1-4 壊された枷・前

 低く唸るオーマ。舞う火の粉は昏い力を帯びており、火炎を直に受けることだけは何としても避けたかった。
 先ほどの炎によって崩れ落ちた壁に水を纏わせ、大きめの盾の代わりとして補強する。その後ろには人が一人隠れられるくらいの隙間があった。
「シアリィは防御魔法の準備をして待機を。なるべくこの後ろからは出ないように」
「は、はいっ」
 手元に魔力を集めつつ、シアリィが身を隠す。彼女がここから退避することにならないよう、立ち回らなければいけない。
 空気が微かに震える中、エーヴィは改めてオーマを見た。真紅の体表の背には、白銀の楔を囲う形で、光を弾く奇妙な色を纏った結晶がこびりついている。
「オーマの楔の周りに妙な結晶があります。あれを壊せば、正気に戻ってくれるはずです」
「あのヘンな紫のヤツか。そうと決まれば、俺がやることは一つだな! 囮なら――」
「いえ、逆です」
 使い込まれた両手剣を携え、前へ進み出ようとしたディスタを引き止める。
「ん? 逆?」
「オレが囮になります。ディスタさんは極力音を立てないように、あの右の燭台横に登ってください」
 目線を向けず、指すこともせず、オーマを見たままエーヴィはディスタへそう頼む。
 華美なものを好まないオーマのいる広間は、さほど装飾は多くない。すぐに場所を理解したのか、彼はオーマを見据えるふりをして、一瞬だけそちらへ視線を向けた。
「おお、あそこか。結構高いなぁ……が、オジサンの鍛えてるところ見せてやるぜ。任せな」
「お願いします。登ったあとは、オレが合図するまで待っていてくれれば」
 数倍は上回る体躯の相手を引きつけつつ、広間の中を逃げ回るのは容易くはない。
 ただ、エーヴィにはオーマが真っ直ぐに自分を狙いに来るという確信があった。
「こっちだ! ――閉ざせシェーデ!」
 振り下ろされた爪を軽く跳んで避け、長剣に纏わせた闇の魔力をすれ違いざまに瞳めがけて当てる。
 その瞬間、ほんの僅かに、奥底から引き出した異端なものを混ぜ込んだ。
『どうしようか……あんたの魔力、ちょっと変質しちゃってるみたいでさ』
『魔力が変質してる?』
『あの子に突っ込まれたものが、あんたの中で混じっちゃってるんだよ。聖と淵、両方使えるって言ってもこれじゃ……うーん……。体調がおかしかったら、絶対すぐに言って。いいね?』
 遠い昔に訪れた、瘴気の谷と封印の地での出来事を経て、邪竜だった彼らと〝同質のもの〟もエーヴィは有している。オーマがそれと引き合うであろうことは分かっていた。
 破壊神と同調するものは、彼の者の目覚めが近づくにつれて徐々に強まりつつある。少し表へ出すだけでも、この距離ならば嗅ぎつけられるはずだ、と判断したのだ。
「グルルル……ッ!」
 長剣で直に傷つけることはなく、目を掠めた実体のない刃が右目から光を奪い去った。
 すると、突然視界を奪われたオーマは、静かに移動するディスタには目もくれずにエーヴィに襲いかかる。鋭利さと丈夫さを兼ね備えた爪が再び振り下ろされ、エーヴィはどうにか長剣でそれを受け止めた。一瞬でも気を抜けば、爪に引き裂かれながら押し潰されるだろう。
「っ! さすがに、真正面からの力比べは厳しいな……」
 ひどく淀んだ、オーマの瞳が眼前に迫る。ナーゼス村の人々を見守っていた、優しい眼差しは裏側へ追いやられていた。
「わ、わたし援護しますっ!」
「オレは大丈夫だ、そこから動かないでくれ!」
 一度尾を振れば、五セート以内の樹木が薙ぎ倒される。咆哮を上げれば、森の反対の湖さえも震わせる。
 伝承や物語の中でそのように表現される、邪竜や守護竜が備えている力の強大さは概ね合っていた。そこに竜ゆえの大きさも加わり、エーヴィであっても、力と力の純粋な押し合いでは勝つことができない。
 オーマの口元から炎がこぼれる。脆くなりつつある床に小さく亀裂が走る。
 ――君が間違っていた、ということにはさせたくない。
