1-2 星道での再会

 それは、遠い記憶を見ているようだった。夢なのか、幻なのか、判別はできそうにない。

 黒い影が人々の住む場所を襲い、長い時間が築いた自然を壊し、世界は数年かけて破滅に飲み込まれた。再生を上回る速度でもたらされた破壊は、この星から生命というものを根こそぎ奪っていってしまった。
 届かない祈りも、空虚に響くだけの嘆きも、もうどこにも存在しない。奪われた、失われたものは戻らない。
 高所から眺める夕暮れが好きだった。人間の築いた文明の灯が、星のように眼下に煌めくこの場所から。
 時折、頭上を通り過ぎる鋼鉄の鳥が地平の果てまで飛んで行くのを見届けながら、忙しなく行き交う人々を見て、明日へ思いを馳せる。冷たさとあたたかさが入り混じった世界は醜くもあり、どこか美しくもあった。
「おしまい、なのかな」
 赤髪の少年が呟く。
 緑に浸食された文明。青に飲み込まれた生命。消えかかった太陽はもう、何も照らさない。この世界が完全に滅びを迎えるまで、そう遠くはないのだろう。隣にいる彼女の祈りは、誰にも届かない。
「そうかもしれない。それでも……次へ繋げることはできる」
 掬われるかは分からない最後の希望。そのまま誰にも見つけられなければ、永遠に実らないものとなってしまう。
「無意味だったことになんてさせない。オレたちは、そのために存在しているんだ」

 流れ込んでくる感情。その場にいるのかいないのか、境界が曖昧になる。
 自分の夢を見ているような、違うような、奇妙な感覚。

 ――これは、誰が見ている景色なんだ?

 ◆

 陽が差しているのか、瞼の向こうが明るいことが伝わってくる。
 重く感じるそれを押し上げると、木の天井が真っ先に目に入った。
「……」
 そうか、自分は〝起きた〟のか――と考えかけたところで、一気に意識が覚醒する。
 眠る、ということを基本的にしないエーヴィにとって、目覚める、というのは奇妙なことだからだ。
「っ、ここは……オレは一体……」
 異常さに気づいてエーヴィは体を起こし、辺りを見回す。どこかの宿屋のようで、窓の外には穏やかな村の風景があった。
 中心にある清流を湛えた噴水。そこには、夜空を彩る星々を組み合わせたような、独特な模様が彫られている。特徴的なそれに、見覚えのある景色が持つ地名はすぐに浮上したものの、自分が置かれている状況が更に理解できなくなっていく。
 ――オニイチャン、気がついたみたい!
 ――ホントだー、よかった!
 やや高い声が耳に入る。
 こつん、という音がしたほうを見ると、窓枠に止まっている二羽の小鳥が、心配そうに見つめてきていた。
「君たちに聞きたいんだが、ここはナーゼス村で合っているか?」
 エーヴィは硝子越しに、その小鳥に話しかけた。
 黄色い小鳥が小さく跳ねて、ちちち、と鳴く。逃げることなく、返事をしてくれそうだった。
 ――そうだよ、ナーゼスだよー! オニイチャン、何日か前にここへ来たの、覚えてないの?
 西大陸の最果てと言ってもいい地にある小さな村、ナーゼス。景色を見て思い浮かべた地名は合っていたらしい。
「何日か前……?」
 ――ちょっと、分かるわけないでしょ。このお兄さん、ずっと寝てたんだから!
 ――エッ! どうしてボクたちの言葉が分かるのー!?
 ――あっ。確かに。
 エーヴィの前で、硝子越しに小鳥たちが鳴き続ける。
「……そういう体質なんだ。教えてくれてありがとう」
 ――へぇー、珍しい人間もいるんだねー!
