Chapter:02 Nightmare

In our hearts, the flames of silent anger.
In our hands, the hammer of judgement that shall topple the dictator.

 時が巻きもどり、因果が歪む。

 あと数時間で日付が変わる頃、自分の部屋で愛用している二丁拳銃を手入れしている影が一つ。
 彼は――クロウは、ふと顔を上げて息を吐いた。それが何によるものなのかは、彼自身にも分かっていない。唯一つ言える事は、そこに己が狂っているという認識も少なからずある、という事だった。
『クロウ、先輩……クロウ。――慣れないけど、努力するよ』
 そう言って笑った後輩の姿が、彼の脳裏を過る。ああ、あいつらは本当に馬鹿だと、込み上げた笑いにはきっと彼自身に対する嘲笑も含まれているのだろう。
 クロウは二丁拳銃を置いて、自室の小窓を開け放った。吹き込んだ風は生温い。どこまでも広がる闇の中で、点在する光の数々はこの小さな街にも多くの人々が暮らし生きているという事を伝えてくる。

 穏やかな街が戦火に包まれる。当たり前の日常が崩壊する。築かれたものが破壊され、すべてが灰と化してしまう。

 自動的に頭の中のキャンバスに描かれてしまった光景を、そっとクロウは消し去った。もう、決めた事だ。立ち止まれもしないし、振り返れもしないし、引き返せもしないのだからと、己の心の奥底に潜むものに突き付ける。
「……ったく。おセンチ気分になるなんて、らしくもねーな」
 やがて、それに刺激された黒い何かはゆっくりと浮上する。あたたかな光の中の、充実した学院生活の中で押し込まれた復讐心に、再び焔を灯すように。永久に埋まるはずのない心の空洞に嵌まりかけた物を、外すように。
 クロウは、ベッドへと身を投げ出した。手入れを終えた拳銃は、机の上で沈黙している。
 閉じた瞳。眠るまでの間、クロウが思考するのは妙な〝感覚〟の事だった。
 頭の片隅で、時折彼は違和感を覚えていた。初めて見るはずのものが、初めてでないような――俗に言う〝既視感〟に、何度も遭遇していた。単位が危ないから、とサラに泣き付いて漕ぎ着けた《Ⅶ組》への編入だって、遠い昔に同じ体験をしているような気さえしていたのだ。初めは明確には覚えていないが、夢でも見たのかと思っていた。が、あまりに頻度が多すぎて、気味が悪いと思ってしまう時もあった。
 不可思議なものやそういった現象も多いらしいエレボニア帝国の事だ、何か起きているのか。
 なんだかんだ聡いクロウは、今自分が居る場所が〝二度巻き戻された世界である〟という真相に手を伸ばしかけていたが、これといった確証も持てず〝気のせい〟と〝何かが起きている〟という、二つの思考の合間で揺れていた。
『またやり直せたらなぁ』
 そんな何気ない同級生の言葉が妙に引っ掛かった事と紐付けられていたら、今頃彼は気付き思い出していたのだろうか。けれど、仕組まれたかのようにそれらがするりとすれ違ったせいで、クロウは晴れる事のない鉛色を心の空にずっと広げている。
「…………」
 誘われるのは、黒の夢の中。
 瞼の裏側に唐突に置かれた鏡には〝クロウ〟が映し出されていた。一歩ずつ近寄って、彼はそれに触れる。向こう側の彼も、同様に近寄って鏡面へと手を触れさせる。
 視線が合う。どちらもまったく動かない。ただ、向こう側の彼はどこか濁った目をしている。消えかけた光を、辛うじて瞳に残しているようだった。

 お前は、何をしたいんだ?

 音のない問いかけは、真っ直ぐに深くクロウへと突き刺さる。鋭利な刃の如く、身体を貫こうとするかのように。

 フェイクの思い出なんて、どうせ壊すだけだ。

 鏡の向こうで、振り上げられる双刃の剣。緋を帯びたそれは鏡面へと叩きつけられ、クロウの目前で鏡は一瞬で破壊される。
 こつり、と。靴底の音を響かせながら、歩み寄ってくるもう一人のクロウ。動かない。動けない。それでも、クロウの心は妙に落ち着いていた。鼓動はいつも通りで、冷や汗も何も流れない。

 後で苦しむのはお前だ。分かってんのか?

 首元に突き付けられた切っ先。それはやがて振るわれて――――

「……っ!」
 勢いよく体を起こしたクロウは、窓の外を見遣る。まだ日付を越えてから、そんなに時間は経っていないようだった。
 クロウは顔面を一度、手で覆う。嫌な汗がじとりとしていて、気分が悪い。
「…………〝悪夢〟だな」
 自嘲気味に笑ったクロウを、夜風がそっと撫でてゆく。
 夜明けの光はまだ、彼方にあった。

 ◇ ◇

 ガレリア要塞に響き渡る警報音を聞いた瞬間、押し寄せた記憶の欠片。襲撃してきた帝国解放戦線と交戦しつつもどうにかそれを整理して、俺は、今居るこの世界が〝二度巻き戻されている〟事を思い出した。
 幻覚の術や、そういった類のものに巻き込まれたのかと初めは思った。けれど、懐にいつの間にかあの懐中時計が入っていた事に気が付いて、現実だと思わざるを得なくなったのだ。

