0-2 魂廻る空

――W.T.2970

 いつからだろうか。地上に生きる人々の間には、このような言い伝えが広まっていた。

『このヴァスタリアでは、死んだあとに魂が空へと導かれるって話、またうちのおばあちゃんがしてきたよ』
『前にも言ってたっけ。聞くたびに思うけど、なんかこう、フワ―っと昇っていきそうだよね』
『で、あの空の大陸があるじゃない? あそこで新しい命に生まれ変わるんだってさ』
『ほんとかなぁ。でも、誰にも分からないよな……』

 巡回の途中、立ち寄った村で耳に入った会話。どこも間違っていないその話は、一体誰が伝えたのか。空想が広がったのか、何者かがこっそりと流したのか――真実を知る者は片手で数えられる人数しかいない以上、後者の可能性は低そうだが。
 浮遊大陸、すべての魂が集う場所。〝アヴァルス・ゼーレ〟とも呼ばれるそこは、その村人たちが話している通り、地上で命を失ったものすべてが導かれ、遠い未来で新しい命として地上に落とされる。人間、動物、めったに死ぬことはないものの、精霊も区分される。例外は魔物くらいだ。その魂は地上へと溶け、光のない深淵へと落とされてしまうからだ。
 この話をしたらシアリィは「そ、それってつまり、この本に書かれているような〝おばけ〟が、浮遊大陸にはたくさんいるってことですか!?」と震えていた。どうやら書庫にあった、地上の人間が書いた〝幽霊〟が出てくる伝奇を読んだ直後だったようだ。
 なんと説明すればいいのか、数秒言葉に詰まる。
『……怖くないおばけ、かな。別に害はないから、見守ってるだけでいいんだよ』
 後から、この説明で大丈夫だったかと若干心配になったが、シアリィには魂がはっきりとは見えていないらしい。なので、それ以降、そこまで怖がることはなくなった。

 魂は転生を待つあいだ、生者は立ち入ることのできない冥界に一度向かう。現世と隣り合うものの、次元が異なるその地へ繋がる道――それが、浮遊大陸でもあった。
 ただ、ごく稀に道を外れてしまい、大陸内を彷徨う者がいる。