 ずっと寝ていた、という言葉が、エーヴィの中で引っかかる。目が覚めた、ということは、それは間違っていないのだろう。ただ、どうしてそのようなことになっているのかが、まったく分からないのだ。
 浮遊大陸にいるはずの自分がなぜ、遠く離れたこの地で目を覚ますのか。睡眠を放棄している以上、気絶でもしない限り〝起きる〟という行動には至らないはずだった。
 覚えている範囲では、記憶の最後は――。
「あ……師匠っ!」
「!」
 部屋の扉が開かれる音がした直後、聞き慣れた声がする。
 窓から視線を外して、そちらを振り向いた時にはもう、声の主の少女は寝台の横に駆け寄ってきていた。
「シア、リィ……? シアリィなのか」
 二百年以上見てきた、無垢な白百合の少女。
 見間違えるはずがないのに、エーヴィは思わずそう問いかけてしまう。
「はい! 良かったです、師匠がこのまま目覚めなかったらどうしようかと思っちゃいました……」
 彼女――シアリィは、ほっとした表情を浮かべた。
 先ほどのやり取りも踏まえると、ここ数日、この宿屋で寝かされていたことに間違いはなさそうだ、とエーヴィは判断する。
「……すまない、何が何だか……。オレは聖域にいたはずなんだが……それに、君は行方不明になっていたはずじゃ」
 草の蔓を生成して、適当に髪を括る。いつも束ねているものがないのはどうにも落ち着かなかった。
 その際、何気なく動かした右肩が痛む。見てみると、そこには丁寧に手当てが施されていた。
「そ、それが……わたしも、なんだかよく分からなくて」
「?」
 シアリィ曰く、五日ほど前、気がついた時には村の近くの森の中にいたという。
『……わたし、どうしてこんなところに――え……し、師匠!? 酷い怪我です……!』
 直前のことが分からないため状況が理解できず、大怪我を負っているエーヴィがすぐ横にいるのもあり混乱していたところを、巡回で泉を訪れたディスタという剣士に助けられた。
 それからは、ナーゼスに運び込まれたエーヴィが目を覚ますまで、宿屋の手伝いをしながら待っていた――というのが今に至る経緯だと、彼女は語った。
「…………なるほど。オレたちがここにいる理由は君にも分からない、と」
「最後の記憶として覚えているのは、聖域の外で剣の素振りをしていたことくらいで……。何があったのか、まったく思い出せないんです」
「ッ……駄目、だな。こっちも思い出せそうにない。ただ……君と再会できて安心したよ。無事で何よりだ」
 記憶を遡ろうとすると、刺すような痛みに阻まれる。
 あまりにも不自然な頭痛は、どう考えても体調不良が引き起こすようなものではなかった。
「わたし、行方不明になっていたんですね。だとしたら、こんな形ですけど、師匠とまた会えてほっとしました……」
 不穏な影は拭いきれない。抜け落ちた何かが小さな、小さな焦燥感を駆り立てようとする。
 それでも、探していたシアリィが見つかったことは幸いと捉えるべきだ、とエーヴィは自身に言い聞かせた。
「……。聖域、の方角に嫌な気配は感じないが、戻って状況を確認しないとな。結界も発動しているようだから」
「結界……?」
「中の邪なものをすべて弾き出して、外からの干渉が一切できなくなる。破壊神から世界の種を守り抜くために、女神が造ったんだ。永久的なものではないから、普段はオレが瀕死にならない限り、発動しないようにしていたんだが……一体何が……」
「おお、良かった。お兄さん、目が覚めたんだね!」
 開かれていた部屋の扉から、活発そうな女性が顔を出す。
 彼女も安堵したような表情を浮かべながら、部屋へと入ってきた。その腕には名簿らしきものが抱えられている。
「貴女は……この宿の女将さん、ですか?」
「ええ、そうだよ。それにしても、やっぱり若者は丈夫だね……五日前、あんたがディスタに背負われて運び込まれてきた時、みんな〝もう助からない〟って思ってしまうほどの大怪我をしていたんだから」
「すみません、世話になってしまったようで。……ところで、その時のこと、具体的に分かりますか?」