「……やっぱり、そうなっちゃうんだな」

 ひょっとしたら、違う人が解放戦線のリーダーになっているのではないか。目の前に立ち、〝あの時〟とは違って、直接交戦する事になったその仮面の下は、見知った彼ではなく、別の人なのではないか――。
 そんなしょうもない浅はかな希望を抱いてしまった自分を僅かに嫌悪する。加工されていない声を、聞き間違えるはずがないのだ。
 目の前の男の仮面を弾き飛ばした。太刀で弾けるようなものではないと思っていたが、閃いた軌跡は、すんなりと仮面の男の素顔を暴いてくれた。
「……」
 からん、と仮面が落ちる音。
 立ちはだかる男、《C》――クロウは、何も発しない。周囲の面々が息を呑むのを感じて、俺は太刀を構えたまま数歩、歩み寄った。
 ガレリア要塞を吹き抜けた生温い風が、転がる抜け殻の体から漂う鮮血の臭いを運んで行く。逆らう者は容赦なく殺められ、兵士との戦いで追い詰められた彼らは自ら、毒を飲んで自害する。どれが味方か敵か分からない深紅の世界は、記憶の中にある同じ事件よりも、随分と凄惨な事になっていた。
 双刃の剣が突き付けられ、冷たい緋が突き刺すような視線を向けてくる。夕暮れというよりも、血の池を映したようなクロウの瞳は〝以前〟よりも、暗い感情が宿っていた。
 ジュライの件が、重くなったのか。心に氷を差し込むような、暗い焔を燃え上がらせるような、何かがあったのか。
 クロウを変えてしまったそれを知る術は、きっとない。
「……へえ? 俺の事、気付いてたような口ぶりじゃねえか」
 首元の刃が陽に反射して光っても、恐怖心はない。太刀を手放すつもりもない。
「ああ。〝ある意味〟知ってたよ……って言っても、お前は信じてくれないんだろうな」
「クク、それはそれで信じてやってもいいぜ? 但し、知ってる事は全部吐いてもらう」
「それは出来ないな。俺にだって黙秘権ってものがあるだろう?」
 誰も、介入できない。否、介入させるつもりがなかった。だから敢えて、殺伐とした空気を作り出していた。
 これから始まるのは間違いなく殺し合いだ。そんな戦いに《Ⅶ組》の皆を巻き込むわけにはいかない。〝以前〟の十月末、初めてヴァリマールでオルディーネと衝突したあの時とは、何もかもが違いすぎるのだ。
 冷え切った緋と目を合わせた瞬間に、悟ってしまった。もう、このクロウを取り戻すのは不可能だ、と。オズボーンを討っても消しきれないような復讐の黒い炎が、はっきりと背後に見えているような――そんな気さえしてしまうほど、今のクロウは冷酷さしか宿していないように見えた。クロウを縛る復讐の鎖は頑丈で、そう簡単に断ち切れるものではなさそうだった。

