Chapter:04 Wish

I wanted to find myself, I guess.

 時がまきもどり、因果がゆがむ。

「珍しい事もあるものね。こんな時間まで起きているなんて」
 パンタグリュエルの甲板で眼下に広がる雲海を眺めていたら、声が掛けられる。振り返らずとも声の主くらい、すぐに分かった。
「……ヴィータか。なんだか寝付けないんだ」
 はあ、と。溜め息混じりに俺は言葉を発して、歩み寄ってくる蒼の歌姫へと向き直った。
 夜風に吹かれ、揺れる蒼。その後ろには、どこまでも続く星の絨毯。内戦中とは思えないほどの綺麗な星空は、オペラ歌手としても活動していた彼女の背景としては十分すぎるくらいだ。
 蒼を揺らしながら、立ち止まったヴィータ。今の時刻を思い浮かべたのか、思わず苦笑して俺と視線を合わせてきた。
「明日はユミルへ行くんでしょう? 戦いは避けられないと思うけど」
「分かってるよ。あいつが――クロウが、すんなりこっちの要望を受け入れるわけがないだろうし。やらなきゃいけない事だなんて、とっくに」
「強行手段も辞さないのね?」
「……場合によっては。郷になるべく被害は出したくないからな」
 思い返したのは、以前小旅行で訪れた際のささやかな思い出だった。
 俺の記憶の中にあるユミルは、とてもあたたかな街だ。シュバルツァー夫妻は勿論、郷の人々も、小旅行として訪れた俺達を優しく出迎えてくれた。振舞われる食事も絶品で、露天風呂は疲れを癒してくれた。
 そんな場所が、理不尽な戦火に包まれるところは見たくないのが〝今〟の正直な気持ちだった。
「カイエン公には悪いけど……正直に言うと、クロウとオルディーネを貴族連合へ引き込むのは無理だと思う。だから俺はそうする〝フリ〟だけさせてもらうさ。〝幻焔計画〟の事を考えると、引き込んでしまったら意味がないだろう? ……あ。でも、後で戦う事も出来なくもない……のか」
「相変わらず素直なのね。本当はクロウ君と二人きりで話したい事がある、って顔に書いてあるけど?」
「え」
 間の抜けた声を漏らした俺を面白く感じたのか、彼女は小さく笑う。
「リィン」
 間を置いて僅かに息を吐き、ヴィータは俺の瞳を真っ直ぐに見る。特に返事はせず、彼女と視線を合わせておくだけにした。
「あんまりそばに居ると情が移るわよ。……だいぶ移っているかもしれないけど、気を付ける事ね」
 それは、俺の中では予測が出来ていた言葉だった。
 痛いほど分かっているからだ。自分自身でも、あの場所――トールズ士官学院という場所で、青春を謳歌しすぎてしまった事。学年が違うというのに何故か目を離せず、放っておけなかった後輩とそのクラスと過ごした時間も、楽しいと感じられるものであった事。それらを置いて行かないといけない事も含めて、すべて理解していた。
 だからこそ、身に染みるし突き刺さる。それを分かっていながら、ヴィータは容赦なくそう言ってきてくれるのだ。
「……警告、感謝するよ。ヴィータ」
 苦笑して、頬を掻く。本当にそう思ってるのかしら、とからかいつつツッコみたい様子だったが、ヴィータはそうは言わずに夜空を見上げた。
「どういたしまして――……と、言いたいけど……あまり人の事は言えないかしら」
「…………?」
 そんなヴィータの姿が、俺の視界の中で一瞬だけ揺らいだ。直後に生じた、微かな違和感。
 確かに自身の言葉として発したはずなのに、それが間違っているかのような奇妙な感覚は、ヴィータの名を呼んだ瞬間に浮上する。
 魔女として導き、ヴァリマールと出会うきっかけを作ってくれた彼女を、いつの間にか俺は〝ヴィータ〟と呼び捨てをするようになっていた。
 けれど時折、彼女を〝クロチルダさん〟と呼んでいたような記憶が一瞬だけ過る事があった。行った事もない場所で、或いは、見慣れたはずの街の中で。

 目の前の彼女は〝ヴィータ〟だ。そう呼んでいたのは、数年前の、それこそ出会った頃の話じゃないか――。

 今まで感じた事のなかった感覚に、俺は戸惑う。
「リィン?」
 漂う気配が変わった事に気が付いたのか、ヴィータが再度、俺と目を合わせたその時――自分の奥から〝誰か〟が出てくるような気がして、微かに声を震わせる。
 駄目だ、違う。
 出てくるんじゃない。
 俺じゃない!