「ディスタから聞いた話じゃあ、あんたたちはソーシの泉のほとりに倒れてたみたいだよ。シアリィちゃんは軽い怪我だったけど、お兄さんは出血がひどくてね。呼びかけても何の反応もないし、最初は死んでるんじゃないかと思った、って言ってたよ」
「そうですか……」
 あとで一度、傷を見ておくべくだろうかと、エーヴィは少し腕を動かしつつ思う。普通の人間なら死んでいる量の出血があってもある程度は死なずに済むとはいえ、体質も相まって回復にはそれなりに時間がかかるからだ。
 意識を失くすほどの大怪我がたった五日で治るだろうか、という疑問はあるものの、今すぐにその答えを得ることは叶いそうにない。
「シアリィちゃんから話は少し聞いているけど、家に戻るならもう何日か滞在して休んでいったほうがいいよ。――食事なら用意してあるから、好きな時間に食べにおいで」
「女将さん、ありがとうございます!」
 ナーゼスの宿屋は女将が親切でありがたい、と、王都の酒場で話を聞いたことがあった。なるほど、確かに申し訳なくなるくらいだ――エーヴィは素直にそう感じた。
 扉が静かに閉められ、彼女が階段を降りていったのを気配で確認してから、シアリィに声をかける。
「ソーシの泉となると……オレたちは大鏡湖に落ちた、ってところか」
「え、ええっ!? あそこに落ちるなんて、そんな……それにここ、浮遊大陸からかなり離れてますよね。繋がってるんですか?」
「シアリィはここへ来るのは初めてだったな。あの泉は、世界中の湖や川などと繋がることがある――あくまで推測ではあるんだが」
 可能性が高い、というよりは、状況的にそれしか考えられなかった。落とされたとしても、湖底に転移の魔法を叩き込めば、強制的にここと道を繋ぐことができる。自分だったら間違いなくそうする、とエーヴィは思っていた。
 ナーゼス近郊にあるソーシの泉は、その性質上、ヴァスタリア各地からあらゆるものが流れ着く。誤って河川に落下した者が来ることもあるため、村の剣士が交代で巡回を行うようになったのは二千年ほど前からだった。
「な、何があったんでしょう……誰かに襲われた、とか……? でも、わたしはともかく、師匠にそんな怪我をさせられる人なんて……」
「……それしか考えられない、が、君が行方不明になっていたことも含めて、ただごとではなさそうだ」
「何かが起こってるんですね……師匠の怪我が治ったら、すぐ浮遊大陸に戻らないと……!」
「そうしたいところなんだが、そうもいかないみたいだ」
 見慣れた浮遊大陸の風景を脳裏に描いて、体内を巡る魔力へと〝転移〟の指示を出す――が、雑音が混じったかのように、それが突然途切れてしまう。
 エーヴィたちの目の前に半分ほど現れていた光の渦は、細かい粒子となって消滅してしまった。
「あ、あれ? 消えちゃいました。今のって、転移の陣ですよね?」
「陣が描けなくなっている。体に違和感があると思ってはいたが」
「だ、大丈夫なんですか……?」
「痛みはないから、心配しなくていいよ。ただ、転移が使えないとなると、徒歩で戻らないといけなくなるな……」
 転移魔法は、簡易な魔法を発動する時以上に高度な魔力の制御が必要となる。そのため、ヴァスタリアに扱える人間は存在していない。
 ――浮遊大陸は不可侵の結界でしばらく守られる。地上でほかに変なことが起こっていないか、ある程度確認もしておくべきか。
 戻るには西大陸の端から東大陸の端まで移動する必要があり、その間には巨大な川が流れている。定期船に乗り、飛竜の力を借りたとしても、虹の塔ビフレストに着くまでに半月近くはかかる見込みだった。
 どうするのが最善か、とエーヴィが考えていると、懐に魔法で保護された紙が入っていることに気づく。
「この紙は……」
 長距離を鳥に運んでもらうため、破れてしまわないようにしている特殊な便箋。
 宛名だけ書かれたそれが意味することは、一つだけだった。記憶の最後とも一致する。
「お手紙、ですか?」
「そうだ、アルファルドに返事をしようとしていたんだったな。書くものは……下で借りるか」
 返事を五日は保留してしまっている、ということになる。アルファルドを心配させるわけにはいかない、と思い、腰かけていた寝台から立ち上がった。