「…………もしもの話をさせてくれ。戻ってこい、と言ったら、お前はどうする?」

 それならば、どうするか。ここでクロウを殺すか、殺されるか。この状況で見逃し見逃され、などと甘い事は言っていられなかった。
 歪んだ因果は、クロウを復讐の鬼に仕立て上げてしまった。鉄血宰相を討つ為ならばどんな手段も辞さない、冷酷極まりない復讐者へと。
 ちらりと見上げた列車砲はまだ、動いている。自動発射モードへと切り替えられたそれは、後十分で発射されてしまう。クロスベルへと放たれた殺戮の砲弾は、一瞬で数え切れないほどの命を奪うのだろう。標的のオルキスタワーにはオズボーンだけでなく、共に一年間過ごしたはずの、小さな生徒会長も居るというのに。クロウが、それを知らないはずがないというのに――。
 ぎり、と歯を食い縛った時、クロウは肩を竦める。
「オイオイ。寝言は寝て言えよ」
「……」
「なんだったら今すぐ寝かせてやってもいいぜ? ……一生、目が覚めねぇだろうけどな」
「!」
 呆れるような様子にかつてのクロウを垣間見て、隙を作ってしまったのがいけなかった。
 そこを突くような、甲高い音。首を狙って振られた刃を太刀で弾き、後ろへ軽く飛んで距離を取った。
 胸騒ぎがする。どくりと彼の胸の痣が熱くなって、焼けるような痛みに一瞬だけ襲われた。
 皆が名前を呼んで駆け寄ろうとするのを、太刀で制する。
「もう……戻るつもりはないんだな」
「ねぇよ、冗談もいい加減にしやがれ。俺はここで――お前らを始末する」
「……」
「まずはお前からだ、リィン」
 クロウが、遠い。あまりに遠すぎて、どう足掻いても無意味な気さえしてしまっていた。
 鮮血の瞳に映し出され、明確な殺意が込められて――次の瞬間にはもう、目前までクロウが距離を詰めて来ていた。
「ッ、クロウ……!」
 その一撃は以前よりも遥かに重い。潜った修羅場がより血に塗れたものなのか、それとも、本気で殺すつもりだからなのだろうか。
 双刃剣を受け止めた太刀がぎりぎりと嫌な音を立てて、徐々に後ろへと押されていく。太刀を弾かれたり、折られでもしたら終わりだ。その隙に、クロウは真っ直ぐに心臓を狙うはずだからだ。
 受け止めるな、受け流せ――。脳裏を過った言葉。力で敵わない相手と戦う時のセオリーだ。
 上手く刃を逸らそうとした、その瞬間。
「甘ぇよ。迷ってるようじゃ殺されるだけだぜ」
 双刃剣が緋の光を放つ。
「ぐっ……!」
 炸裂し、目前で弾けた閃光。一瞬の衝撃。吹き飛ばされる感覚。クロウが放ったそれによってあっさりと吹っ飛ばされた俺は、要塞の壁へと思い切り叩き付けられる。
 想像以上の痛みと衝撃に、口の中には鉄の味が満ちる。数秒だけ霞んだ視界には、俺を庇うようにして割り込んだサラ教官と刃をぶつけ合うクロウの姿が映る。
「あんた達はあたしが指示するまで待機してなさい、ヘタに突っ込んでも倒せる相手じゃないわ!」
「ですが、教官……! このままでは!」
 散らされる紫電。サラ教官は身軽な動きで避けてはいるが、防戦を強いられる一方で反撃をする余裕がなさそうだった。ちらりと見えた横顔には、微かな焦燥が見える。コントロールスペースの前には《S》――スカーレット、その前にはクロウが立ち塞がっており、近付く事さえも容易ではないのだ。
「分かってる! チッ、どうにかしてレバーのところまで行かないといけないってのに……随分と立派な武器を持ってたのね、クロウ?」
「ああ、さすがに学院に持ってったら目立っちまうからな。見た事もねぇだろ?」
 ユーシスが放ってくれた淡い癒しの光によって、癒える傷。軽減された痛みを押さえ込んで、俺は切れた頬から流れていた血を拭い立ち上がる。
 クロウとの間で互いの技を衝突させ、その反動で大きく後退させられたサラ教官は、俺の隣に降り立って得物を構え直した。
「……クロウの強さは、あたしと同格レベル。それに加えて優れた法剣使いの《S》と、三体の大型人形兵器……この様子だと、向こうの格納庫も似たような状況になっていそうね」
「サラ教官……」
「あたし達の目的はあくまで〝列車砲の発射の阻止〟よ。作戦が失敗すれば、奴らは撤退するはず……皆で隙を作ってちょうだい。その間にあたしがレバーを下げに行く。そんなに簡単にはいかないだろうけど……サポート、任せたわよ」
「……はい!」
 〝以前〟とは異なり、呼び出された大型人形兵器の数は、三体。それに加えて、今回は《C》――クロウまで立ち塞がっている。
 それでも、止めなければいけない。太刀を握る手に力が籠る。
「あら。向こうは相談をしている余裕があるみたいよ、《C》?」
 《S》が、クロウの方を振り返った。
「数では不利だし、減らしましょうか。何人巻き込めるか分からないけど」
「ったく……こっちは一人なんだ、なるべくそっちに持ってってくれよ?」
 わざと聞こえるようにしているらしい、不穏な会話。
 何をするつもりなのか――身構えた直後、三体の大型人形兵器のうち、一体が突然姿を消す。
「なっ……!?」
 無機質な音が真後ろから聞こえてくる。
「フフ、任せてちょうだい」
 俺が振り返った――時には、遅かった。
 背後に出現した大型人形兵器は、サラ教官達へ向かって頑丈な腕を振るった。そしてそのまま、振り向いた俺の目の前で高熱を放つ。
「リィンさん!」
 その間、僅か数秒。少しでも反応が遅れていたら、重傷を負っていたかもしれない。
 盾ではないから、防ぎきれるかは分からない。けれど、直撃するよりはマシだろう、と判断して構えた太刀に、一気に高熱の光線が浴びせられた。
「っ!?」
 その場で受け止めきれるはずもなく、列車砲の方へ――クロウの前へと、後退りをしながら俺は押し込まれる。
 ぱりん、と砕けた半透明の防壁。どうやら委員長が張ってくれたらしい。礼を言おうとして――サラ教官達が、《S》を挟んで反対側にいる事に気付く。
「しまった……リィン!」
 サラ教官は何かに気付いた様子だったが、《S》の法剣が行く手を阻む。
「させないわ。我らがリーダーの望みなの、悪く思わないでね。――やりなさい!」
 駆け戻ろうとした直後、三体の大型人形兵器が強く光を放った。目を眩まされるわけにはいかないと、腕で遮る。
「目眩しか……!」
「んー、ちょっとアブないかも……わわっ!」
 何かが崩れるような音。爆風のような、強い風に飛ばされないように踏ん張る。自爆したのか、それさえも確認する事が出来ない。
 腕を下ろした時には、目前には瓦礫の山が出来ていた。簡単には越えられそうにない。
「サラ教官、みんな……!?」
 壁や天井を破壊したようで、周囲には焦げたような臭いが充満している。
「……」
 すぐに理解した。俺は意図的に、皆と引き離されたのだと。
 オルキスタワーを狙う列車砲を止められるかは、俺にかかっているのだと。
「《S》……勝手な事を言いやがって。…………さて。こっからが本番だぜ、《Ⅶ組》の重心さんよ」
「……クロウ……」
「妙な気分だぜ。お前に呼び捨てされていても、ずっと前からそうだったように感じるなんてな」
 クロウはやはり〝以前〟の記憶は、戻っていないようだった。
「ま、今の俺はもうお前にとって〝先輩〟じゃねえ。正しい判断だ」
 真横にある列車砲の稼働音が、先程よりも大きく聞こえる。真っ先に過ぎったのは、小さいけれど頑張り屋の、生徒会長の姿だった。
 想像出来てしまう。けれど、想像なんてしたくない。最悪の光景からは、心の中で目を逸らした。