「………………クロチルダ……さん?」

 同時に、内側へその〝誰か〟が引っ込むような気がして、俺は自分の胸元を軽く握り、ヴィータから視線を逸らす。
 懐かしい呼び名。ヴィータは不思議そうな面持ちで見つめてくる。
「って――何を言ってるんだ、俺は」
 頭を振りながらそう言えば、彼女はほんの一瞬だけ瞳を細めた。けれど、すぐに片目を軽く瞑って、茶目っ気を表に出す。
「……。フフ、どうしたの? 初心にでも返りたくなったのかしら。あの頃を思い出すのも悪くはないから、私は構わないわよ?」
「か、からかわないでくれ……」
 俺にじとりとした目で見られても、慣れている彼女は苦笑すら浮かべない。
「……」
 腕を組み直して、ヴィータは思案するように少し俯き、そのまま黙り込んだ。その表情から突然、見せていた茶目っ気が消えて、思わず彼女に半歩近寄る。
「……どうしたんだ?」
 ヴィータの紫の中に、俺が映し出されている。
「リィン。何か違和感を覚える事って、ない?」
「違和感……?」
「そう。例えば――〝今ここに居る事〟とか」
「今……」
 予測すらしていなかった彼女の問いかけに、俺は思わずぽかんとしてしまう。
 何と返すべきなのか。先程感じたものを正直に話すべきなのか――数秒の間にぐるぐると思考を巡らせる。自身の中へ引っ込んだ〝誰か〟へと手を伸ばしかけて、返すべき言葉を探そうとする。
「何でもないわ。気にしないでちょうだい」
 目を何度も瞬かせて、明らかに困惑している様子の俺に、変な事を言ってしまったと思ったらしい。ヴィータは自ら、そんな俺の思考回路を切ろうとする。
 彼女はそっと、俺の額を指でつついた。その仕草には、一旦置いておきなさい、という意味が込められている。
「夜が更ける前に、早く休みなさいな」
「あ、ああ。そうだよな」
 今日は忙しくなるわよ、と付け足されてしまい、俺はそれ以上ヴィータを追求出来なくなってしまう。
 そのまま小さく頷いて、小走りで艦内へと戻る事にした。

 ◆ ◆ ◆

 今頃、与えられた部屋でクロウはどうしているだろうか。
 そんな事を考えていたら、自然と足は厨房へと向かっていた。コックに頼んで厨房を借り、白身魚を捌き、揚げて、記憶にずっと焼き付いているあの味を再現しようと糸を手繰り寄せる。
「灰色の騎士様が直接厨房に立つなんて……突然どうされたのでしょう?」
「戦場に出る時の為に、弁当でも作りたくなったんじゃないのか? 貴族連合の切り札は、いつ出撃の指示が出るか分からんからな」
「手慣れた感じではあるけど……だからこそ、ちょっと心配ね」
「しっ、失礼だろう、口を謹め……!」
 入り口から顔だけ出してそっと俺の様子を見守る、コックやメイド達。その視線は見守り七割、心配三割といったところか。オムレツを爆裂させたりする事を知らなくとも、そこに心配が混ざってしまうのは俺が彼らよりも年下だからだろうか。まるで、我が子の初めての料理を見守る親のようだった。
 そんな彼らの声は聞こえてはいたが、今は気に留めない事にした。それほどに、思い出の味を再現するのに必死だったからだ。記憶を手繰り寄せ、忘れかけていた味を再現すべく、あれこれ材料を試して試行錯誤――そよ風の囁きにすらならない。

