I never wanted it to come to an end.
一回目。
俺が降り立ったのは、七色のステンドグラスの上だった。触れてみれば、それは微かにあたたかい。
――ああ、俺が帰りたかったのは。
二回目。
七色のステンドグラスの上に座って、真紅に汚れたコインをただただ握り締める。
――届かなかった。掴む事が、俺には出来なかった。
三回目。
ひび割れた七色のステンドグラスの上で、俺は目を覚ました。端からは、それが壊れる音が聞こえてくる。
――心臓が貫かれたように痛むのは、どうしてだろう。
四回目。
七色のステンドグラスが砕け散って、底のない黒の中へと落ちていく。このまま、どこへ行くのだろう。
――もう、いいんだ。俺はこれで……。
五回目。…………五回目?
目を開いて辺りを見回せば、青の光が満ちた世界を、バラバラになった分針や秒針、歯車が漂っている。
ここはどこだ? 一体、何が起きているんだ?
自身を抱え込むようにして、近くにあった大きな文字盤の上に座る。まさか、と思い浮かんだ一つの〝仮説〟は、押し込んだ。あり得ない事なのだから。
俺は、確かに消滅した。それは自分が一番よく分かっている。贖罪の為に、自ら存在を砕いたのだから。
だというのに、どうしてこんな場所を漂っていたのだろうか? ここは消滅した後に辿り着く空間だとでもいうのか?
ああ、きっとそうだと言い聞かせて、動揺を落ち着かせつつ、自分の胸へと手を当てる。
ちゃんと、そこは鼓動していた。
――俺はもう、消えたはずだ。そんな事があるわけ、
◆ ◆ ◆
「――ほっほう、あれが俺たちの後輩ってわけだな?」
特科クラス《Ⅶ組》の候補生達――旧校舎へと入っていく後輩達を見送る四つの人影。
その中の一人――クロウは、どいつもこいつも初々しいったらありゃしねえ、と考えていたが、ふと違和感を覚えて、一度目を擦る。
「……なあ、トワ」
「どうしたの、クロウ君?」
欠けている。いや、欠けていない。そう思いたくても、誰かがいない。
――誰だ。誰がいないんだ。手を伸ばしても、そいつには届かない。磁石の同じ極のように、近付けば近付くほど遠く、遠くへと行ってしまう。
「……あの中に……黒髪の奴、居なかったか?」
「えっ?」
クロウの言葉を受けて、トワが改めて彼らの方を見遣った。そして脳内で、リストで予め見ておいた名前を並べていく。
アリサ・ラインフォルト。ユーシス・アルバレア。ラウラ・S・アルゼイド。
マキアス・レーグニッツ。フィー・クラウゼル。エリオット・クレイグ。
エマ・ミルスティン。ガイウス・ウォーゼル――特科クラス《Ⅶ組》候補生は、計八名。これで全員だ。その中に黒髪の者は居ない。
一人足りないような、そうでないような。何故だろう、と。トワが胸元で手を握る。まるで何かが足りないような、微かな違和感があって、正しいはずのものなのに心の奥底で不安が生まれる。
けれどそれの正体に、今の彼らが辿り着けるはずもない。軽く息を吐いて、トワは顔を上げた。
「ううん、八人のはずだよ。名簿とも合ってるから……」
「……気のせいか」
何なのだろう、この心にぽっかりと穴が空いたような感覚は。欠けてはならない何かが、当たり前のように居なくなってしまっているような――気分が悪くなってきたクロウは、思わずその場に屈み込む。
掴みかけたものが、遠ざかっていく。脳裏に薄らと浮かんでいた影が、次第に白へと溶けて消える。輪郭が分からなくなり、滲んだ絵のように、それは何なのかが分からなくなっていく。
クロウは空を見上げる。何も変わらない蒼穹。あたたかな春だというのに、嫌な汗が伝っていた。
――《Ⅶ組》の候補生の中に、誰を、探していた?