「……オルキスタワーには、トワ会長が居るんだろう!? 列車砲を撃つって事は……!」

 今のクロウへこんな事を言ったって、時間稼ぎにしかならない事は分かっていた。それでも、俺は言わずにはいられなかった。
「……」
 クロウは少しだけ間を置いて、小さく息を吐く。
「……あそこにはギリアス・オズボーンが居る。そして、奴は〝帝国解放戦線〟の標的だ。それは事実だろうが?」
 自分で、自分の表情が歪んだのが分かった。
 何も、返す事が出来ないのだ。クロウの言う通り、それだって紛れもない事実だからだ。
「俺の本分は帝国解放戦線リーダー《C》だ。だから今、俺はここに立ってる」
 血の混じった風を切って、クロウの双刃剣が唸る。
「切り捨てなきゃならねぇモンがある。何事にもな。一つも落とさずに、全部を抱えたまま進もうってのは……贅沢者の考えだ」
 瓦礫の向こうから、刃と刃がぶつかる音が微かに聞こえた。きっとサラ教官達が戦っているのだ。
 ただし、列車砲の発射までに《S》を倒して、瓦礫を乗り越えて来られるかは誰にも分からない。稼働し続けている列車砲は、こうしている間にも残り時間が減っている事を、無情にも伝えてくる。
 数アージュ先のクロウの緋を見て、俺は内側の焔を静かに燃え上がらせた。
 俺がやらないと――否、やらなければいけない。何に代えてもだ。
「………………俺はお前を止めるぞ。クロウ」
「ああ――だったら、こっちは迎え撃つまでだ」
 自分の奥底で、眠っていた獣が起き上がったような気がした。
 一度胸へ手を置いて、深く息を吸う。
 
「二度は言わねえ。――俺を殺す気で来い、リィン。鉄血の野郎への鉄槌……止められるものなら止めてみろ」

 そう言いながら、クロウは懐から拳銃を取り出す。放たれた弾丸を身を引いて避け、一気に距離を詰めれば、太刀と双刃剣が火花を散らしながら衝突する。
 拳銃は懐へしまわれる事はなく、そのまま要塞の床へと放り捨てられた。
「……」
 流れていく追憶の断片。二丁拳銃を使っていたクロウが、片方だけで狙撃をした事が前にもあった。
 過ぎったそれは、俺の中ではまだ新しい方の記憶だった。

