Chapter:05 Engagement -01

Those who are confronted with impossible odds can choose to react in one of two ways: abandon hope and accept a pitiful fate…
…or cling to that hope and forge ahead, overcoming any and all that life throws their way.
That’s what it means to dream.

 何故ここに立っているのだろう。何故、ここに居るのだろう。跡形もなく消えたはずだ。俺という存在は、あの瞬間に。
 息が吸える。体温がある。心臓が鼓動している。
 手の中の懐中時計は、蒼の光を纏っていた。太刀で刺し貫いて、壊したはずなのに。その跡はちゃんと残っているのに、秒針の音がどこからか響いている。

 誰かに、名を呼ばれていた。青い光が、どこからか伸びてきて――。

 目前を浮遊する薄紫の光。それに触れてみれば、やわらかな光は幾つもの帯を描いて空へと――いや、空だけじゃない。世界の半分以上を覆う海へ、人々が暮らす街へ、果てなく続く大地へ、光は溶けるようにしながら広がっていった。
「……」
 見慣れた部屋。黎明の刻。カレンダーを見れば、そこには士官学院へと入学する日の日付がある。
 時が、巻き戻っていた。

 俺は――――どうするべきなんだ?

 今までのすべては夢だったのだろうか。束の間の休息の合間に見た、幻だったのだろうか?
 自問に自答をする時間は与えてはくれなかった。揺らいだ意識は、そのまま〝記憶〟を押し込んで、暗闇へと消えていく。

 ◆ ◆ ◆

『やめろ、やめてくれええええッ!』

 慟哭も虚しく、仲間達が遠ざかる。勝ち目のない戦いに立ち向かうというのに、別れ際の表情は絶望的なものでは決してなかった。
 あれから、どれほどの月日が経ったのだろう。身を刺すような冷たさを感じて、重い瞼を押し上げる。
「……ここは……」
 鉛のようにずしりとした体を起こして、周囲を見回す。広がるのは険しい山ばかりで、それ以外には何もない。吐いた息は白く、標高の高い場所である事を伝えてくる。
 だが、初めて見た場所ではない事を、記憶が告げてきた。否、何かを目に入れるたびに、何かが脳内に流れ込んでくるような、そんな感覚だ。
 雪のちらつく連峰。セリーヌを伴って下った山道。地響き。襲い来る、巨大な――。
「……あれ、俺は……ここを、この状況を、知って……」
 初めてじゃない。蒼の騎神に敗れて逃がされた事も、夕暮れの空の中で慟哭した事も、その後そのまま気を失って、一ヶ月もの間ヴァリマールの中で眠っていた事も。
 けれど、脳裏に押し寄せるものの中には、違った記憶も混じっている。逆に、飛び去っていく蒼の騎神を見送った事も、学院を襲撃した事もある。
 どういう事だ。どういう、事なんだ。
 整理が出来ない脳内は、次第に混乱していく。それでも、増やされていく追憶のページは止まってはくれない。
「やっとお目覚めね、リィン・シュバルツァー」
「!」
 澄んだ声で名を呼ばれて振り返る。その横には、ヴァリマールが佇んでいた。
 セリーヌの姿を見て、また記憶が混濁する。隣に居た時もあれば、クロウの近くに居た事も、あったはずだと。
「……セリー、ヌ……」
「……? ちょっと、大丈夫なの?」
 きっと今、自分は酷い顔をしているのだろう――。駆け寄ってきたセリーヌがはっきりと視界に映らない。頭を抱えてその場に蹲った。
『よ、後輩君。何やってんだ?』
『クロウ先輩……』
 先輩であったクロウと、後輩の自分。
『〝学院生のリィン・アームブラスト〟は、ただの〝フェイク〟だ』
『――ふざけんなッ! 嘘だったなんて言わせねえぞ!』
 帝国解放戦線のリーダーを務めていた自分と、後輩のクロウ。
『もう……戻るつもりはないんだな』
『ねぇよ、冗談もいい加減にしやがれ。俺はここで――お前らを始末する』
 テロリストのクロウと、殺し合いをしたあの時。
『やめろ、いいからもう喋んな……!』
『はは……甘ったれ……なのは、お互い様……かな』
 クロウを助ける為に、命を投げ出した自分。
『何の為に……何の為に、ここまで』
『…………』
 世界を巻き込んでいる事をようやく自覚して、自分自身の手で――。
「……ッ!」
 割れるように痛む頭。止まらない記憶の波。どれが真実なのか、どれが辿ってきた道なのか。――否、きっとどれも、辿ってきた〝道〟なのだろう。
 かちりと嵌まるピース。溢れ出した奔流。支えている力が抜けて、再び地面に倒れ込む。意識を保っていられなかった。ひやりとした感覚に目が冴える事もなく、そのまま引っ張られるように視界が黒に閉ざされる。
「し、しっかりしなさいよ! どうしたっていうの!?」
「…………」
『――起動者ノ意識ガ途絶エタ。意識ノ回復マデ、アト二時間ハカカル』
「ああもう、一体何が起きてるのよ……!」