 横に掛けられていた外套を羽織り、シアリィと共に階下へ向かうと、そこは酒場になっていた。忙しい時間帯は過ぎたのか客は疎らで、女将も村人と談笑している。筆記具を借りるなら女将に聞くべきか、と思いそちらへ向かおうとすると、階段の前の席に座っていた男が顔を上げた。
「ヒック……ンッ? あんたはあのにーちゃん! おはようさん、目が覚めたんだな!」
 駆け寄ってきたその中年の男に両肩を勢いよく掴まれ、エーヴィは反射的に身を固くする。
 ああ、苦手な臭いがする――現時点で感じ取った、その男の性格や言動を指しているわけではない。漂う酒の濃いそれには、良い思い出がないからだ。
「お、おはようございます。……もしかして、貴方がディスタさんですか?」
「おーおー、話がはやいにーちゃんだなァ! そうとも、俺様がディスタ様だぜ~!」
 無精ひげを生やした酔っぱらいの男、ディスタはそう言って、エーヴィの前で謎の一回転を披露した。
 その様子が、記憶の中の〝誰か〟と重なる。
「わあ……お酒の臭いがすごいです」
 一歩退くシアリィ。近くで食事をしている村人たちはもう慣れているのか、まったく気にしていない。
「お兄さん、シアリィちゃんも悪いね。いつもはこんなんじゃないんだけど……ちょっと酒に弱くて」
「ええと……剣の腕前は村で一番の強い人、なんですよね。……本当は」
「そうなのか……」
「とりあえず、座った座った。立ったままで話すのは疲れるだろォ~」
 ここまで泥酔してしまうのは分かっているだろうに、どうして人は酒を求めるのか――。
 疑問は片隅に置き、エーヴィはディスタの二つ隣に腰かける。
「話は聞いています。泉に流れ着いたオレたちを助けてくれたとのこと……ありがとうございます。おかげで命拾いしました」
「へへ、助かってよかったぜ! ところでにーちゃん、すぐにとは言わねーから、ちょーっと頼みごと聞いてくれねえかな~」
「ディスタ、あんたは怪我してた人になに言ってんだい!」
 女将の言葉に対して、彼は口笛を吹いてはぐらかした。
 突拍子もない相談。それを見ていて、何かあるのではないか、と察する。
「……。とりあえず、一度詳しい話を伺ってもいいですか?」
「お兄さん、いいのかい?」
「ええ、ちょっと気になることもあるので」
 こういう時の勘は信じておくべきだ、とエーヴィは思っていた。
「ありがとうな~! ってことで、ツマミ追加だ! にーちゃんたち、俺が出すからほかにも食べてってくれよな~」
「はいはい……調子がいいんだから」
 呆れたようにしつつも、女将は食材を調理するために奥の厨房へと入っていく。
 ここは合わせて追加で何かしら食べておいたほうが無難そうだ、と思いながらシアリィに視線を向けると、それだけで彼女は言いたいことを察したのか、近くの店員に注文し始めた。
 このような時は、人間の食事に対して強い好奇心を抱いているシアリィに任せている。いつもは所持金を気にしているシアリィだったが、今回は遠慮しなくていいと分かっているのか、片っ端から頼んでいるようだった。

 数分後――シアリィの前に苺の山が作られていくのを見つつ、エーヴィはディスタの〝相談〟を聞いた。
「遺跡にいるはずの真紅の竜が、街道を通る人を襲っている?」
「そーなんだよ。そのせいで商人も一苦労、このままじゃあナーゼスは孤立しちまう。ただでさえ港からだいぶ遠いってぇのに……だから、なんとかしてくれねえかなーって」
 大量に水を飲む彼が声を潜めて相談してきた内容は、エーヴィにとって耳を疑うようなものだった。
 守護竜はヴァスタリアをはるか昔から守ってきている存在で、人間を襲ったことなど一度もないと聞いている。元々邪竜だった彼らは、女神と使徒に敗れて守護竜へと生まれ変わった――というのが言い伝えであり、真実だった。
「ノティアの騎士団駐屯地にその連絡は?」
「襲われ始めたその日、五日くらい前にしたぜ。ただ、それが届くのにも騎士団を派遣するにも時間がかかる……そろそろ着く、とは思うんだがなー」