 ◆

「し、師匠! 師匠ーっ!!」

 禁書区画の扉が勢いよく叩かれる。何かあったのだろうか。危険な書物が多いが故に、彼女にはここにあまり近寄らないように伝えているが、それを気にしている余裕はないらしい。
「どうした、シアリィ。そんなに慌てて」
 すぐに手にしていた書物を置いて外へ出ると、シアリィが真正面からしがみついてくる。
「た、た、たま、魂が」
「魂?」
 そういえば今は黎昏刻、道が開いて一斉に魂が昇ってくる頃だったな――などと考えていると、曲がり角の向こうから〝誰か〟が、ひょっこりと顔を出す。
『嬢ちゃん、逃げないでおくれ~! ジジイさみしい~!』
 現れたのは老人だった。ずいぶんと元気そうだったが、ここに半透明の姿でいるということは、死者の魂であることには違いない。
「分かりましたから、追いかけて来ないでくださいー!」
『ん? おお、嬢ちゃん以外にも人がいたとは!』
 シアリィの盾になりつつ、彼女を追ってきたであろう老人を改めて見る。本来、導かれる魂は一本道を進むため、迷うことはない。が、時々、なぜかそこから外れて、生前の姿でここへ迷い込むものがいる。この老人もその類だろう。
「こんにちは。迷子の魂ですよね」
『直球じゃな兄ちゃん!』
「いや、そうとしか思えませんので」
 それ以外にどう言い表せばいいのか、と困惑する。言動の元気さだけ見ていると、死者とは思えない老人だ。胸元に真紅のシミがあるのを見るに、亡くなった原因は想像できなくもないが、今は深入りすることではない。
 こういった〝はぐれ魂〟は、ちゃんと冥界へ渡れるように道案内をする必要がある。というのも、魂だけの状態で長く現世に留まると、いずれ消滅してしまうからだ。
「元気そうですが……このままだと、貴方は消えてしまいます。冥界への道を案内するので、ついてきてもらえますか?」
『えぇ……嫌じゃ』
「……」
 断るところなのか、そこは? 消えるほうが嫌じゃないか?
 そう返す間もなく、老人の魂は身軽なのをいいことに、その場で謎の宙返りを披露する。
「えっと……おじいさん。もしかして、何か心残りがあるんですか……?」
 おそるおそる、といった様子で問いかけるシアリィ。
 すると、老人は勢いよく一歩前に進み出る。とても嬉しそうな表情で。
『嬢ちゃん、大正解! ワシはこのまま死ねないのじゃ』
 なんとなくそんな予感はしたが、その通りだった。
 導かれる魂たちは、多少の未練があっても、基本的に道から外れることはない。だが生前、禁忌とされる呪法に関わったり、凶暴化した魔物に殺されるなどして〝闇〟に触れた者は、道を見失ってしまうことがある。そこに連なる心残りがある場合もだ。
 この老人、一見陽気に見えるが、暗いものを背負っているのではないだろうか。
「師匠、どうしましょう。このおじいさん、心残りがあるって……お手伝いしてあげるしかないですよね?」
『兄ちゃん、教会のようなことをするつもりなのかの……?』
「いえ。オレは聖職者ではないので、貴方の未練がなくなるよう浄化する、とかそういうことはできないんです。あくまで〝手伝い〟だけですよ」
 霊魂に対しては、望むなら光属性の最大魔法を用いて強制的に昇天させることもできなくはないが――話を聞く限り、それの出番は今回はなさそうだ。
『そうなの……? や、ワシとしてはそれでいいんじゃが』
「はい」
『それにしても、空の上にいる……それじゃあ、そこの嬢ちゃんとあわせて、天使なんじゃな!?』
「…………」
 一体何なのだろう、この話が微妙にずらされていく感じは。目に見えない何かを、かなり消耗しながら会話をしているような感覚がする。
「オレたちを、どう捉えるかはお任せするとして。渡るための手伝いをしますが、貴方のことをうかがってもいいですか? エルスタさん」
『んっ? ワシの名前が分かるのか!』
「見えるので」
『便利だのう……そんな能力があったら、仕事の時に困らなかったんじゃが』
 毎回返していたら会話が永遠に終わらなくなる気がして、苦笑だけしておいた。脱線した話を何度も戻していたら、肝心なことを見落としかねない。
 さて、どう行動するべきか。考えていると、服の裾を軽く引っ張られる。
「師匠。わたしも、お手伝いしてもいいですか?」
「ああ、助かる」
 守り人の主な役割は、稀に道を外れる魂を導くことではない。地上世界を巡回して、生きているものを守ることだ。魔物に襲われる商人や村を助ける騎士団をこっそり援護したり、災害に裏から対応したりと、やることは尽きない。〝前の世界〟では、これを二人で分担していたのだが――今はもう、それは叶わない。
「おじいさん……じゃなくて、エルスタさん。心残り、って何なんですか……?」
 見慣れてきたのか怯えなくなったシアリィもまた、一歩進み出て問いかける。
『うむ、隠しても意味がないから率直に言うぞ。〝魔物に変えられたばあさんの宝物を見つけたい〟のじゃ』
「……え?」
『ウソは言っとらんぞ! ワシは正直者で人気があったからの~』
 最後の一言はともかく、嘘は言ってなさそうだ。ここでそれを吐いたところで、彼にとって有利に働く点はないはずだ。
 魔物に変えられた人間の、宝物探し。ある程度絞り込めればそこまで難しくはなさそうだったが、内容が内容だけに、慎重に動く必要がありそうだ。
「ひ、人が、魔物に……? そんなことって、あるんですか」
「……エルスタさん、貴方が住んでいたのは王都フェグダではないですか?」
『兄ちゃん、大正解じゃ! 嬢ちゃんといいカンがよくて助かるのう』
 再び披露される宙返り。魂体だからこそできることだ。
「フェグダに何かある、ってことですね」
「妙な事件が少し前にあった。人が行方不明になったあと、その人の特徴を持つ魔物が現れている、と。そして、その人間が発見されたことは一度もない」
「!」
 一時期、煌びやかな王都で数か月に一度起こっていた、人が行方不明となる事件。いなくなった人が帰ってきたことは一度もなく、数週間後、その人物の特徴を持つ魔物が街中に出現する。その魔物たちは騎士団によって捕獲されているが、数日後には自ら命を絶ってしまっている、というところまで毎回同じだった。
 夜の街を見張ったこともあったが、大きな黒い手にさらわれるように忽然と消えた人の行方をどうしても辿ることができず、現れた魔物を元に戻すこともできなかった。
 禁呪の一つを街の土台に施したことでその事件は起こらなくなったが、取りこぼしてしまった幾つかの命があるということを、この先も忘れることはないだろう。
「シアリィ。このあと王都に向かうから、地上へ降りる準備を。オレはもう少しエルスタさんと話しておくよ」
「はいっ、分かりました。終わったら戻って来ますね」
 シアリィが駆けていく。元々が白百合の花である彼女は、地上へ降りる時に特殊な、実体のない剣を携えている。それがないと、人の姿を保てるか分からないからだ。