 思い出した。十七年だけ生きてきたはずの体には、その何倍もの時間が刻まれていたという事に。そして、時を巻き戻す事に罪悪感を覚え、自分の手であの懐中時計を破壊し――その存在と共に、消滅した事もだ。
『ここで立ち止まっちまうのかよ、お前は!』
 曖昧だった記憶が、鮮明になる。〝前回〟の最後、消滅しかけた自分の手を強く握ってきたクロウの姿も、はっきりと思い出せた。
 そこでふと、疑問に思う。もう、時間の巻き戻しは叶わないはずだった。だというのに、今ここに自分がいるのはどういう事なのか。今までのすべてが実は夢だったのか、などと考えてしまうが、その疑問に答えてくれる人はきっと、誰もいない。とりあえず、今は置いておくしかなさそうだった。
「……」
 ゆっくりと、目を開ける。どうやら今いる場所は水中のようで、上を見上げれば蒼の向こうに光の網が広がっていた。反対に下は、底の見えない真っ暗な闇が、どこまでも続いている。
 浮く事も沈む事もせず、その場でただ、ぼうっとする。アイゼンガルド連峰で、押し寄せた追憶の波から身を守るように気を失ったところまでは覚えていた。
 これから、どうすべきなのだろう――。再び時を遡れた理由は分からないが、おそらくこれが最後なのだと、なんとなく感じていた。だとしたら、取り戻したかったものを取り戻す、本当に最後のチャンスなのだ。
 もっと早くに記憶が戻っていれば、と、今更どうしようもない事を思う。せめて士官学院に入った春に戻っていれば、零回目と同じ状況に陥らずに済んだかもしれない、と。
「……っ……俺は、どうすれば……」
 自分の声は音にならない。脳内で響いた自身の声は、やはり戸惑いの色を含んでいた。このまま進む事が正しいのか、否か。胸に手を当てて、果てのない蒼の中で揺蕩う。