「クロウ、寝不足なんじゃないのかい? 少し顔色が悪いよ」
「……ん、そうか?」
「夜更かしの常習犯とはいえ、まだまだのようだね。今日は早く寝る事だよ」
「ったく……お前は心配すんのか茶化すのか、どっちかにしろっつーの」
じとりとした目でアンゼリカを見つめつつも、クロウは自然と自身の制服を握っていた。
自分の存在を、この世界を、再認識するかのように。どこかでけたたましく鳴らされる警鐘は聞かなかった事にして、ゆっくりと立ち上がる。
聞こえていない。聞こえていないのだ、そんなものは。
「クロウ君、具合悪いなら無理しちゃダメだよ?」
「ヤバそうになったら大人しく休むっての……後輩の前でぶっ倒れたりしたらカッコ悪りぃからな」
「それじゃ僕は遅いと思うんだけどな……まあとにかく、気を付けなよ? 新学期だって始まる事だしね」
「わーってるよ」
頭を掻いて、先に踵を返したクロウ。
「……」
そんな彼を、アンゼリカはただ目を細めて見つめている。不思議に思ったトワが駆け寄っても、しばらく視線をクロウの背から外さなかった。
「アンちゃん……?」
「クロウの様子が、少しおかしいと思ってね」
ただの寝不足にしては――。そうアンゼリカが付け足すと、トワとジョルジュも、揃ってクロウの背へと視線を向けた。
三人の中でも、違和感は膨らむばかりだった。クロウから〝黒髪〟という言葉を聞いてから、旧校舎へ消えていった後輩達の中から誰かが消えてしまっているような気がしてならなかった。見たものに間違いはないはずなのに、あそこに居たはずの誰かが消えて――例えるならばそこを無理矢理、埋められているような。そんな奇妙な感覚だった。
「わたしも、さっきから変な感じはしてるけど……なんなんだろう」
三人が視線を合わせる。ジョルジュが腕組みをして考え込むような仕草をするが、生じた違和感はちっとも消えてはくれなかった。
「……。君が感じた〝それ〟も、ひょっとしたら……気のせいじゃないのかもしれない」
などと意味がありそうに呟いたところで、裏側に隠れた真実が表に出てくるわけでもないのだが。
――カチリ、と、音がした。
「よう、トワ」
生徒会室へと顔を出して、ひらりと手を振るクロウ。
机の上にある、何かの用紙から顔を上げたトワは、きょとんとした目を彼に向けた。おそらく、クロウがとっくに下校して、寮へと帰ったと思っていたのだろう。
「クロウ君? どうしたの?」
「や、なんとなくな。それより……相変わらず、仕事抱えてんのな」
「そうだね、新学期は色々やらないといけない事もあるから……でも、新入生のみんなの為にも、わたしが頑張らないと」
「頑張りすぎんなよー……まあ、これは去年から言ってるけどな」
窓の外を見遣って、クロウは頭の後ろで腕を組む。彼の緋の中には、何の変哲もない、一年間見てきた景色が映っていた。
とん、と書類を整理して、トワはクロウの方へと視線を向ける。
「うん、だけど今日はもう少しで終わるから……――って、そういえばクロウ君、体調は大丈夫なの? まだ、顔色が良くなさそうだよ。具合が悪いなら、早く寮に戻った方がいいんじゃ……」
《Ⅶ組》の皆を見ていた時は、真っ青だったし――。
そう言って、心配そうにクロウを見上げるトワ。澄んだ翠に真っ直ぐに見つめられて、彼はやや居心地が悪そうに頭を掻く。
「平気だっての。夕陽のせいじゃねえか?」
手伝う事があるなら言えよ、と言ったクロウ。トワは胸元で手を握ったまま、そんな彼を見ている。
普段とあまり変わらない様子の、クロウの奥底で揺らいでいるものを、薄っすらと感じ取りながら。
「…………」
「ん、どーしたよ?」
踵を返しかけて、彼女の様子がいつもと違う事に、ようやくクロウは気が付いた。こういった事には鋭いはずの彼が、珍しく気が付かなかったのは、きっと――。
椅子から立ち上がって、トワはその小さな手でクロウの手を掴む。
伝わってきた陽だまりのようなあたたかさに、彼は何故か安心感を覚えてしまった。
「クロウ君。こっち」
「?」