 彼女の姿が見えなくなってから、横からやや控えめに声をかけられる。
『兄ちゃん、なんでも知ってそうに見えるんじゃが。分からないこともあると』
「……完璧な存在ではないので。救えなかったものも、たくさんありますよ」
『苦労してるんだのう。若いのに』
「見た目だけです」
 二十五のとき、寿命というものは放棄した。彼からそう見えるのは当然だろう。
『ちなみに、ジジイは七十六じゃった。兄ちゃんは?』
「三千以上は……」
『おお~。ワシ、何人分じゃ? それ……』
 彼はその場で計算を始めた。どこまでも陽気な方だと思ってしまうが、探しているという〝宝物〟を見つけたら、本当に冥界へと渡ることができるのだろうか。それ含めて、魔物になってしまったという伴侶のことが気がかりなのだとしたら、別のところに着地してしまうのではないか――とも思ってしまった。
 靄がかかっているような感覚が消えないものの、行ってみないとどうにもならない。
「師匠、準備できました! ところで、エルスタさんはどうするんですか?」
「一緒に来てもらったほうがいい、とは思うが……魂は、地上のほうが消耗する。無理強いはできない」
 見ている限り、あと三日くらいは渡らなくても保ちそうだが、それはここに留まっていればの話だ。
 一度浮遊大陸を訪れた魂は、地上へ帰ることはできない。今回のように、同行という形でなら連れ出すことはできるが、残された時間は三分の一以下まで減ってしまう。
 だから選択する権利は彼にある、と思い、視線を向ける。
『ジジイさみしいって言ったじゃろ~! 連れてって!』
「……」
 置き去りにしたら恨まれるのではないか、と思わざるをえなかった。

 ◆

 地上は夜で、王都の明かりは半分も灯っていない。大半の人々が就寝しているのだろう。
 どこへ行こうか少し迷ったが、警備がされていない古い地下道を選んだ。転移で降り立ったそこは魔除けの陣が効力を発揮しているらしく、魔物の姿は見当たらない。
「ここは……地下道ですね」
「その中心部だから、どこへ行くにも出やすい場所だな。表の人も少ない時間帯だし、動きやすい」
「確かにそうですね、覚えておきます! とりあえず……エルスタさんの家は、どっちなんですか?」
『むむ。地下に入ったことがないから、分からんのう……』
「あっ、地図ならありますよ!」
 持参した王都の地図を広げる。シアリィが剣に炎を宿すと、辺りは一気に明るくなった。
 地図を覗き込む二人。数秒後、半透明の指がある場所を指した。
『家があったのはこの〝第四地区〟じゃな。ワシらの家はもう、誰も住んでいないと思うが』
「と、なると……壊してしまったんでしょうか?」
『どうなったかは分からん。が、夫婦揃って魔物絡みで死んだ、いわくつきの家に住みたい物好きなんてそうおらんじゃろ』
 王都があるこの東大陸は栄えているため、西大陸から移住している者も年々増えている。特に人が集まっているフェグダならば、住居はいくらあっても困らないはずだ。
 ただ、どのように扱われるかも含めて、こちらが介入することではない。
『探しているものは、家にはない。ばあさんがいつも持ち歩いていたから、それだけは分かる』
「そういえば聞けてませんでしたけど、おばあさんの宝物って……?」
『鉱石がついた指輪じゃよ。オリクトの〝晶映石〟だったか……それが埋め込まれておった』
 晶映石――記憶の一部を映し出して、中に記録することができる特殊な鉱石。東大陸北部のオリクトで生産されているそれは、恋人への贈り物に選ぶ人も多いと聞いたことがある。
 王都の事件で現れた魔物は、その人が身に着けていた装飾品が角にはまっていたり、体に巻きつけられていたと聞く。それでその人なのだ、と判断していたようだ。だからどこかで生きているのではないか、という希望を捨てていなかった人も居たし、そうであってくれと願って調査もした。
 が、未だに、その時期に姿を消した人々の行方は掴めない。怪しい魔力が反応する場所もなく、手がかりが何もないのが現状だった。
「エルスタさん、貴方が亡くなった場所は?」
『まさにそこへ向かってもらおうと思っていた。ここじゃ』
 示されたのは、王都にある城壁の一角だった。入り口からは少し離れたところにある。
『ばあさんは、ここから街の明かりを眺めるのが好きだった。二ヶ月前、ばあさんが散歩中に行方不明になってから、ここに居ないかと何度も見に行った……』
「そこで、魔物になったおばあさんに会ったんですね」
『その通り。不思議じゃの、姿もまったく違うのに、一目でばあさんだと分かった。ワシが贈った特注の指輪もしておったし、間違いないと思ってのう。が、次の瞬間には、ワシに向かって飛びかかってきた』
 転移の魔力を集めつつ、彼の話に耳を傾ける。
『こんな老いぼれの体で、押さえられるはずがなかった。角で突き刺されそうになった時、たまたま見回りをしていた騎士が駆けつけたのじゃ。……が、その魔物がばあさんだと分かったワシは、騎士の突き出した槍がばあさんに当たる寸前、そこに割って入ってしまった』
「……それから先の記憶はない、そういうことですね」
 彼は静かに頷く。同時に、展開していた光が収束する。その騎士のことも気がかりだったが、今はこの件に集中することにした。

