Chapter:00

Every new beginning comes from some other beginning’s end.

 俺は五回、世界を巻き戻した――巻き戻してしまった。

 その事をふとした瞬間に思い出しては、悔いる時もあった。夢であればよかったのにと、考えてしまった時もだ。
 けれど〝今〟は、それらがあったからこそ存在している。受け止めた上で、前へと進むしかないのだ。それに、その中に偽りの時間など存在しないのだから。

 机に置きっぱなしの懐中時計は、真ん中に穴が空いている。秒針も何も動かないそれは時折、蒼の光を漂わせていた。幻想的な光景だったが、この小さな懐中時計の中には、何十年分もの刻が詰め込まれている事を忘れてはいけない。
 眠れない夜だった。眠らなければいけないと分かっていても、どうしても目を閉じる事が出来なかった。
 夜風を浴びたくなって、窓へ近寄り開け放つ。潮が混じった風が心地いい。目が冴えてしまった気もするが、それでも良くなった。
 そのまま閉めずにベッドへと体を放って、ぼんやりと天井を見つめる。伸ばした手の向こうには暗闇しかないが、決して、何もないわけではない。

 掛け時計の音だけが、静寂に響く。
 目を閉じて、少し遠い記憶へと手を伸ばした。

 ◆ ◆ ◆

 時計の針は、止まることなく動いている。

「この部屋で寝るのも、今日が最後か……」
 独り言は宙に融ける。短い期間ではあるが独りになった学生寮とも、今日でお別れだ。
 ゼムリア暦千二百五年、三月三十日の夕暮れ。自室のベッドで寝転んで、窓から差し込む夕陽を、目を細めて見つめた。彼方にある橙は、翳した手の向こうでも変わらずにあたたかい光を放っている。
 特科クラス《Ⅶ組》は解散して、皆はそれぞれの道へと歩む為に、士官学院を去った。繰上げ卒業の為に、これでもかというほどにみっちりと授業を詰め込まれ、慌ただしくも輝いていた日々――それは、眩しくもあり、どこか切なさを抱いてしまうものでもあった。時間が進めば進むほど、等しく残り時間が奪われてゆくからだ。
「……この一年、色々あったな」
 そう零して、目を閉じる。己の鼓動の音が聞こえそうなほど静かな室内には、物はほとんど置いていない。明日から別の寮へと移るからだ。端に纏められた段ボール箱の中には、そう多くの物は入っていないが、数え切れないほどの思い出は詰まっている。
 夕陽に照らされる机の上で、きらりと何かが光る。鈍い光を放ったそれは、真ん中に「五十」と書かれたコインだ。それは一見何の変哲もないコインでしかないが、そのすぐ横に置いてある集合写真の中に映る人が遺してくれた、俺にとっては大切な物だった。

『んー、そうだな。ちょいと五十ミラコインを貸してくれねえか?』

 時が経つのは早いものだ、と思う。過ぎ去った思い出の日々はどんどん遠ざかり、次第に薄れていってしまう。その事に気付いてしまっても、どうする事も出来ないという現実が、心の片隅にほんの少しだけ影を落としている事には、自分でも気が付いている。
 人は、真っ先に声を忘れるという。だがそれでも、《Ⅶ組》の皆とはいつかまた会えるし、声を聞くことだって、やろうと思えば出来るだろう。
 けれど、まだ鮮やかな記憶の中には、一人だけ――もう二度と、声すら聞くことも叶わない存在が居る。忘れるものかと決めていても、あいつに初めて声を掛けられた時の声色さえも、思い出す事が難しくなっていた。
「……」
 俺の〝日常〟は、戻ってきた。唯一つ、永遠に埋まる事のない穴をぽっかりと空けて。
 ヴァリマール、そして実父の存在もあるが故に、完全に元の日常へと帰ってきた訳ではなかったが、それでも。あらゆる物が付け足されたり、歪んだりしたそれの中でも、その穴だけは、どうしたって埋める事は出来なかった。忙しさで誤魔化して今日まで来たものの、ふとした瞬間に思い出しては、寂しさを覚えてしまう。
 未練だと割り切って、仲間達が士官学院を去る前日以降、正面の部屋を極力見ないようにしていた。たった数ヶ月ではあったが、大事な〝悪友〟が暮らしていたその部屋が空っぽなところを見ていると、少し虚しくなってしまうからだ。
 ただひたすらに前へ――と。遺された言葉は何度も何度も反響して、心が曇った時はいつもその言葉を思い出しては、足を動かしていた。
それではいけないと分かってはいても、まるで紙を留める画鋲のように、その言葉は心に固定されてびくとも動かなくなってしまっている。
『へへ………そうすりゃ、きっと…………』
 あの後、どういう言葉が続くはずだったのだろう。
 あいつはあの時、何を想ってそう言い遺したのだろう。
 それを知る術は、もうない。答え合わせの出来ない問いだけが、俺の中に残り続けているのだ。