 ナーゼスがある西大陸のおおよそ半分を守護する、火を司る竜・オーマ。守護竜の中では最も人間に親しくしており、人里の近くに自ら住むことを選んだ竜でもあった。
 そんなオーマが、人間を襲っている。何かの間違いではないか、と思ってしまうものの、真紅の竜などそういない。
「状況は概ね理解しました。ですが……オレたちに、なぜ〝頼みごと〟としてその話を?」
「だってよォ、オーマが暴れ始めた日にお前さんたちが現れたんだぜ~? きっと偶然じゃねェだろ~。強い魔法を使えば大人しくなるって聞いたこともあるしなー」
「はぁ……」
 ディスタの前に置かれている皿の中の、炙られた木の実が次々と減っていく。
 理解はできても把握できない部分がある、ディスタの頼みごと。様子をうかがいながらもう少し彼のことを探ろう、とエーヴィは判断した。
「魔法……?」
 シアリィが苺を食べる手を止めて、そう呟いた。
 それを遮るように、口を開く。
「……外部の人間であるオレたちに、できることがあるのか分かりませんが。一度、遺跡に行ってみますよ」
「よろしくな~、騎士団の連中が来る前にどうにかしてーんだ……って兄ちゃん、さっきから飯が減ってねェじゃね~か。食欲ないならこれでも食え、美味いぞ~」
 まだ顔に赤みがある彼が手渡してきたのは、木の実の殻だった。からからと乾いた音がする。
「ディスタさん。……これ、中身がないです」
「ンン? おお、酔ってて分からなかったぜ~! ははは、悪いな! こっちだこっち」
 この場では、これ以上踏み込んだ話はするべきじゃない――エーヴィは苺を食べ続けるシアリィを見ながら、引っかかった部分を心の隅に置く。
 手渡された殻は、皿には戻さずに懐へと入れておいた。

 ◆

「師匠」
 二階の部屋へ戻った直後、シアリィがどこか不安そうな表情を浮かべた。
「どうした?」
「ディスタさん、どうしてあんな相談を……師匠のことを知っているんでしょうか? 魔法のことだって……」
 換気のためか、開けられていた窓を閉める。吹き込んでいた夜風が遮られて、それによって揺れていた木々の音が遠ざかった。
「カマをかけようとしていたのかもしれないな。何にせよ、油断できない人みたいだ」
「かま?」
「説明が難しいんだが……知りたいことを当然のように会話に混ぜて、相手がそれを自ら話すように誘導することだ」
 エーヴィに奇妙な相談を持ちかけてきたディスタ。彼とはその後、特に守護竜の話をすることはなく、何気ない日常の会話をするだけに留まった。そうなるように流した、という表現も正しい。
「あ、お返事を書くんですね」
「さすがに今日中に返さないと心配されそうだからな」
「またあの時みたいに浮遊大陸まで来てしまったら、大変ですもんね……」
 苦笑しながら、備え付けの机の引き出しに入れていた便箋を取り出した。
 淡い光を放つそれに、女将から借りた筆記具を用いて文章を刻む。

【アルファルドへ
 返事が遅くなってすまない。
 色々あってシアリィと一緒にナーゼスにいるんだが、調子が悪いのか、転移が使えなくなってしまった。
 浮遊大陸へ戻る途中にフェグダへ寄ろうと思う。ただ、今からだとおそらく二週間近くはかかる。
 城内の異変は、転移の魔法の変質が原因だと思う。君の言うようにどこへ繋がっているか分からない以上、なるべく半径七セート以内に人が近づかないようにしておいてほしい。
 それと、もし可能なら、王都から虹の塔まで飛竜の力を借りていきたい。忙しいところ申し訳ないが、手配できそうだったら、頼めると助かる。
 また連絡する、なるべく急ぐよ。――エーヴィ】

 現状を伝える必要はあるが、あまり不安にさせてしまう言葉を返すわけにもいかない――無難、と自分で判断した文を詰めて、エーヴィは便箋を折りたたんだ。
「少し遠いが、なんとか届けてくれ」
「ピィ」
 それを窓辺に呼び寄せた光の小鳥の嘴に挟む。王都フェグダまでの距離に戸惑うことなく、小鳥はそのまま夜空へと飛び立っていった。
 小さな影が見えなくなったのを確認してから、エーヴィは寝台へ腰かける。
「これでよし、と。とりあえず、明日には遺跡に出発しよう。今日は早めに休んでおいてくれ」
