Chapter:01 Actuality

And I wish it were, but this is no dream.
This is reality.
Cold, cruel reality.

「そういえば、俺の自己紹介がまだだったよな。――二年Ⅴ組所属、リィン・アームブラストだ。よろしく、クロウ後輩」
 そう言って手を差し出せば、一瞬の逡巡のあと、目の前の後輩は人懐っこそうな笑顔を浮かべて、握手に応じた。
 握った手。温かいそれに、安堵を覚えてしまったのは一体何故なのだろう。考えても思い当たる理由がない。彼は人間なのだから、温かくて当たり前だというのに。
「おう、ヨロシクな」
 クロウ・シュバルツァー。四月から士官学院に入ってきたその後輩が、妙に気になって仕方がなかった。勿論、変な意味ではない。ただ、その名前を聞いたり自分が名乗ったりした時に、今までには感じた事のなかった引っ掛かりを覚えた。
「センパイ? どうかしたのかよ?」
 リィン・アームブラスト。それが自分の名であるはずなのに、クロウ相手に名乗った瞬間、自分の名ではないような気がしてしまった。自然と名乗ってきたはずの名が偽物のような――そんな感覚が、押し寄せたのだ。
「……! ああ、何でもないよ」
 誤魔化して笑えば、クロウはあまり気にしていないのか、頭の後ろで腕を組む。
ならいいけどよ、と言って、クロウはそのまま踵を返した。
「そんじゃお先に~。またな、センパイ」
 クロウが帰って行く。平穏なトリスタの街へ、そして、自分がこれから生活をする事になる居場所――《Ⅶ組》の寮へと。
 どうしてだろう。俺は、その場から動く事が出来なかった。先輩に対してタメ口なのはどうなんだ、とか、そんな事を指摘する気にもなれなかったのだ。寧ろ〝それでいい〟ような気がして、何故なんだと自問しても自答は出来ない。
 のんびりと、第三学生寮へと帰って行くその背が遠かった。夕暮れの橙の光に飲み込まれて、そのままどこかへ行ってしまいそうな、そんな――。
「……。何なんだ……」
 答えは出ない。
 永久に解く事の出来ない数式のように、辿り着けないそれはどんどん遠ざかっていく。

 ◆ ◆ ◆

 自由行動日でも、喫茶店・キルシェへと立ち寄る生徒は多い。授業がある日と違って、時間に余裕があるからだろうか。昼時が過ぎても賑わったままの店内はひんやりと涼しく、ちょっとした避暑地のようでもあった。
 時間に空きが出来て、今日そこを訪れたのは、なんとなくだった。忙しない日々の中、キルシェの片隅で軽食を食べながら読書をする時間が好きで、時間を見付けてはこうして本を片手に訪れている。
「あ。リィン先輩」
 軽食を注文して、外のテラス席へと向かおうとすると、聞き慣れた後輩の声が呼び止めてくる。トレーを持ったまま、声のした方へと振り返ると、端のテーブル席でエマとマキアスが何かの本を広げていた。
 エマは視線が合うなり、少し本をずらして一人分のスペースを空けてくれた。イコール、そこへ座っていいという事なのだろう。
 混んでいる店内を慎重に進んで、二人が座っている席へと向かう。小さな子供も多く、ぶつからないようにしていると、どうしてもいつもより時間がかかってしまう。
「すみません、呼び止めてしまって。外は暑いですし、もし宜しければ一緒にどうですか?」
 店内は満席で、屋外の席は日陰とはいえ暑いはずだ。気を遣ってくれた後輩のお言葉に甘えて、俺はトレーを置き、笑い返す。
「いや、席を探していたところだったから助かったよ。ありがとう、エマ。マキアス」
「ちょうど良かったです。この後クロウさんも来る事になりましたし、テーブル席を確保しておいて正解でした」
 エマの口から出てきた名に、俺は思わず目を丸くする。
「クロウ? ……なんというか……珍しい組み合わせだな?」
「先輩もそう思うでしょう? 僕らに聞きたい事があるそうで。……クロウの考えている事はよく分かりませんが、珍しく真剣そうだったから何も言えなかったんですよ」
 そうなのか、と。メロンソーダを飲みつつ、時々絡む事があった銀髪の後輩を脳裏に思い浮かべる。手品と称して五十ミラコインを持って行かれたのも、もう数ヶ月前の事になるらしい。時間が経つのは早かった。

「よう、突然混ぜてもらっちまって悪りぃな……ん、リィンも一緒だったのか」

 先輩として――生徒会の副会長として、後輩と話をしておくいい機会だ。
 そう思い、少し話をしていると、背後から掛けられた暢気な声。振り返ってみると、声の主――クロウは、ひらりと手を振ってくる。
「ああ、お邪魔して――……って、クロウ」
 もし目の前に鏡があったなら、俺がじとりとした目をしているのが映っているのだろう。
 席に座ったクロウに対して、一つ溜め息を吐いてから言葉をぶつけにかかる。〝トールズ士官学院・生徒会の副会長〟として、言っておかねばならない事がある。

「一応、俺は先輩だって事を忘れるんじゃないぞ?」
「わーってるよ。けど、違和感があるから、って呼び捨てを許してくれたのはそっちだろ、〝リィンセンパイ〟?」
「……許可した記憶はないんだが……その事を、何か都合よく解釈してないか?」
「カタい事言うなって。ただでさえ、生徒会の副会長って事で張り詰めてんだろ? ったく……今年入ったばかりの後輩に見抜かれてるようじゃ、まだまだだぜ。アンタは、もう少し気楽にだな……」
「ぐっ……確かにそうだけど、それとこれとは違うし、俺は他に生徒が居る場所でそれはどうなんだって事を――」

