0-1 廃墟に咲く白百合

――W.T.2845

 今年も、この日が来た。そう思いながら、時間という概念から切り離された故郷を訪れる。
 青空には合わない、荒廃した地。絵画に描かれるほどの美しさだった景観はどこにもない。
 かつて魔物によって蹂躙され、歴史から存在を消した小さな村。峡谷地帯の間にひっそりと佇むその廃墟は、今は当然、誰も住んでいない。
「……変わらないな。何も」
 尤も、そうなるようにこの地へ魔法をかけたのは自分なのだが――毎年訪問するたびに、エーヴィは同じことを考えてしまう。
 この村、クレアシオ村が滅んだのは、今から五千九百年ほど前のことだ。それだけ時間が経過していれば、普通は建物の形すら残らないだろう。自然に覆われて森になるか、地形ごと変わっている可能性もある。
 ここが廃墟となって未だに残り続けているのは、この地と周辺を〝時間の流れが極端に遅くなる〟ようにしたからだ。それによってクレアシオ村では、百年でようやく一年分くらいの時間が経つ。完全に緑に包まれるまでは、しばらく猶予がある。
『エーヴィさん。お気持ちは分かりますが、それでは貴方が……』
『いいんだ。……これでいいんだ、フェリシア』
 いつまでも霞むことのないやり取りが、エーヴィの中を流れてゆく。
 女神とそんな会話をしたのは、何千年前だっただろうか。そうしたところで、自分を含めた誰かが救われるわけではない、ということは痛いほど分かっていた。戒めと言える。
 守り人、などという位置に立ってはいるが、何も守れなかったところからすべてが始まった。忘れられるはずもないが、そのことを忘れるな、と言い聞かせているようなものだった。