トワに引っ張られるがままに、クロウはソファの方へと連れて行かれる。彼女にしては珍しい行動だったが、不思議そうな面持ちの彼は、特に何も言わない。何かを言うべきではないと、判断したのかもしれない。
ぽすん、とクロウをソファへ腰掛けさせて、トワは後ろへ回り込む。そしてそのまま、少しだけ背伸びをして、彼の頭をそっと抱えた。
「お、おい……? ったく、オレは子供じゃねーんだぞ?」
突然どうしたのかと、戸惑うクロウ。
「……」
少しだけ沈黙が続いた後、囁きのような小さい声がクロウの耳に届く。
痛いの飛んでけ――と。幼い子供に言ってやるようなその言葉は、クロウの心の中へと届く為に、ゆっくりと優しい光を伸ばしてくる。
「トワ……?」
クロウは顔を上げて、彼女の名を呼ぶ。意図を問いかけるように。
「あのね、クロウ君」
抱えられているから、クロウが振り向く事は叶わない。代わりに彼は、トワの言葉の続きを黙って待った。
彼は分かっていた。トワの言葉は、自分の心の闇の中に、微かに差し込む光となる事を。
それでも、クロウは何も言わない。その光を受け入れる事が、後に残酷な事に繋がると分かっていても。
「わたしは――わたし達はまだ、クロウ君とは一年くらいしか一緒に過ごしていないけど……一年前よりは、分かるようになったんだよ」
「……」
「クロウ君が……何かを失くしてしまって、探してるように見えて……怪我をしちゃった時みたいに、どこか痛そうな顔をしていたから、何かあったのかな……って。アンちゃんやジョルジュ君も気にしてたよ?」
「…………」
クロウはトワに見えないのをいい事に、どこか自嘲気味な笑みを浮かべた。
彼とトワ達は、決して浅い付き合いではない。一年間、共に過ごした。クラスは違えど一緒に行動して、時に衝突しながら、少しづつ絆を作っていったのだ。
〝友達〟の様子がおかしい事に気が付けないほど、三人は鈍くはない。
「……なんつーか、みっともないところ見せちまってるし、明日には忘れてくれるか?」
「うーん……ごめんね。それは保証できない、かな?」
「……そう返されるだろうな、とは思ってたけどよ」
ここまで来てしまったら逃げられないか――クロウの声色には、そんな感情が籠っていた。
いつものようにのらりくらりと回避をすればいいのに、こういう時に限って、良い逃げ道を見出す事が出来ないらしい。
言葉を発さないトワ。今度は彼女が、クロウの言葉を待ってくれていた。
それに気が付いた彼は、一つだけ息を吐いて、続ける。
「…………オレにも、よく分からねえんだ。……だが……トワが言う通り、オレは〝何か〟をなくしちまってる気がするし、それが思い出せない事を恐れてる」
「何か……?」
「《Ⅶ組》を見てからだ。そう感じるようになったのはな」
謎の喪失感と、奇妙な違和感。それらはあの瞬間から、ずっとクロウの心を覆っている暗雲のようなものだった。
今日初めて見たはずのあの後輩達が、一体何だと言うのか――。答えを探しても、それはどこにも見付からない。見付かるはずもないのだ。
「クロウ君は、時々そうやって、どこか遠くを見てるよね」
トワは数秒だけ窓の外を見て、軽く目を閉じた。
「同じものは、わたしには見えないかもしれない。でもね……同じ方向を向いたり、卒業するまでの間、一緒に歩いて行く事は出来るから」
「……トワ」
どこまでもあたたかな光。クロウにとってそれは、いつか目を逸らさないといけない、置いていかないといけないものだった。
『気に食わないね。君は一体、どこを見ている?』
『るせえ。お前らに何が分かるってんだよ』
『ああ。分からないだろうね、このままだと。……君とこうして揉めるのも、何度目になるんだか……そろそろ、決着をつけようじゃないか』
『ハッ、いいぜ。オレもいい加減、ハッキリしたいところだったからな』
『ア、アンちゃん……クロウ君……』
『はぁ……仕方ないよ、トワ。こうなった以上、気の済むまでやらせてあげるしかない』
アンゼリカに叩き壊された、虚ろな仮面。その下にあったクロウの双眸は、光の眩しさに目を細めた。クロウの心の片隅に生まれた〝戸惑い〟と、名前の付けられない〝何か〟――それらは、彼が久しく忘れていた感情だ。
