Chapter:05 Engagement -02

 蒼の光に包まれ、ぷつりと意識が途絶えた次の瞬間には、身を裂かれるかのような何かの奔流の中へと放り出されていた。
『リィン君、一つだけ忠告しておくわ。これから君が入り込むのは、クロウの精神の中――そこは、膨大な情報が飛び交い、永遠の眠りへと向かっている世界。長居していると、君まで取り込まれてしまうから……あまりのんびりしないようにね』
 クロチルダさんの忠告。辿り着く前に、バラバラにされかねないほどの痛みが全身を襲う。飛んでいるのか、落ちているのか、それさえも最早分からなかった。
 どうにか薄らと目を開けると、彼方まで伸びている細い青の光が見える。きっとクロウへと繋がっている、唯一の光だ。
『行くがいい、リィン。お前の信じるものの為に。――それを俺達も信じよう』
『ん。こっちは任せて。わたし達も〝今度こそ〟……守るから』
 何度も届かなかった言葉。何度も届かなかった、手。痛みを堪えながら必死に伸ばすと、なんとか触れられたそれは、まだあたたかな温もりを保っていた。
 光に沿って、落ちていく。何かに導かれるかのように。

「……ッ!」
 それは突然の目覚めだった。開けた視界いっぱいに、夕暮れへと向かいかけた蒼穹が広がっている。そこを飛ぶ白い鳥は、空という名の海を泳いでいるようだった。
「俺は一体……」
 体を起こすと、潮の香りが漂っている事に気付く。耳を澄ませば、ざざ、という穏やかな波の音も聞こえてきた。海が近いようだ。
 茂みの中に落とされたせいか、あちこち汚れている。衣服を軽く叩き、土埃と葉っぱを落としてゆっくりと立ち上がる。誰かの名が刻まれた石が、俺の周りには幾つも並んでいた。放り出されたのはどうやら、どこかの墓地のようだ。先程まで携えていたはずの刀は、手元にはなかった。
 鬱蒼とした森の中にひっそりと存在するそこに、勿論見覚えはない。けれど、ここがどこなのか直感で判った。
「……ジュライの、墓地か」
 何気なく視線を向けた先に、真新しいものがぽつんと一つあった。置かれている蒼の花も新しい。ついさっきまで、誰かがいたような――そんな感じだった。それが誰の墓なのか深く考えずとも分かってしまった気がして、俺は敢えて、近くには寄らなかった。

 このまま墓地に居ても仕方がないと判断して、そのまま森を抜けて市街地の方へと出た。
 辺りを慎重に見回しながら探索を始める。どこかに、クロウが居るはずなのだ。ジュライを訪れた事はないが、クロウが行きそうなところを調べて探してみよう――そう思った矢先、俺はふと、ある事に気が付く。
「街に、人がいない?」
 鉄血宰相の政策によって繁栄を手にし、賑わっているはずのジュライ特区。行き交う人々の数なんて数え切れないほどのはずなのに、俺の視界に広がるジュライの街には、何故か人が一人も存在していなかった。
 沈黙の街に在るのは、空を飛ぶ鳥の鳴き声と波の音。終わりかけた黄昏に照らされる無人の屋台や店、開きっぱなしの民家のドア、放置された貨物――生活感は確かに残っているのに、突然人々だけが消し去られてしまったかのようだ。
 不気味なほどに不自然なそれらは、ここが悪夢の中だと思う事で、ようやく合点がいった。同時に理解する。緋の魔王が齎した呪いは、クロウの心を殺すつもりなのだと。
「……」
 ゆらりと、内側で焔が揺れた。何に対してのものなのか、自分でははっきりと分かってはいなかったが。
 一歩踏み出して、立ち止まる。どこへ向かうべきか。マキアスが言っていたカジノか、残っているかもしれない市長の家か、フィッシュバーガーを売っているはずの露店がある一角か。
「それとも、また墓地に――……」
「相変わらず難しい顔してやがるな?」
「!」
 聞き間違えるはずのない暢気な声が唐突に降ってきて、反射的に顔を上げる。周囲にはその声の持ち主はいない。
「こっちだぜ。上だ上」
 突然の事に冷静さを失ってきょろきょろとする俺が可笑しかったのか、微かに笑いを含んだ声が俺を呼ぶ。
 そちらを見てやっと、声の主の姿を視界に入れる事が出来た。近くにあった民家の二階から、あの頃のようにひらりと手を振るその人は。
「っ、クロウ……!」
「よう。久しぶり……なワケねえよな、っと」
 身軽な動作で窓から飛び降りたクロウは、目の前に難なく着地する。何とも言えないような表情でそれを見つめていたであろう俺に、クロウは苦笑しながら向き直った。
「お前、迷い込んじまったのかよ? 早く帰ったほうがいいぜ、その方が身の為だ」
「……は」
「どうやってこんなトコまで来たんだか知らねえが……や、待てよ。ヴィータの仕業か? こんなマネ出来るのはヴィータくらいしか……」
 腕を組んで、一人でぶつぶつと呟くクロウ。変わらぬ様子に安堵して、〝クロウ〟である事には間違いなさそうだと思ったが、それがわざとらしい振る舞いである事に、すぐに気付いてしまった。そうする理由だって、察してしまった。
「……クロウ。俺は――」
「リィン」
 ぽん、と頭に置かれた手。それはあたたかさを持っているが、クロウの瞳には僅かに影が差している。