 クロウの立場になって内戦を駆け抜けた時もあったが、落とし所として見えていたものは。
 内戦を終結させて、平穏を取り戻した後――クロウだったら、どうしたいか。

 自問自答を繰り返し、閉じていた瞳を開く。相変わらず目前に広がっている蒼は、どこまでも透き通っていた。
 そこでふと、クロウと〝話〟がしたいと思った。宿命によって戦う事となった起動者同士としてではなく、ただの〝リィン〟と〝クロウ〟として、話がしたいと。
 機会はどこならば得られるだろう。脳裏を、幾つかの場所が過る。パンタグリュエルか、それとも――過ぎった記憶の中にある、あの緋色の王城だろうか。緋の玉座でのクロウとの戦いが何を生んだのか、今でもよく分かっていなかったが、〝終わってしまった〟あそこで終わらせるのが妥当だろうと、心が告げていた。それに、決着をつけた後ならば、互いに何のしがらみもなく話が出来ると思ったのだ。
 そうなると、あの緋の魔王との戦いで、絶対にクロウが死なないように立ち回らなければいけない。かといって、自分が命を投げ出してもいけない。二人であの緋の魔王を打ち倒して帰還しなければ、全てが水泡に帰してしまう。
「……くっ、あいつは一体――」
 走る微かな頭痛。思い出させまいと、警告をしてくるようだ。同時に緋色に靄がかかってしまって、それ以上の追憶は叶いそうにない。
 不完全な記憶。あの王城へどうやって行くのかは分からなかったが、その時が来れば導かれるのだろうと思っていた。
 上を見上げた時、光の網の向こうから、白い何かが一つ落ちてくる。
 それは手の平の上に、そっと舞い降りてきた。水中であるはずなのに、真っ直ぐに、俺のところへと。
 ――ライノの花が咲く頃に出会ったんだったな。
 そんな会話を交わしたのは、一体いつの事だったろう。何十年分も積み重なった記憶の中から、その一ページを見つけ出す事は叶わない。
 ――同じ空を見上げて、星を数えたりもしたしな。
 そう言ってステラガルデンの星々を指したクロウの笑顔は、セピアがかってしまっている。そこに色を付ける事は、もう出来そうにない。
『やれるモンならやってみな!』
 これから聞くであろう言葉が、脳内で響き渡る。
「……今度こそ、やるしかない」
 クロウと、話をしよう。まずはそれが第一目標だ。そして〝答え〟を聞こう――。
 舞い降りてきたライノの花びらを優しく握って、光の網の向こうを見据えた。そんな動きに呼応するかのように、周囲に広がっていた水はぱっと弾けるようにしてどこかへと消えてゆく。
 カチリ。
 意識が浮上する中、俺は遠くで歯車の音を聞いた気がした。

 ◆ ◆ ◆

『道は俺が拓く――行け、リィン!』

 あの時と何一つ違わない言葉。声色。状況。何も知らないクロウは、零回目と同じように、自分が道を拓くと言い切った。
 クロウは知る由もない。このまま進めば命を落とす事になるとは、これっぽっちも。ひょっとすると、状況は変わるかもしれない。けれど、そう簡単に変えられなどしない事は分かっている。エンド・オブ・ヴァーミリオンの顕現だって止めようとしたが、カイエン公の暴走が思った以上に早く、阻止する事が叶わなかったのだから。
 下手をすれば、きっと、また――。
 手に力が籠る。クロウを三度失って、自分も二度死んだ。最後の奇跡の力で、自分達は今ここにいるのだ。
 五度目の正直だった。もう失敗は、許されない。もうやり直しは、出来ない。
『……それじゃ、ダメだ』
『は? お前、こんな時まで甘ったれた事言ってんじゃ……』
 違う。ふつふつと沸き上がった感情を抑えた。怒りでも何でもない、自分でも正体の分からない感情が、先の戦いの疲労を押さえ付けてくれるかのようだった。
 冷静さを保ちながらも、僅かに必死さを滲ませるクロウの声。それを遮るように叫ぶ。