「リィン様」
 数分後。厨房へと入ってきたメイドに声をかけられて、俺は顔を上げる。頬には、作りかけだったタルタルソースが少しだけくっ付いていた事に今更気が付いた。
 にこにこと、微笑ましそうな視線を向けてくるコックとメイド達。一体どうしたというのだろう。
「ハンバーガーをお持ちになられるのでしたら、その……フライドポテトも一緒にいかがでしょうか?」
「え?」
「オニオンリングも作れますよ、せっかくですからお持ちになってください。二人で召し上がるなら量が多い方が分け合えていいと思いますよ」
「? えっと……その、いいんですか?」
 突然の言葉に俺は戸惑う。
「全力でお手伝いをさせていただきます! さあ、作りましょうリィン様。料理には愛が必要ですよ!」
 力強く俺の手を握って、何故か頬を赤らめるメイド。
 俺をじっと見ていたコックが、ぽんと手を打つ。
「戦場を駆け抜ける日々の合間を縫って、各地で逃亡生活を続ける学生時代からの恋人と逢い引きして……」
「互いの立場を唯一忘れて落ち着ける、束の間の休息……!」
「ああ、何と輝かしい青春なのか。灰色の騎士様もまだお若い事を、ジジイは改めて実感しております」
 どんどん加速し、どんどんズレていくそれにツッコミを入れる間もない。予想から斜め上六十五度くらいの言葉に、俺は戸惑う事しか出来なかった。
「は、はい……?」
 何か、勘違いをされているような気がする――。
 苦笑しつつも、それ以上追求はしなかった。彼らの好意が単純に嬉しいと思ったからだ。
 そんな彼らのちょっとした手伝いもあって、クロウのところへと持参しようとしていたランチは、それはもうボリュームのあるものになった。ハンバーガーでさえ大きめだというのに、そこへフライドポテトやオニオンリングも加わっている。これを完食すれば、しばらく食事をしなくても平気なのではないか、と思えるくらいだった。
「リィン様。もし宜しければ、こちらを」
「バスケット……ちょうど良かった。ありがとうございます。少しだけ、お借りします」
 メイドが貸してくれたバスケットに、お手製ランチを詰め込む。冷蔵庫から適当に選んだ飲み物はサービスだ。潮風を浴びながらこれを食べていた時は、こういった飲み物とセットなのがお決まりだったのだから。
 ふう、と息を吐いて、厨房の扉を開く。クロウが居る部屋までは、そこまで遠くはない。冷めないうちに持っていかなければ。
 どんな反応をしてくるのか想像しつつ、一歩踏み出した――その時だった。

      

「…………?」
 きん、という音がして、脳裏を閃光が駆け抜ける。

『フフン。悩んでるみてーだな』
『オレの故郷――ジュライのソウルフードみたいなもんだ』
『まあ、なんつーか糸が切れちまったんだろうな』

 浮かんで消えた、水泡のようなその声は。ほんの一瞬だけ過ぎった〝自分が向こう側にいる〟かのような光景は。
「……」
『リィン。何か違和感を覚える事って、ない?』
『そう。例えば――〝今ここに居る事〟とか』
 あの夜のヴィータの言葉が、俺の頭の中で反響する。
 頭を軽く振って、それを振り払う。広がりかけた暗雲を取り払う。
「……気のせい、だよな?」
 気を紛らわすようにして、歩き出した。

 ――歯車の音が聞こえる。

 扉を開けば、窓の前に立っていたクロウが振り返った。
「悩んでるみたいだな。クロウ」
 学院でのお前は暢気の塊みたいだったくせに、珍しい事もあるものだと笑う。
「……何の用だよ?」
 明らかに不機嫌を貼り付けた、クロウの表情。その原因が、見透かされたからなのか、心外だからなのかは、今の俺には分からなかった。
「そんな顔をしないでくれ。お前の事だから、そこまで悩んでないかと思ってたけど……意外な事もあるんだな」
「チッ、余計なお世話だっての。……こんなとこで油売ってていいのかよ? 貴族連合の《灰色の騎士》……ずいぶん活躍してるみたいじゃねえか」
「相変わらず忙しないからな。お前がこっちへ来れば、その辺りの負担も半分に出来る。答えが出たなら、いつでも聞くぞ?」
「あのなあ、オレが本気であんな提案――……って、なんだよ、それ?」
 俺の持っていたバスケットに気が付いて、クロウが小首を傾げる。気が付いてもらえた事に内心でほっと息を吐きつつ、バスケットを持ち上げて笑った。
「昼食だよ。少し早いけど、ランチにしないか?」