「今すぐ帰れ。〝ここ〟がどんな場所かくらい、分かってるだろうが?」

 予想していた言葉とほぼ違わない台詞。分かっていても、拳を作らずにはいられなかった。
「……そう言われるだろうと思ってたよ」
「察しがよくなって来たじゃねぇか。それならとっとと……」
「駄目だ。今は帰れない」
「……。……お前」
 強く言い切る。一瞬だけクロウの緋が揺らいだのを、俺は見逃さなかった。
 ずい、と一歩近寄って、真正面からクロウを見つめる。
「俺はお前と話をしにきたんだ。クロウ」
「今更、何の話だよ?」
「話は話だ。だから――」
「……クク、〝そう言われるだろうと思ってた〟ぜ」
「は」
 くるりと俺に背を向けて、振り向きざまにクロウは言う。

「だったら、今度こそ追い付いてみな。そうしたら聞いてやるよ。お前の〝話〟を」

 蒼の残光が空を満たして、黄昏が少しづつ消えてゆく。
 ぱっと市街地の奥へと駆け出したクロウは、あっという間に民家の合間へ姿を消した。そう言い切ったクロウは挑発的ではあったものの、どこか楽しげな様子だったのは、俺の気のせいなのだろうか?
「…………」
 取り残された影。また追いかけっこをするハメになるとまでは思っていなかった俺は、伸ばしかけ行き場をなくした手を下ろして息を吐く。
「上等だ。今度こそやってやる」
『ハッ……上等だよ。やれるモンならやってみな!』
 かつて白銀の巨船で言われたクロウの言葉を反響させて、駆け出す。今すぐ帰れと言っておきながら、わざわざ引き延ばすような事をしてくるなんて、本当に本心が掴めない。でも思い返せばそんな事が多かったな――などと考えながら、一先ずクロウが走り去った方角へと向かった。