『道は、二人で拓くんだ! 隙を見付けて、助けられそうな方が皇太子の救出に行けばいい――その為の〝戦術リンク〟だろう!!』

 反論はさせないぞ、クロウ。先に行かせたら先に逝かれてしまったヤツを前にして、また同じような事をさせる奴がどこにいる――。
 ヴァリマールの太刀を構えて、駆け出す。クロウから返事はない。が、数秒もしないうちに、視界には蒼が入ってきた。自然と口元が緩んだのが、自分でも分かった。
 隣に並んだオルディーネも、双刃剣を構える。
『ハッ、言うようになったじゃねえか。いいぜ、乗ってやるよ』
『クロウ……ありがとう』
『お前な、死亡フラグっつー言葉知ってるか? そういう事は全部終わってから言えっての。――……来るぞ!』
 今を、何としてでも乗り越えなければいけない。
 あの時と同じ事を繰り返さない為にも――望んだ未来を、今度こそ掴み取る為にも。
 一度目を閉じて、開く。拓いてみせると決意して、目前の魔王を見据えた。
『ああ。行くぞ、クロウ!』
 エンド・オブ・ヴァーミリオンから放たれた閃光。両の腕から放たれたそれを互いに得物で受け止め、押される前に横へと受け流す。微かに変色した太刀と双刃剣。手負いの相手とはいえ、やはりその威力は侮れない。
 オルディーネの前に出て、立て続けに飛来する光弾を弾く。一発、二発、三発――追いつかなかった何発かがヴァリマールを掠めるが、それが齎すフィードバックの痛みごときで止まってはいられない。
『そこだ!』
 ヴァリマールに気を取られていた隙を突いて、オルディーネが一気にエンド・オブ・ヴァーミリオンへと迫る。光弾が与えてきた焼けるような痛みを無視して、その援護をすべく同様に距離を詰めた。

 次は左から来る。――分かった、だったらこっちは上に行く。
 まだ余力はありそうか? ――おうよ、核が壊れねえ程度に一発ぶつけるくらいなら出来るぜ。
 今だ、クロウ! ――お前に攻撃する気だな。俺がぶつかりに行くから、そのまま注意引いとけ!

 手に取るように、クロウの考えが分かる。初めてクロウと戦術リンクを繋いだあの日――旧校舎の時の事を思い返しそうになったが、今は油断さえも命取りになる。回想なんて、後でいくらでもすればいい。
 接近したオルディーネは、エンド・オブ・ヴァーミリオンと直接激突した。激しい火花が散って、魔剣と双刃剣が鍔迫り合いになる。
 言葉を交わさずとも、クロウの意図は分かっていた。自分がこうして動きを封じている間に、核を取り出せと告げているのだ。
『……?』
 何故か、息が詰まる。動いて、核を取り出して、エンド・オブ・ヴァーミリオンを停止させれば、終わる。以前とは違った結末で、終わる。だというのに――嫌な、予感がした。まるであの時、その体を尾に貫かれたオルディーネを見た時のような、そんな予感が。
 ヴァリマールが駆け出したその瞬間、見計らっていたかのように、エンド・オブ・ヴァーミリオンは奇妙な光を放ち始める。力を蓄えているような――まるで、爆発する寸前の爆弾のような。
 俺がハッとしたその時にはもう、辺りは白く染まり始めていた。
『駄目だクロウ、今すぐに離れろ!』
 離れていれば防ぎきれなくもないが、あんな至近距離で受けたらどうなる。ひやりとしたものが背を伝う。生身で戦った時に一度似たようなものを受けていたが、離れていても一撃で意識がどこかへ攫われそうなほどだった。たとえ騎神に乗っていても、そのフィードバックで中のクロウが無事でいられるはずがない。
 ただでさえ、先程の戦いで無茶をして、相当反動を受けているはずだ。何度オルディーネに庇われたか、分からないくらいなのだから。
 だが、俺が呼びかけても、クロウはその場から動かない。
『クロウ、どうしたんだ! 一旦離れて――』
『何言ってやがる、絶好の機会だろうが! 間に合いそうになかったら俺が受け切る、直後の隙を突いてお前が核を奪え!』
『なっ……』
 そんくらい言わなくても分かってんだろ、と。戦術リンクはそう伝えてくる。要するに、クロウは自分が盾になると言っている。そして、その後の僅かな硬直を突いて、セドリック皇太子がいる核をエンド・オブ・ヴァーミリオンから奪え、と。
 光が強まる。時間がない。

『…………そんな事、させるかッ!』
『リィン!?』

 走れ、駆けろ、間に合え――いや、間に合わせなければいけない!
 異様なまでに遅く感じる時間。自分の鼓動の音がやけに大きく感じた。光に飛び込む勢いで、太刀を構えたまま、オルディーネの反対側からエンド・オブ・ヴァーミリオンへと駆け寄る。
『何やってる、早く俺の後ろに回れ!』
 結集した呪いの焔が、一点に集中する。
『バカ言うな、お前を盾にするなんてお断りだ!』
 我ながら、らしくないと思う言葉を吐く。
『お前、どうしてそこまで――……』
 クロウの言葉の最後の方は、妙な雑音に掻き消されて聞き取る事が出来なかった。
 ヴァリマールで太刀を振りかぶって、エンド・オブ・ヴァーミリオンに斬りかかる。緋を斬り裂けば、皇太子がいる核が目の前に現れる。