 ◆ ◆ ◆

 続けてきた旧校舎の探索も、そろそろ終わるのだろうか――。
 地下にあるおかげでひんやりとしてはいるが、魔獣との戦いで動き回ると汗は出る。それを拭って、俺は太刀を鞘へ納めた。
「近くに魔獣の気配はないな……少し休憩しよう。残りは一気に駆け抜ける」
「ああ、そうするとしよう」
 運の悪い事に、連続で魔獣の群れに襲われてしまったが、ようやく戦いが一区切りついた。
 俺の言葉を受けて、アリサがその場に屈む。その前に置かれている、探索時に持ってきている袋には、名前の分からない奇妙な素材が沢山集まっていた。
「そろそろ、魔獣が落としていったものも整理したかったし……変なものが多いけど」
「使えそうな物もあるだろうし、仕分けといて損はなさそうだな……っつーか、思ってたより広いのな、ここ。あと半分ってトコかねぇ」
 くるりと二丁拳銃を回して収めたのは、クロウ先輩――クロウだ。
 ひょっこりと素材を覗き込んで、そのうちの一つを手に取る。
「はは……先輩はまだまだ元気そうですね」
「ま、オレ様は後衛だからな。前衛のお前らに比べりゃラクさせてもらってるぜ」
 そう言うクロウは、後衛にしては妙に体格が良い気もしていたが、拳銃は撃つ時の反動が強いと聞く。それを両手で一丁ずつ使っているのだから、鍛える必要もあるのだろう、と俺は思っていた。
「それにしても妙だな。連戦して数が減ったとはいえ、静かすぎると思うが」
 周囲を見回したユーシスが、腕を組んでぽつりと零す。
「うんうん、ボクもそう思った。ボク達が強いから、怖くて逃げちゃったのかなー?」
「うーん、そうだといいんだけどな……この先には踏み入った事のない場所もあるし、油断はしないでおこう」
 顕現したままのアガートラムも、ミリアムに合わせて得意げな仕草を見せる。得体の知れない存在ではあるが、こういう部分を見ていると、ちっとも恐ろしい存在には感じられない。
「リィン」
 ミリアムがユーシスの方へと走って行くのを見ていると、屈んだままのアリサから声が掛けられる。
「どうしたんだ、アリサ?」
「その……怪我は大丈夫? ごめんなさい、さっきは私が油断したせいで」
 アリサは少し落ち込んだ様子でそう言った。
 俺の左肩、切れた制服の向こうには、治したばかりの傷がある。戦いの最中、不意を突かれたアリサを、俺が庇ったのだ。
 悪い癖だ、と自覚してはいる。バリアハートで、ユーシスにも指摘されたのだから。
 だが、それでも、体が勝手に動いてしまう時があるのだ。戦術リンクで繋がっていると、尚更だ。
「気にしないでくれ。つい、体が動いちゃってさ。……だけど、すぐにアリサがティアをかけてくれたから、大した傷にはならなかった。ありがとう、アリサ」
「……貴方って人は……でも、そうね。謝るより先に、言わないといけない事があったわ」
 アリサが立ち上がって、一度軽く咳払いをする。
「ありがとう、リィン」
「どういたしまして。俺も気を付けるよ」
 彼女と視線を合わせて笑った、その瞬間。
 ちくりと心臓の辺りが痛んで、俺は思わず手を当てた。時々起こっていた、痣の疼きとはまた違っている。
「……?」
「リィン?」
「いや、何でも。それよりこの素材…………って」
 そこでようやく、俺とアリサは気が付いた。少し離れたところから、並んで面白そうにこっちを見ているクロウとミリアムの存在に。
「ヒュウ、お熱いねえ」
「ねー、クロウ。リィンとアリサって――」
「おっ、なっかなか鋭いじゃねーの。いいか、ああいう奴らはだいたいな……」
「変な事を吹き込むんじゃありません」
 クロウを阻止すれば、ミリアムが頬を膨らませる。不満がある時の仕草だ。
 その理由はすぐに分かった。
「むー、ボクは子供じゃないのに~。オジサンのところで、任務を沢山やってるんだよ? ヘンな事だって、リィン達より知ってるかもしれないし」
「うっ……それはそうだけど、それとこれとは別だろう」
「ったく、こういう事を知っていかないとオトナになれねぇだろ~?」
「だとしても今はそういう事は話さなくていいですから」
「ケチ」
「はあ……」
 軽く溜め息を吐く。旧校舎ではなく、まるで《Ⅶ組》の教室に居るような気分になってしまった。休息中ではあるけど、気を抜いてはいけないのに――そう思っていても、心のどこかで安心感を覚えてしまっている自分が居る事は、否定出来ない。
「まったく……騒がしい。休息の間くらい、静かにしていればいいものを」
 呆れた様子で、ユーシスが言う。
「だが、それも彼らの良さだろう。二人が入って来てから、まだ一週間も経っていないが……クラスに馴染んでいると、オレは思う。《Ⅶ組》という様々な色の集まりに、確かに加わっているように感じるんだ」
「フッ、美術部らしい例えだな」
 〝色〟か――と。ユーシスとガイウスの会話に耳を傾けていた俺の中で、それが引っかかり留まった。ユン老師の教えと、紐付けられそうな気がしたからだ。
 けれど、まだそれには至らない。
「…………」
 ふと、視界の端で、クロウがどこかを見つめてぼうっとしている事に気付く。先程まであんなに元気にしていたのに、一体どうしたのだろう。具合でも悪いのか。
「クロウ? ぼーっとしちゃってどーしたの?」
 ミリアムがクロウの前で手を振ると、座ったまま頬杖をつく。
「……ああ、なんか暢気だなーと思ってな」
「クロウ先輩はいつもそう見えますけど」
「ガクッ……容赦ねえなあ、ホントによ。オレだってな、たまにゃあマジメな考え事をする時だってあるんだぜ?」
 俺は首を傾げた。それが暢気とどう結び付くのか、いまいちはっきりとしなかったからだ。
 何故か胸中の片隅に暗雲が広がりかけて、振り払う。
「!」
 穏やかな時間が続くと思ったが――何かに気が付いたのか、はっとしてガイウスが顔を上げた。
「ガイウス?」
「嫌な風だ。……集まってきている」
「集まってる、って…………――!」
 ガイウスがそう言った次の瞬間――どこから沸いて出てきたのか分からないほどの数の魔獣が、一斉に取り囲んできた。
 互いに背を預けるようにして、俺達は得物を取り出す。
「うわー、結構来たねー」
「何を暢気な事を……どうする、リィン?」
「そうだな……あの奥の奴が親玉、ってところなんだろうけど――」
 魔獣の群れの奥には、一回り大きな個体が一体だけ居た。
 小さい個体を呼び寄せているであろうあれを叩きに行くべきか、それとも。数秒の間で考えを巡らせたが、立ち上がったクロウが俺の前に進み出た。
「ここでお前らが無駄に消耗する必要はねえ。お兄さんに任せとけって」
「先輩? 一体何を……」
「オレが合図したら、一点突破して走れ」
「何か考えがあるようだな?」
「おう。あの一直線になってるところまで誘導出来りゃ、こっちのモンだ。そんなに知能は高くねえだろうし、オレ達が全員走って行けば追っかけて来るだろ。まとめて片付けてやるぜ」
「りょ、了解」
 クロウはこっちを見ずに言う。取り出され回された拳銃は、一つだけだった。
 じりじりと距離を詰めてくる魔獣達。見回しながら、その輪の外へと抜けられそうなところを探す。他の皆も同じ事をしていた。
 そして、一箇所だけ魔獣の数が少なめのところを見付けて――俺達は、視線を交わし頷き合った。
「行け!」
 クロウのその言葉が合図となり、俺達は一気にその場所へ向かって走り出す。
「燃え尽きなさい!」
 先頭を走っていたアリサが炎を纏った矢を放ち、魔獣達が怯んだところへと飛び込む。何体かは溶けるようにして消えていったが、すぐにその隙間を埋めるようにして、新手の魔獣が現れた。
 俺が衝撃波を放ち、ユーシスが続けて駆動時間の短いアーツを発動させる。迫っていた魔獣はガイウスとミリアムが範囲の広い技で吹き飛ばす。後ろには、拳銃を一つだけ構えたままのクロウが続く。
 なんとか輪を突っ切り、クロウが言った直線の道まで駆け抜ける。追ってくる魔獣達は徐々に数を増やしているが、クロウは一体どうするつもりなのだろうと思った――その時。
 