 人から離れて守るという選択も、人のそばで守るという選択も、誤りではない。そう告げた以上、証明し続ける必要がある。
 エーヴィは押し切られる寸前に身をオーマの下へ滑り込ませ、抜け出た直後、鱗に覆われた竜の腕を強く蹴った。
「傷つけたくない……とは言っていられないか。すまない、オーマ――あとで必ず治す」
 竜の強固な皮膚を人間の得物で破ることは難しい。それでも、弱点となる部分はいくつか存在する。その一つが、邪竜だった頃に一度深い傷を負ったと言われている、翼の付け根だった。
 裂傷を塞いだ跡が残る場所へ、オーマの体から振り落とされないように耐えつつ、剣を突き刺す。
裂けヴィン!」
「グルオオオオオッ!!」
 銀を吸い込んだ傷跡から、風の刃を流し込む。それがもたらす痛みによるものなのか、ほんの数秒だけオーマの瞳に光が戻った。
 が、その反動か、真紅の巨体を大きく揺らして暴れ始める。エーヴィは咄嗟に剣を掴むが、長くは保ちそうになかった。
「正気に戻れ、オーマ……――ッ!」
 オーマの長い尾が迫るも、剣を引き抜くのは間に合わない。一度ここへ残して離れるしかない、と思った時にはもう遅く、強い衝撃が背に走った瞬間には、宙へと投げ出されていた。
 なんとか受け身を取って叩きつけられずに済んだものの、あのような攻撃を何度も受ければ、守り人といえども命はない。
 短く息を吐いて、ロッドを手に取る。ともあれ、翼を封じることには成功した――それができれば、最初の賭けはあと一段階だ。
「エーヴィ、俺はここからどうすりゃ――」
 広間を照らす燭台のそばで待機しているディスタは、その場で落ちないよう気をつけながら様子をうかがっている。
 オーマを蝕むものは、時間が経つにつれて範囲を広げている。一握りほど残されている自我がすべて飲み込まれてしまえば、手にかける以外の手段が失われてしまう可能性があった。そうなる前に決着をつけなければならない。
 ディスタへ視線を向ける。出番だと分かったのか、彼は背負っていた両手剣へ手を伸ばした。
 ナーゼスに生きる人々に勇気を与えた、とされている一冊の物語。その中から一つ、言葉を抜き出す。
「〝飛べ、勇敢なる戦士よ! 道は私が作り出すヴィシュトル!〟」
 それは物語の中盤、集落を襲う邪竜との戦いの中で、守り人が共闘していた人間の戦士へ向けたものだった。
 お伽噺を知っていれば、記憶に残るであろう場面。目を丸くしたディスタは、目の前に作り出された風の渦を見た。
「! ……へへっ、そういうことか。任せな!」
 両手剣を携え、壁を蹴った彼はそのまま、広間の上空から渦の中へと身を投じた。
 魔力が混じった旋風が刃に絡み、翠の切っ先が向けられた先には、オーマを侵蝕する結晶がある。
「ちっとばかし我慢してくれよ――うらぁっ!」
 楔は強固な加護が施されており、破壊神でも簡単には壊せない。そこにこびりつく未知の結晶が壊せるかどうかは、やってみなければ分からない。そう考えての頼みだったが、彼の剣の腕前は想像以上だった。
 結晶と刃が衝突する。硝子が砕ける際のものに近い音が鳴り響き、破壊に伴った衝撃波がディスタを吹き飛ばす。
「シアリィ、ディスタさんを!」
「はい! ――彼を守り給えプロテ・レーゲ!」
 壁から身を乗り出したシアリィが、手の中で束ねていた守りの魔力をディスタへ向けて放つ。白が混じった黄の光が彼を覆い、重力に従って地へ落ちる体を支えた。
 ディスタが着地すると同時に、オーマの巨体が崩れ落ちる。
「こいつは……やった、と思っていいのか?」
 すぐに横へ駆け戻ってきたディスタは、オーマの様子をうかがう。シアリィも少し後ろから、竜のほうを見ていた。
 意識を集中させて、エーヴィはオーマの中を巡っている魔力を探る。直に触れないと正確な判別はできないが、邪なものは先ほどより減らされているようだった。