 ◆ ◆ ◆

 テーブルの上に並べられた〝ランチ〟を、クロウは珍しそうに見つめる。
 予想外、だと思っているようだ。少なくとも、俺の目にはそう映っている。
「ハンバーガーにフライドポテト、オニオンリング……昨日の夜の宮廷料理みたいなもんかと思っちまった」
「そっちの方が好みなのか? それならコックに頼んですぐに作ってもらうよ」
「や、その必要はねーよ。ハンバーガーも美味そうだし、ありがたくいただくぜ」
 先程の不機嫌さはどこへやら、俺が手渡したハンバーガーの包みを素直に受け取ったクロウ。丁度空腹になるであろう時間を見計らって正解だった、という事なのだろう。
「ああ、遠慮なく食べてくれ」
 包みの中身は出来たてだった。あの後、戻って厨房を片付けようとしたが、早く持って行ってあげてほしいとコックやメイド達に背を押されたのだ。
 おかげで、作ったばかりの思い出の品を、クロウへと持って行く事が出来た。後で彼らには何か礼をしないと――。そう考えながら一口食べると、反対側ではクロウが何かに気が付いたようだった。
「これは……普通のハンバーガーじゃない、白身魚のフライを挟んでんのか?」
「フィッシュバーガーって言うんだ。なかなかに美味しいだろう?」
「おう、タルタルソースも珍しい味付けだし……今まで食ってきたハンバーガーの中では一番かもしれねぇな。昨日の夜のやたら凝った宮廷料理より、オレはこっちの方が好きだぜ」
 口に合うだろうか、と少しだけ不安だったが、その一言でそれはすべて払われた。
 俺は安堵したように笑って、一度フィッシュバーガーの包みを置く。厨房での三時間の死闘も、これでやった甲斐があったというものだ。
「お気に召してくれて何よりだ。久々に厨房で腕を振るった甲斐があったよ」
「ん? これ、リィンが作ったのかよ?」
「はは……さすがにシャロンさんの足元にも及ばないけど。俺の故郷――〝ジュライ〟のソウルフードみたいなものかな」
 俺の口から出てきた地名に、クロウは僅かに表情を曇らせる。彼が思い返しているのは、十月末、ヴィータが見せた帝都での〝内戦の幕開け〟だろうか。
 一発の銃弾によって終わったもの。始まったもの。先輩として良く面倒を見てくれていた生徒会の副会長が、帝国を騒がせているテロ組織を率いていたという、彼らにとって信じ難い事実が判明した日。
「……ジュライ……」
 一月が経過しても、まるで昨日のようにそれは鮮明なのだろう。
「そういえば、ヴィータが〝実況〟をしたようだけど……ちょうどやり取りを見ていたのか」
「ああ。ジュライっつーと、八月の特別実習でB班が向かった北西の経済特区……」

『B班の行った《ジュライ特区》ではそういう話はなかったわね……まあ、帝国の直轄地だから貴族が治めている場所じゃないけど』
『確か八年前に併合された地域だったか?』
『そうだな、特に揉める事なく帝国領になったパターンだ。この間、休みに用があって行って来たけど、沿岸地域の経済特区になって、結構賑わっていたよ』