「はいっ。師匠も、今日はちゃんと寝てくださいよ?」
「分かってるよ。心配してくれてありがとう」
 女将はシアリィに一つ隣の部屋を貸してくれている。何かしらの形で礼をしなければ、とも思っていた。
「……」
 おやすみなさい、と言った彼女が扉の向こうへ消えてから、懐へ入れていた木の実の殻を出す。
 引っかけるような形で閉じられていた殻は、左右を軽く押すとすぐに二つに割れた。
 〝月が真上にくる頃に、村の外れに来てほしい〟
 中から出てきた茶色の小さい紙には、短くそう書かれていた。差出人が誰なのかは、考える必要もない。
 ――罠かどうかは、行ってから確認するか。そういった人物には見えなかったが……。
 独り言としてこぼれかけたものを押し込めて、一度閉めた窓を開き、下への高さを確認する。ちょうど真下に牧草が積まれているが、そこへ落下したような物音がすればおそらく、隣室で眠っているシアリィを起こしてしまう。
 短時間でも寝ておけば、嘘を吐いたことにはならないはず――という言い訳を自身の中で浮かべつつ、窓枠を少しだけ強く蹴った。汚れてはいなくとも後で拭いておかないと、という気持ちも、同時にエーヴィの中に沸き上がる。
旋風をヴィント
 村の中を吹き抜ける風の力を集めて、宿屋の裏手から僅かに離れた場所へと着地する。周囲には誰もおらず、しんとした空気だけが一帯を包んでいた。
 顕現させていたロッドを消して、そのまま村の外れへと向かう。点在する家から漏れているあたたかな光は、遠い昔に守ったものが今も続いている証でもあった。
『ありがとうございます、守り人様。貴方がいなければ、この村は滅ぼされておりました』
『見てください。子どもたちが、星が降ってくる様子を絵に描いたのです。一生の宝ですよ』
『ナーゼスは、オーマ様とともに生きていきます。守り人様にも、オーマ様にも、感謝を』
 大陸の果てにある、小さな村が生まれた日。長い年月が経とうとも、交わした会話は昨日のことのように思い出せる。
 その頃と風景は随分と変わったものの、根幹にあるものは揺らいでいないのだと、エーヴィは歩きながら感じていた。
「おっ、来てくれたんだな」
 外れある小さな洞窟の中に、静かに佇む祠。かつてナーゼスを襲った邪竜を鎮めるために造られたものだった。
 足音で気づいたのか、その前に立っていた人物が、安堵したように笑いながら振り返る。
「酔いはもう醒めたんですか」
「クックッ、言うねぇ。俺がたいして酔ってないのなんて見抜いてたろ」
「どうでしょう。お酒臭いのは本当でしたし……」
「んー……まあ、確かにテンションはものすごく高くなってたなぁ」
 臭かったなら悪ィ、と、ディスタは頭を掻きながら言う。エーヴィは苦笑いだけで返しておいた。
「オレを呼んだ理由を、教えていただいても?」
 祠の周囲を満たす薄い緑の水が、差し込む月光を吸い込んで反射した。
 敵意はなく、不審さもない。それでも警戒を完全には解かずに、エーヴィはディスタの言葉を待つ。
「そうだな。っと、本題に入る前に、こいつを渡しておくぜ」
「……印? この形は――」
 ディスタが用意していた白い紙には、簡略化された呪文の紋章が欠けているような模様が描かれていた。
 禁書区画にある書物で見たことのあるその模様は、決して良いものではない。
「女将と手分けして手当てした時、兄ちゃんとお嬢ちゃんの体にそいつがあるのを見つけてな。気になったから書き写して、村の呪術に詳しいヤツに頼んで、調べてもらってたんだよ」
「……」
「簡単には解けねえ呪い、一部の記憶を封じる厄介なモンだ。とっくの昔に地上からは失われているはずなんだがな」
「やはり……」
 古の時代に起こった、大規模な争いの中で生み出された禁呪の一つ。範囲を指定して対象の記憶を破壊する魔法は、拷問に用いられたと記されていた。
「あの子ともども、ここへ来る直前のこと、覚えてないんだってな? そいつの影響だと思って間違いないだろうよ」
「違和感があるのは、そういうことでしたか」
 基本的に解呪する方法はなく、浮遊大陸の聖泉の水を使用しても解けるかどうか――というくらいに強力な魔法。