彼はそれを受け入れるまでに、少し時間がかかってしまった。けれど、そんなクロウの手をトワが引いた。ジョルジュが背を押した。
そうして〝学院生のクロウ・アームブラスト〟は、歩き出したのだ。
「わたしには、こうする事くらいしか出来ないけど、忘れないで欲しいんだ。クロウ君は一人じゃない……わたしも、アンちゃんも、ジョルジュ君も居る。失くしちゃったものも、きっと見付かるって、わたしは信じてるよ」
トワの中から零れ落ちるのは、星空に願うような儚い、けれど決して脆弱ではない言葉だった。
「だから……〝もう〟一人で立ち止まらないでね、クロウ君」
クロウの頭の中に、その言葉は妙に引っ掛かった。その理由に辿り着けないが故に、クロウは口を開けない。
それはトワも同じだったようで、少し間を空けてから、彼女は首を傾げた。
「…………あれ? わたし、なんで〝もう〟なんて言ったんだろう……これじゃまるで、クロウ君が、前にも立ち止まっちゃったみたいだよね」
「前にも……」
そっとクロウの頭から手を離したトワ。
彼はわざと悪戯っぽく笑って、トワの頭をくしゃりと撫でてやった。
「ま、何にせよ……ありがとな」
「わわっ! も、もうっ、そうやって子供みたいに……!」
「クク、これでおあいこだな」
心の棘は一つだけ引き抜かれたような気がしていたが、クロウの中に、暗雲はまだ残り続けている。
「と、とにかくっ。今日は早く寮に帰って休むこと! 約束だよ」
「分かってるって」
それを誤魔化そうと、寮へ帰るべく踵を返すクロウ。
「クロウ君」
今日は大人しくしてるか――と、内心で独り言を呟いた直後に名を呼ばれ、クロウは立ち止まる。
「ん?」
窓から差し込んだ橙の光が、トワを照らし出した。
今日という日が、静かに終わりへと向かっている。唯一つ、欠けたものに気が付かぬままに。
「また、明日ね」
それは〝まだ〟叶えてやる事が出来る、小さな小さな約束だった。
トワの言葉を背に受けて、クロウは振り返り笑う。
「おう。明日な」
◆ ◆ ◆
「…………!」
気が付けばクロウは、自分の机の上に突っ伏して眠ってしまっていた。酷くぼんやりとする意識をなんとか目覚めさせて、彼はぐるりと室内を見回す。何の変哲もない、第二学生寮の自分の部屋が、そこにあった。
窓の向こうには、星が瞬く空が広がっている。いつの間にか、夜が訪れていた。
今のうちに、やる事をやっておかねぇと――。
頭ではそう思っていても、まるで縫い止められたかのように、クロウはそこから動く事が出来なかった。
やけに気怠く感じる体を起こして、彼は頬杖をつく。クロウの緋が石を投げ込まれた水面のように一瞬揺らいだ理由はきっと、彼自身にも分からないのだろう。
――何故だろう。長い、長い夢のようなものを見ていたような気がした。けれど、感じた事のないはずの〝感覚〟は、朧気ではあるものの残っている。
知っているはずのものが思い出せない。大事な何かが欠けてしまっている。
忘却の果てへ消えようとしているものに気付いているはずなのに、手を伸ばす事が出来ない。
「……チッ、なんなんだよこれ……」
頭が痛む。自身の鼓動が大きく聞こえる。
再度、机へ上半身を倒したクロウ。残照の中、うとうとと微睡み始めた彼の懐が僅かに重みを増した事に、クロウはまったく気が付いていなかった。
その〝重み〟が、仄かな蒼の光を放つ。
『すみません! 先輩――頼みます!』
ふと彼の脳裏を過ぎった〝誰か〟の言葉。鮮明に聞こえたその声色は、クロウにとって聞き覚えがあるものだというのに、声の持ち主を思い出す事が出来ない。後少しで掴めそうではあるものの、するりと抜けて落ちていってしまうのだ。
『――そういえば。貸して半年くらい経つけど、利子の方はどうなってるんだ?』
次に声が響いた直後、瞼の裏側には、五十ミラコインがゆっくりと落ちてきた。
〝誰か〟と繋がっている気がしてならないそれは、あたたかな光に包まれていた。
そのコインの向こうから小さな、小さな閃光が生まれる。その中に〝誰か〟の姿を見たクロウは、緋に映し出されたその姿を焼き付けておいた。
――お前は何なんだ。どこに居るんだ。一体、誰なんだ?