 九月の自由行動日、偶然キルシェで居合わせた俺とクロウ達はそんな会話をしていた。
 その時の事を回想したのか、クロウはじとりとこちらを見つめてくる。
「……ったく、笑顔で他人事みてーに言いやがって」
「クロウ達が行くとは思っていなかったから、内心では少し動揺していたけどな。……久々の帰郷だった。街並みもかなり変わってしまっていたし、戸惑ったけど……懐かしかったのは確かだよ」
 見慣れない建物が並ぶ街並みの合間や片隅に、僅かに残っているあの頃の面影。時が流れても、変わらない潮風と海。昔と同じ味のまま売られていた、フィッシュバーガー。
 帝国解放戦線絡みの用事で、久々に故郷へと戻った俺を出迎えたのは、鉄血宰相の政策のもと、経済特区として発展をしているジュライだった。

 ――〝ジュライ〟は、確かにそこにある。けれど、祖父が愛した〝ジュライ市国〟はもう、失われかけている。

 亡国。そんな言い方をしたくはないが、言い表すならばまさにそれなのだろう。
 自然と、軽く拳を作っていた。
「…………ずっと気になってたんだよ。アンタがどうして《帝国解放戦線》に入ってるのか。どんな事情があって、鉄血宰相にあれだけの憎しみを向けたのかをな」
「…………」
 きっと聞かれるだろうな――と、自分の中で予測は出来ていた問いかけだった。
 クロウからその問いかけをされた瞬間、頭の片隅で何かが引っ掛かったような気がしたが、気が付かなかったふりをして、黙って耳を傾ける。
「無理に話せとは言わねえ。過去の詮索するなら、クラスの女子にしといた方が百倍いいからな」
 けどな、と。正面から向き合って、クロウは続ける。
「オレ達の進む先に、アンタは必ず居る。だから、それを知らない限り、オレは――オレ達は、進む事が出来ないし、追い付けそうにないって思っちまうんだ」
「……クロウ……」
「……」
 学院で頻繁に見かけていたお調子者な一面は、今のクロウには見られない。その瞳は真剣そのものだった。
 沈黙が、刺さる。容赦なく。こうなってしまっては、誤魔化しも何も出来ないのだろう。
「……はは……そこまで言われたら、話すしかないじゃないか」
 押し負けるしかなさそうだと判断して、静かに立ち上がった。窓のそばへと歩いて行き、クロウの視線を背に受けながら、僅かに重い口を開く。
「言っておくけど、そんなに大層な話じゃないぞ? お前の過去に比べれば、こんなものかってくらいの……平凡で、ささやかな昔話だ。それでもいいのか?」
「それが気になってる、って言っただろ」
 窓硝子に映り込んだ自分が苦笑している事に気が付いて、そこへそっと掌を押し当てる。
 ひやりとした窓硝子の向こうには、青空と雲海が広がっている。
「……仕方ないな……。……これは、よくある事だよ。歴史の教科書には幾らでもありそうで……そのまま忘れ去られてしまっても、おかしくないような話だ――」
 鍵を掛けていた記憶の扉を開いて、俺はぽつりぽつりと自分の過去を話した。

 自分の祖父は、ジュライがエレボニア帝国に併合され経済特区になる前、市国であった頃の最後の市長だった事。
 隣国のノーザンブリアで起きた事件によって経済の影響を受けつつも、祖父はノーザンブリアを支援しつつ、衰退するジュライを回復させようと様々な政策を巡らせていた事。
 そんな中、市議会に押し切られ、エレボニア帝国からの提案で鉄道路線を通した事をきっかけに、かつてのジュライが失われそうになった事。
 その事に危機を覚えた祖父は対策をしようとしたが、鉄道路線が何者かによって爆破され、その容疑をかけられ糾弾を受けて、辞職まで追い込まれた事。
 祖父が辞めたその日のうちに、ジュライの帝国への帰属が決定した事。そして、半年後に祖父は体を壊し、俺を残して亡くなってしまった事。
 十三の時にジュライを出て、カイエン公と出会い――十六の時に、帝国解放戦線を作った事。
 その後はヴィータに導かれて《起動者》になったり、鉄血を討つ足場として、トールズ士官学院へと入学をした事。

