終わりを語らぬエンドロール

 一千年。普通に生きていれば想像もつかないほどの長い、長い刻。それは孤独な旅であり、温もりのない眠り。
 封印の地を訪れた者たちの声が、向けられる想いが、さいごに交わした〝弟〟との言葉が、そこに静かに寄り添っている。数えきれないほどの月日が巡り、数えきれないほどの季節が過ぎた。
 ただ、夜に眠れば、朝はやがて訪れる。刹那の微睡みのようでもあったと、旅の終着点で〝世界〟を見て思う。
 過ぎ去れば、一瞬のことでもあった。その事実が、ほんの少しだけ寂しくもある。その閃光のごとき刹那の中で、いったいどれだけの歴史が動いたのだろう。
 今の世界に、己を知るものは誰一人として存在していない。かつて共に駆け、名を継いだ〝友〟さえも。
「俺の銘は〝アロンダイト〟――だが、こう呼ばれていた」
 呼ぶ声は、知っているひとのものではない。
 それでも、長い眠りから目覚める理由にはなる。十分すぎるほどだ。
「……ランスロット、と」
 救いを求める声に応じて、降り立ったログレスの地。遠い時間の中で抱いていた名を告げ、使命を持つひとへと静かに語りかける。
 大切な者が生き抜いた世界を、思い出と意思を羅針として駆けた者がいた世界を傷つけさせないために、アロンダイト――〝ランスロット〟は、再び剣を手に取った。

 ◆

 継承者のキラーズオーセンティックとして封となっていたランスロットが目覚めたのは、あの頃に言われていた通り、おおよそ千年後だった。
 西暦の桁が増えるほどの時間が経っていれば、世界のあらゆるものが変化している。国家も、文明も、何もかも。自身を剣として引き抜いた者にランスロットが情勢を問うと、あのあとログレスはブリテンの半分を治めており、今は東のほうへも航海を進めているという。
 目覚めたのちに案内された拠点で、ランスロットは壁に貼り出された資料に目を通していた。各地で起こる奇妙な現象や、勃発した国家間の戦いの記録に、地形は変わっていなくとも、そこに乗せられた情報は変わっている地図。どうしても気にかけてしまうのは、自分が知るものとは書き換わっている箇所も多い地図だった。
 名前が変わっているところもあれば、変わっていないところもあった。ささやかで、褪せさせまいと繋ぎ止めてきた小さな思い出の数々が詰まった場所は、記憶の中と若干異なっている。近くにあった街道がなくなり、逆に、街道があったところに森が広がっているようだった。
「そこに行きたいのか?」
 羊皮紙に描かれたそれをランスロットがなんとなく眺めていると、横からひょっこりと、今代の〝継承者〟の少年が覗き込んでくる。
「?」
「地図。ずっと同じところを見てるからさ」
 不思議そうな表情と共に向けられた言葉に、そんなに長く見ていたのかと、内心で苦笑いを浮かべた。
 気にならないと言えば、それは嘘になる。
「思い入れのある場所なんだ?」
「…………ああ」
「行ったことないけど、そこ、綺麗な湖があるんだって。かなり昔からあるみたいで――」
 少年が言葉を切る。何かを思いついたのか、ぱん、と手を打ってくるりと背を向けた。
「……そうだなあ。よし!」
 自分の机の引き出しを開け、少年が手のひらに乗るより少し大きいくらいの皮袋を取り出す。そしてそれを、そのままランスロットへ真っ直ぐに差し出してきた。
 何なのか分からないまま受け取ると、ちゃり、という音がする。中にはお金が入っているらしい。
「これは?」
「ちょっとした旅費ってやつ? そこならそんなに遠くないし、二日あれば往復できると思う。あ、余ったらおやつとか買っていいよ」
 言われたことはすぐ理解したものの、今、その提案をする意図が分からない。
 ランスロットは皮袋を手に乗せたまま、それを少年に問うべく口を開く。
「どういうことだ? 遠征の必要があるなら、お前も来たほうがいいだろう」
「そーゆーことじゃないんだな、これが」
「そーゆーことじゃないのか……」
 そう言った直後、遠い日の記憶のひとつに、火が灯る。ああ、これに近いやり取りをノワールとしたことがあったなと、あたたかいものが流れていく感覚が確かにあった。
 掠れも褪せもせずに大切な時間の記憶が残っていることに、安堵する。帰れない日々は痛みでもあり、そこに積み重なった思い出は今を戦う力となるからだ。
「キミのことをほとんど知らないけどさ、見ていたら少しは分かるよ。そこに、大事な思い出があるんだろうなって」
「……」
「千年も経てば、変わっているところが多いだろうけど……変わっていないものもある。それが分かるのはキミだけだ」
 窓辺に立った少年の表情は、ランスロットからは見えなかった。反射している硝子も、差し込む陽光と手を組んで、上手くそれを隠している。
「そこに俺が一緒に行くのは違うだろ? 誰だって、ひとりになりたい時があるかなーって」
 振り返って無邪気に笑った少年に、ノワールの影は被るようで被らない。同じ継承者であっても違うひとなのだ。
 それは当然のことだったが、改めて、ランスロットはそう感じていた。
「気遣い、感謝する」
「ついでに様子を見てきてくれるとありがたいな、それは建前でいいから。あんまり調査ができていない地域なんだ」
 少年の言う建前を受け入れて、内に本音を携えたまま、ランスロットは拠点を出た。
 なだらかな丘陵地帯に築かれている拠点からは、地平の彼方まで一望することができる。昇り始めた太陽が照らし出すログレスの大地は、あの頃と変わらないまま、豊かな自然と共にあった。
 一度息を吸い、吐く。少しだけ冷たさを含んだ空気が、自身に〝生きている〟ことを伝えてきた。