「あー、コホン」
 わざとらしい咳払いが耳に届き、はっとして俺はマキアスを見た。隣のエマの微笑ましそうな視線が、なんだか辛い。思わず額を手で抑えた。
 どうしていつも、こうなってしまうのだろう。
「ふふっ。リィン先輩とクロウさんは、学年が違うのに仲が良いですよね」
「はぁ……仲が良いというか、妙な因縁があるからな」
 思い返したのは、夕暮れの空に舞った五十ミラコインだった。クロウ達一年生が入学してきた四月、俺は学生会館の前で偶然出会ったクロウに〝手品〟を披露された。宙に飛ばした後に掴み取ったコインが、どちらの手に入っているか当てる、というものだ。タネは至って簡単で、コインは左右どちらの手でもなく、下に置かれた鞄の中に入るようになっている。
 生徒会の仕事漬けで少し疲れていたとはいえ、あんなに簡単なトリックを見破れなかったなんて――挙句、五十ミラコインはそのまま持っていかれてしまったのだ。
「因縁?」
 思い出すだけでも、自分に対して溜め息が出る。
「お、何なら聞かせてやろうか? オレとリィンの、五十ミラコインをめぐる……」
「話さなくていいから」
 ちぇっ、と零されたが聞かなかった事にしておいた。この事を知っているのは俺達二人だけで十分だ。
 どうにも調子が狂う。一つ息を吐いて、珈琲を飲もうとカップを持ち上げた――その時。

『よ、後輩君』

 それはそこにある声であり、言われるはずがない言葉だ。
「……」
 〝クロウ〟の声が、確かに聞こえた。言葉も、はっきりとしていた。
 俺は思わずカップを置いて、周囲を見る。数秒だけ途絶えた賑やかさは取り戻され、元のキルシェの雰囲気に包まれていた。
 小さく頭を振る。――今のは、幻聴か何かだろうか?
「リィン先輩、どうかしたんですか?」
「オレの顔に何か付いてるのかよ?」
 無意識にクロウを見つめていて、俺は慌てて顔を逸らす。
「……気にしないでくれ。っと、そうだ……それより、クロウはエマとマキアスに話があるんだろう? 俺が居たら話しづらいだろうし、席を外して……」
「や、リィンもここに居てくれねーか?」
「いいのか?」
 少しでも、力になれるような事ならいいんだが――。
 そう付け足せば、クロウは頬杖をついた。
「アンタにも聞きたい事だったからな。ついでに、つー事で」
「ついでってお前な……まあ、いいけど」
 珈琲のカップを再度持ち上げて、俺はクロウの言葉を待った。
 少しだけ間を空けてから、クロウは至って真面目な表情で口を開く。

「……何か〝違和感〟って、ないか?」

 ぽつり、と呟くように問いかけられた瞬間、小さな閃光が脳裏を駆けた。
「違和感……?」
 珈琲を飲み込んだ後、俺はそれを誤魔化すようにして腕を組む。少しだけ、気持ちが悪くなったからだ。決して掴めないものへと手を伸ばしているような、そんな気がしてならないのだ。
 自然と、自分の服の端を軽く摘んでいた。
「今さっき、君がリィン先輩と話していたような事か?」
「おう」
 押し込めておくべきなのだろうか、それとも。判断が出来ない。
「私は特に感じた事はありませんけど……マキアスさんはどうですか?」
「僕もないな」
「ま、オレの思い込みかもしれねえし、上手く言えねぇけど……なんつーか、いつもそこにあったものが、別の場所に置かれてるような感じがするんだよな」
 そこにあったものが、違うところにある。
 クロウの言葉に、何かがぴんと来た。そうだ、言い表すならばそれだと、込み上げた気分の悪さは一旦払われる。
「……言い得て妙だな」
「先輩?」
「さっきも少し触れていたけど……クロウに〝先輩〟と呼ばれる事に、俺はそれを感じていた。だから、違和感がある、と言ったんだと思う。それに……《Ⅶ組》に、正直に言うと惹かれるんだ。まるで故郷みたいに……はは、ヘン、だよな」
 敢えて口には出さなかったが、エマの事を呼び捨てにしているのも同じだった。時折彼女の事を〝委員長〟と呼びそうになってしまい、慌てて引っ込めた時が何度かあった。
 記憶を辿る。いくら《Ⅶ組》が特科クラスとはいえ、少々気にかけすぎなのではないか。そう自分でも思えるほどに、俺はこの後輩達に関わっている事が多かったのだ。
『フフ、そんなに気になるならいっそ、編入でもしちゃう?』
 冗談混じりでそう言ったサラ教官の言葉が、ずっと引っかかって離れない。編入。特別でも何でもない言葉のはずなのに、どうしてここまで残り続けるのか。
 黙って聞いてくれていた三人は、視線を合わせた。
「……前者はともかく……オレ達がそんだけ魅力的って事だろ、後者は。な?」
 ぱちりと片目を瞑りながらクロウにそう言われ、マキアスは溜め息を吐く。
「〝な?〟って同意を求められても、どう反応すればいいのか僕には分からないんだが」
「あはは……」
 エマと共につられて笑っていると、クロウが視線を窓の外へ向ける。僅かに細められたその中には、外の景色が映り込んでいるのだろう。けれど、どこか遠くを見ているようにも見える。
「……気のせい……で済めばいいんだがな」
 何を見つめているのだろう。それは、俺には分からなかった。
「クロウ?」
「何でもねーよ。何でも……な」
 それ以上の追求を許さないような色が、クロウの緋の瞳に宿る。
 俺が何かを考えようとした次の瞬間、テーブルの上にはブレードのカードが広げられた。そのうちの一枚を手にして、クロウは屈託のない笑顔を見せる。

「クク、それよりせっかくの機会だ……ブレード勝負といこうぜ、マキアス。負けた方が今度奢りな!」
「き、君ってヤツは……! そういう事は前の借金を返してから言ってくれ!」
 隙あらばミラを巻き上げようとする、という噂は、どうやら本当の事らしい。今度、生徒会室に呼び出す必要があるだろうか。
「まあそう言うなって、オレが負ける可能性もあるだろうが。委員長ちゃんは観戦でいいからな、さすがに女子に奢らせるのは気が引けるしよ」
 エマは苦笑いを浮かべている。
「は、はい」
「……」
 珈琲のカップを握ったまま、俺は繰り広げられる他愛のない会話を見て笑う。心の中に刺さっているものがある事を、今この瞬間だけは忘れて笑顔を出す事が出来た。

 ――何故だろう。こんなに近くにあるのに、遠く感じるのは。

 忍び寄っている影からは、無意識に目を逸らした。それに触れてしまえば、何かが変わってしまう気がして、怖かったのかもしれない。
忘れてしまってはならない、大事な何かを、なくしてしまっている気がしてならなかったが――謎の喪失感の正体には、辿り着けなかった。