『もうお前を失いたくないからだ、クロウ!』

 核を引き抜いたのと、視界が白と緋で覆い尽くされたのは、ほぼ同時だった。
 突き飛ばされたような――そんな感覚を最後に、俺の意識は途絶えた。

 ◆ ◆ ◆

 名を呼ぶ声がする。
 鉛のように重かった体が少しだけ軽くなって、ゆっくりと、視界が開ける。霞んでいるそれは十秒ほど経ってもなかなか鮮明にならないが、覗き込まれている事だけはなんとなく分かった。
「…………ここは…………」
「リィン、気が付いたのね!」
 かつて言ったような言葉とともに、どうにか体を起こす。支えてくれたアリサに礼を言って、ふらつく頭を押さえながら、ぐるりと周囲を見回した。
 どうなった、のか。どうにか頭を落ち着ける。横には皇太子が寝かされているから、救出には成功したのだろう。今いる場所も、煌魔城の最上階だ。向こうではカイエン公が呆然としていて、その階段の下にはオルディーネと――。
「ッ、クロウ!」
 冷水をかけられたかのように、一気に覚醒した意識。その前に立っているクロチルダさんは、黙ってオルディーネを見上げていた。
「クロチルダさん、クロウは……!」
「…………」
 駆け寄り、同じくオルディーネを見上げてみると、あの時と同じように、核が光っていない。霊力の反応も微弱で、ほぼゼロに近いと言ってもいい。
 そんな、まさか――。
 過る結末を振り払うように、頭を振った。落ち着け、まだだ、まだ決めつけるのは早いじゃないかと自身に言い聞かせて、その場で光が降りてくるのを待つ。
「!」
 あの時は黒を帯びた光が舞い降りてきたが、今回は蒼の小さな光が降りてくる。ちかちかと弱々しく光りながら、地上へとそれは辿り着く。
 俺も、おそらくクロチルダさんも、半ば祈るような気持ちでそれを見ていたが。

「…………嘘、だろ」

 目の前の現実が嘘だったら、どんなに良かっただろう――。踏み出した足が、一度だけ声と共に震える。
 一瞬の閃光の後に現れたクロウは、力なく地に俯せで倒れていた。意識がないのか。慌てて駆け寄って体を起こしても、固く閉じられた目は開かれそうにない。胸に耳を寄せてみると、まだ鼓動はしているものの、繰り返される呼吸は今にも消えてしまいそうだった。
 あの時よりも、状況が悪化している。さあっと血の気が引いたような気がして、落ち着こうとしていた気持ちがどこかへと追いやられてしまった俺は、ぐったりとしたクロウを軽く揺すった。
「クロ、ウ……クロウッ! 頼む、起きてくれ!」
「ど、どうしちゃったの……? 見たところ、怪我とかないよね?」
「ああ、だが、この状態では……」
「……」
 オルディーネの機体に、大穴は空いていない。若干の損傷は見受けられるが、命に別状はないはずだ。
 どうして、なぜ。未知の事態に疑問ばかりが渦巻いて、クロウへと呼びかけ続ける事しか出来なかった。