記憶から抜け落ちた誰かの名は、呼びたくとも音として発する事すら叶わない。あいつを知っている。知らない。いや、そのどちらでもある。知っているくせに、知らない、と心の中の片割れが決めつけようとしているのだ。
満ちる蒼。
静寂だったはずの刻。
鳴り止まない秒針と、歯車の鼓動。
『クロウ君が……何かを失くしてしまって、探してるように見えて』
先刻のトワの言葉が、彼の心へと染み込んだ。
そうしてそのまま、クロウの意識は沈んでゆく。
◆ ◆ ◆
ここは、何処なのか。今は、いつなのか――。
彼が瞼を押し上げてみれば、視界いっぱいに広がる黄昏の空。体を起こして辺りを見回せば、地に突き刺さった数多の武器の丘が、地平の果てまで続いている。
周囲に音はなく、時が完全に止まったその世界は、まるで墓場のようだった。
「……」
もう一度体を倒して、彼は息を吐いた。体の下で鈍い鉄の音を鳴らしたのは、積み重ねられた歯車の山だ。錆び付き、もう何かの一部分になる事も叶わないであろうそれらは、ただただ沈黙している。やはりここは、墓場なのだろうか。
「…………」
何気なく彼が自身の胸へと手をやると、心臓はしっかりと鼓動している。そこに空いていたであろう穴はなく――――……穴?
『お前と、同じ事をしてしまったけど……』
腕の中で喪われた命。
『ったく……これも、因果応報かよ……』
痛みを通り越して、感覚さえ奪われた心臓への一撃。
一瞬脳裏を過ぎった記憶は、同じ場面のはずなのに視点が明らかに違うものが混じっている。死を見届けたし、見届けられた時もある。閉ざされる視界の中で何かを指した事も、指しているのを見た事もあるのだ。
再度、彼は自身の胸へと手を置く。
――動いている。
名が思い出せないな。彼がそう気付いたのは、歩き出してから少し経った頃だった。
記憶からすっぽりと抜け落ちたかのように、名前が分からない。自身の名も、先程の追憶の中で命尽きた者の名も。
「俺は、誰だ?」
そううわ言のようにぼやいたところで、返事をくれる人はどこにも居るわけがない。
「……オレは、何だ?」
ただただ虚しいだけの彼の問いかけは、黄昏の中へと消えてゆく。
「おれは――……」
三度目の呟きが音となろうとしたその瞬間、ふ、と足元が抜けるような感覚がして、下を見る。打ち捨てられた歯車の山の向こうから溢れる蒼の光。それは、どこか、懐かしく感じられる。飲み込もうとして広がってくるそれに、抗う術などない。
そのまま重力に従ってその光の中へと落ちれば、果てのない蒼の中で錆びた歯車が落ちていく。
こいつらはどこへ行くのだろう――。伸ばされた彼の手をすり抜けて、追い越しながら下へ下へと落ちていってしまう。
彼が歯車を目で追っていると、やがて光の底が見えてくる。淡い蒼の光に包まれたそこは、錆びた歯車が幾つも落ちている緋色の王城だった。
「……ここは……」
降り立った瞬間、蒼の光はさあっと引くようにしてなくなってしまう。見覚えがあるような気がしてならないが、どこなのかはっきりと思い出せない。ただ、ちくりと心臓の辺りが痛んだような気がして、彼はそっとそこへ手を当てる。
ちゃんと、動いている。流れ出るものもなく、広がる深紅もそこにはない。
「……?」
そこで彼はようやく、自分以外の気配がある事に気が付く。少しだけ見回せば、向こうの方で誰かが地に体を預けていた。
ゆっくり、ゆっくりと近寄ってみる。微かに吹く風がその人の銀の髪を揺らし、王城の彼方へと走り去ってゆく。
目の前へ屈んでみても〝彼〟は、微動だにしない。生きているのか、死んでいるのか。それさえ分からなかった。
「……」
鎖の如く〝彼〟に絡み付いた樹木。衣服の色が似ているのも相俟って、そのまま溶け込んで消えてしまうのではないかとさえ思ってしまう。
誰なのだろう、この人は。知っているはずなのに、何も思い出せない――。
彼は樹木を掴んで軽く引っ張る。見た目に反して脆いそれは、あっさりと千切れてそのまま消えた。これは樹木、ではないのだろう。
