Chapter:03 Similarity

Heh…It’s very simple, really.
I want to know because I like you.

 時がまきもどり、因果が歪む。

 長かったようで短かった学院祭も、この後夜祭で終わる。十月も終わりが近くなっていた。
そして、先輩でありながら後輩のクラスへ編入するという、かなり異色な事になっていたクロウも今月いっぱいで《Ⅶ組》から居なくなってしまう。
 以前のような〝先輩と後輩〟という関係に戻るのに、僅かな寂しさを覚える。初めは戸惑った呼び捨てに、慣れてしまったせいもあるのだろう。
「その……出来れば呼び方はこのままでいいか? 今更〝先輩〟付けに戻すのもちょっと寂しいっていうか……」
「はは……当たり前の事をわざわざ確認してんじゃねぇよ」
 その言葉にほっと安堵した直後、クロウは何かを思い出したかのように懐へと手を突っ込む。

「――そうだ、いい機会だからこいつを返しておくぜ」

 俺の掌に乗せられた銀のそれは、ある意味すべてのきっかけだった小さな、小さなコインだった。手品と称してあっさりと持っていかれたあの日からもう、半年が経ってしまっている。時間が経つのは早いものだった。
「これは……。……すっかり忘れてたよ。あれから、一緒にエリゼを助けてステージも手助けしてくれて……。そんなのじゃ足りないほど色々して貰ったと思うんだが……」
 オル・ガディアと対峙した時の加勢。そしてその後の、五十ミラ分の働きは出来たかよ、というクロウの言葉を思い返して苦笑する。こんな一枚のコインでは足りないほど、クロウには世話になってしまっている気がしてならなかったのだ。
「そりゃ、お互い様ってやつだ。こう言っちゃなんだが、俺が借りたミラを返すのは相当珍しいんだからな? ま、素直に受け取っておきな」
 コインを渡したクロウは、皆の方へと歩いて行こうとする。
「あ……」
 ちょっとだけ、寂しくなるな。
 そう心の奥で思った直後、クロウの姿が一瞬消えかけて、反射的に目を擦る。
 クロウは確かに目の前に居るのに、その存在がやけに遠く感じてしまうのは何故なのか。
 答えは掴めそうになかったが、自然と言葉を探していた。どこか遠くへと行ってしまいそうなクロウを呼び止めたい、そう思ってしまったからだ。

「――そういえば。貸して半年くらい経つけど、利子の方はどうなってるんだ?」

 呼び止められたクロウは、振り返って苦笑いを浮かべる。
「……やれやれ。守銭奴になったじゃねーか」
「悪い先輩がいたからな。すっきり清算されるのもちょっと寂しい感じだし…………どうかな?」
 これを、人は〝懐いている〟と言い表すのだろうか。自分自身にもよく分かっていない名前のない感情が、言葉となってクロウへと真正面からぶつけられる。クロウとの繋がりが今よりは薄くなってしまう事を、心のどこかで寂しく思っていたのかもしれない。
「ったく、甘ったれめ。わーった、そのうちにな」
 それを察したのか、片目を瞑って笑ったクロウ。それを見て妙に安心感を覚えてしまったのは、何故なのだろう。

 ――秒針の音が、一度だけ鳴り響く。

 クロウ、と。篝火の周りで踊る人々を見ている彼に、声を掛ける。
「おう、お前か。さっそく利子の取り立てにでも来たのかよ?」
「はは……実はエリゼにフラれちゃってさ。せっかくだから、一緒にどこかに座らないか? その辺で飲み物でも買って、一休みしようと思うんだが」
 篝火のところで踊ろうにも、誰へ声を掛けようか迷ってしまう。それに、クロウとはもう少しだけ話をしたい気分だったのだ。
「やれやれ、仕方ねえ。付き合ってやるとするか。売店で酒でも買ってこうぜ」
「いや、売ってないから」