「ふわぁ、退屈だなぁ……誰か来ないかな……」

 彼方へ置き去りになっている昔のことを思いながら、エーヴィが〝空っぽの〟墓碑の前に花束を置いた、その直後。
 そう遠くない場所から、欠伸交じりの少女の声が聞こえた。
「誰かいるのか?」
 思わず呼びかけるも、言葉は返ってこない。
 そこでエーヴィは、そう遠くないところに魔力の反応が一つあることに気付く。その質からするに、どうやら人間でも魔物でもないらしい――とはいえ、動物でもない。
 一体何者なのか。辿った〝それ〟の位置は村の中、かつて村長の家があったところにあるようだ。すぐ近くにあったそこへ気配を消して近付き、廃屋をそっと覗き込む。
「誰か来ても、お話はできないけど……」
 寂しげな声が、空っぽの建物にかすかに反響する。そこに生き物の姿はなく、白百合の花が一輪、ぽつんと瓦礫の中に佇んでいるだけだった。間違いなく、声の主はあの白百合の花だろう。
 妙だな、と、思わざるを得なかった。エーヴィに守り人の役目と同時に与えられた、植物や動物の声を聞く力。それが備わっている以上、白百合の花である彼女の声が聞こえること自体はおかしくないのだが、聞こえ方に違和感があった。
 普通ならば脳裏に響くような形で言葉が届くのに、あの花のそれは〝人間が普通に喋っている〟ように届いてくる。更に言えば、魔力の質が植物に該当しない。
 何なのかすぐには分かりそうにないが、正体不明なものを放っておくのは少々危険だ。ひょっとしたら今後、周囲の水分を一気に吸収して巨大な花になってしまうかもしれないし、数百年前に一部の地域で大量発生した、邪悪な気配を纏った花に変貌してしまう可能性もある。膨大な魔力が大地に備わり、湧き上がっているこの世界では、何が起こるか分からないのだ。
 ただ、悪意はまったく感じられないどころか真逆の気配がある。例えるならば、真っ白でどこまでも純粋なものだ。
「あっ、人間だ。何年ぶりだろう」
 様子を探るべく、ひとまず声が聞こえないふりをして、エーヴィは白百合の花の前に進み出た。花に表情はないが、目を輝かせたのであろうことは、声色からなんとなく伝わる。
 何年ぶり、という部分が気になったが、今は置いておくことにした。
「こんなところに咲いてしまったのか。建物が崩れたら大変だな」
「そ、そうなんですよ! だけど動けないし、どうしようかなって……」
「もう少し安全そうな場所に植え替えるか」
「本当ですか? お願いしますっ!」
 独り言に丁寧に言葉を返してくる花。端から見れば、人間の男が一人で白百合に話しかけている、という光景になる。他に誰も居なくてよかった、と思ってしまった。
「って、わたし、また話しかけちゃった……。声、聞こえないのになぁ……――ん、あれ? この人……」
 目があったなら、今、この花はこちらをまじまじと見つめていたのだろう。上から下まで、自分の記憶と照らし合わせるような視線だ。
「……」
 植え替えようと思い、エーヴィはロッドへ伸ばした手を引っ込めた。
 この状況、少しやりづらく感じてしまう。
「…………オレの顔に、見覚えでもあるのかな?」
 近寄って更に感じ取れたのは、清純な魔力ただ一つ。この世界でこの質のそれだけを有するのは稀有なことだ。花が有している、という話も聞いたことがない。
 少なくとも、先ほど危惧したようなことにはならなさそうだが、村の中に植え替えるのではなく、聖域へ持ち帰って調べたほうがいいのだろうか。
 そんなことを考えつつエーヴィが声をかけると、花は動揺するかのように左右に揺れた。
「……。……え、ええと……わたしの声、聞こえるんですか!?」
 聞こえないふりをしていた罪悪感が生まれる。
「一応は」
「ひぇっ」
 驚かせてしまったようだが、無理もない。こうして声をかけて、このような反応をした植物は何十、何百と見てきた。
 敵意はないことを改めて示そうと、数歩下がる。
「ま、待ってください! わたし、人と会話するなんて初めてで……! 人が来ることはあっても、わたしに気付いてくれないか、見つけても綺麗だな~って言って立ち去ってしまうので……」
 必死に引き止めるような声。
 エーヴィはそれ以上は距離を取らずに、屈んで再び白百合を見る。
「人間には君の声が聞こえないからな。こんなところに一人……ひと……一輪か? で、退屈だっただろ」
「はい……。ここでこうするようになってから、どれくらい経ったのか分かりません。途中から数えるのをやめてしまったので……って、あれ、ちょっと待ってください。あなたは、人間じゃないんですか?」
 花の表情は分からないが、きっと、不思議そうな顔をしているのだろう。素直な子なのだということを察して、更に清純な魔力の本質が気になってしまった。
 一体どこから生まれ出でたものなのか――ここに放置しておくという選択肢は、エーヴィの中から既に消えていた。
「直球な質問だな」
「! す、すみませんっ」
「いや、構わないんだ。ただ、何と言えばいいのか……区分するなら真ん中、ってところか」
「真ん中……?」
 そう言いつつも、自分の中で栓のように詰まっている問いかけだ、とエーヴィは感じた。
 人間かと問われれば、否。けれど神でもなく、この世界を造り出したような、超常の存在にも該当しない。半端者と言ってしまえばそれまでだったが、無理に自分をどこかへ区分する必要もない、そう思うようになっていた。
 エーヴィは緩く頭を振る。今、その感情に沈んでもどうしようもないからだ。