『道は俺が拓く――行け、リィン!』

 頭の中へ響いた、聞き慣れた声。その言葉は。
「……え……?」
 音として耳に届いたわけではないそれは、遠い昔に聞いたもののような気がしてならない。
 思わず立ち止まってしまった俺の方を、アリサが振り返る。
「どうしたの、リィン? 早く行きましょう!」
「っ……あ、ああ!」
 今はそんな事を考えている余裕はない。この状況から抜け出さなくては、と自分へ言い聞かせて、一度頭の隅へと追いやった。
 そうしている間に直線の通路へと差し掛かり、俺達はそこで立ち止まる。一番後ろを走っていたクロウは、俺の横で足を止めた。
 その横顔を何気なく見る。クロウは魔獣達へ銃口を向け、不敵に笑んだ。親玉も奥に居る――思い通りにいったからだろうか。
「先輩、頼みます」
「おうよ、任せとけ」
 構えられた拳銃に、目には見えないものが集まっているのが分かった。迫る魔獣の群れ。間に合ってくれと願うよりも、クロウを信じる事にして――再度、クロウの横顔を見ると。
「……っ……?」
 ぞくり、と。俺の背を冷たいものが伝う。魔獣を見つめるクロウの瞳が、恐ろしいほどに冷酷な緋を宿していたからだ。違和感を覚えつつも見慣れているはずの黒いバンダナが、更にその暗さを引き立てているようにも見える。
 見てはならないものを見てしまったように思えたが、視線を逸らす事は出来なかった。見覚えのあるようでないその緋は、忘れてはいけないものなのだと、心の中の自分が告げていたからだ。

「オレ様のとっておきだ――喰らいやがれ」

 やや低く、あまり聞いた事のない声色。禍々しさを秘めた銃弾は、光線のように魔獣の群れへと向かって放たれる。
 数秒後に巻き起こった、前方からの衝撃。反射的に瞑っていた目を開けばもう、そこには魔獣は一体も居なかった。
「い、今のは……?」
 くるくると拳銃を回していたクロウの瞳に、先程見えていた冷たさはない。いつものクロウがそこに居た。
「んー……急にこう、パッと閃いたっつーか、奥底から沸いてきた感じだな。そんで、それを撃ち出してみた、ってヤツだ。忘れちまったから、しばらく撃てねえと思うけど」
「……よく分からん表現だな」
「何にせよ、助かりました。ありがとうございます、クロウ先輩」
「ま、オレも《Ⅶ組》の一員だからな。いちいち礼なんていらねーって」
 あの銃弾を撃ち出す前に見たものは、見なかった事にした方がいいのだろうか?
 普段はおちゃらけて明るいクロウにも、何か抱えているものがあるのかもしれない。つい、そう考えてしまう自分が居た。
「ほれ、とっとと先に進もうぜ」
 無闇に詮索をするべきではないと、分かってはいる。もし、機会があったら、という程度に留めておいた。
 先輩だとか、後輩だとか、そういう事は今は関係ない。同じクラスの〝仲間〟なのだから。
「そうだな。行こう、皆」
 歩き出して俺を追い越したクロウは、振り返らずにひらりと手を振った。