 密集する民家は、どこも扉やら窓やらが開きっ放しで駆け抜けるのは容易かった。やむを得ないとはいえ、他者の家に勝手に土足で踏み入っている行為に内心で申し訳なさを感じつつも、クロウを追跡する。
 その後ろ姿を見失って探していると、物陰からひょっこりと顔を出してクロウはひらりと手を振る。なんとなくおちょくっている様子なのが、余計に俺の闘争心に火を点ける。
「おーい、こっちだこっち」
「お前はどこを通ってると思ってるんだ!」
 民家の窓から窓への跳躍。
「服引っ掛けんなよー、色々置いてあっからな」
「俺より、お前の方が引っ掛けそうな気がするんだけどな」
 建物間の狭い路地裏の疾走。
「中身空っぽで軽いから、避けられなくて当たっても多分痛くねぇぜ」
「そ、そういう問題じゃないだろ……っ!」
 転がってくる樽の回避。
「夢って便利だよなぁ、こんなのも一瞬で作れるんだぜ?」
「だからって突然俺の前に出すのはやめてくれ!」
 貨物とおもちゃの箱で作られたバリケードの飛び越え。
「クロノドライブ!」
「ほっほう、その手があったか。あんがとよ。――クロノドライブ!」
 お互いに時のアーツで加速したせいで決着がつかない、エトセトラ。普段ならばまず遭遇しないであろう多彩なシチュエーションは、確実に俺の体力を削っていく。
「クロウ!」
 三階建ての民家の最上階、小さな屋上の扉を開け放つと、クロウがそこの端で下を暢気に眺めていた。
 肩で息をしながら歩み寄ってくる俺に気付いたクロウは、ヒュウと口笛を吹いてみせる。
「お。撒いたつもりだったが来やがったか」
「もう逃げられないぞ」
「オイオイ。そいつは悪役の台詞っつーか……フラグだぜ?」
 仕掛けた側というのもあってか、クロウの方はまだまだ余裕そうだ。不敵に笑んだかと思った次の瞬間には、ひらりと手すりを乗り越えて向こう側へと姿を消してしまう。
「――――え」
 クロウが姿を消した先は当然、何もない。足場がない。そうなれば、彼がどうなるのかなんて、深く考えずとも分かってしまう。
「ク、クロウッ!?」
 冷や汗が伝って、俺は思わず声を裏返らせてしまう。慌てて駆け寄って手すりから身を乗り出した。勢いが良すぎて、腹に手すりの冷たい鉄が食い込むほどに。
「…………あれ……?」
 俺はぽかんとしているのだろう。文字通り、ぽかんと。過った最悪の光景は一秒もしないうちに掻き消され、込み上げた不安は全部突風で吹き飛ばされたような気さえした。
 目を擦る。目前の光景は何一つ変わらない。ただ、静寂の街が潮風に包まれているだけだ。屋上から飛び降りたはずのクロウは、どこにもいない。先程まで追いかけていたのは幻か何かだったのかと思えてくるほどに、その影さえ残っていない。
 戸惑う。ぐるりと一通り周囲を見回しても、クロウは見付からない。初めから誰も居なかったかのように、そこには、無人のジュライが広がっていた。
「……あいつ、どこへ……?」
 黄昏と夜の合間の空は、変わる事なく止まっている。広がる一面の蒼も、そこを泳いでいる鳥も、止まってしまっている。
 時が止まった世界。まるで、クロウが居なくなったから止まってしまったような――そんな感じだった。

『もし、途中でクロウを見失ってしまったら、行きそうなところを念じてみるといいわ。君とクロウは、戦術リンクで繋がっている。きっと、あの子のところへ導いてくれるはずだから。…………――クロウの事、よろしくね』

 脳裏を過る、クロチルダさんの言葉。クロウと彼女がどういった関係を築いていたのかは俺には分からないが、険悪なものではなかったのだろうと思っていた。〝ラジオパーソナリティのミスティ〟として活動していたクロチルダさんと、〝学院生〟として動いていたクロウ――どこか似ている部分があると、感じていたからかもしれない。
 深呼吸をしてから冷静になり、目を閉じる。不思議な事に、脳内の暗闇を青の光が駆け抜けていった。先の見えない漆黒の中を駆けていくそれを辿るように、見失わないように、その閃光の行方を追いかける。
 ぐらり、と。足元が揺らぐ。それでも目を閉じたまま、その場から動かない。動いてしまえば、目を開いてしまえば、行けないような気がしていた。辿り着けないような、気がしていた。
 駆け抜ける追憶。血塗れの記憶も、逆転の記憶も、すべてが後ろへと追いやられる。
 その中の幾つかの光を掴み取ったまま、俺は一瞬で――。

 ◆ ◆ ◆

「……!」
 いつか見た夕暮れ。いつか見た、懐かしささえ感じる光景。遠い日に小さな銀が舞った橙の空を見上げて、俺はそっと、手のひらを開いた。
「五十ミラ、コイン……?」
 どうしてこんなところに、などと疑問に思うも、数秒後にはそれは押し込んだ。
 再び握り直して、駆け出す。繋がっている光を辿らずとも、クロウがどこに居るのかは分かっていた。直感が告げていた。短いけれど、確かな思い出が詰まっている、あそこにクロウは居るはずなのだと。

 辿り着いたのは、夕暮れの士官学院。人は相変わらず居ない。しんとした校舎はどこか不気味ではあったが、反響する足音が妙に心地よくも感じていた。珍しい事だからだろうか。混じり合った胸中を誤魔化すようにして、階段を上がっていく。
 廊下を走るんじゃない、と染み付いている教頭の声は、校舎内に入ってから走る足を奪っていた。けれど、俺はちっとも焦ってはいなかった。確信があったからだ。クロウはもう、逃げはしないと。
 一歩一歩、近付いていく。こつり、と響いた足音がやけに大きく聞こえて立ち止まるも、またすぐに一歩を踏み出す。
 そして、手を掛けた。かけがえのない思い出を沢山作った、あの場所の扉へと。