 ◇ ◇

 篝火の近くで、アンゼリカとジョルジュが一緒に踊っている。
「ゼリカとジョルジュめ、楽しそうに踊ってやがら。クク、こいつはひょっとするとひょっとするかもな?」
 クロウが隣に腰掛けるリィンへ向けて悪戯っぽく笑ってみせても、こういう事に関して鈍い彼は、頭上に疑問符を浮かべている。
「……どういう意味だ?」
「……やれやれ、朴念仁め。案外お前みたいなヤツの方が女泣かせなのかもな……」
「へ……?」
 じとりとした目で見られても、リィンは言葉の意味がまったく分かっていないようだった。
 僅かに首を傾げてしまった彼を見て、クロウはそれ以上深くツッコむのはやめよう、と判断する。
 察しがいい事は多いというのに、色恋沙汰にはわりと疎いという性格は、損をするのか得をするのか。案外どちらも掻っ攫っていくタイプなのか――。
 今考えても仕方がない事だと、クロウはその思考を遮断した。
「いや、なんでもねえ。だが、せっかくの機会だ……先輩として、一つアドバイスをしてやるとするかね」
「アドバイス……?」
 これから離反し突き放す事になる後輩へ、どうしてこんな事を言いたくなってしまうのか。
 クロウがもう一人の己へと問いかけても、返ってくるのは沈黙だけだ。
 息を少しだけ吸って、口を開く。
「いいか……くれぐれもダチは大事にしとけ。ダチってのは、学院生活において一番大切な財産みたいなもんだ。今後卒業して、離れ離れになってもそいつは絶対に裏切らねえ。そんなヤツを一人でいいから、しっかりと見付ける事だな」
 この言葉が後に残酷なものへと変わろうとも、今言わねばならないとクロウは思っていた。
 遠くない未来で起こるであろう事を分かっているからこそ、自然と、零れ落ちる雫のように発する事が出来たのかもしれない。
「………………」
 さてどんな反応を返してくれるか――とクロウがリィンと目を合わせると、彼はぽかんとしていた。
「ん、どうした?」
 意味を理解しようとしているのか、それとも。
 ぱちり、と瞬きをしたリィンは、なんとも意外そうな顔をしている。
「いや、クロウでもたまにはまともな事を言うんだなって」
 この後輩、容赦がない――。
 クロウはわざとらしく項垂れ、これまたわざとらしく溜め息を吐く。
「……おいおい、ひでえ言い草だな。人生の先輩として、ありがたーい助言をしてやったってのによ」
「はは……恩に着るよ。確かに、友人の大切さはこの学院生活で実感してるしな。でも、俺からも一ついいか?」
 篝火を映していたリィンの瞳に、クロウの緋が映り込む。それはまるで鏡のようだ。
 釘付けにされたように、クロウはそこから目を逸らす事が出来なかった。ちり、と、脳内を焦がすような痛みが、警告をするかのように彼に火の粉を振りかけてくる。

「俺はクロウの事も大切な友人と思ってる。先輩として以上にな」

 言い聞かせるような優しい声色でそう言ったリィンは、飲み物を手にして笑う。
「まあ、クロウだと〝大事な悪友〟って言う方がしっくりくるけどな」
 カチリ、と。クロウにだけ、確かに聞こえたそれは。
「……」
 この場では聞こえるはずのない音が、鳴り響く。忘却の果てへと追いやられていたものを呼び起こす。
 ゲンキンなヤツだ、と返したいところだったが、クロウは言葉を失う。大事な悪友――その言葉を聞いた瞬間、波のごとく押し寄せたものを、理解する事で精一杯だったからだ。
 時の歯車が散る。
 クロウは思わず、瞳を閉じた。その瞼の裏側を、幾つもの記憶が走り抜けてゆく。そして彼は、それらを自身の記憶として取り戻す。
「…………」
 何かに貫かれた痛みの中、未来を指した時の事。
 鉄血宰相を狙撃し離反した先輩――〝リィン〟を追いかけた時の事。
 ガレリア要塞で本気で殺し合いをして、列車砲を撃ち、リィンの刀で自ら命を絶った――あの時の事を。
「クロウ? どうしたんだ?」
 突然目を閉じ、俯いてしまえば心配するに決まっている。具合でも悪くなったのかと、クロウを覗き込むリィン。
 ハッとしてから顔を上げて、彼はゆっくりと首を振る。乾いた笑いを貼り付けて、一先ず拾ったものを裏側へと押し込んだ。まさかそんなはずは、と浮かんだ仮説を一旦否定するが、それにしてはあまりにも鮮明すぎるのだ。
「……や、気にすんな。ちょっと昔の事を思い出してな」
 後で整理をしようと、クロウはリィンの心配をやんわりと押し退ける。
「昔の事?」
 深く詮索をされる前に、彼は逃れようと手を打つ。
「っと、そうだ。もう一つアドバイスだ、リィン。よーく聞いとけよ」
 言わなければ、言っておかなければならない事なのかは、今のクロウには分からなかった。
 けれど、自分の中で泉のように勝手に湧き出してきてしまっている言葉を、彼はそのままにしておく事が出来なかった。
「嬢ちゃん達から聞いたが……お前、仲間を庇って怪我した事があるらしいな?」
 きょとんとして、リィンは頷く。
「あ、ああ。確かに実習の時とかにあったけど……」
「ま、オレから言う必要はねえとは思うが……一応言っとくぜ」
 リィンの肩へを手を乗せて、クロウが一度、息を吐く。