「そうだ、植え替えについて、一つ提案があるんだが……この村は見ての通り廃墟で、いつか崩壊してしまう。強要はしないが、一旦、安全なところに移動しないか?」
 クレアシオ村が完全に崩壊するのが、どれくらい先かは分からない。
 時間の流れを遅くしているとはいえ、自然の力に飲まれて消えてしまう可能性は常にある。そこまではこちらで制御することはできないのだ。
「安全なところ?」
「ここからだと……少し見えるな。あそこだ」
 瓦礫をずらして、エーヴィは白百合の花に空を見せた。その先には、雲間に大地と遺跡のようなものが漂っている。
 浮遊大陸――守り人としての拠点であり、世界の均衡を保つための地。巡回の合間に帰ることにしているが、エーヴィが最後に浮遊大陸へ戻ったのは二ヶ月ほど前になる。そろそろ戻ろうと思っていたからちょうどよかった、と付け加えた。
 それに、聖域にある書庫でなら、この不思議な白百合に関する情報が得られるかもしれない。あまりにも膨大すぎて書物はすべて確認できていなかったが、あれだけ揃っていれば、何かしらの手がかりはあるはずだ。
「……。そ、空の上の大陸じゃないですか! お兄さんはあそこに住んでるんですか……!?」
「確かに家とも言えるな」
「あんなところがあったなんて、今まで知りませんでした……。むしろ、行ってみたいです!」
 白百合の花は、好奇心旺盛でもあるらしい。彼女が人間であったなら、目を輝かせていたのだろう。
「それなら決まりだな、と言いたいところなんだが、その前に一つだけ……オレのことを知っているようだったが、誰かから話を聞いていたのか?」
 この花を疑っているわけではない。ただ、気になることは忘れないうちに尋ねておきたかった。
 エーヴィがそう問いかけると、花は左右に揺れる。人間でいうところの、戸惑いのような感情表現だろうか。
「その……こんなことを言っても信じてもらえないかもしれないんですけど、少し前に、夢で不思議な女の人から言われたんです。〝数日後に、あなたの声が聞こえる人が来る。翼のついたロッドを持っている彼と一緒に、空に向かってほしい〟と。あなたのことで間違いなさそうだな、と思って……」
「なるほど、確かにオレを指している可能性が高そうだな……それにしても、不思議な女性、か」
「お名前とかは聞けなくて、どんな人だったかも、はっきり思い出せないんですけど……すみません」
「謝らなくていい、それだけ聞ければ十分さ。――それじゃあ、移動の準備を始めるから、少しだけ時間をくれ」
 夢という形で、他者へ介入することができる者がいるらしい。ここでその正体について考えていても答えは出なさそうだが、心には留めておくことにした。
 エーヴィはロッドを手に取り、白百合の近くの地面へと意識を集中させる。手ごろな鉢は近くになく、持ってきているわけでもない。根の周辺の土ごと浮かせて、転移魔法で移動するのが最適だろうと判断した。
 植物にとって大事な根をうっかり切ってしまわないよう、魔力で読み取った範囲を少しづつ掘り出していく。
「わわっ、これも魔法なんですか? 太陽より眩しいです!」
 数秒後、驚くような声がする。最後の部分が引っかかって目を開けると、白百合の花が眩い光を放っていた。直視すれば目が眩みそうだ。
「……?」
 腕で覆いつつ、エーヴィはロッドを下げる。ただ地面を掘るだけでは、こんなことにはならないはずだ。何か失敗して違う魔法をかけてしまったか、と一瞬考えたものの、何千年も魔法を使用してきて、発動を誤ったことは一度もない。
 白の中で、白百合の影がゆっくりと変化していく。花からかけ離れていくそれを止めることはできなかった。
「うーん……あれ?」
 深い空のような色の髪に、金色の瞳。光が緩やかに消えたあとに立っていたのは、一人の少女だった。白基調の服が風に揺れるのを見て、遠くにある記憶の引き出しが開く。
 少女のこの外見は――動揺を押し込んだエーヴィと、自分の体を見下ろしていた彼女の視線が合う。
「……フェリ、シア……?」
 すべてを見透かすような色彩の瞳を見て、思わず、この世界を造り出した女神の名が口から出る。
 容姿がまったく同じ、というわけではなかったが、それでも少女は彼女によく似ていた。彼女に子どもの時代があったなら、きっとこんな姿をしていたのだろう、と思えるくらいには。
「……手? 足? というか体……えっ、と……?」
「……」
「あの……もしかしてあなたが、わたしを人間にしてくれたんですか……?」
「…………」
 状況的に彼女がそのように捉えてしまうのは当然だったが、そうだ、とは言えない。
 そういった〝人ではないものを人にする魔法〟は遥か昔、禁呪に指定されて地上から消え去ったと聞く。禁書区画にこれが記された書物はあるものの、エーヴィは習得していない魔法だ。無意識に発動させるはずがない。
「これは、だな……――っと」
「嬉しいです! わたし、こうして大地を歩いてみたくて……ありがとうございますっ」
 この純粋そうな少女に嘘は吐きたくなかったが、どう答えればいいものか――とエーヴィが迷っていると、彼女が思い切り飛びついてくる。想像以上に力強く、先ほどまで花だったとは思えないほどだ。
「……。何はともあれ、とりあえず、移動しやすくなったな。このまま浮遊大陸へ向かおう」
「はい!」
 鉢を探す必要はなくなったし、と言いかけたが、きらきらと輝く少女の瞳を見てエーヴィは口を閉ざす。
 聖域に戻ったらしばらく書庫に引きこもって調べるつもりでいたものの、その間放っておくのは少々気が引けてしまう。着いたら少しだけ、周辺を案内してあげてもいいかもしれない。