 ◆

 馬車に揺られ、人々が行き交う町を通り抜け、人けのない街道を歩く。街が遠く、小さくなる頃には、周囲を満たすものは足音と風の音だけだった。もう少し行けば、深い緑に覆われた森林に辿り着く。
 高い空とそこに浮かぶ雲を、こんなにじっくりと眺めたことがあっただろうか。
 ランスロットは街道沿いの木に背を預けて、懐から先ほど買った間食を取り出す。
 ――目覚めてから、食事がとても美味しいんです。スイーツも……。
 遠い昔、ノワールを導いた最初の武器ファースト・キラーズが、嬉しそうにそう言っていたのだという話を、彼から聞いたことがあった。きっとこういうことだったのかもしれないと、ほどよい甘さの菓子を咀嚼しながら思う。保存食を探して立ち寄った城下町の露店でなんとなく手に取った焼き菓子だったが、店員の勧めに従ってみたのは正しかったらしい。
『あっ、お兄さん。そのお菓子、ちょっと崩れやすいので気をつけてくださいね!』
 そっと袋を手渡しながら、そのように言っていた店員。こぼしてしまう客が多いがゆえの言葉なのだろうか。ふと思い出して、ランスロットは自分の服を見下ろしたが、菓子の欠片は一つも落ちていない。
『ランスロット、今日こそ僕が勝つ!』
『待った、ガラハッド。そんなに強く握ったら、勝負の前に負けるんじゃないか……?』
『こ、これは教わったコツだ! 先にこうして、ソースを上手く減らすのがいいと聞いたんだ』
『誰から学んだんだ、それ?』
『それは……』
『力加減が難しいよなあ』
『アーサー!?』
 ログレスマーケットの露店でのやり取りも、遠くともしっかりと思い出として残っている。この菓子があの頃にあったなら、同じように妙な勝負を持ちかけられていたかもしれないと、見ることは叶わない光景を脳裏に思い浮かべた。
 中身がなくなった包み紙を畳んで、懐へ戻す。
 視界を横切る、彼方に橙が滲み始めた青を駆けてゆく鳥を見送ったあと、ランスロットはまた歩き出した。