「もしお前が居なくなっちまったりしたら――悲しむヤツは多いって事、忘れんなよ」

 〝らしくない〟言葉だと、彼は分かっていた。そのまま跳ね返したっていいようなものだった。
 それを受けて、リィンの暁の中を小さな光が駆け抜ける。リィンはクロウへと何かを問いかけようとして、途中で言葉が止まってしまい出てこないらしい。
 気付きかけて、やはり気付く事が出来ないようだ。

 自身の感情をはぐらかすようにして、クロウはその頭へと手を置いてやった。

 ◇ ◇

 甲板の扉を開くと、その先には青と銀の影が一つずつ。
「ラウラ、フィー。ここに居たのか」
 俺が声を掛ければ、二人とも同時に振り返った。
 カレイジャスはあと三十分もしないうちに、目的地の上空へと到着する。ゼムリアストーンの大結晶が眠る精霊窟巡りも、次で四ヶ所目になっていた。
「そろそろ着くの?」
「ああ、あと三十分かからないくらいかな。今回は二人とも来てもらうから、準備をしておいてくれ」
「うん、承知した」
 ラウラとフィーへ声を掛けたのは、決して気紛れなどではない。数日前、訓練室で共に鍛錬をして、更に連携を強めている姿を見かけていたからだ。きっとヘイムダルでの実習の時のように、実戦で試したいのではないか――そう思い、俺は二人が居そうな甲板へと足を運んだのだった。
 二人は顔を見合わせて笑い合ったが、フィーが何かを思い立ったかのように、俺をじっと見つめてくる。
「……リィン。一つ聞いてもいい?」
 フィーの新緑の瞳に真っ直ぐに見つめられ、俺は頭上に疑問符を浮かべる。この状況で一体何を問われるのか、まったく予測が出来ないからだった。
「? 構わないけど……どうしたんだ?」
 甲板を吹き抜ける風が、フィーの襟巻きを揺らしていった。
 少し間を空けてから、彼女は至極純粋な質問を投げかける。

「リィンはクロウの事が〝好き〟なの?」

 それは、自分の中に予想として並びもしなかった問いかけだった。
「フィー……?」
「へ……」
 小首を傾げるラウラ。俺はきっと間の抜けた表情をしているのだろう。
 脳裏を一瞬過ぎったのは、かつて委員長と共に校正を任された〝登場人物が男ばかりの青春小説〟だった。内容がなかなかに過激だったが故に、忘れる事が出来ずにいたが、フィーが言うからにはその中に出てくるような〝好き〟とは違うのだろうと、すぐに脳内で結論が出る。
 それを察したのか、フィーが苦笑いを浮かべた。
「……ごめん、言葉が足りなかった。そういう意味じゃないから」
「はは、だよな……えっと、つまり前にラウラがフィーに言った〝好き〟と同じか、って事でいいか?」
「そう。察しがよくて助かる」
 フィーへと返す言葉を探しながら、俺は甲板の縁へと寄りかかる。
「……そうだな……」
 思い返したのは、白銀の巨船でのクロウとのやり取りだった。クロウにとって思い出の一部でもあるフィッシュバーガーの味は、少し時間が経った今でも、ちゃんと覚えていた。作ろうと思えば、完全に再現は出来なくとも作る事だって出来そうだ。
 流れる雲を見つめたまま、口を開く。
「…………俺は、あいつの事がある意味〝好き〟なんだと思う。だから、パンタグリュエルであいつの過去を知りたいって思ったし、取り戻してみせるって言ったんだろうな」
 士官学院も、エリゼも。そしてお前も取り戻してみせる――。
 パンタグリュエルでの別れ際、夢のような話だと頭の片隅で分かってはいても、心で思うがままにクロウへそう告げた。
「あいつの前では、お前の過去を知らないと俺達は前に進めない、って言ったけど……俺は単純に、知りたかったんだとも思うよ。……あれはきっと俺の〝ただのわがまま〟でもあるし〝それ以上でもそれ以下でもなかった〟んだ」
「ほう、あの時に私が言った事だな。そなたも似たようなものだったという事か」
 ラウラはヘイムダルでのあの夜を思い出したのか、納得したように頷く。
「……分かった。それが聞ければ十分」
 俺と再度視線を合わせて、フィーは後ろで手を組んだ。
 どうやらフィーの中で、何かがすとんと落ちたらしい。微かに笑って、彼女は目の前の俺を見る。
「リィンほど関わりはなかったけど……わたしにとっても、クロウは同じクラスで、そうじゃなくても同じ学院の仲間だから。実習に行ったり、ステージを楽しそうに一緒にやってくれたのがフェイクだなんて言わせない。リィンがその為に前を向くなら……横や後ろは、わたし達が守るから」
「フィー……」
 その言葉は一人で抱え込みがちだった俺にとって、とても心強いものだった。
 改めて、一本支えが加わったような感覚。そうだ、自分は一人ではないのだと、再認識をしたという事でもあった。
「ふふ、そうだな」
 ラウラはそんなフィーの隣に並んで、同じくこちらを見る。
「私も同じ気持ちだ、リィン。内戦の先に何があるかは分からないが、戦う時は全力を尽くそう。そなたが、クロウに届きたいと思うその〝想い〟……決して無駄にしない為にも」
「……ラウラ」
 心の中にふわりと沸き上がったものを掴んで、本当に《Ⅶ組》の仲間達と出会えて良かったと思った。士官学院へ来なければ決して得られなかった友情と日々は、今の俺を支える大切な柱となっていたのだ。
「ありがとう。よろしく頼む、二人とも」
 俺の言葉に、ラウラとフィーは力強く頷き返す。
「ああ。この剣で道を切り拓こう」
「ん。任せて」