 ◆ ◆ ◆

「……この辺り、だったか」

 秋も終わりに近い帝都を吹き抜ける風は、少しだけ冷え始めていた。
トリスタのある方角を見遣って、軽く、頭を振る。もうここまで来て振り返るなと、自分に言い聞かせた。掌の中でひび割れた、あの学院で築いたものを大切に持っていたら、やがてそれは自分を傷付ける破片と化してしまうのだから。
 持参したラジオのスイッチを入れれば、自然と拳に力が籠る。
「……」
 今頃トリスタでは、クロウ達が俺の不在に気付いて探しているかもしれない。
 鍵をかけていない部屋に残してきた書き置きに、彼らは気付くだろうか。

      
『帝都へ宰相の演説を見に行く。すぐ戻るよ。 リィン』

 あんな簡潔な書き置きでは妙な疑いを持たれるかもしれないが、今更、どうにもならないはずだ。止めようとしたって、もう遅い。情報局でさえも自分の正体を突き止めるのに時間を要しているのだから、学院の中でそれを察して追いかけてくるものは、まず居ないだろう。
 情報局の出であるミリアムは少々侮れないが、間に合うはずがない。すべて計算した上で、俺は今、ここにいるのだから。
それに、時間を与えてやるつもりもなかった。
 狙撃用のライフルの前へ屈み、標的が居るドライケルス広場を、スコープ越しに覗き込んだ。鉄血宰相――ギリアス・オズボーンの心臓が、十字と重なるように照準を合わせる。
 この一発で、すべてが終わる。祖父の敵討ちが、ひとまず終わるのだ。そしてまた、始まる。
『既に皇帝陛下からも、心強いお言葉を頂いている――このギリアス・オズボーン、帝国政府を代表し、陛下の許しを得て、今ここに宣言させていただこう!』
 ラジオ中継越しの鉄血宰相は、熱弁を続けている。
 何が宣言だ。また、ジュライのようなところを増やすつもりなのか。
 内側で静かに燃え上がった焔が、息を止めさせる。引き金に指を掛け、瞬きをせずにいると、世界から遮断されているような感覚に陥る。
『正規軍、領邦軍を問わず、帝国全ての〝力〟を結集し……クロスベルの〝悪〟を正し、東からの脅威に備えんことを――』
 その言葉を、途切れさせてやる。
 夜明けのようだと誰かに喩えられた自分の瞳に、黒が宿った気がした。

「――言わせるか」

 引いた引き金。放たれる銃弾。
 一瞬の静けさの後、広場に広がる悲鳴と混乱。

 十字で定めたその先の標的の命は、一発の銃声と共に、終わりを告げた。告げている、はずだ。呆気なさすぎるのが気掛かりだったが、化け物と評された鉄血宰相とて、一人の人間に過ぎないのだから。
 さて、これで残るは――と、顔を上げた、その瞬間。
『これ以上の戦いは無意味だ! 西口を攻めている連中とまとめて撤退してもらうぞ!』
『オイオイ……何か忘れちゃいねえか?』
 ぴり、と。
 脳内を駆ける一筋の痺れが落として行ったのは、あり得ない光景だった。
「……っ……い、今のは……?」
 幻覚か――それにしては、鮮明すぎる。一体何だと言うのか。 走る痺れはやがて痛みに変わって、次々と記憶の欠片を落とし突き刺していく。動揺する時間さえも与えずに、容赦なく。
『な、何ということでしょう! たった今、オズボーン宰相が狙撃されました!』
 崩れ去った平穏。
『なんだ、あの人形は……』
 占領される帝都。
『――じゃあな、《氷の乙女》殿』
 蒼の騎士人形。
『駄目だよ、リィン!』
『やめてえええっ!』
 街道での攻防。
『俺の本分は《C》――学院生のクロウ・アームブラストはただの〝フェイク〟さ』
 〝悪友〟との戦い。
『あ………………だ、駄目だ……! 生身で敵う相手じゃない! みんなこそ逃げてくれ……!』
 そして、絶望的な戦いへ向かう仲間達から離れて行く、あの景色は。
「やめてくれ、俺はこんな……そんな、ものは……」
 脳内を手で掻き回されているような感覚がして、その場に蹲る。気持ちが悪い。
 おかしい、どうして。何故あんな光景が脳裏を過るのか。これから《Ⅶ組》と対峙するのは自分であるはずなのに、見えた光景では、まるでクロウが《Ⅶ組》と対峙しているかのような――

「――手を挙げなさい!」

 銃声と、頬を掠めた銃弾。
 切れた箇所を拭わずに振り返れば、悔しげに表情を歪めた声の主がそこに居た。彼女はいつもの涼しげな雰囲気の中に、確かな怒りの焔を湛えている。
「……。貴方が最初に来る気はしていたよ。クレア・リーヴェルト憲兵大尉」
「……信じられません……トールズ士官学院の生徒会、そこで副会長を務めていた貴方が、まさか帝国解放戦線のリーダーだったなんて……」
「……」
 先程降りかかった、奇妙な追憶の欠片は押し込んでおく。今はそれが何なのかを考えている時間などないのだから。
 あたたかな思い出を振り払う。完全に壊せないのならば、置いていかなければいけない。
「そう思うだろう? 良い隠れ蓑になってくれたんだ」
「特定出来たのも、先ほどでした。……偽装で撹乱されなければ、もっと早く特定出来たのに……」
 陽を反射して、銃口が一度光る。
「よくも――よくも閣下を!」
「……。鉄血宰相は……」
 本当に、死んだのだろうか?
 当然そんな事は言えるはずがなかった。けれど、少しぼやけていたせいであまり鮮明ではなかったが、見えた追憶らしきものの中には、見知らぬ場所で鉄血宰相に掴みかかる自分が居たのだ。
 それに、あまりにも呆気なさすぎる。生きている可能性だって十分にある。
「くっ……抵抗はしないでください。でないと――」
「……無理な相談だな」
「え……」
 眼下を見るように視線で誘導すれば、クレア大尉は言葉を失ったようだった。
 帝都で繰り広げられる、人型の兵器と戦車の戦い。機動力に長けたそれは、次々と戦車を破壊して帝国正規軍を追い詰めていく。
「……あ、あの兵器は……」
 ヘイムダルが貴族連合の手に落ちるのも時間の問題だろう。今の帝国正規軍に、パンタグリュエルから送り込まれるあれを止められるとは到底思えない。
「貴族連合に取り込まれた『ラインフォルト第五開発部』が完成させた人型有人兵器――古の機体を元に、大量の鋼鉄から組み上げられた現代の騎士。……俺達は《機甲兵》と呼んでいるよ」
「そ、そんなものを……」
 クレア大尉が呆然としている隙を見計らって、一歩下がる。
 ここで話していても、時間の無駄だ。やらなければいけない事もあるのだから。
「っ、動かないで――!」
「それは出来ない。バルフレイム宮は《西風》に任せるとして――俺は、俺のケジメをつけないといけないんだ」
 屋上の手摺りに手を掛けて、身を空中へと躍らせる。
「しまった……!」
 下で待機させていたヴァリマールに飛び乗って、核の中へとそのまま入り込む。
 こうなってしまえばもう、クレア大尉に打つ手はないだろう。
 機体が上昇する。緋の帝都が遠ざかる。空の向こうで始まっているであろう戦いを脳裏に思い描いて、小さく息を吐いた。
『またどこかで。《氷の乙女》殿』