 失われたそれを使用できる存在は、ヴァスタリアではそう多くはないはずだった。
「で、本題なんだが……俺は隠し事が苦手でね。だから率直に言う」
 咳ばらいをしたディスタは、僅かに緊張しているようにも見えた。

「守り人、お前さんの力を貸してほしい。つっても、そんな複雑なことじゃない。さっき話した通り、街道を襲う守護竜のことだ」

 薄々予想していたことではあっても、いざ告げられると様々な可能性がよぎってしまう。
 十秒ほど経過したのち、エーヴィとディスタとの間を、風に運ばれてきた木の葉が通っていった。
「……エート……これで勘違いしていたら恥ずかしいから、違っててもなんか言ってくれるとオジサンは安心できるんだが」
 戸惑う彼を前に、消していたロッドを顕現させる。
「すみません。今ここで貴方の記憶を消すべきか考えていました」
「!? おいおい、目がマジじゃねえか……って待った待った、武器を出さないでくれよ!」
「冗談ですよ。あと、元々こういう目です」
「あ、あのなあ……ん? その武器、壁画に描かれてた」
「これを出せば、そちらも信じやすいと思いまして。……先ほどとは違うようなのでうかがいますが、なぜそのことを?」
 彼が持つ魔力は至って正常で、どこにも澱みはない。善人と認識して問題なさそうだ――魔力の質で、善悪の区別はある程度可能だった。
 初めてディスタに会った時はひどく歪んでいたが、人間は酒の影響で一時的にそうなることを、エーヴィは知っている。
「信じてもらえるかは分からんが……兄ちゃんたちのことを夢で見たんだよ。正確には、キレーな姉ちゃんがお前さんのことを教えてくれてな。泉で兄ちゃんたちを見つけるまでは俺も信じられなかったが」
「綺麗な姉ちゃん……?」
「姿まではもう思い出せねえ。キレーだったってことは覚えてる。ああ、あとは……白百合の花を持ってたっけな」
「……!」
 白百合の花を持った、美しい女性からエーヴィたちのことを教えられたとディスタは語った。
 思い当たる存在の名を呟きかけて、飲み込む。可能性としてありえなくはなくとも、なぜ、という感情が付いてきてしまいそうになったからだった。
「話が逸れたな。……で、泉で兄ちゃんたちを見つけて、その姉ちゃんが言っていた特徴と全部一致するのに気付いて……急いでここまで連れ帰ったワケだ。〝彼に、守護竜のことを教えてあげてください〟って言われてたから、このまま兄ちゃんが起きなかったらどうしたもんか、って思っちまったぜ」
「…………そう、でしたか」
「正直、あんな怪我してた兄ちゃんに相談するのは気が引けるさ……。が、時間がなくてな」
「そういう事情なら、協力しない理由はありませんよ」
「すまんな。代わりと言っちゃなんだが、お前さんたちがここを発つ時に必要なもんがあったら、遠慮なく言ってくれ」
 浮遊大陸へ引き返せない以上、物資面で協力してもらえるのは助かる――素直に受け取っておくことにして、短く礼を言った。
「……」
「……」
 自然に途切れた会話。ゆっくり歩き始めたディスタに続いて、エーヴィが短い洞窟を出ると、星空がすべてを覆うように広がっていた。
 ナーゼスの名物の一つである、星降りの日は半月ほど先になる。地面から星々のような光がいくつも浮き上がる現象を見に、各地から旅人が訪れるという話も聞いていた。
「相変わらず、静かで穏やかな村ですね。ここは」
「やっぱり来たことがあるんだな」
「世界を見て回る時に、何度か。最後に立ち寄ったのは二年ほど前ですが」
 巡回の時は、すべての地域を巡るわけではない。聖域で先に各地の状況を確認して、気になることがある場所へ優先的に行くようにしているためだった。
 ナーゼスにエーヴィが二年も訪れずにいたのは、それだけこの周辺が平穏だった、という事実の証明でもある。
「ここナーゼスは、守り人の伝承が濃く伝わる地でもある。この星空を邪悪なドラゴンから守り、小さな輝きが時々地に光として降りるようにして、人々を楽しませてくれた。そんな彼は今でも存在していて、浮遊する大陸から世界を見守ってくれている――簡潔にまとめちまったが、誰もが知っているお伽噺さ。この村の子どもはみんなこれを聞いて育つもんだ」