「――――《NIGHTMARE》」

「え……」
 クロウのそばに屈んで、ぽつりとそう呟く委員長。委員長が放っていたレキュリアの光は、弾かれるようにして消えてしまった。おそらく、効果がないのだろう。
「ナイトメア……悪夢、ってコト?」
「魔女の里にいた頃に、本で読んだ事があります。終焉の魔王は、その攻撃に様々な異常を引き起こす効果を付与出来て、その一つに永遠に悪夢を見せ続けるものがある、と……。それでも、治癒で治せるはずなのに……ここまで強力だと、もう……」
 最悪の事態を思い描いてしまったのか、委員長が目を伏せる。エンド・オブ・ヴァーミリオンは、最期の一撃に全てを注ぎ込んだのではないか、と。
 俺の脳裏を過ぎったのは、つい先程の光景だ。視界が白に染まる寸前、目の前に割って入るかのように現れた、あの蒼は。
 頭を鈍器で殴られたような衝撃に襲われる。あの時、意地でもクロウの手を引いていれば。あの時、もっと速く動いていれば――。沸き上がった後悔は、押し込める。今それに押し潰されたところで、何も、変わるわけではないのだから。
「そんな……それじゃあ、クロウはどうなっちゃうの!?」
「……今はまだ、ほんの微かに意識が残っているわ。けれど……」
「このまま放っておいたら、クロウは永遠に覚めない眠りに落ちる。……って事、だね」
「……そんなのって……」
 懐に入れていたARCUSが、膝をついた勢いで冷たい床へと落ちる音がした。
 どうすればいい。どうすれば、いいのか。今までに一度も遭遇しなかった事態に、俺の脳内は完全に混乱しそうになる。放っておいたらクロウが消えてしまう。けれど、助ける術がない。思い付かないのだ。五度逆行を繰り返して得た知識の本棚をひっくり返しても、答えが書いてある本など、どこにも。
 追いつきそうだったその背がまた離れていくような気がして、無意識のうちにクロウの手を強く握っていた。四度目の最期にクロウがそうしてくれたように。そうしたところで、帰ってくるわけではないと分かってはいても――。

「……クロウ、君?」

 ぷつり、と。その場にいた者の思考を途切れさせる声と、複数の足音。
 振り返らずとも、誰が来たのかは察しがついたが。ゆっくりと背後を見ると、そこには。
「トワ会長……アンゼリカ先輩に、ジョルジュ先輩も……」
 ずっと走って来たらしく、息を切らせながら駆け寄ってくる三人。俺はそれ以上、言葉が出て来なかった。彼らの名前を呟くだけで、精一杯だった。
 クロウの横に屈んで、トワ会長がその手を掴み声を掛ける。応答がない事に気付いて、呼吸を確認して、顔を上げたトワ会長は僅かにその瞳を揺らした。
「クロウ君……どうしたの? 寝てるだけ、だよね……?」
「……久々の再会なのに随分と暢気じゃないか、クロウ。居眠りもほどほどにするべきだよ」
「…………」
 心の底から心配そうなトワ会長と、分かっているだろうに敢えてそう振舞っているアンゼリカ先輩。ジョルジュ先輩は何も言わず、ただ二人を見守っている。
 声を掛けようとして、それを飲み込む。引っ掛かって、押し戻されてしまう。何と、声を掛けるべきなのか。混濁した脳内はその答えを与えてはくれなかった。
 一秒が一分にも三分にも感じられるような沈黙の中で、どうにか口を開いた――その時だった。
「……!」
 全身に走る、ほんの微かな痺れ。何かに呼応するかのような胸の痣を軽く押さえて、俺は後ろを振り返った。零回目とは違った状況だったが、今は、向こうから歩いてきた人に視線を向けるしかなかった。
 まるで何事もなかったかのように、平然と。背後に部下を連れて歩いてくるその人は、零回目と同じく、心臓をクロウに撃ち抜かれて鮮血の中に斃れたはずなのに。
「…………。鉄血宰相――ギリアス・オズボーン……」
 フラッシュバックするのは、吹雪の中の冷え切った、けれども確かなあたたかさを持った遠い日の記憶。どうか健やかに育ってくれと願う、ただの父親であるその姿。
 アイゼングラーフ号が通過したあの瞬間のように、時の流れが遅く感じる。
 握った手からは、あたたかい光が流れていくような感覚。随分と昔に、同じようなものを受け取った記憶があるような――いや、今は置いておこう、それどころではないのだから、と言い聞かせて、俺は鉄血宰相を見た。