 ――ここでは聞こえるはずのない、秒針の音がする。

 トリスタへと向かう中、少しだけ考えた。否、考えてしまった。鉄血宰相を狙撃した後に過ぎった〝あれ〟は、一体何なのだろうと。
 幻影か。それにしては、あの追憶はやけにはっきりとしていた。有り得ない事だと分かっていても、一度自分が通ってきた道なのか、と思ってしまう。
 それに、その一部を掴んで引っ張り出してみれば、今の俺がしている事は、まるで。
「……時間が巻き戻って、俺がクロウの立場になっている……?」
 そういえば、と。〝前回〟の三月末に、奇妙な懐中時計を拾った事を思い出す。
 あくまで仮説でしかないが、考えられる可能性はそれくらいだった。あの懐中時計が絡んでいるような気がしてならないのだ。
『同意シヨウ。今ノ世界ニハ〝違和感〟ガアル』
「ヴァリマール」
『ダガ、りぃんハりぃんダ。己ノ信ジタ道ヲ行ケバイイ』
「……そう、だよな。ありがとう」
 時間の巻き戻り――だとすると、学年が違うというのに《Ⅶ組》に惹かれ、頻繁に関わりにいってしまった事にも合点がいく。自分は、元々あそこに居た。きっと、元居た場所に無意識に引っ張られて、つい声を掛けたりしてしまっていたのだ。
「……」
 目を閉じる。
 刻まれたものは、時間が巻き戻ってもそのままなのだろう。
「俺は、俺でしかない……」
 これ以上考えても、現実が変わるわけでもない。変えられもしない。戻れないのだから。
 前を向けば、トリスタはもう目の前だった。

『おい……本当にリィンなのか!?』
 記憶の中に、同じ言葉があった。〝リィン・シュバルツァー〟の言葉として、だが。
 少しだけ間を空けて、口を開く。
『ああ。久しぶり……でもないよな。昨日、キルシェで一緒に本を読んだか……だけど、随分遠くに来てしまった気がするよ』
「リィン先輩……」
 ヴァリマールを見上げてくる《Ⅶ組》の面々の表情は見ない。見てしまえば、きっとまた、降りかかってくるものが生まれてしまうからだ。
 視線を向けた先にある士官学院が、遠い。目の前にあるはずなのに、もう帰れない場所だからだろうか。
『チッ、なんでアンタがこんな事をしてんだよ! 宰相を狙撃したのもアンタなのか!? それに、その人形は一体どこで……』
『そもそも、俺が学院に入ったのは《帝国解放戦線》の計画の為だ。いずれ《鉄血》の首を狙う時の足場にするつもりだったんだ。……はは……情けない事に、予想以上に楽しんでしまったし、失った青春を謳歌してしまったけど――』
 あたたかい居場所だった。かけがえのない時間だった。沢山笑ったし、沢山得たものがあった。偽りの時間だったはずが、いつの間にか本物の軌跡になってしまっていた。
 だからこそ、突き放さなければいけない。決別をしないといけない。置いていかないと、いけないものなのだ。

『俺の本分は《R》――学院生のリィン・アームブラストは、ただの〝フェイク〟だ』

 モニターに反射した自分の瞳は、どこまでも冷酷だ。こんな顔も出来るものなのだと、自分で自分の事を意外だと思ってしまった。
 そうだ、これでいいのだと、強く、強く自身へ言い聞かせる。もう引き返すわけにも、立ち止まるわけにもいかないのだから。
 オルディーネに搭乗しているクロウの表情は、当然ここからではまったく見えない。見えないが、それがどんなものなのかは、それほど考えなくても分かってしまう気がした。
 それは〝俺〟と、同じだろうから。
『ッ――ふざけんなッ、嘘だったなんて言わせねえぞ! あのちっこい生徒会長や先輩達と過ごしてた時間も……合間合間に、オレ達と過ごした時間も! 全部嘘だったって言うのかよ!? アンタ、オレ達と話してる時も心の底から楽しそうに笑ってただろうが……それも嘘だったって、本気で言うのかよ!』
 よく見ているな、と、変なところに感心する。それほど、俺はクロウ達《Ⅶ組》と一緒に過ごした時間が多いという事なのだろう。
『それは……』
 〝否定〟は出来なかった。だから〝肯定〟するしかないのだ。
 閉じた瞳の裏側を、鮮やかなままの思い出が駆け抜けていく。どれも何物にも代え難い、身に刻み込まれた大切な時間だ。
 けれど、今は。今だけは、どうか。
『ああ。……その通りだ』
 あの時間や日々を、偽りだったと言い切らせてほしい。
 自然と零れ落ちた言葉は、かつて〝あいつ〟が言ったものとまったく同じだった。