「……伝承、か」
「事実とはちょっと違ってたか?」
「いえ。こうして聞かされると面映ゆいものだな、と」
 人間は物語を作り、言葉に乗せて語り継いでいく。時が積み重なろうとも失われずに残り続けることもあるそれを、エーヴィは綺麗なものだと感じていた。
 だからこそ、面と向かって自分が関わる物語を聞かされると、妙な気分になってしまうのだ。
「なあ、兄ちゃん。名前、聞いてもいいか? 結局聞けてなかったからな」
「エーヴィ。――エーヴィ・クライゼス、です」
 この村の民にとっては〝クライゼス〟のほうが意味のあるものだろう、と感じて言い直す。
「はははっ、なるほどな。村の名前は守り人の名から一部借りた、ってのも真実か」
「ナーゼスの〝ゼス〟ですか。古の言葉で〝希望〟という意味がありますね。……この村の原型ができたのは三千年近く前……確かに当時、貴方の名前を村の名にしたい、そう言われました」
「覚えてるんだな」
「はい。ですが、なるべく名を伝えたくなかったので、一部分だけなら、という形で許可したんです」
「希望、ねぇ。それが続くように、俺もここを守っていかねぇとな」
 双子の娘が王都の騎士団に優秀な剣士として所属している、とディスタは誇らしげに話していた。
 得物として両手剣を使うらしい彼も、村で一番の実力者と言われている。血は受け継がれる、ということなのだろう。
「しっかし、守り人の話を聞いた時は勝手に老人を想像していたが……こんな若い兄ちゃんだったとはな。とはいえ、俺の何倍も長い時間を生きてるんだろうが」
「ディスタさんはおいくつで?」
「今年で四十六さ。お前さんは」
「忘れてしまいました……が、三千以上は」
「だろうなぁ……俺、何人分だ? それ……」
 既視感のあるやり取りに、少し遠くに離れていた記憶が色を持つ。初対面のはずなのに、それとは異なる感覚があるのは不思議なものだった。
 ただ、エーヴィがそれを手繰り寄せる前に、ディスタは軽く肩を叩いて歩き出した。
「ま、それ以上深入りはしねえさ。……と、いうわけで。怪我が大丈夫そうなら、明日にでも守護竜のところへ行きたいんだが……行けそうか?」
「ええ、オレ達もそうしようと話していたところでした。手当のおかげで痛みはほとんどありませんから」
「手当だけとは思えねーが……とりあえず、改めてヨロシクな、エーヴィ。俺も同行する、今から八時間後にあの木の下で合流しようぜ。夜は魔物どもが活発だからな」
「分かりました」
 ディスタが踵を返して、村の住居の一つへと入っていった。宿屋と繋がっているようで、ほかの建物よりも大きく見える。
 その直後、エーヴィの数セート後ろから草を踏む音がする。
「出てきても大丈夫だぞ、シアリィ」
 申し訳なさを感じつつエーヴィが振り返ると、木の陰からひょっこりとシアリィが顔を出した。
「気を遣わせて悪かった。彼は君に気づいてはいたみたいだが」
 歩いてくるシアリィは、心なしか普段より歩幅が広い。
 目の前まで来た彼女は、眠そうな表情の中に、明らかに不満げな色を滲ませていた。
「むう……ちゃんと寝てください、って言ったのに」
「こ、これから寝るから」
「こういう時の師匠は信じられません」
 短くとも眠れば嘘にはならない、と考えていた自分が一瞬で消えていく。
 いつもの無邪気さと穏やかさはどこへやら――頬を膨らませたシアリィには、もうエーヴィの言い訳などは通用しない。
「どうしたら信じてもらえる?」
「師匠が寝るまで、わたしが見張ります。異論は認めませんよ」
「分かった、それでいいよ」
 彼女と出会ってからおおよそ二百年、こういったことは何回かあった。睡眠を必要としない体で生きてきたが故に、休息のために就寝するという認識が薄くなってしまっているからだ。
「それじゃあ、宿屋に戻りましょう! 夕明けにはドラゴンさんのところへ行くんですから」
 星空の下、手を引っ張られながら歩いていく。
 自分にとってシアリィは、はるか遠くに置いてきた〝人間〟の部分を繋ぎ止めてくれているような存在なのだと再認識した。