 諦めるな。まだ、クロウを助ける術はあるはずだ。あの時のように、致命傷を負ったわけではないのだから。
 それに、クロウとはまだ〝話〟が出来ていないのだ。このままで終われるわけがない。
 ……そうだ。〝話〟をしに行かないと。あいつが目を覚まさなければ話が出来ないのなら、俺の方から出向けばいい。クロチルダさんなら出来るかもしれない。
 〝あの事〟を聞くのには、ちょうど良さそうだ。それに、今度こそ〝終わり〟にしなくてはいけないのだ。
 だが、その為には、この状況をどうにかしなければ――。

 混乱しかけていた頭は、一周回って冷静になった。正確には、鉄血宰相の姿を見た瞬間から、なのだが。
「…………ごめん、少し行ってくる。クロウを頼む」
「リィン……?」
 近くにいたガイウスにクロウを預けて、立ち上がる。何故生きているんだとその胸倉に掴みかかった零回目が妙に懐かしく感じるが、今回はそんな事はしない。同様に引っ掴んでやりたい気持ちもあるが、今は抑えなければいけない。
「アンタに話があるんだ」
 歩いてくる鉄血宰相達の前に出て、進路を塞ぐように立つ。微かに動揺を見せたクレア大尉を制して、鉄血宰相は自分だけ一歩前へと歩み出てきた。
 相変わらず、隙がない。空気が刺さるようだった。
「ほう。話とは?」
「…………」
 自然と拳を作る。零回目と同じ確証は、あった。ユミルへ捨てられた時の記憶も、初めより鮮明になっている。
 焼き付いて離れなかった。息子の成長を希う、穏やかな声も。自分の子を最後まで気遣う、優しい〝父〟である鉄血宰相の姿が、ずっと。信じがたい事であったが、どう足掻いても覆らない真実なのだ。諦めにも似た何かが、自分の中へとそれを溶け込まさせてくれていた。
「……アンタの望みは分かってる。俺とヴァリマールを帝都解放の英雄に祭り上げて、クロスベルへと侵攻してくるカルバード共和国の軍へ〝力〟を見せ付けて抑え込む。そうして、クロスベルを帝国の一部分にする……かつてのジュライのように。そうだろう?」
「……リィンさん……」
「俺に選択肢はない事は、初めから分かってる。……〝あの時〟だって……逃れられなかったからな」
 ぴくり、と。鉄血宰相の眉が僅かに動いたのを、俺は見逃しはしなかった。
「クロスベルを、ジュライと同じ目には遭わせたくはない。だけど……今の俺には、もうどうする事も出来ない」
 遅すぎたんだ、と。付け足そうとした一言は、言わずにそっと奥底へと押し込んでおいた。
「回りくどいな。何が望みか、正直に言いたまえ。――リィン・シュバルツァー」
「……そうだな。アンタ相手に、無意味だったな」
 名を呼ばれて、分かっているくせに、と心の中で吐き捨てた。
 余裕のある表情を崩さないまま、鉄血宰相は言葉を待っている。底知れない人だった。心底、そう思っている。ひょっとすると巻き戻る前の記憶が残っているのかもしれないし、残っていないのかもしれない。今気にしたところで、どうしようもないのだが。
 一歩、俺は進み出る。少しだけ息を吸って、吐いて。同時に閉じていた目を開けば、鉄血宰相とまた視線が交わる。