 ◆ ◆ ◆

 ヴァリマールが携えていた双刃剣が弾き飛ばされた瞬間、心のどこかに、安堵してしまった自分もいた事は、否定出来ない。
 クロウが勝って、俺は負けた。ただそれだけの事だというのに、大きな何かが変わってしまったような気がした。それが何なのかは、はっきりとしなかったが。
「…………」
 顔を上げた先には、《Ⅶ組》の中で、笑うクロウ。思わず笑みが零れた。変わってしまっても変わらぬものを見られた安心感からなのか、奥底に潜む羨望が姿を変えたものなのかは、自分の事だというのに掴む事が叶わない。
「……リィン。無理しない方がいいわ、かなり霊力を消耗している」
 気にかけてくれたヴィータに小さく礼を言って、俺はただ《Ⅶ組》を見つめた。あの頃よりも眩しく見えるのは、気のせいではないのだろう。
「……まったく……〝皆の想いは関係ない〟なんて言っていたのは、どこの誰だ? 騎神でのARCUSのリンク……完璧に使いこなしていたじゃないか」
 返ってくる言葉は知っているが、俺は敢えて問う。
「……おう、おかげさまでな……それでも、無心だったけどな。今思うと、こいつらの想いや……オルディーネに、ひょっとすると、アンタの想いも……オレの一部になってたのかもしれねえ」
「色即是空――か。剣の境地……垣間見たものがあったのね?」
 万物は一つの空だ。そこに有りつつも存在していない。けれど、一つの空から万物は生み出されている。様々な色を与えられて、そこに有る。
 俺は黙ってクロウを見る。クロウは、掴み取る事が出来たのだろうか。
「……あー……その、なんだ。カッコつけた事言っといて何だが……」
 全員に見つめられて照れ臭くなったのか、僅かに視線を逸らしてクロウは頭を掻いた。
 続くであろう言葉を想像しかけて、そっとそれは遮断しておく。
「もう何も感じねえし、夢でも見てた気がするっつーか……」
 苦笑混じりにそう零したクロウに対して、《Ⅶ組》の面々はそれぞれの反応をする。
「ガクッ……」
 項垂れるマキアス。
「クロウ、そなた……」
 ラウラは僅かに眉を下げた。
「締まらないオチだね」
 相変わらずびしりと言うフィー。
「拍子抜けもいいところだ」
 そう言いつつ、腕を組んで笑うユーシス。
「あはは、まあまあ」
 安堵したような面持ちのエリオット。
「俺達同様、先は長い。……それだけの事だろう」
 こんな時でも穏やかな風を吹かせるガイウス。
「ふふっ、そうね」
 アリサが笑ったのを見て、ずっと心に巻き付いていた何かが、音を立てて外れた。
「……ははっ……」
 《Ⅶ組》が、不思議そうな表情で俺の方を振り返る。
 ああ、きっと〝あいつ〟も、こんな気持ちだったのだろう。〝あいつ〟と同じように編入はしていないけれど、それでも。
「ははははははははっ!」
 久々だった。心の底から笑ったのは――笑う事が、出来たのは。
「……そんなに笑うなっての」
「認めるしかないじゃないか。俺の負けだよ――完璧に、完膚なきまでに」
 騎神同士の戦いに負けただけではない。だから、完璧な〝負け〟なのだ。
 すぐに、俺と《Ⅶ組》を黙って見てくれていた、ヴィータへ向き直る。言うべき事は、分かっている。過去の〝あいつ〟と、同じなのだから。
「……すまない、ヴィータ。色々借りを作ったのに、期待に応えられなくて……」
「フフ……気にする必要はないわ。正直、想定外だったけど……これはこれでアリかもしれな――」

「ふ、ふざけるなあああッ!!」

 ヴィータの言葉を遮る、カイエン公の声。
 それを聞いただけで、胸中に嫌な予感が込み上げたのは、一体何故なのだろう。まだ思い出せていない欠片が、嵌まり込んで行くような――足音を立てずに近付いて来ていた、不吉な予感をようやく察知したような、そんな感覚だ。
「魔女殿、どういうつもりだ!? まさかこれで終わりにするつもりか!?」
 激昂したカイエン公の言葉には、聞き覚えがあった。巻き戻っているから、当然ではあるのだが。
 ――俺は何を思い出せずにいる? どうして嫌な予感が過る? これから先に待つ事を、知っているのではないか?
 言葉を発せずにいる俺の前に、ヴィータが立つ。
「……元より《結社》の目的は、この勝負の舞台を導く事。……〝灰〟と〝蒼〟の勝敗以外は興味はないと申し上げたはずですが?」
「ええい、黙れっ! こうなったら――もう手段は選ばん!」
「!」
 ひやりと嫌な汗が伝ったその瞬間、カイエン公はテスタ=ロッサが封じられている場所へと駆け上がっていく。
「……」
 それを見て過ぎったのは、核へと取り込まれたセドリック皇太子と、すべてが緋色へと染まった玉座。《Ⅶ組》総力戦。灰と蒼の共闘。
そして。
『――――――』
『クロ、ウ……』
 繋がる欠片。思い出した最悪の光景。
内側から聞こえた自分の鼓動は、妙に大きく響いた。
「まさか……」
 止めなければ。止めなければいけない。
 気が付けば、限界まで体力を使い切った体に鞭を打って走り出していた。
「くっ……やめろ!」
「リィン!?」
 追い付くのは容易かった。ただ、その腕を止めようと掴んでも、カイエン公はまったく動じない。力の強さなら、俺の方が上のはずなのに。
「カイエン公! 自分が何をしようとしているのか、アンタは分かっているのか!? あの事は、あれほどヴィータが戒めて――」
 視線が合わない。掴んだ腕が一度だけ震える。
「分かっていなかったらここには居ない! ……今こそ、その時なのだよ。灰色の騎士殿?」
「っ!?」
 不敵に笑んだカイエン公に首を強く掴まれた。そのまま持ち上げられ、息が詰まる。
 俺の記憶の中にいるカイエン公は、ここまで強い力を出せるはずがないのに、一体どうなっているのか。抵抗しようとしても上手く力が入らず、振りほどく事が出来なかった。異常なほどに拘束が強く感じる。
「ぐっ、離せ……!」
 視界が揺らぐ。思わず意識を手放しそうになった。
「喜ぶといい、蒼に敗れた君にもまだ役目はあるのだから。――しかし今は、下で大人しく見ているといい!」
 カイエン公の瞳には、一体何が映っているのだろう。前回とは同じようで、少し違っている。これから何が起こるのかを――知っているようで、俺は知らない。けれど、記憶を掘り起こして、現実と繋げている時間さえも与えられなかった。
 首を掴まれていた手が離され、その場に頽れる。