 ◆ ◆ ◆

 果てしなく長いようで、短い時間。
 何度意識が飛ばされかけただろう。何度倒れかけて、太刀を取り落としかけただろう。甲高い金属音も、数え切れないくらい聞いた。
 クロウとの戦いは、永遠のように思えた。けれど、決してそんな事はない。
 限界が来てしまったのか、自分の中へと〝力〟が引っ込むのを感じて、息を切らしながら膝をつく。
「もう限界か?」
 クロウは、少しだけ呼吸を乱している。肩へと双刃剣を担いで、俺を見下ろしている辺り、まだ余裕なのかもしれないが。
 ただ、クロウも鮮血を流している箇所は少なくはない。向こうも、無傷なわけではないのだ。諦めなければ、勝機はあるはずだ。
「……まだ、だ!」
 折れるわけにはいかないと、どうにか気力を振り絞って立ち上がる。
「旧校舎で見たお前の〝力〟――警戒してはいたが、まだ完全に自分のものにはしてねえようだな? まあ、そのおかげで助かっちまったが……っと」
 あの力に頼らずとも、出来る事だってある。俺はクロウに、最後の力を振り絞って正面からぶつかりに行った。
 刃と刃が当たる寸前、クロウと目が合う。その中を何かが通り抜けたように見えたのは、俺の気のせいなのだろう。
「……」
 きん、と音がした直後、何故か向こうの力が一瞬緩んだ。その隙を突いて、俺はクロウへ全体重をかけて床へと引き倒す。
 顔の横へ突き立てた太刀は、クロウの銀を少しだけ奪った。
「ハハ……まだやれそうじゃねえか。……そう来なくちゃな」
 おかしい、とは思った。手加減されているのだ。でなければ、こんなにあっさりと引き倒されてくれるわけがない。
 それを察して、胸倉を掴む力を強めれば、クロウが笑った。
「…………」
 不利な方に居るというのに、クロウは相変わらずだ。
 対峙したばかりの時に見せていた冷酷さは、少しだけ引っ込んでいるように見える。が、緋の中から薄暗いものが消え去る事はなかった。
 ――クロウを殺してでも止めるのなら、今が絶好の機会だ。このまま、太刀を動かせばいいのだから。
 目の前の一人を殺せば、多くの人が助かる。助かるのだ。ましてや目前の一人は、世界を敵にした犯罪者だ。
 〝以前〟とは違う。そう強く言い聞かせても、太刀を握る手に力が入らない。
「……そういや……まだお前に言ってなかった事があったな」
 細められた緋の中には、頬が鮮血で汚れた俺が映っている。
「言ってなかった事、だって……?」
「俺はお前の〝本名〟を知ってる」
「……本名、って、まさか」
 耳を塞げない。逃れる事も叶いそうにない。クロウに言われるであろう事が分かってしまっても、どうにもならないのだ。
 俺を見るクロウの目に、微かに黒いものが宿る。

「……リィン・オズボーン……そう呼べばいいか? 鉄血宰相の実子でもある、お前を」

 その言葉に、察していながらも動揺してしまったのがいけなかった。
「っ、それは…………う、ぐっ……!?」
 ぐるりと視界が回って、頭を軽く床へと打ち付ける。斬られた傷口ごと強い力で押さえ付けられ、容赦なく襲い来る痛みのせいで抵抗する事もままならない。
 苦しげに声を漏らす自分には、クロウの腕を掴み返す事くらいしか出来なかったのだ。
「安心しろ、殺しはしない。息子のお前に罪はねえからな。ただ……だからこそ、お前に阻止されるわけにはいかねえ」
 手を伸ばせば届きそうな距離で、クロウの緋が揺らめいた。それはまるで〝遠い日〟に見た篝火のような――けれど、あれよりもずっと薄暗く冷え切ったものを秘めた、悲しげな焔だ。
「長い〝悪夢〟だった。…………そいつもやっと終わる。終わらせる事が出来る」
 自分自身へと言い聞かせるような、クロウの独り言。辛うじて聞き取る事が出来たその言葉の意味を、俺はすぐに理解出来ずにいた。
「終いにしようぜ。……鉄槌を下す時間もそろそろだからな」
「……!」
 咳込みつつ立ち上がる。嫌な予感が一気に込み上げた。
「発射まで十分――《S》がそう言ったのは〝フェイク〟だ。サラはそいつに気付いてた。だから焦ってたんだろうな」
 そもそも敵の言う事なんざ鵜呑みにしねえよな、と。乾いた笑みを貼り付けて、クロウは列車砲を見上げる。
「俺相手によく凌いだモンだ。それは素直に褒めてやるよ、リィン〝後輩〟。だが……ちと甘さが捨て切れてなかったな」
 振り上げられた双刃剣。幾多に積み重なった記憶が告げてくる。まずい、逃げろと、警鐘をけたたましく鳴らしてくる。今あれを受ければ命がなくなる可能性だってある、そう言ってくる。
 逃げる――どこへ?
 自分に問いかけたところで、答えなど与えられるはずがない。
 避けなければ。いや、受け止めて、それから――。

「受けてみろ、終焉の十字――」

 思考する時間を与えまいと、迫り来る禍々しい色の衝撃波。死を齎すかもしれない十字。
 もう、回避も防御も間に合わない。スローで動いて見えていたって、自分の体が思うように動かないのだ。
 直後に襲いかかった、貫くような衝撃。
 痛みを超越したそれに、声一つ出ず――少しだけ宙を舞って、体は床へと叩き付けられた。
 まるで何かの数値がゼロにされたかのように、俺の意識は朦朧としてくる。保っている事さえ、限界だ。
「……っ……こんな、ところで……」
 迫る発射時刻。充填される列車砲。瓦礫の向こうから聞こえてくる戦闘の音は、倒れた俺に容赦なく伝えてくる。もう列車砲が発射されてしまうのに、皆は必死で戦っているという事を。

 駄目だ。列車砲が撃たれれば、クロスベルが――。

 無情にも、足は動かない。動くべきところへ、脳からの指示の信号が伝わらない。幾度も斬り付けられ、叩き付けられ、残りの体力を上回る衝撃を真正面から受けた。少し腕を持ち上げただけで痛む体では、なにも、出来ないのだ。
「……よせ……」
 辛うじて吐き出した言葉さえも、もう、クロウへは届きもしない。俺を背にして、クロウは遠く、クロスベルのある方向をただ見つめている。その手から滴る鮮血は少しずつ肌を伝っていき、やがて破壊され砕けた床へと落ちてゆく。
 届かない。――届かない。