 ふと気が付いた時には、外はすっかり暗くなっていた。どうやらあのまま眠り込んでしまったようで、苦笑しながら体を起こす。明日の支度は終わっているとはいえ、気が抜けすぎなのではないか、と。
「……水でも飲んでこよう」
 喉の渇きを覚えて扉を開けると、静寂の中にその音だけが鳴り響く。薄暗い寮内での思い出をつい思い浮かべようとして、ゆっくりと頭を振った。
思い出に縛られているようでは駄目だ、抱いて前へと進まなければ。
 階下へ向かおうとした、その時。
「……っ……?」
 ちり、と。胸の内側が、焼かれるかのように疼いた。随分と久しいその感覚に、胸元を抑えて立ち止まる。それは時折起こっていたあの感覚と、ほぼ同じものだ。
 唯一、違っていたのは、自身の中から何かが出て行くような気がした事だった。
 手を離して、周囲を見回す。何の変哲もない学生寮。静まり返った階段。暗くなっている窓の外。
「……!」
 そして、かつてクロウが使っていた部屋――二○六号室の扉の向こう側から、橙色の光が溢れている事に気が付いた。
「な、何だこれ……?」
 初めの数秒は警戒したものの、そのあたたかな光は、危険だと思わせる思考をいつの間にか奪い去っていった。
 無意識に、一歩ずつ歩み寄る。近寄らないほうがいいと、警鐘を鳴らす自分には気が付かなかった。
 そっと扉を開けば、橙の光は俺を待ち構えていたかのように揺らめき始める。幾つもの光の帯を広げた後に、やがてある一点へと収束した。
 部屋の入り口から見つめた、その先には。
「懐中時計?」
 カチ、コチ、と、秒針の音が鳴り始める。おそらく、先程までそこにはなかったであろうそれは、揺らめく焔のような光を湛えた、銀の懐中時計だった。
 部屋へ入る事に僅かに逡巡した。けれど、数秒後にはその感情を打ち消され、惹きつけられるかのように、その懐中時計のところへと歩いて行って拾い上げていた。

『やり直せたら、って思った事はないか?』

 懐中時計を手にした瞬間、脳内に響いてきた声。
「え……」
 部屋は勿論、寮の中にも俺以外は誰もいないはずなのに、その声はやけにはっきりとしていた。何が起きているのか分からず、ただ戸惑う事しか出来ない。
 拾い上げた懐中時計が熱を帯びる。手離すほどの熱さではなかったが、それは手の中で焔のように光を揺らし続ける。
「!」
 無意識に懐中時計を開いて、その文字盤を見て驚いた。なんともおかしな事に、その秒針は普通の時計とは逆の方向へと回転しているからだった。
 異常な事態に巻き込まれている事をようやくはっきりと自覚するが、縫い止められたかのように、俺はその場から動く事が出来ずにいた。
『俺には、出来なかったんだ』
 どこか悲しげでありながら、頼みかけるようなその声は。
「出来なかった、って、なにを……」
『それはお前自身が一番分かっているだろう?』
 溢れる光が強くなる。伸びてきた七色の光の帯は部屋中を満たして、逃げ場を完全に奪ってしまった。あまりの眩しさに目を開けていられず、逃れるように強く瞑る。
 目を瞑る寸前に見た、手の中の懐中時計は高速で逆へと廻り始め、文字盤の数字は少しだけ曲がった。
 溢れ出した光――時の奔流に、あっという間に飲み込まれてしまう。
 そしてそのまま、数多の数字が浮遊する空間を落ちていった。

『あいつから聞いて欲しいんだ』

 過ぎ去った思い出。宝石のようだった日々。駆け抜けた激動の、その一部。凍り付いたページに永遠に刻まれた、あの日の記憶――。様々な色が流れてゆく。どこまでも、果てのない漆黒の世界を、音もなく。
 記憶の回廊のような場所を漂っていると、遠くに広がる黄昏の中に、見慣れた姿があるのを見付ける。
 穏やかでありながらも、どこか不敵なその表情。
 掌に乗った物を一度見つめた〝彼〟は、それを強く握って背を向けた。
『……早く追いついて来いよ』
 ライノの花弁が舞う中、その姿は、蒼の混じった黄昏の歪みの中へと引きずり込まれていく。
 その掌に、小さな光を握ったまま。

 待ってくれ、お前は――!

 俺の声は、届かない。伸ばした手も、届かない。
 秒針と歯車の音が大きくなる。回廊が白へと染まっていく。

 ――時が巻き戻り、因果が歪んだ。

 ◆ ◆ ◆

 差し込む朝日の眩しさで、目を覚ます。
「ん……もう朝か」
 体を起こして窓を開けば、爽やかな空気が流れ込んでくる。陽の光を目一杯浴びて、その中で大きく伸びをした。心地の良い朝だった。
 カレンダーを見てから今日の予定を軽く思い返して、手早く支度をする。日課にしている鍛錬の事も考慮すると、あまり悠長にしている時間はないようだ。今日からしばらくは、生徒会の副会長として忙しない日々を送る事になるだろうから。
 必要なものを鞄に詰め込んで、さあ行こうと部屋の扉を開ける。まだ早い時間だからか、第二学生寮内の見える範囲には誰もいない。まだ同級生達は眠っている時間だから、当然ではあるのだが。
「……?」
 制服の懐に違和感があり、そこへ手を突っ込む。すぐにその正体に辿り着き、手の平で包んで引っ張り出してみると。
「五十ミラコイン? どうしてこんなところに」
 硬貨は財布にすべてしまっているはず。一つだけこんなところにあるのは珍しい事だった。
 五十という数字を見て何故か妙な感覚を覚えるが、深く考えはせず、財布の中へとコインを入れて歩き出す。
 開放されていた窓から、穏やかに吹き込む風。入学してくる後輩達の様子を想像しながら、俺は〝緑〟の制服の上着を翻して歩いてゆく。

 時はゼムリア暦千二百四年、三月三十一日――特科クラス《Ⅶ組》が発足されるその日を、俺は〝士官学院二年生のリィン・アームブラスト〟として迎えていた。