「さあ殿下――覇道のお時間ですぞ! 古のアルノールの血、存分に滾らせるがよろしい!」

 目隠しを取り払い、カイエン公はセドリック皇太子をテスタ=ロッサの核へと押し付ける。
 まるで融合をさせるかのように。
「や、やだ……やめて……あああああああっ!」
「セドリック、殿下ッ……!」
 苦しげなその叫び声にも俺はどうする事も出来ず、伸ばした手はただ宙を彷徨う。
 セドリック皇太子がテスタ=ロッサの中へと消えていった直後、緋色の風が玉座を駆け抜ける。空気が震動する。
 奴が目覚める。――目覚めてしまう。
「くそっ……!」
 どうにか立ち上がるが、それだけでふらつく体ではもう何も出来ない。突風のような緋色の風に押されて、そのまま俺はテスタ=ロッサの居る足場から飛ばされてしまう。
 浮遊感。下までは何アージュか――そんな事を考えている余裕はない。
「リィン!」
 視界の片隅で紫電が散った。手を引かれ、誰かに受け止められる。反射的に瞑った目を開けば、琥珀色の瞳が真っ直ぐに俺を見ていた。
「げほっ……ありがとう、ございます。サラ教官……」
 地に片膝をつく。その横に屈んで、サラ教官は軽く背を摩ってくれた。
「ホント、相変わらず無茶ばかりして。……それにしても、皇太子が騎神の中へ消えたけど……一体何が起きて――」
「…………」
「リィン先輩、サラ教官! 早くこちらへ!」
 焦燥混じりの声色で、エマに呼ばれる。こくりと頷いて、サラ教官は俺の手を引いてくれた。そしてそのまま、転がり込む勢いで、ヴィータとエマが張った結界の中へと入る。

「……《紅き終焉の魔王(エンド・オブ・ヴァーミリオン)》……」

 ヴィータがテスタ=ロッサ〝だったもの〟を見て、ぽつりと呟いた。
 エンド・オブ・ヴァーミリオン――巻き戻った記憶の中で唯一、妙な靄がかかっていた存在。
「ククク……ハハハハハハハッ! これぞ緋の魔王! 千の武器を持つ魔神――! 二百五十年前、オルトロス帝が顕現させた絶対支配者か!」
 響き渡る、緋色の咆哮。突き刺す刃のような瘴気。辛うじて亀裂は入らないが、結界が僅かに歪み始めているのが分かる。
「このままだと防御結界が……!」
 エマと視線を合わせて、ヴィータが表情を歪める。
「愚かな……終焉の魔王だけは、顕現してはならない存在だというのに……!」
「……」
 記憶を手繰り寄せる。クロウは――〝クロウ・アームブラスト〟は、この時、何をした?
 流れていく記憶の欠片を拾い上げて、口を開く。
「ヴィータ……隙は作れるか?」
「隙……あの強化術式ね?」
「ああ、三年前の試練で手伝ってもらった〝アレ〟だ。……出来そうか?」
「……やってみましょう」
 〝あいつ〟と同じ言葉。ゆっくりと立ち上がって、今は後輩である《Ⅶ組》の面々へと振り返った。真っ先に目が合ったクロウは、何かを察したのか、真剣な瞳で見つめ返してくる。
 拳を作る。込み上げる不吉な予感は消え去らない。前回とは違った結末へと、辿り着こうとしているからなのかもしれない。
 それでも――立ち止まってしまうわけには、いかなかった。

 ◆ ◆ ◆

『道は俺が拓く――行け!』

 その言葉を言うと同時に、貫くような頭痛がしたのは気のせいではなかった。
『おうよ!』
 クロウの返答。すぐに振り払って、ヴァリマールで駆け出した。
 エンド・オブ・ヴァーミリオンから放たれる弓を弾き飛ばし、双刃剣を回して槍の雨の中を突き進む。
 ――地面から何か来る、避けろ!
 後ろに続いているクロウの声が、リンクの光を通して伝わる。
 そうだ、ここで避けなければいけない。〝前回〟で〝あいつ〟の命を奪った緋色の尾を。
『繰り返して堪るか……!』
 一瞬の事だった。勘に任せて、ヴァリマールの機体を捻らせて回避するが、緋色の尾は追尾をしてくる。弾いてもまた襲いかかる。そのせいでなかなか接近する事が出来ずに居たが、俺は一人で戦っているわけではないのだ。
 ――しつこい野郎だな、だったら!
 何度それを繰り返したか分からなくなってきた頃、尾は突然方向を変えて、エンド・オブ・ヴァーミリオンへと迫っていたオルディーネへと向かって行く。クロウが、尾を引きつけようと動いたらしい。
 思わず振り返れば、オルディーネは巧みに得物を振っている。その核の中で、クロウが得意げに笑っているのが見えた気がした。
『へっ、心配すんなって。それより――今が好機だろ!』
『……そうだな』
 漂っていたものは掴み取る。心へときちんと収める。
 得物を振り上げたヴァリマール。俺はそのまま、エンド・オブ・ヴァーミリオンへと斬りかかった。
 そこからは、無我夢中だった。
 飛来した光線を飛んで避け、緋色の空を舞い、上空から斬るべきところを確認する。皇太子が捕らわれている、中の核を傷付けないで済む箇所。
 エンド・オブ・ヴァーミリオンは、ゆっくりと俺の方を見た。狙いに気が付いたのだろうか。
 だが、もう遅い。――大人しく皇太子を返してもらう。
『っ――おおおおおおッ!!』
 攻撃を繰り出す時間は与えない。かつて培ったもの、遠い記憶の中で教わったものを呼び起こして、俺はエンド・オブ・ヴァーミリオンへと刃を突き立て斬り裂いた。
 現れる核。警鐘を鳴らす脳内。
 そして予想通り襲いかかった、とてつもない痛み。
『……っ……』
 そっと腹部へ手をやると、生温かいものが付着する。薄暗い中でよく見えなくとも、何なのかはすぐに分かる。
『リィンッ!!』
 ここまでが俺の目論見だ。さすがにクロウには伝わらなかったのか、焦った声が背後から飛んでくる。
 腹部を貫通した痛みに耐えながら、俺は声を振り絞った。
『……俺の事は、いい! 今だ、クロウ……核を!』
 〝あいつ〟のように、心臓を貫かれたわけじゃない。生存出来る可能性はある。だから、心配するんじゃない――。
 伝わってくれと願いながら話せば、オルディーネと繋がっているリンクの光が一度強く輝いた。
『……ああ……任せとけっての!』
 エンド・オブ・ヴァーミリオンはもう動けないはずだ。尾はヴァリマールを貫通しているし、俺が押さえ込んでいるのだから。
 どうしてこんな自己犠牲的な行動をしてしまったのだろうか。――答えを探そうにも、消えかけた意識はその時間を与えてくれなさそうだ。
 オルディーネが核を引き抜く。それを見届けてそのまま、目の前が真っ暗になった。