 ◆ ◆ ◆

 道は俺が拓く――。その言葉を聞いて、駄目だ、動かなければと直感してしまわなければ、違った結末になっていたのだろうか。
 瞬間、過ぎった記憶の映像の中で、今対峙している緋の魔王に貫かれているオルディーネが見えてしまった。それが避けたい最悪の結末だと気が付いて、次の瞬間には前を行く蒼を追いかけていた。
 まるで分かっていたように、オルディーネは一度はエンド・オブ・ヴァーミリオンの尾を回避した。が、後ろから見ていた俺は、それが離れた場所で曲がって、再度襲いかかっている事に気が付いてしまったのだ。
 迫る光弾。反対側からも襲い来る尾。前方からの攻撃を弾くのが精一杯で、オルディーネはそれを避けられそうにない。
 まずい、このままでは――。
 エンド・オブ・ヴァーミリオンの尾は切断など出来るはずもなく、頑丈なそれは弾く事も容易ではない。それならばどうするべきか、考えるよりも先に動いていた。

『クロウ、危ないっ――!』

 無我夢中だった。その先の事など分かってはいても、俺の命じるままに、ヴァリマールはオルディーネをその場から離すようにして突き飛ばした。
『…………ぐ、ぅっ……!』
 数秒もしないうちの、衝撃。込み上げる鉄の味。明かりが点滅を繰り返す核。
 何が起こったのかを理解するよりも早く、俺の体には呼吸が出来なくなるほどの痛みが襲いかかる。フィードバックが与えた反動が、容赦なく生命を奪おうとしているのだ。ヴァリマールを刺した魔王の尾は引き抜かれもせずに、そのまま深く抉るようにして貫通してきた。
 飛ばされそうな意識を引き戻すも、コクピットの座席へと力なく倒れ込む。どこをやられたのか、もう理解していた。
『リィンお前、何を――!?』
 突き飛ばされたオルディーネから、焦燥混じりの声がヴァリマールへと飛んでくる。そうしている間にも、エンド・オブ・ヴァーミリオンは次の攻撃を仕掛けようと動き始めていた。
 血の流れ出る胸へと手を当てて、己の鮮血を握る。声を振り絞る。
『――カスっただけだ、立ち止まらなくていい! 前を向いて、お前に出来る事をやってくれ!』
 その言葉は、ごく自然に零れ落ちていた。
 俺の言葉を受けて、オルディーネはエンド・オブ・ヴァーミリオンへと立ち向かう。最後の力を振り絞って、魔王の尾を掴み動きを封じているのに気が付いてくれたのだろう。
「……」
 それを見届けようと、どうにか意識を保つ。流れ出る鮮血は止まりそうになかった。
 浅い呼吸を繰り返して、小さく呻く。
「…………」
 死へ向かう中――少しづつ、俺の脳内を侵食するように広がるものがあった。薄れゆく意識の中に、乱雑に落とされる幾つもの本。そこには、今の自分が辿ってきたものとは異なる光景が描かれていた。
 そして最後のページには、焔の懐中時計がある。三月も終わろうとしていたあの日に、第三学生寮のあの部屋で拾い上げたそれが何なのかを、俺はようやく認識する。
「…………はは……そうだった、よな……」
 繰り返した時間。その最後の辺りでは決まって、あの懐中時計の歯車の音が聞こえていた記憶がある。原因はきっとあれなのだろうと、それが入っている懐へ手を伸ばしかけて――もう、体の自由が利かなくなりつつある事に気が付く。時間の問題なのだろう。
『りぃん』
 ヴァリマールに名を呼ばれて、掠れた声でごめん、と謝っておく。
『何故りぃんガ謝ル?』
 俺の勝手で、お前にまでもう治らないかもしれない傷を負わせてしまっただろう?
『起動者ト共ニ在ルノガ我ラダ。……ソナタニ出会エタ事、嬉シク思ウ』
 そっか、ありがとう。――俺も、ヴァリマールに出会えて良かったよ。
 やがて、目を開けていられなくなる。オルディーネがエンド・オブ・ヴァーミリオンへと迫るのを揺らぐ視界の中で認識したが、すぐに黒に閉ざされてしまった。