「…………」
 懐かしみながらも、どこか寂しげに語ってしまっていたらしい。席を立ち、歩み寄ってきていたクロウは何も言わない。否、言えないのかもしれない。
 苦笑いを浮かべて、俺はそんなクロウを見た。 
「……立場が逆じゃないか? どうしてクロウがヘコんでいるんだ」
「ヘコんでなんかねーよ……」
 口で否定していても、表情は正直だった。お前らしくないな――と言いたい気持ちを抑えて、再度、窓に映った自分と向き合う。
「……。――俺は別に、鉄血宰相が〝悪〟だと言うつもりはないさ」
「は……?」
 俺の言葉に、クロウは首を傾げる。想定すらしていなかったものなのだろう。
「ただ、祖父さんが鉄血宰相に〝してやられた〟のは確かだ。祖父さんには色々と仕込んでもらったからな。そうなると……〝弟子〟としては、師匠の仇を討ちたくもなるだろう? 復讐が何も生まないなんて、とっくに分かっているよ。これは俺の〝清算〟だからな」
「……リィン」
「帝国に存在する歪み……それをあの人が拡大しているのは間違いなかった。それらを見極めて、最大限に状況を利用し、乾坤一擲の一撃で戦いを制する。ジュライが今、平穏である事を考えると……〝後始末〟――内戦を終了させて、帝国に平穏を取り戻す必要があるんだ」
 窓に当てていた手を離してそっと握り締め、クロウと目を合わせて笑う。〝あの頃〟のままでありながら、どこか遠くを見据えているような笑顔になっているだろうか。
「だから――そこまでが、俺の戦いだ」
 その先の事は、敢えて口にはしなかった。
「…………」
 緋の瞳を微かに揺らして、何かを考えているらしいクロウ。その頭を軽く撫でる。
「……心配はしていないけど……クロウが俺に引きずられる必要はない。ルーファス卿も言っていただろう? 何の為に剣と力を振るうのか――改めて、考えてみてくれ。何よりも、お前自身の為に」

 きっと、見出そうとしている道へも繋がっているはずだ、と。
 その部分を言葉にしなかったのはわざとだった。

 交わった暁と黄昏。互いの中で閃光が一度小さく弾けるも、引き金を引くには至らない。
 そして――〝それ〟はかつて自分に向けられた言葉である事を、俺はまだ思い出せていなかった。

 ◆ ◆ ◆

 ああ、またか。
 そう内心で呟いてから、深く息を吐く。痛む場所に触れてみると、生温い何かが指先に付く。このまま放っておけばおそらく死に繋がるであろう傷は、緋の魔王からオルディーネを庇った時に負ったものだった。
「…………」
 〝ユン老師〟に知られたらきっと怒られるだろうな、と苦笑しつつ少し身動ぎをしただけで、ぽっかりと体に空けられた穴からは激痛が広がる。辛うじて心臓の直撃は免れたが、それでも、長くは保たないだろう。
 流れ出ていく深紅。逆に流れ込んで来るのは、幾多もの記憶の映像。目を閉じて〝今までのすべて〟を思い返した。
 新たな一年が幕を開けようとしたあの日、奇妙な懐中時計によって、巻き戻された世界。〝あいつ〟の立場に立たされ、駆け抜けた時もあった。本気で殺し合いをした事も、〝あいつ〟と同じ事をして死んだ事もあった。
 今いるここはもう、四度も巻き戻された世界だ。積み重ねられたものを何度も壊して、自分はここに立っているのだ。そしてそれを引き起こしたのは、紛れもなく自分が持つあの懐中時計で――。
 失われたものはもう、戻らない。消えたものはもう、取り戻せない。
 押し寄せた罪悪感は、ある決心をするきっかけをくれた。もっと早く決断をしていれば、という後悔は、そのままそれに押し付ける。
 薄れる意識の中、懐からあたたかな光を感じて、俺は拳を作った。
 ――もう、終わりにしなければ。