「時間がほしい。俺の〝今〟の望みは、それだけだ。…………さもなくば……アンタが俺の〝父親〟だろうと、言う事を聞く気はない」
「……」

 鉄血宰相は沈黙したままだ。俺の背後からは、息を飲むような気配。誰にも話していなかったのだから、当然だったが。
 僅かに俯き、拳を作り直す。
 本当は、こんな事は言いたくはなかった。
 俺にとっての〝父親〟は、テオ・シュバルツァー、ただ一人なのだから。
 この状況、どうしたら鉄血宰相の動揺を誘えるか――時間を稼ぐには、どうすればいいか。思い付いた言葉はそれくらいだったのだ。それさえも、効果があったのかさえ分からないが。
 何秒の間、沈黙が続いただろう。鉄血宰相は、俺に背を向けた。
「……何故そこまで《蒼の騎士》に拘る? ここで息絶える事こそが、彼にとっての最善かもしれんぞ?」
 まるで、今までの事をすべて知っているかのような言葉だった。これから俺がやろうとしている事も、分かっているかのようだ。
「……それは……」
 振り返れば、ガイウスの腕の中のクロウは、先程よりも生気が感じられない。けれど、駆け戻りたくなる衝動をぐっと堪えた。
「時間は与えてやろう。だが……考えてみたまえ。《蒼の騎士》の生還を願い、身の危険を冒してまで実行しようとするそれは〝エゴ〟であるという事も――分かっているのだろう? 我が息子よ」
 パンタグリュエルで過去を語る、クロウの姿が過る。帝国の内戦を終わらせて、平穏を取り戻すまでがオレの勝負――変わらずに、クロウはそう言った。零回目とまったく違わない声色で、言葉で、そう言ったのだ。内戦が終わった後はきっと、長く生きるつもりなんてなかったのだろう。ケジメ、清算としてどこかで死ぬつもりでいたのかもしれないという事には、時間の巻き戻しを繰り返す中で俺はとっくに気付いていた。
 それでも。
「……アンタに言われなくとも」
 踵を返す。眠っているクロウからは、細く弱々しい一筋の光が、ARCUSへと向かって伸びていた。
「クロウを連れ戻す。それは俺の勝手な我が儘で、文字通り夢でしかないのかもしれない。だけど……それでも俺は、信じているんだ。俺達の前で笑っていた〝学院生のクロウ・アームブラスト〟も、フェイクなんかじゃなかったって」
「……」
「何とでも言えばいいさ。……時間をくれた事には感謝する。けど俺は、もう立ち止まるつもりなんてないからな」
 鉄血宰相の表情は、当然見えない。見える必要も、ないだろう。

 皆のところへと走って戻ると、大半が複雑そうな表情を浮かべている。無理もないだろう。整理が追いつくのにも、時間がかかりそうな状況なのだから。
「皆。黙ってて、ごめん。後で俺には、何を言ったって構わない」
「リィン……」
「クロチルダさん。ARCUSから伸びているこの光は、クロウに繋がっています。……頼みがあります。……俺は、あいつと……話がしたいんです。無茶な我が儘なのは分かっています。……力を、貸してもらえませんか?」
 ARCUSから伸びる細い光は、俺とクロウを繋いでいた戦術リンクの名残だった。本来ならば切れているはずだが、今にも消えてしまいそうでありながらも、どうにか残り続けてくれている。
「ええ、応用すれば出来なくはないけれど……リィン君、本当にいいのね?」
 その光を辿った先に、クロウが居るはずだった。それがどういう事なのか分かっていたが、どうしても、クロウの所へと行きたかったのだ。
「リ、リィン!? な、何を言っているんだ、そんな事をすれば君が……!」
「別に、命を捨てに行くわけじゃない……俺は、クロウと話がしたいんだ。あいつがこのまま死にたい、って言ったら……もう俺には引き止められない。その時は……なんとかして一人で戻って来るよ」
 トワ会長が、胸の前で手を強く握る。
「けど」
 ほんの数秒の間に思い返したのは、あの星空の下で交わした、先輩達との叶えられなかった約束。
 生きる気はない――その可能性が、クロウにないわけではない。鉄血宰相を討ったと思っているクロウは、ヴァルカンやスカーレットのように死を望んでいる可能性だって十分にある。
 そこまで考えて、本心が知りたいと思った。蒼の騎士でも学院生でもなんでもない、ただの〝クロウ〟としての、本心が。

「あいつが、生きたいって言ったら。その時は――何が何でも、連れ帰る」

 だから信じてほしい。
 俺がそう続ければ、皆は笑って頷いてくれた。