「二つの魔力がせめぎ合っている状態です。楔のところを確認しないといけないな……一度、氷で動きを止めておきます」
「急に暴れ出したら危ねーからな……」
「あっ、ディスタさん。ちょっとだけ怪我しているみたいです、治しますね」
「ん? あー、瓦礫で切っちまったか。悪ぃな、お嬢ちゃん」
 飛ぶ力を一時的に奪った以上、目を覚まして暴れ始めたとしても、オーマが再び上空へ行ってしまうことはない。それでも守護竜であるオーマに対して、完全に正気に戻るまで油断はできなかった。
 後片付けのことを踏まえて、ひとまず氷で止めておこう――エーヴィがそう考え、魔力に指示を出しかけた、その時。
「……!?」
 迸る魔力に異常を感じて、放たれかけたものを引き戻そうとするも、それは制御を外れた魔物のごとく、大気中の水分を吸収し始めた。
 体内を巡る何かがエーヴィの意思を無視して、魔力の濃度を引き上げる。上級魔法に必要な量を超過しているというのに、形として放つことを許さない。
 青い光が強まっていく。この感覚には覚えがあった。
「なんだ、この流れは……っ、何かが勝手に……!」
 指示していない力が集う。膨張する。決壊した川のように、もう押し戻すことはできそうにない。
 何が起こっているのか、と状況を理解しようとするよりも先に、エーヴィはそれが〝危険〟だということを把握した。
 今までにこのような経験は一度もない――が、ここで焦って手放せば、近くにいる二人を巻き込んでしまうかもしれない。
「お、おい、エーヴィ?」
「師匠、一体どうし――」
 不安そうに振り返ったディスタとシアリィ。溢れるものが戻せないのならば、このままオーマへぶつけるしかなさそうだ。遺跡へ当てて崩落させてしまったら、脱出ができなくなる可能性もある。
 どうにか耐えてくれ、と願いつつ、エーヴィは凍結し始めた得物をオーマへ向けた。
「逃げろっ、二人とも! 今すぐ下がってくれ!」
 直後――古代の言葉を発する間もなく、内包しているすべての力が持っていかれるのではないか、と思えるほどの魔力が冷気と混じって一直線に駆ける。
「うおおっ!?」
「きゃっ!」
 炸裂した青い閃光、オーマを一気に包み込む氷塊。それは劣化が進んでいた遺跡の天井を破壊し、高く伸びた冷気は水と共に瓦礫をまとめて押しとどめる。寸前で回避したシアリィとディスタは、オーマの少し前に着地していた。
 それを確認した直後、全身から一気に力が抜け、エーヴィはその場に膝をつく。
「師匠!」
「おい、大丈夫か? 顔色悪いぞ、何があった」
 黒が滲む視界。駆け寄ってきた二人の顔が鮮明になるまでに数秒を要した。
 どちらも怪我はしていないことに安堵しつつ、点滅を繰り返すロッドを見下ろす。
『おー、派手にやったね。まあ、コレ何度でも再生するから、思いっきり壊しちゃっていいよ』
『……体が重い。吐きそうだ……君たちは、いつもこんな状態で魔法を使ってるのか……?』
『まさか。最初だけだよ、おれもそうだったしさ。あ、吐くならあそこでね』
『が、我慢できるって』
 初めて上級魔法を放った日のことを思い出す。適合する魔力の調整を誤り、想定していたよりも大きな焔が的を焼き払ったが、対価と言わんばかりに瞬時に根こそぎ体力が奪われた。揺れ続ける視界がもたらす気分の悪さに耐え切れず、聖域の床に身を投げ出したのを、今でもはっきりと思い出せる。
 ただ、あの時は不慣れゆえの暴発だった。今とは状況が違いすぎる。
「上位の魔法の制御が、できなくなっている……二人に怪我をさせることにならなくて、よかった」
「せ、制御が……?」
「回路が、思っていた以上に乱されているみたいだ。ナーゼスで目覚める前に何が……」
 思い出せない時間の中で、何かがあったことは確実だった。が、それへ無理矢理手を伸ばそうとすると、激しい頭痛に阻まれる。
 そこで〝何者か〟に付与された呪いをどうにかしないと、真相へは辿り着けそうにない。
「む、無理に思い出そうとしたらダメですよ! 氷を食べた時より頭痛かったんですから!」