彼の手は自然と、また別の樹木へと伸ばされていた。そうしたところでどうなるか分かるはずもないが、一つずつ、拘束を解くようにそれを消していく。心の片隅で、そうしなければならないような気がした。名もなき感情が、そう命じているような気がしてならなかったのだ。
「……ん……?」
半分ほど樹木を消したその時〝彼〟が身動ぎする。目を覚ましたのか。
少しずつ開かれた瞳は、彼を真っ直ぐに捉えて――はっきりと目が合った瞬間、え、という間の抜けた声が、相手の口から零れ落ちる。
「………………」
「………………」
なんとも不思議な事に、〝彼〟の緋色の瞳の中には、服装は違えど〝彼〟と同じ人物が映り込んでいる。
それはつまり。
「…………俺?」
頭上に疑問符を浮かべながら、なんとか体を起こした〝彼〟は、彼の肩に手を置いてまじまじと見つめた。彼は思わず視線を逸らしたくなったが、射止められたかのようにその行動には移れない。
「ああ、そうか。……お前は〝学院生のクロウ・アームブラスト〟だな?」
それが自分の名なのか、と、クロウは思う。という事は、目前にいる〝彼〟も、きっと同じ名前なのだろう。
どう反応を返していいのか分からず、クロウはただただ呆然とする。あまりに非現実的すぎるからか、今いるここが夢の中なのではないかと思ってしまうくらいだ。
「……なあ、何か覚えてる事はあるか? どんなに些細な事でもいい」
そう問われ、クロウは腕組みをして僅かに俯く。そう言われても、自身の名さえ記憶から抜け落ちていたくらいなのだ。分かる事と言えば、脳裏を掠めたあの断片的な記憶と、胸に穴が空いていたような奇妙な感覚だけだった。
たどたどしくクロウがもそれを伝えると、〝クロウ〟は苦笑する。
「やっぱり、死んだはずだよな。俺達も」
言葉の意味が分からず、クロウの思考はぐるぐると回り続ける。
「どういう事だよ?」
「繰り返しちまってるんだよ、時間を。……俺もあいつも、その中で二回は死んだり消えたり……なんつーか、数奇にも程があるよな」
「!」
「〝これ以上巻き込みたくない、だからもう終わりにする〟――あいつが諦めて消えちまったって事は、もう世界は巻き戻らねえはず……だったんだがな」
何なんだろうなここ、と呟いて、〝クロウ〟は、その場に背中から倒れ込んだ。どこからか飛んできた焔のような蝶が、伸ばされた手の先の指に止まる。
目を細めてそれを見つめる〝クロウ〟は、何を思っているのだろう。自分であるはずなのに、クロウには、その胸中を窺い知る事が出来ない。
「きっと、次が最後だ」
「最後?」
「おう。俺が消えようと、あいつがいなくなろうと、な」
〝クロウ〟が開いた手の中には、ひび割れて砕けてしまっている歯車があった。ここにはいない誰かを象徴するかのようなそれは、沈黙して何も語らない。語れない。
〝あいつ〟とは、一体、誰なのだろう。一瞬の追憶の中に映っていた、暁の光を瞳に宿したあの人物だろうか。知っているはずのその名を、クロウは思い出せない。
「また忘れちまうんだろうが……無駄には出来ねえからな」
「……お前は、どうするつもりなんだ?」
「……。……それ、お前が俺に聞くのかよ? ……けど……そうだなぁ」
呆れたようなじとりとした目を向けて、〝クロウ〟は顔面を腕で覆った。上から差し込んでくる光を、遮るかのように。
「今度こそ、真正面から話をしてやってもいいかもな」
「……」
「ハハ……意味が分からねぇだろ? 今はそれでいい。……いつか、来るべき時が来たら。俺がお前に〝記憶〟を届けに行ってやる」
クロウが〝クロウ〟のすぐ横まで行ってその瞳を覗き込めば、二つの緋色が重なった。
それこそ意味が分からないんだが――そう突っ込もうとした瞬間、寝転んだままの〝クロウ〟に強く抱き寄せられて、彼は姿勢を崩す。
その胸からは、確かな鼓動を感じた。
「……っ、お前は――」
途切れさせた言葉。クロウがそうしてしまったのは、空間に歪みが生じ始めている事に気が付いてしまったからだろうか。
強まる力。〝クロウ〟の表情は、見えない。
「〝お前〟も〝俺〟だ」
そして再び、世界は暗転する。舞い散った歯車が、漆黒の中へと溶け込んでゆく。
空の片隅には、暁の光が差し込み始めた。
――砕けた歯車の欠片は、一つになって空へと消えた。