 ランスロットが森に踏み入ったときには、日が暮れかけていた。近場に村と呼べる場所はなく、人が暮らしているところも見当たらない。適当に野宿するつもりで探索を始めたが、目当ての場所まではそう時間はかからなかった。
「透明さは、あの頃のままか。濁っていなくてよかった」
 故郷ともいえる地。地図上では名前を変えていた、大切な場所。澄んだ湖は記憶より少々小さくなっているものの、満たしている水の透明度は変わっていないように思える。
 湖畔に近寄ると、小魚がゆっくりと泳いでいた。幼い頃、素手で捕まえた数をノワールと競った日もあったなと、あたたかな追憶がよみがえる。ディナタンは木のそばでどちらも応援していて、師であるブルーノはそっと見守ってくれていた。それらはまだ、思い返すことができるくらいの色彩を帯びたままだ。
 開けたこの湖を見渡せるところにある木のそばに座り、ランスロットは湖を見た。そこに映る、太陽が少しづつ去っていく空には、薄く星々が瞬き始めている。
『……――忘れさせるために、選ぶのか……?』
 今でも昨日のことのように思い出せる、記憶の欠片のその一つ。おおよそ千年前、ノワールが継承者として大きな選択をすることとなった、ライエンスや魔女たちとの戦い。聖杯の手がかりを求めて、ここをノワールと共に訪れたギネヴィア、ディナタン、そして――自分ランスロットが、重い使命を背負う彼へ心という手を差し出したあの刻は、どれだけ経っても忘れることはないのだろう。
 ノワールがゲシュタルト・シフトGSへと至る際の選択は戦いの末、相手を世界から消してしまう。通常のキラーズであれば、力を使い果たさなければ人として生涯を終えることも可能だが、継承者であるノワールに選ばれたキラーズは〝存在消失〟同然の未来を避けることができない。楽園を閉じるための聖域化として剣が必須である以上、ノワールが手を取れば、一千年をたった一人で過ごす宿命から逃れる術はないからだ。
 その時点では聖域化のことを明確には知らなかったとはいえ、心根が優しいノワールにとって、あまりにも重すぎる選択だった。誰を選んでも置いていくことになり、置いていかれることになる。それはノワールだけでなく、選ばれる側にも等しく降りかかるものだ。
『お前の武器を、見つけてくれ』
 七月の終わり、ノワールにGSの兆候が現れた日。最初から抱いていた己の〝願い〟をようやく自覚して、ノワールに本当の想いを教えたときに、彼が誰の手を取っても共に戦い抜くことを、ランスロットは改めて決意した。
 だからこそ、ノワールが剣として選んでくれたことが嬉しかったし、それもさいごに伝えることができた。悔いはない人生だったと、振り返って思う。ひとかけら残った未練も、いずれ満たされるときが来るはずだ。
『俺はただ……ただ、お前に会いたかったんだ』
 恰好つけずに告げたかつての願いが、ランスロットの中で反響する。
 記憶を辿る旅をしているあいだに日は暮れ、いつの間にか湖には星がいくつも反射していた。周囲には魔物の気配もなく、湖面を撫でる風が、星の降る音と入り混じって穏やかな空気を作り出している。
 ここで少し休んだら、野宿場所でも確保しに行こうか――そうランスロットが思った、そのときだった。
「ランスロット……?」
「!」
 ずいぶんと前に聞いたことのある声が、静寂に突然割って入る。顔を見なくとも誰のものか分かる声の主がいるほうへ、振り向かずにはいられなかった。そんなはずは、という感情は、その先にある姿を見て霧散する。
 子どもにとっては背の高い草むらを掻き分けて、そこから身を乗り出しているのは、紛れもなく。
「じゃ、ない。でも似てるな……おまえ、だれ? なにしてるの、こんなところで」
「……ノワー、ル」
 こういうときは、頬をつねるべきだろうか。どこかでうっかり眠り込んで、夢でも見ているのではないか。或いは、何者かによる幻術の類か。
 ランスロットがあらゆる可能性を脳裏に並べ立てているあいだに、現れた幼い少年――ノワールは前へ回り込み、顔を覗き込んできた。
「えーっと……あのさ、大丈夫か? どこかいたいのか?」
「大丈夫、だ。痛くない」
「それならいいんだけどさ」
 知っているひとに似ているとはいえ、見知らぬ人間の心配をするノワール。目の前の存在が幻なのか何なのかの判別はつかなかったが、そういう優しいところは、思い出の中にいる彼そのままだ。
 ランスロットが木に立てかけていた剣をちらっと見たあと、ノワールはその場に屈む。どうやら、好奇心のほうが打ち勝っているらしい。
「おまえは、旅人なの?」
「……。そうだな、そう言えるだろう」
「へぇ……。どこからきたんだ?」
「すごく遠いところだ」
「それじゃわかんないよ」
 むすっと頬を膨らませて、ノワールは木剣を抱え直す。こっそり家を抜けてきて、一人で鍛錬するつもりだったのだろうか。
「いずれ分かるさ。俺が誰なのか、ということも」
「いずれっていつ? 俺が何歳になったら?」
「それは誰も知らない。知っているとしたら、神さまくらいだろうな」
「むー……」
 答えにくいことばかりな質問に、曖昧な返答。積み重なってしまったそれを受けて、ノワールはひどく不満そうだ。子どもを宥めるときによくやることに、頼るしかなさそうだった。
 内側に桃色を隠した、その小さな頭に軽く触れようとして――ふと過ったことがあり、手を止める。