 少女ごと覆うように、転移陣を展開する。
 空間の歪みを認識した直後、目の前は光で染まった。

 ◆

 浮遊大陸にある湖の前に降り立つと、木に止まっていた小鳥が鳴いた。
 黎明の光で常に満たされている空には、透き通った葉をつけた樹木が大きく伸びている。七色の花が湖畔に咲き、本のページのような模様が敷き詰められている道には、果実が何個か転がっていた。おそらく、森で暮らしている小動物が、持ち帰ろうとして落としてしまったのだろう。
 景色をぐるりと見回して、少女は小さく跳ねてから、こちらに問いかける。
「ひ、人の住んでいるところって、こんなにきれいな場所なんですか……?」
「ここはちょっと特殊な場所なんだ。ただ、確かに、人が住んでいる世界は綺麗だよ」
「さっきいた村は、ここから見えますか?」
「そうだな。あのあたりだ」
「わぁ……山があんなに小さいんですね」
 透明な湖から、眼下に広がる世界を見せる。
 クレアシオ村を囲う山脈は、手のひらで覆い隠せそうなほどだ。飛竜すら到達できないほどの高度にある浮遊大陸からは、世界で一番大きな山でも小さく見える。
 聖域のある方向を教えると、少女は一直線に駆け出す。本当に元気な子だった。かつて、村にいた子どもにもこんな子が居たなと、懐かしい気持ちすら抱いてしまった。
「あっ! そういえば……」
 視線で追いつつ歩き出すと、彼女は突然立ち止まり、その場で振り返る。
「どうしたんだ、忘れものか?」
「えっと。あなたの名前、聞いていなかったなぁ、と思って。わたしの名前も、言ってませんでしたよね」
 個別の名を持つ花がある、というささやかな発見は、一旦置いておくことにした。
「誰かに名乗るのは久々だな。――エーヴィ・クライゼス、という名を持っている。一応、この世界の〝守り人〟を担う者だ」
 このままでは謎の存在だと認識されてしまうかもしれない、と思い、エーヴィは名前と併せて簡潔に役目を告げる。
「マモリビト?」
「そのあたりについては、あとで話すよ」
 伝承の一部となりつつある役目。繋いできた正しい歴史、使命は、この浮遊大陸にのみ残されている。
 名を小さく何度か呟いたあと、少女は姿勢を正した。
「わたしはシアリィ、といいます。しばらくの間、よろしくお願いしますっ!」
 何も混じっていない、何にも染まらないような魔力が淡い光になっているような感覚。
 それを微かに帯びた無垢なその笑顔すらも〝彼女〟と被って見えたが――追憶の道へ入るのはやめて、こちらこそ、とだけ返しておいた。