「やめろおおおおおおおおッ!!」

 最後の力を振り絞った俺の叫びは、列車砲がその砲弾をクロスベルへと放った音によって、掻き消されてしまった。

 静寂。静まり返る、瓦礫の向こう。鳴り響く何かの音。
 聞こえるはずのない、オルキスタワーの崩壊する音が聞こえたような気がして――意識が一気に覚醒する。
「……う……」
 力なく手離していた太刀には、生々しく深紅がこびり付いている。それはもう、どちらのものなのか判断がつかない。
 列車砲が発射されると同時に気を失ってしまったようで、どれくらい時間が経過したのかも分からなかった。
 顔を上げれば、少し前にクロウが立っている。殺される――と思ったが、クロウは己の得物を持っていなかった。双刃剣は、通信機のようなものと共に、砲台の近くに放り捨てられていた。
 痛みを訴える体を、どうにか起こす。震える手で太刀を握り締め、所々裂けた制服の合間から深紅を滴らせながら、少し俯いて口を開く。
「……列車砲は」
「発射した」
「…………オルキスタワー、は」
「崩壊した」
「………………トワ会長や、オズボーン宰相たち、は?」
「……」
 淡々と答えていたクロウの、最後の沈黙が意味するものは、それほど考えずとも分かってしまう。揺れる視界と痛む全身。ふらつきながらも、俺は立ち上がった。
 ぎり、と歯を食い縛る。ゆっくりと歩みを進めてくるクロウ。ちらりと瓦礫の方を見遣って、太刀を構え直した。

 ――勝ち目はない事は分かっていても、今ここでクロウを止めなければいけない。

 俺の中で沸き上がったのは、自身への怒りだった。情に流されていなければ、列車砲の発射を阻止出来たのではないか。クロウの言った通り、本気で殺すつもりで戦わなかったからこうなってしまったのではないか、と。
 怒り。後悔。痛み。自責。複数の感情は、砕け散った夢と共に刃となって深く、深く突き刺さってくる。
「……俺は……俺は、っ……」
 持ち主が様々な感情に掻き乱されているせいか、かたかたと小刻みに震える太刀。振るわなければならないと頭で分かっていても、体が言う事を聞かないのだ。
 クロウは、太刀を握る俺の手を掴んだ。それを振り払う力はもう、残っていない。
「お前、この期に及んでまだ自分のせいだとか思ってるんじゃねえだろうな?」
「……!」
「相変わらずの、甘ったれが」
 その声色と表情に学院生のクロウを垣間見て、気を取られてしまう。
 手に力が籠められ、そして。

「そんなお前だから、俺は――……」

      

 次の瞬間には、太刀が何かを刺し貫く感覚。
 間を置いてから俺の手へと流れてくる、生温かいものの正体は。

 五秒。
 十秒。
 十五秒。

 起こった事を理解するまでに、少し時間がかかった。
「――――え」
 持ち上げられた太刀はそのまま、クロウの体を、心臓を真正面から刺し貫いた。
 俺の視線の先では、何故かクロウが瞳を揺らしている。
「……クロ、ウ?」
 クロウの緋の中で、時の歯車が散るのがはっきりと見えた。
 一度咳き込んで口元を拭い、クロウは自嘲気味に笑う。
「…………ハッ……〝そういう事〟かよ……」
 ぽん、と。俺の頭に乗せられた手は、もう血に塗れていた。
 何かを諦めたような色を瞳に宿して、クロウはそこから光を徐々に消してゆく。かつての〝クロウ〟のような色がその中に見えたのは、きっと、気のせいなどではないのだろう。
「…………覚悟、してた……のに、な」
「…………っ、クロ――」
 それ以上、言葉は続かなかった。
 糸が切れたように、崩れ落ちるクロウの体。
 ようやく状況を飲み込んで、恐ろしいほどの脱力感に襲われた。そのまま膝を折って、クロウを刺し貫いたままの太刀にそっと触れる。冷たい太刀。閉じられた瞳と、停止した鼓動――そこだけが切り取られ、時間が止まっているかのようだ。

 クロウは死んだ。俺の太刀で、自ら心臓を貫いて、それで。
 死んで償おうとしたのか? 列車砲を撃って、多くの人々を殺めたから?
 止めようと思えば、止められたのではなかったか?
 あの時太刀を動かして、俺がクロウを殺していれば良かったんだ。
 どうしてそれが出来なかった? 〝以前〟の記憶があったからか?
 分からない。分かるようで分からない。
 どこで間違えたのだろう。どこをどうすれば良かったのだろう。
 初めから、どうしようもなかったのだろうか?
 何をすればいい。どこへ向かえばいい。誰に、何をどう話せばいい?
 そもそも俺は、一体何の為に時間を巻き戻してここに居る?

 三半規管が思い切り乱されたような、体の中身だけ揺さぶられているような――込み上げた嘔吐感を抑え込むように、体を折る。
「……どうして、こんな……っ」
 衝動的に太刀を軽く握った手は切れて、指の合間から鮮血が流れ出る。それでも最早痛くも、何ともない。何も感じない。
 慟哭は、虚しさを残す要塞の空へと響き渡った。

 ――どこかで、歯車の音がした。