「クロウ。居るんだろう?」

 ゆっくりと開いた、《Ⅶ組》の教室の扉。一番後ろに一つだけ突き出た、年上の編入生の為に置かれた机に頬杖を付いて、窓の外をぼんやりと見つめる姿が一つ。
「……。その格好でそこに居ると、変な感じだな」
 俺に声を掛けられてようやく、座っていたクロウは視線を向けた。僅かにじとりとした目で見つめてくる。
「お前な、第一声がそれかよ?」
 しゃーねぇなぁ。そうクロウが呟くと、ぱっと彼の衣服が《Ⅶ組》の制服へと切り替わる。もう細かい事にはツッコまない事にした俺は、そのまま前の座席へと腰掛けて後ろを向いた。
 見慣れた学院生の制服に身を包んだクロウは、再び外を見て何を思っているのか。初めに何から話そうか、と考えていると、いつの間にか、クロウの緋がじっと見つめてきていた。
「クロウ?」
「あー、やっぱここに来ると思い出しちまうぜ」
「……俺とお前で、教室でブレードをやった日の事か?」
「日にちまでは覚えてねえけど、こんな状況だったろ。あの日も」
 懐からブレードを取り出して、クロウが机上にそのカードを広げる。改良も加えられた、ブレードⅡ――それは、パンタグリュエルでの戦いの最中、どさくさに紛れてクロウが俺の懐へと突っ込んだものだった。腕を磨いておくんだな、と書かれたメモは、机の中にずっとしまってある。
「ブレードⅡ……。良い息抜きになったよ。またお前とやる為に、腕を磨いてたのにな」
「……」
「クロウ。俺の話を聞いてもらう約束、だったよな」
 また頬杖をついて俺から視線を逸らしたクロウは、もう、逃げるつもりはないようだった。
推測通りだ。それに、ここまで来ておいて逃げ出したら格好がつかないだろう。
「いいぜ。…………元々、聞いてやるつもりだったしよ」
「え?」
「ほれ、続けろって。聞いててやっから」
 小声で付け足されたそれを追求しようとする前に、手で軽く追い払われるようにされてしまう。これ以上聞くなという事らしい。俺は大人しく、どういう事なんだと問い質したい気持ちを押し込めた。
 カードの一枚を手に取って、少し間を空けてから口を開く。
「……。……やっと、分かったんだ。お前の事が」
「……」
「もちろん、全部が分かったわけじゃない。俺はお前じゃないからな。……けど……〝クロウ〟の立場になって、ようやく、掴めたものもあったよ」
「……!」
 俺と視線を合わせるクロウ。クロウの瞳の中の緋に混じった何かの色は一瞬で裏側へと隠されてしまったが、それを俺は見ていた。自分の中での仮説は、もう少しで確信へと変わりそうだった。
「一つ聞いていいか? ……俺の予測でしか、ないんだけど。クロウ、お前も〝全部覚えている〟んじゃないのか?」
 射抜くように見つめていたのか、クロウは困ったように頭を一度掻く。
「…………お見通し、って事かよ」
「確信してたワケじゃない……けど、そうなんじゃないかって思ってたんだ。ここに来てから会った時に、そんな気がしてさ」
「そういやお前、あの時計はどうしたんだよ?」
「あれは……」
 焔の光が消えてしまった懐中時計を取り出す。何度も奇跡を起こし、巻き戻しの軌跡を描かせてくれたそれは、俺の掌の上で沈黙してしまっている。
「……完全に壊れちまってるな」
「そうみたいだ……俺が壊したはずだったんだけどな。だから、前回が最後だったはずなのに、何故かまた時間が巻き戻ってるんだ。理由は分からないけど」
「……。ハハ……妙なモンだな」
 誤魔化すように苦笑したクロウ。話題が微妙に逸れてしまった事に気付いて、軽く咳払いをする。
「……それで。そう答えたって事は、お前も今までの事を覚えてるんだな?」
「ああ。……思い出したのは、ここに閉じ込められてからだけどな。そういや前回の最後、お前が消えた後……鉄血の野郎が出てきたんだが。今回も、奴は出てきやがったのか?」
「……あ……」
「……その反応だと、同じみてーだな?」
 肩を竦めてクロウは続ける。鉄血宰相の名が出た事で、俺が微かに動揺を見せた事には気付かずに。
「奴は死んでねえ。そうなんだな。今頃、向こうで睨み合ってるんじゃねーか?」
「……ああ、そう……だ」
「……やっぱり、生きてやがったか。にしても、どういうカラクリで生き延びたんだ? 普通は考えられねえだろ、心臓ぶち抜かれて生きてるなんてよ。前回は奴が出てきてから少し経ったら巻き戻っちまったから、結局どういう事なんだかサッパリだったけどな」
 深紅の池の中に斃れたのを見たはずの存在が、何事もなかったかのように息をして歩いている。難解な推理小説を読んでいる人でさえも解けなさそうなその謎は、どうやら、まだ明かされていない伝承等が関わっているようだった。
「……っ、はは、よく分からない、よな……」
 ぎゅっと胸元を握る。そうだ、肝心な事を忘れていたと、俺は今になって気付いてしまったのだ。
 クロウの話に耳を傾けていながらも、心には一つの影が忍び寄って覆いかぶさろうとしていた。取り繕った表情が引き攣る。それはきっと、立場が入れ替わり、因果が歪み、繰り返された時間の中でもおそらく、クロウが辿り着いて知る事のない真実だったからだ。
「……リィン?」
 それにはさすがに気付いたクロウが、怪訝そうな顔をして俺を覗き込む。彼からしてみれば不自然でならないだろう。勢いよく追いかけてきて話を始めたはずの俺が、突然、顔を引き攣らせて視線を逸らしてしまったのだから。
「……」
 隠していても、いずれは知られる事がある。
「……クロウ。お前に一つ、話しておかないといけない事があるんだ」
 突き放される覚悟で、俺は話を始めようとする。
「…………」
 すっと瞳を細めて、クロウはそんな俺を見た。銀の合間から向けられる、全てを見通すかのようなそれに、開きかけていた口を思わず閉ざしてしまう。いつものように茶化してくれれば逆に話しやすかったかもしれないのに、どうして。ひょっとして、もう知っているのか――。ぐるぐると渦巻いた感情は、少しづつ時間を奪っていく。
 妙な沈黙が、俺とクロウの間を満たす。
 十秒。
 三十秒。
 一分、そして。
「話しておかないといけない事、ねぇ。……クク、俺の冴えてる勘で当ててやるよ」
 かちり、とどこからか秒針の音が聞こえた直後、先に喋り出したのはクロウの方だった。真摯な目に縫い止められたかのように、俺は頷く事すら出来ない。
 夕暮れの色を混ぜた緋が、俺を映し出す。真っ直ぐに。