 ――なでてやったことがなかったな。

「……」
 ランスロットは伸ばしかけた手を戻す。それは自分がしてやることではないということを、思い出したからだ。
 代わりに小さい肩を軽く叩いて、顔を上げたノワールと目線を合わせた。
「…………そうしたら、一つだけ教えておく」
 このノワールが幻だとしても。これが、夢の中の邂逅だとしても。宝石のように自身の中に残り続けているものを、そっと置いていくことは許されるのだろうか。
「何を教えてくれるの?」
「俺が長い長い旅の中で学んだ、大切なことだ」
 こてんと首を傾げたノワール。純粋さを秘めた瞳には、これから色々なものを映すことになる。ここで自分が言葉など残さなくとも、ノワールならば心配はない。そもそも自分が見ているだけの幻影であったとしたら、何かを告げても意味はないかもしれない。
 そう分かっていても、内側に浮き上がった言葉を、押し戻すことはできなかった。
「絆を大切にするんだ。お前と誰かを繋ぐものは、いつかきっと、剣を振るうための力に変わる」
「きずな」
「みんなと作った思い出が、背を押してくれるんだ。それはやがて、お前の魂を導く羅針になる。……それだけ覚えておいてくれ」
 残し、遺すための戦い。それを越え、一度幕を下ろした物語の続きエンドロールの先に踏み出した身で、語ることができるのはそれくらいだった。あとは、このノワールのそばにいるであろう〝ランスロット〟の役目だ。
 少し長くなってしまった、とランスロットがノワールを改めて見ると、腕組みをして何かを考えている様子だった。
「……つまり……一分一秒を大事に生きろ! 作ったものは壊さないように! ってこと?」
「それは、お前の父親の言葉か?」
 なんとなくそんな予感がして問うと、ノワールは得意げに笑う。
「そう! お前が言ったのは、そーゆーこと?」
「……ふふ、そうだな。〝そーゆーこと〟だ」
 まだ話していたいと思えるような時間が流れている。敵意をもってこの状況を作り出している者がいるとしたら、何としてでも仕留めなければ、と感じてしまうほどだ。
 だとしても、ずっと留まっている選択肢はない。ランスロットは立ち上がって、剣を手に取る。
 それを携えると、ノワールは数歩だけ歩み寄ってきた。
「行っちゃうの?」
「ここを少し見られればよかったからな。俺には、戻らなければいけないところがあるんだ」
 一千年経とうとも、自分の中にはまだ、輝く思い出の欠片がいくつも残っている。そのように再認識できれば、それで十分だった。時と共に失われることなく、今を戦うための力として在り続けているのだと。
「……そうだ、もう一つだけ言い忘れていた」
「?」
「知らないひとには、ついていかないように」
「わ、わかってるよ! っていうか、おまえがそれを言うの!?」
「不審者扱いとは心外だな」
「そこまでは言ってない!」
 顔を合わせて、ノワールとランスロットは思わず、互いに笑った。これがただの、優しい幻影であってほしいと願うばかりだ。
 夜は進む。星は流れていく。途切れた会話を包む静けさは、中に草木のささやきを含んで駆けていく。
「ノワール、俺は――」
 木々の合間から見える、夜空を飾る光を一度見て、視線を下げる。
 が、そこにはもう誰もおらず、見上げて来ていた小さな姿はどこにもない。最初から誰もいなかったと語るように、湖畔を照らす月はランスロット一人の影を作っている。
「…………」
 そこにノワールがいたことを示すものはなにもない。ランスロットの心の中に書き込まれたものだけが、その証明だった。
「ノワール」
 届くはずのない言葉を紡ぎ、いないものへと語りかける。
「今度は俺が戦う番だ。お前の思い出と共に」
 英雄として語り継がれることはなかったというノワールランスロットは、どこに眠っているのか分からなかった。それならば、何かを告げるならここが最適だとランスロットは思った。
 ――この剣を持って、お前が描いた先、続きの中で戦う。お前が歩いた騎士道を、繋いでいく。
 相手のいない誓いは決して空っぽなものではなく、虚しいものでもない。歩むための後押しとなるのなら、並んだ言葉は強い意志となる。

 遠くで煌めいた記憶を持って、ランスロットは湖に背を向け歩き出した。