 ――このまま、俺は死ぬのか。何も遺せないまま……。

 徐々に沈んでいく意識。抗おうとしても、流れ続けるものが許してはくれない。
『りぃんヨ……セメテ彼ラニ……』
 遠のくそれは最後に、ヴァリマールの言葉を拾い上げた。

 ――遠く、遠くで秒針の音がする。

 リィン、と。呼ぶ声が聞こえる。幾つも。目を覚ましてくれ、と言うそれは、震えた声だった。
 応えなければ――。恐ろしいほどに重く感じる瞼を、ゆっくり、ゆっくりと押し上げる。もう一度目覚める事はないだろうと思っていたが、最後の挨拶をする猶予くらいは与えてくれるらしい。
「……っ、俺、は……?」
「! リィンっ!」
 徐々に開けた視界の中には《Ⅶ組》の皆やサラ教官、クロチルダさん――そして、一番近くにはクロウがいた。
 息が詰まるような感覚に咳き込む。口元に当てた手には鮮血が付着している。浅く呼吸を繰り返すたびに、視界の光は少しずつ消されようとしていた。
 死からは逃れられない――俺のみならず、その場に居る誰もがそう思ってしまうほど、俺が負った傷は深かった。委員長とセリーヌの懸命な治癒のおかげで血はだいぶ止まってはきたが、それでも、もう手遅れだ。皆、もう助からないと告げている自分と、諦めてはいけないと告げる自分が内心で戦っているのだろう。
 後悔をしているようなクロウと目が合って、俺は罪悪感を抱く。記憶が戻っているのだとしたら、更に残酷な結果になってしまったのだから。

「……ごめん、クロウ…………こんな、形で、生き残っても……お前を、苦しめるだけ、だよな……」

 分かっていたはず、だったのに――。
 言葉に出来なかった部分は感じ取ってくれたらしい。クロウが俺の肩を掴んでいた手に力を籠める。
「やめろ、いいからもう喋んな……! くそっ、ヤツの顕現の事をはっきり思い出せてりゃ、こんな事には……」
 妙な靄がかかっていて、エンド・オブ・ヴァーミリオンが顕現するという事を思い出せなかったというクロウ。それでも、断片的に思い出せていたものを繋げられていれば――と、今更どうしようもない後悔に襲われているようだった。
 そんなクロウを見て、軽く目を閉じる。そこへ映ったのは、星空の下でのトワ会長達との会話だった。
「……だけど、約束……これで、守れるな。トワ会長や……アンゼリカ先輩、ジョルジュ先輩と…………一緒に……」
 〝最初〟は、果たせなかった〝約束〟。まだ立ちはだかるものはありそうだったが、ようやく果たせるかもしれないと、安堵したように息を吐いた。死に向かっているというのに、穏やかな気分だ。かつての〝クロウ〟も、同じだったのだろうか。
 クロウは、入り乱れた心の中から言葉を必死で拾い上げているらしい。俺の肩を掴む力を強めて、少しだけ声を震わせる。
「確かに、約束は守れるかもしれねえが……こんな形で叶ったって、どんなツラすりゃいいんだよ……あいつらだって同じはずだ!」
 もう少しで来るであろうトワ達と、どんな顔をして再会をすればいい。
 後輩かつ〝悪友〟を犠牲にして、帝国を騒がせたテロ組織のリーダーが生き残りました、だなんて、嘘であってくれと願うしかない結末だろうが――。
 クロウの内心で渦巻く感情に気付いて、その頭へそっと手を置く。少し雑に銀を撫でれば、クロウの表情が歪められる。