 景色が歪んだ直後、目の前には夜空と城下町が広がっていた。
『故郷のナーゼスを出ずにそのまま暮らしていれば、こんなことにはならなかったんじゃろう。かつてのワシに教えてやりたい……王都も悪くないが、故郷もよいぞ、とな』
「エルスタさん……」
『と、辛気臭い話をしてしまったが……どうやら、当たりだったようじゃ』
 夜の闇の中で街を見渡せる、城壁に組み込まれた高台。その隅に置かれたベンチの上で、太い角を持った狼に似た〝魔物〟が蹲っている。
『ばあさん、ばあさんじゃ。まだ、ここにおったか……』
 駆け寄る彼の背を見て、シアリィは何か言いたげだった。
 少し身を屈めると、彼女は震える声で言う。
「あのひと、もう……」
「そう、だな。……時間はなさそうだ」
 一度捕まるも鎖を千切ったのか、壊れた手錠が前足についている。呼吸が浅く、白い体毛の隙間からは痛々しい、赤いものが見えている。
 近寄られても威嚇すらしないそのひとは、贈られたという指輪を抱えて、静かに最期の時を待っているようにも感じ取れた。
『兄ちゃん、ワシは――』
 彼女のそばに座り込んだ彼は、何かを頼むような目でこちらを見る。
「ええ、分かっていました。……彼女と一緒に逝きたい、そういうことですよね」
「一緒に……? 師匠、それって」
「エルスタさんの心残りは、彼女の宝物を見つけられなかったことじゃない。大切な人と、こんな形で引き離されてしまったことなんだ」
 宝物を見つけたところで、冥界へ持っていくことはできない。地上にいる身内に渡す、ということも過去にはあったが、なんとなく、今回は異なっている予感がしていた。
 頼みを聞いた時、うっすらと可能性の一つとして心の内に浮上していたものだったが、そちらで合っていたようだ。
『転生なんぞしなくていい……姿が変わろうと、場所が冥界だろうと、ばあさんと一緒にいられれば、ワシはそれでいいのじゃ……頼む』
 共に消えることになっても、最期まで一緒に居られれば構わないと、彼は言う。
「師匠、何か方法があるんですか? 魔物になってしまった人は、冥界には行けないって……」
「二人に光魔法を使う。ただ……道が、完全に開かれる保証はない」
 本来、魔物の魂は浮遊大陸や冥界に立ち入ることができないが、光魔法を用いるなら特別に導くことを許されている。あの地の番人から「魔物を入れてんじゃないわよ!」と、勢いよく後頭部を殴られることはないのだ。
 ただ、浮遊大陸を経由しないため、冥界に続く道はひどく不安定になる。更に、転生をすることもできない。昏き地を訪れた一度きりの魂がどうなるのかは、こちらには知らされていなかった。
 あの番人いわく〝当分そのまま〟とのことだが。
「あ、あのっ。それならこのお花、お守りがわりに持って行ってください!」
 シアリィが取り出したのは、浮遊大陸にのみ咲く花の一つ――アスフォデルスだった。聖域の周辺に多く咲いているそれは、冥界にも咲いているものだと本には記されている。
「この子が、降りる準備をしている時に言ってきたんです。もし誰かの魂を導くことになるなら私を渡しなさい、連れて行ってあげるわ、って……」
「花から君に声をかけてきたのか?」
「信じられないかもしれないんですけど、そうなんです」
「疑ったりしないよ。君は元々花なんだ、声が聞こえたっておかしくはない」
 シアリィには、植物と対話する能力はなかったはずだ。人間になったから声が聞こえなくなったのかな、と、彼女が同じ白百合を前に、落ち込んでいたのを覚えている。
「そのことは、後で調べよう。――エルスタさん、しっかりと彼女を握っていてください。シアリィは転移後、道が開いたら、彼に花を手渡してほしい」
「はい、任せてください!」
 夜の暗さの中では、この魔法は目立ちすぎる。周囲を昼間のような光で包むこれは、遠くから見たら何事かと思われるだろう。
 四人まとめて地下道へ飛び、広げた光に繋げるように魔法陣を展開する。