 ――カチリ。

 どこからか直接響いてくる秒針の音が、沈んでいた意識を引き戻す。
 押し上げた瞼。ぼんやりとした視界の中で、動く橙色。
「あ! り、リィン先輩! 良かった……!」
「リィン、意識が戻ったのね?」
 大怪我にも関わらず、痛みをあまり感じない。ヴィータが癒してくれたのだろうか。
「……まだ少しふらつくけど、大丈夫だ。それより――」
 体を起こして周囲を見回すと、セドリック皇太子は、エマが介抱していた。カイエン公は、ラウラとガイウスが拘束している。どうにか場も収まりそうだ。
「…………?」
 後はきっと、なんとかなる――。
 そう思ったのも束の間、何故か、嫌な予感が消え去らない事に気が付いた。自分の鼓動が、やけに大きく響く。
 背筋を凍らせるような気配に襲われて、俺は視線を落とした。

「…………まだ、終わって……な、い?」

 俺の言葉に、エリオットが動揺を見せる。
「え……?」
「み、みんな、あそこ見て!」
 穏やかさを打ち破るように、微かに震えた空気。その場に居た全員が感じ取って、沈黙したはずのエンド・オブ・ヴァーミリオンを見た。
 放たれている、あの仄かな緋の光は一体。
「な、何だ……?」
「核を抜いて、倒したはずじゃ……」
 空気が揺らぐ。エンド・オブ・ヴァーミリオンは終わったはずなのに、それはなくならない。まだそこに〝在る〟。
 見上げた先では、まるで焔のように揺らめく魔王が存在していた。枷が外れた中で動き出しそうな、そんな気配を纏いながら。
「これは……」
「ッ……まずい、きっと核を失って暴走しようとしているんだ!」
 ごく自然にそう言いはしたものの、内心では戸惑いと焦りが飛び交っている。自分でも、どうしてそう言えたのかが分からなくなるほどだ。
 エンド・オブ・ヴァーミリオンから核を引き抜いたら、この次元には顕現出来なくなるはずでは――?
 〝前回〟とは明らかに異なる事態に、胸中の焦燥感は膨らむばかりだ。これも時が巻き戻り、何かが歪んだ結果なのだろうか?
「駄目だ、皆下がっ……」
 俺の言葉は遮断された。遮断するしかなかった。
 崩れるのではないかと思えるほどの、地響き。それと共に、再び膨れ上がる強大な力。巻き起こった、逃れようのない衝撃波。
「きゃっ!?」
「うわああっ!」
「まだ、こんな……!」
 目の前で倒れかけたアリサを受け止めて、空いた手で握った双刃剣で飛んできた瓦礫をなんとか弾く。
 容赦なく襲いかかる、生命力を根こそぎ持っていきそうな緋色の風の前では、立っているのがやっとだった。
 近くに居たら耐え切れないと判断し、後退せざるを得なくなった俺達は、玉座の前――ここへ繋がる昇降機がある辺りへと向かう。
 それはもう、追い込まれたのと同じようなものだ。エンド・オブ・ヴァーミリオンまでは少し距離があるというのに、その〝力〟は計り知れないと、改めて認識する。
 フィーが構えていた銃剣を下ろして、息を吐いた。
「……勝率は……ううん。ちょっと……厳しいかも。これ以上追い詰められたら――」
「な、何か手立てはないのかな……」
「防御結界も有限だ。このままだと全滅……か」
「……させるかよ」
 一歩進み出たクロウ。振り返ったクロウと目が合う。揺らぐ事のないであろう決意を、その瞳に宿しているように見えた。
「何を……!?」
「穴も空いちまったし、ヴァリマールは限界みてえだが、オルディーネはまだ戦える。アンタが庇ってくれたおかげで、オレとオルディーネはまだ余力を残せてる。……先輩のアンタにばかりカッコつけさせられねーからな……オレが奴にトドメを刺す、お前らは一旦離れてろ!」
 時間がねぇから行け、と。クロウは落ち着きの中に焦燥を滲ませて言い放つ。
 汲み取りたくなくとも、汲み取れてしまったものがあった。俺は血が止まったばかりの腹部を手で押さえて、それを振り払うように頭を振る。
「無茶だ! 一人でどうにかなる相手じゃ……」
「こうなっちまった以上、生身でどうにかなる相手でもねぇだろ。それに――……」
「!」
 クロウに思い切り突き飛ばされて、皆が立っている昇降機へと倒れ込む。戦いで受けた傷がじわりと痛みを広げてきて、思わず小さく呻いた。
 顔を上げる。駄目だ。このままでは、瞬時に脳内に描かれた最悪のシナリオに――。
「クロウ、待っ……」
 言葉を遮るかのように容赦なく走った亀裂は、強制的にクロウが立っている場所と俺達が立っている昇降機を、近くの床ごと引き離す。
 アガートラムで飛ぼうとしたミリアムが体勢を崩してユーシスに支えられ、隣で上を見上げたエリオットが、どうして、と零す。すべてがあっという間の出来事だった。
 緋の玉座はどんどん遠くなっていく。衝撃を防ごうと、エマとヴィータが放った淡い光が昇降機を包み込む中、俺は最後に見たクロウの口の動きを思い返していた。
 掻き消され音では伝わらなかった、さいごの言葉――それは。

 ――またな。リィン。

 再会の約束の、言葉。なんて残酷なのだろう。生存できる可能性など、ほぼ残されていないというのに。
 否、だからこそ、なのだろうか。微かに笑って発されたその言葉は、俺の体を貫く勢いで突き刺さる。
 自分は一体、何の為に? 何の為に、今ここに立って――。