「おい、リィン!」
「しっかりしてください!」

 ヴァリマールからどうにか降りたが、最早立っていられるような状態ではなかった。その場に力なく膝をついた俺に、駆け寄るクロウと〝級友〟達。
 横たえようとしてくれたのをやんわりと断って、クロウに支えられたまま、向こうから駆け寄ってくる幾つかの人影を見つめる。霞む視界の中では、あまりはっきりとは見えていなかったが。
「リィン君っ!」
 トワ達が、息を切らしながら走ってくる。その後ろに鉄血宰相の姿はまだ見当たらない事を確認して、ほんの少しだけ安堵を覚えてしまった。
 トワが目の前に屈んで、その翠の瞳を揺らす。約束は果たせなくしてしまったが、〝さいご〟に会えただけでも救われる気がしていた。それはあくまで俺の一方的なものでしかないが、それでも、零回目の〝あいつ〟は、トワ達と再会する事さえ叶わなかったのだから。
「ごめん、クロウ……トワ、アンゼリカに……ジョルジュ。……約束、守れなくしちゃったな」
「……っ、そんな事……」
「〝一緒に卒業〟……。それが……どんなに、叶いっこない夢だって……分かっていても、抱かずには……いられないよな」
 俺も〝同じだった〟から。
 願い続けた想いがいつか色付くと、信じる事が進む力になるのだから。
 掠れた声で言ったその言葉を聞き取れたのは、トワとクロウくらいだろうか。らしくもなく瞳を揺らしたクロウには、俺以外、誰も気が付かなかった。
 トワは何も言わずとも、これから俺がどうなるかなど分かっているのだろう。その未来を払拭するように頭をゆっくりと振るが、俺に残された時間は確実に失われ続けている。エマ――委員長とセリーヌが回復を続けてくれているが、消えてゆくものの方が多いのは明らかだった。
 いつの間にか懐から転がり落ちていた懐中時計は、相変わらず、焔のような光を放っている。それを視界の隅に捉えて、一度、深く息を吐いた。
「……皆に、謝らないと、いけない事が……あるんだ」
「しゃ、喋っちゃダメだよ……!」
「はは……それでも、これだけは……言わせて、ほしい」
 絞り出した言葉は、音にしなければ意味がない。飛び交う様々な感情の合間を潜り抜けてきたそれを、しっかりと掴み取る。
「俺は、何度も……繰り返してしまったんだ。皆の未来を、奪ってしまっていた」
 すまない、と。謝罪を付け加えると、予測していた通り、一体どういう事なんだという視線が幾つも向けられ苦笑する。唯一、何かが引っかかったような面持ちを浮かべているクロウは、俺を支える為に掴んでいた手に無意識に力を籠めていた。
「……だから――」
 横に置かれていた太刀をなんとか拾い上げて、それを持ち上げる。ずしりとしたそれはきっと、一撃で〝終わらせて〟くれるのだろう。
 誰も止める事が出来なかった。まるで時間が止められたかのように。
 誰も気付かなかった。俺が壊そうとしているものが、何なのかという事に。

「もう、ここで終わりにする」

 一瞬のようで何十秒にも思えるその時間の中で鳴り響く、ぱきんという砕けたような音。
「…………なに、してんだよ……?」
 俺が突き立てた太刀によって、正面から貫かれた懐中時計。放たれていた仄かな淡い光は、そのまま宙を飛んで俺を包み込んできた。
「これで、大丈夫だ…………もう……世界は、巻き戻らない、から」
 体から光の粒子を散らしつつ笑う。誰が見ても明らかだろう。このまま俺は〝消滅〟するのだという事は。
 クロウが両肩を掴んで、軽く揺すってきた。
「どういう事だよ! なんでアンタが消え……」
「この、懐中時計……俺自身、だったんだ。……だから……俺も、一緒に…………っ!」
 俺の言葉は途切れる。時間差で襲いかかった痛みに、それを切らざるをえなかったからだ。ただ、それは緋の魔王によって齎されたものではなく、懐中時計を刺し貫いた太刀が与えてきたものなのだろう。
 思わず胸元を押さえて呼吸を荒げるが、自分自身でやった事だとすぐに言い聞かせて、どうにか落ち着かせる。強まった回復のアーツを断る事が出来ていれば、どんなに良かっただろう――ゆっくりと首を左右に振ろうとしたが、それさえも億劫にさせるほどの痛みは内側から押し寄せる。
 そして再度、クロウの黄昏と交差した瞬間。
 クロウの緋の中で、時の歯車が散る。

