけか――賭けとして、エーヴィは大鏡湖の湖底に転移の魔法を叩き込む。淡い期待だったが、なんとかなるはずだ、と。
 直後、魔法陣が広がり、湖底全体が光を放つ。魔法を発動するための回路が少しずつ乱されている今、これに失敗すれば再び放つことは叶いそうにない。彼方の泉へ繋がれ、と祈りながら、走る激痛に耐え続ける。
 空間が歪む。それに飲み込まれつつも、シアリィを離さないよう、水流の中で強く抱き寄せた。

 ◆

 夜の森。しんとした静けさが満たす暗い空間を、光を纏った小さな蝶が舞っている。夜空を反射する泉は、底に七色の光を揺らめかせていた。
 泉から湧き出る水の冷たさが身に染みる。意識がはっきりするようでしない。
 隣にはシアリィもいた。同時に転移することができたと分かり、エーヴィはほっとする。
「…………どうにか、なった……みたいだな……」
 短くも長くも感じられた転移。無理矢理な手段ではあったが、ルーシェ――襲撃者がいる浮遊大陸からは一応、離脱することに成功したらしい。この行動が最善だったかどうかは、これから次第だろう。万が一のことがあった時、浮遊大陸を覆う結界が発動しているのも察知できる。
 周囲を見回して、エーヴィは軽く咳き込んだ。一度体を起こすものの、立ち上がることはできず、地面へと身を横たえる。内側から刺すような痛みが、整えようとした呼吸を再び乱す。
 肩へと触れると、生温いものが付着する。血が流れ出ていた。
 このままにはしておけない、と思っていても、重く感じられる体が、動きたいという指示を受け入れない。
『おれは破壊神側についたからね』
 かつて、世界を共に守ると約束した存在。女神の願いを受け取り、何に代えても今のヴァスタリアを続けさせると話していた〝弟〟。エーヴィは、あの時のルーシェが嘘を吐いているのではないか、と思っていた。彼にはそういう〝癖〟があるからだ。
 が、何度目か分からない、なぜ、という感情が真っ先に出てくる。出てくるものの、意識はもう途切れる寸前だった。
 ――駄目だ、これ以上起きていられそうにない。
 魔槍の呪いは思った以上に進行が早いらしく、襲い来る眠気に抗えそうになかった。視界が徐々に暗くなっていく。
 息を吐き、力を振り絞って、微弱ではあるものの持続する回復魔法をかける。痛みは引かないが何もしないよりはいい、そう判断したためだった。

 刺し貫いたままの何かが妖しく光るのを見た直後、再び身を裂くような痛みに襲われ――すべてが黒に塗り潰されて、何も見えなくなった。