「なんだか大変なことになってるみたいだが……そいつができなくなったら、どうなるんだ?」
「……仮の話ですが。湖が消し飛んだり、街が灰になったり、味方まで巻き込む可能性もあります。暴発すれば、今のようにオレの制御を受け付けなくなるので」
 創世神によって造られた使徒――守り人となっても、有する力の大きさは変わらない。
 もし街中で魔力が制御を外れてしまっていたら、と想像しかけるも、エーヴィは頭を振る。絶対に起こしてはならないことだ。
「師匠の魔力なら、そうなっちゃいますよね……」
「ここで暴発したのは不幸中の幸い、ってヤツか。俺もお嬢ちゃんも怪我はしてねーからな」
 オーマへ放とうとしていたのは上級魔法で、交戦する前の中級魔法には妙な干渉がなかった。使う場面はそう多くなくとも、万が一のことを考えて、一時的に封じておくべきなのだろう。
「……しばらく閉じておこう」
 目の前で灰色の閃光が瞬く。創魔法の応用となる、言葉のない封印魔法を自身へかける。
 半透明の小さな魔法陣は、まだ冷気を帯びているロッドへと消えていった。
「今、何を?」
「自分の一部に封印をかけた。中級魔法までなら制御できるが……それ以上は、今は危険すぎる。勝手に発動することがないようにしておかないと」
「ま、賢明な判断ってとこか……」
「師匠、大丈夫ですっ。そのぶん、わたしも頑張りますから!」
「頼もしいな。ありがとう」
 にこにこと笑うシアリィ。守ってやりたい存在であるのと同時に、彼女はこういった際に頼りになる存在でもあった。剣を振ることすら覚束なかった昔のことを思うと、強くなったと思わざるを得ない。
 彼女が剣と魔法を学びたいと思った理由の一つが〝守り人の補佐〟だ。ここで強がって、その手を借りないという選択肢はない。
「グルル……ツメタイ……」
 その時、微かにぱき、と氷が割れる音がして、エーヴィは沈黙を保っていたオーマを見る。
 全身を氷で覆われた竜の声。やや低めの唸り声のあと、聞こえてきたのは間違いなく人と共通する言葉だった。
「……ちょっと喋ったな? オーマ、もしかしてもう戻ったのか?」
「もう魔力は安定していますね。楔を確認してから溶かします」
 正常でない魔力が過剰に入り混じった氷は、真紅の身体をがっちりと覆って固定させている。ディスタが砕いた楔周辺の結晶は、薄い紫の破片が残されていた。
 刺さったままの長剣をそっと引き抜き、痛々しい傷口に治癒の魔法をかけながら、ごつごつとした皮膚に触れて魔力を確認する。
 内側に渦巻いていた奇妙な反応は消え去り、馴染みのあるあたたかなものだけがあった。
「えーと。ドラゴンさん、大丈夫ですか?」
「ケホッ……失礼な、我はドラゴンさんなどという可愛い名ではない」
 炎の魔法で少しづつ溶かしていくと、オーマが軽く咳き込む。いつも通りの彼女がそこにいた。
「その呼び方自体は可愛いって思ってるんですね……」
「オーマ。とりあえず落ち着いてくれたみたいで一安心だぜ」
「そなたは……ナーゼスの民か」
 氷をあちこちにくっ付けたまま、オーマがゆっくりと体を起こす。
 焼け焦げ、一部の天井が崩れかけた広間を見回そうとして――その瞳は、真っ直ぐにエーヴィをとらえた。
「……む? 誰かと思えば、守り人ではないか。このような場所で何をしているのだ?」
「久しいな、オーマ。……オレたちがここにいるのは色々事情があるんだが、いくつか質問に答えてほしい」
 その反応を見る限り、何があったか覚えていないのだろう。それならば、少しでも覚えていることを聞き出して、状況を整理しなければならなかった。
 長くなりすぎないよう、記憶の断片を改めて整えながら、簡潔にオーマへ事情を伝える。
 人間を愛する彼女に本当のことを伝えるべきか一瞬迷ったが、伏せたところで避けては通れない事実だ。ナーゼスの民とのこともある以上、隠してしまっては意味がない。