      

「はは……甘ったれ……なのは、お互い様……かな。……俺は……お前の為に、犠牲になったなんて……思っちゃ、いないよ」

 全部、自分の為でしかなかったんだから。だから、これは俺のエゴだ。
 そこまで言う前に、再度痛みが襲いかかって咳き込んだ。本当は喋るべきではないと分かってはいたが、それでも、残された時間で遺せるものを作りたかったのだ。
「エリゼに、怒られちゃうな…………父さんや、母さんにも……」
 涙を浮かべたエリオットが、手を握ってくる。
「そうだよ、リィン! エリゼちゃんが待ってるんだよ!?」
「生きて戻って来るって、約束していたじゃない……!」
 兄様、と。脳裏で反響した澄んだ義妹の声は、次第に溶けて消えていく。
 ああそうか、こっちの約束は果たせなくしてしまったのか――と、苦笑した。すべてを守る事はこんなにも難しいのだと、実感して。
「ダメ、これ以上は……っ!」
 ぱちん、と弾けた治癒の光。放出し続けていた力が限界に近いのか、膝をついて息を荒げる委員長。
 もういいんだ、と言えていれば、どれほど良かっただろう。断ってしまうのは申し訳なくなるほどに、委員長は必死だった。
「諦めるんじゃないわよ、エマ! アタシ達がやらないと……」
 セリーヌの言葉に、彼女は強く頷いて顔を上げる。諦めまいとすぐに治癒を再開し、再び傷口へは優しい光が降り注いだ。
 一人と一匹へ感謝を伝えるべく、痛みに耐えて言葉を発そうとする。もう助からない事は治療をしているから一番分かっているはずなのに、彼女達はどこまでも優しい。
「ありがとう……委員長、セリーヌ。……その気持ちだけでも、十分だ……」
 泣きそうになるのを堪えながら、治癒を続ける委員長。そんな彼女を支えるアリサやラウラも、後少しで零れ落ちそうなものを必死に堪えているようだった。
「……リィンは、もう……」
 その様子を見ていたサラ教官は、ちらりと隣に立つクロチルダさんを見遣る。彼女はゆっくりと首を縦に振った。魔女と呼ばれたクロチルダさんでも、死の淵にある者を癒す事は叶わないらしい。
「……ええ。せめて痛みだけでも……」
 蒼の光を放つクロチルダさん。それは俺を一瞬だけ包んで、言葉を紡ぐたびに襲いかかっていた痛みを軽減する。
 ありがとう――そう言う代わりに笑いかける。彼女は目を伏せて、それきり何も言わなくなってしまった。
 少しずつ、残された時間は減っていく。辛うじて光を残しているはずの瞳に大切なものを順に映し出して、俺は最後にクロウの緋色を真っ直ぐに見た。
「……お前と、同じ事を、してしまったけど…………こういう、気持ち……だったんだな……」
 霞んで皆が見えなくなっていく。恐ろしいほどに眠く、もう目を開けていられない。
 ああ、何と言い遺すべきなのだろうか。まともに回らない頭では〝クロウ〟のように、皆の背を押す言葉が何も思い付かない。
「バカ、野郎が……っ」
 せめて、かつての俺を押してくれた言葉を遺そう。呪いになってしまうかもしれないと、分かっていても。
 どうにか伸ばした俺の手は、虚しく宙を彷徨う代わりに――

「〝ただひたすらに、ひたむきに、前へ〟……。…………お前が、遺してくれた……言葉だ。……だから……きっと…………」

 眠るようにしてクロウへ体を預け、深く息を吐く。それはさいごの言葉だった。
「――――――」
 言葉を紡いでいた口は、もうその続きを言う事は叶わない。
 暁は闇に閉ざされ、もう陽の光を浴びる事はない。
 未来を指した手はぱたりと地に落ちて、もう動かない。
「…………リィ、ン……?」
 名前を呼ばれたのを最後に、何も聞こえなくなった。

 ――どこかで、歯車の音がした。