「クロウ――――ッッ!!」

 俺の叫びはそのまま、崩壊する音と同化して消え去った。

 ◇ ◇

「……へっ、そんなに派手にぶっ壊さなくても逃げやしねえっての」
 退路を絶つかのように降り注いだ瓦礫を上手く避けて、クロウはエンド・オブ・ヴァーミリオンの前へと立つ。
 咆哮するかのような緋。びりびりと震動する空気から逃れるように、彼は頭を振った。少しだけ振り返れば、ぽっかりと空いた穴がある。
 少し乱暴な逃がし方をしちまったが、蒼の魔女がついてる。きっと大丈夫だろう――。
 そう思いつつ、クロウは目前に立ちはだかる終焉の魔王を見上げた。
 広がる終わりの色。訪れる終末の刻。帝都を覆う死の予感。それらは、遠い昔にも見た事のあるような――奇妙な既視感が、彼へと押し寄せる。
『魔女殿、どういうつもりだ!? まさかこれで終わりにするつもりか!?』
『愚かな……これの出現だけは戒めていたのに……!』
『ああ……俺とヴィータでアイツの隙を作ってみせる。その間、お前たちで凌げるだけ凌いでみせろ』
『判った――それで行こう! クロウ、クロチルダさん! よろしく頼みます!』
 反響する幾つもの言葉。やり取り。流れてゆく記憶の映像の中、ヴィータ・クロチルダの隣に居るのは――〝クロウ〟だった。
 それをはっきりと認識した瞬間、クロウは頭を突き抜けるような確かな痛みに襲われる。
「ッ!」
 クロウの緋の中で、時の歯車が舞い散る。
「……」
『ヴィータも……色々あったが、礼を言っておくぜ……』
「…………」
 地響きに足を取られないように踏ん張り直して、彼は自嘲気味に笑う。
 数秒の思考。
 あまりに現実味がないが、クロウが辿り着いたのは、とある一つの結論だった。
「ハハ……本当の事なのかは分からねーが……時間が巻き戻っても、因果が歪んじまっても……オレの結末は変わらねえ、ってトコか」
 死に際に与えられた夢なのか、遠い真実なのか。彼がそれを掴もうとしたところで、今更、どうしようもないのだが。
 エンド・オブ・ヴァーミリオンが、更に揺らぎを増す。満たされる緋色。迫る消滅。あまり、時間は残されていないようだった。
「そういう〝運命〟……なのかねえ。ったく、困ったモンだぜ」
 熱い。眩しい。けれど、これをあいつらが食らわずに済んだのなら――。
 クロウはオルディーネへと乗り込み、エンド・オブ・ヴァーミリオンへと得物を突き立てる。耐え切る事が出来るかは分からない――顕現出来なくなる寸前の、最後の悪あがきから。
 まだ戦える、という言葉は、クロウの最後の嘘だった。オルディーネの霊力だって、ヴァリマールよりは多く残っていたとはいえ、とっくに限界を迎えていたのだ。

「……じゃあな」

 誰に告げるわけでもない言葉。
 突き立てた得物を引き抜くと同時に、襲いかかった刃のような焔はオルディーネを包み、やがて緋の玉座全体へと広がってゆく。
 クロウの視界が、白と緋に染まる。

 ◇ ◇

 鳴り響く轟音と、舞い散る破片。
 それは下に居る俺達のところへも、少し時間が経ってから届く。
「…………ッ!?」
 ぱらぱらと破片が落ちてくる中、ヴァリマールの霊力の回復を待っていた俺は、ハッとして顔を上げた。クロウと――オルディーネと繋がっていた戦術リンクの光が、突然ぷっつりと途切れてしまったからだ。
 どうにか残ってくれていたものだったのに、それが消えてしまったという事は。
「まさか……」
 ヴァリマール、と。微かに震える声で相棒の名前を呼べば、核を光らせたヴァリマールは、言葉を詰まらせたような声を漏らす。
『……。りぃん。落チ着イテ聞イテ欲シイ』
 言われるであろう言葉は分かっていても、耳を塞ぐ事は許されない。
『蒼ノ起動者――くろうトおるでぃーねノ反応ガ完全ニ消エタ』
「……」
「そ、それってつまり、クロウとオルディーネは……!」
「…………」
 ヴァリマールの言葉の意味、それはつまり――。
 目を逸らしたくても、逸らせない事実。突き立てられたそれによって、心にぱきりと亀裂が走る。エリオットに声をかけられても、何も言葉が出なかった。
 何の冗談だ、と。体から力が抜けて、その場に膝をつく。
「……俺は、どうしてここに居るんだ……?」
 形のない何かが崩れていく。ただ静かに。
「リィン先輩……?」
「何の為に、戦って……何の為に、時間が繰り返されて……」

 どうして俺が生き残ったんだ。
 どうしてあいつが死ななきゃならないんだ?
 どうしてこうなってしまったんだ。
 どうして、何も出来なかったんだ?

 今居る場所が光のない底のように感じられて、ただただ床を見つめる事しか出来ない。
 名前のない感情が、どろりと溢れ出した。止まらずに溢れ続けるそれは、蓋を押さえても押さえても、僅かな隙間から流れ出てくる。
 〝クロウ〟にだって、帰る場所があったのだ。あったというのに。それなのに――。
「…………リィン。これ……」
 落ちてきたものなんだけど、と。ヴィータが横に屈んで、そっと掌を開く。
「……これ、は」
 その上に乗せられていたのは、遠い日の夕暮れの中を舞った五十ミラコインだった。
 ヴィータからそれを受け取れば、セピア色の追憶が流れてくる。
 学生会館の前でぼんやりとしていたその背に声をかけたのが、始まりだったか。
 自分が生徒会の副会長だと知るなり、お近づきの印と言われて、仕掛けはとんでもなく単純な手品を披露され――気が付けば、五十ミラコインを持っていかれていた。
 あの時、すぐにクロウを追いかけていれば取り返せただろうに、そうしなかった理由は今となってはもう分からない。〝前回〟で、あの何の変哲もないコインが、クロウと自分を繋ぐものだったからだろうか。
 一度手を軽く握って、また開く。
 深紅が半分付いたそのコインはきっと、あの時の。
「……利子はそのうちな、って言ったのは、お前じゃないか……」
 血塗れたコインは、光を反射してはくれない。
 強く強く握り締めても、もう、戻れない。何も、変わらない。
「……俺は……っ」

 世界が遠ざかる。秒針の音が響き渡る。

 ――どこかで、歯車の音がした。