「………………お前……っ」

 クロウはすぐに額へと掌を押し付けて、何かに耐えるような仕草をする。
 一体何が起きているのか。一瞬だけクロウの瞳の中に見えた歯車は、何なのだろうか。
「クロウ?」
 ガイウスに、どうしたのかと声を掛けられても、クロウはしばらくそのまま動かない。言葉を呟いてはいるが、近くにいる俺ですらも、声量故に聞き取る事が出来なかった。
 もしや、と。その横顔を見ていて、一つだけ、思い当たる事があった。
「クロウ……まさか……思い出した、のか?」
 尋ねると、掌を離したクロウは、乾いた笑いと共に口を開く。
「…………ああ。……夢であってくれと思っちまうが……今のお前を目の前にして、んな事は言えねえ、よな」
 俄かには信じ難いが、記憶の一つ一つが齎したものの感触や感覚は、はっきりとクロウも思い出せたらしい。一瞬で命が消し飛ばされた緋の魔王の閃光も、自身を貫くのに用いた太刀の冷たさも、腕の中で消えていく命の重みも、体に刻み込まれているに違いない。俺も同じだったのだから、きっとクロウもそうなのだろう。
 クロウは俺の正面へ回って、前から再度、両肩を掴んでくる。今度は揺すらない。ただ、その手は僅かに震えている。
「なあ……俺が言えた立場じゃねえが……お前は、これでいいのかよ」
「……」
「何の為に……何の為に、ここまで」
「…………」
「ここで消えちまったら、もう、何も出来ねえんだぞ」
 お前がそれを言うのか――などと言ってやる気力は、最早残されてはいなかった。
 光が消えてゆく世界の中で、最後まで仲間達をその中に映し出そうとするだけで精一杯だった。
 これから消えてしまうというのに、俺は落ち着いていられた。周囲を舞う光の粒子は少しずつ増えていき、別れの刻は一秒一秒、確実に迫ってくる。
 何も出来ない自分を不甲斐なく思ったのか、クロウが力なく地を殴った。
「……誰も、こんなの望んでねえだろうが」
 誰にとっても、不幸な結果でしかない。こんな結末で喜ぶ者が一体どこにいるというのか。
 俺が望んでいるのなら、とクロウは頭では理解しているが、心がそれを許していない状態なのだろう。それくらい、表情を見れば分かってしまう。
 クロウは俺の手を強く、強く握る。
「ここで立ち止まっちまうのかよ、お前は!」
 真正面からぶつけられた言葉に、きっと偽りも何もないのだろう。〝クロウ〟らしくない言葉でもあったが、〝リィン〟の気持ちを少しは理解出来ているからこそ、発する事が出来たのだろうか。
 そして一瞬、青い光が手から手へと駆け抜けていったような気がした。気にする余裕はもう、なかったが。
「……。……ごめん……そろそろ、時間みたいだ」
 感覚すらも消えかけた俺の体は、既に半透明になっている。
 目を閉じて、地に下ろしていた右手を持ち上げた。そしてそのまま、その手で彼方――遠く、遠くにあったものを指差す。

「どうか、皆は――……〝明日〟へ、進んでくれ」

 そう言う自分は、上手く笑えていただろうか。

 ◇ ◇

 何かを言おうとしたクロウの腕の中には、言葉がその口から発されようとした時にはもう、橙色の小さな光が残されているだけだった。その小さな光もやがて、溶けるようにして消えていった。
 緋の玉座は、音が失われたかのように、静まり返る。分かっているはずなのに、分からなかった。背後から靴音が聞こえてきても、振り返る事すら出来ずに、誰もがただ、起きた事を理解しようと必死になっている。
「…………」
 クロウの視線の先では、破壊された懐中時計が蒼の光を纏っていた。

 歯車の音はもう、聞こえない。何処からも。

 止まった明日への鼓動は聞こえるはずもなく、消えゆく閃光の行方は誰も知らない。