>光よ、彼らを導く標となれレイ・エクレ―ツェ

 白と金色の光が二人を覆い、彼方へと白い道を伸ばしていった。目を閉じていても、その光景は流れ込むように伝わってくる。
「エルスタさん。貴方の大事な人は、すぐ後ろにいます」
 ロッドを下ろさずに語りかける。
 眩い光の中で、二人がこちらに背を向けているような気がした。
『おお、本当じゃ……ばあさんの手が握れる……!』
「ですが、次元の境界を越え、冥界に辿り着くまでは、決して振り返らないでください。二人が越えるまで、です。長い、長い道のりとなりますが……絶対に」
『エート……つまり、振り返ってしまったら……?』
「彼女は魔物の魂と見なされ、共に逝くことはできません。貴方は転生もできず、永遠に一人きりです」
『それは嫌じゃのう……。ばあさん、ワシの手を離したらいかんぞ』
 隣にいたシアリィが、前へと踏み出す。アスフォデルスを渡してくれたようだ。
「お気をつけて。大丈夫です、きっと辿り着けますから!」
『嬢ちゃんは、シアリィちゃん、じゃったな。兄ちゃん、最後に名前だけ教えてくれんか』
「名乗ってませんでしたね。エーヴィ、といいます」
 そう返すと、なぜか数秒間が空く。
 微妙に嫌な予感がしたが、気のせいだと思いたい。
『……エビ……変わった名前じゃのう』
「……海産物じゃないです」
『冗談じゃよ、冗談』
 顔は見えなかったが、笑っているのだろう。きっと、彼女も一緒に。
 気配が少しづつ遠くなっていき、光も徐々に収束していく。

『エーヴィ、シアリィちゃん。ワシのわがままに付き合わせてすまんのう……感謝しておるぞ』

 一歩、また一歩と、二人は光の中へと歩んで行く。それが長くも、短くも感じられた。
 消えゆくその姿は、魔法を発動している自分には見えない。横にいるシアリィが見届けてくれているから、寂しく感じることはなかった。
「……師匠。行ってしまいましたね」
 再び視界が開けた時、そこには見慣れた地下道があるだけだった。つい先ほどまでそこにいた陽気な老人の気配は、どこにも感じられない。
 どうか無事で、と、口には出さずに祈っておいた。
「あれ? 指輪が落ちてます」
「エルスタさんが言っていた、宝物だな。一旦、こちらで保管しておこう」
 虹色の鉱石と装飾が美しい指輪を、シアリィが拾い上げる。受け取った時、鉱石の中に一瞬星空が見えた気がしたが、見なかったことにしておいた。彼らが遠い日に見たであろう大切な景色を、これを通して見るべきなのは自分たちではないからだ。
「……」
 光の道が消えた場所を見て、シアリィは何を思っているのか。
 その肩を軽く叩いて、陣に入るように促す。
「戻って少し休もう。あの花のことも気になるからな」
「そう、ですね。お二人なら、きっと大丈夫です」
 廻る魂。冥界。魔物を吸い込む深淵の地。
 何千年も前に心に打ち込んだ楔が、もう感じ取れない痛みを与えてくる。が、緩く頭を振って、転移の魔法を唱えた。

 どういう形であれ――歩んで行くものを見送るのは、立ち止まっている者のさだめなのだ。