「リィン・シュバルツァーは、鉄血宰相ギリアス・オズボーンの息子だ。違うか?」

 胸元を握っていた手に更に力が籠って、息が一瞬だけ詰まったような感覚に陥る。
「……っ!」
「つまりオレは、何も知らずに、仇の息子と仲良く学院生活を送っていたワケだ。そんで、追いかけられたと。笑えねーよな」
「……それ、は」
 思わず俯く。クロウの顔を見ていられなかった。一言も、言い返す事が出来ない。覚悟していた事とはいえ、いざその時が訪れると、なかなかに堪えるものだった。憎んでいる相手の息子である自分が、クロウを連れ戻す資格なんてないのかもしれないと、蓋をしていた想いが溢れ出るようだった。
 一気に気まずくなった教室内。椅子から立ち上がったクロウは、窓枠に寄りかかって、ぴくりとも動けなくなってしまった俺を見遣る。その表情は――。

「なんて言われて、突き放されれば満足するのかよ?」

 それは俺の中では、ちっとも予想出来ていなかった言葉だった。
「…………え?」
「お前が奴の息子なのは知ってた。偶然、知る機会があってな。……そもそも、認めたくねえけど、俺だってお前と立場が入れ替わっちまった時には奴の息子だったって事だろ。関係ねぇよ、そんな事。……それに……お前がジュライを奪ったのか? 祖父さんを死に追い詰めたのか? 違うだろ」
「た、確かにそうだけど……」
 クロウは、何を想っているのだろうか。俺には上手く掴む事が出来なかったが、クロウが言いたい事は伝わってきていた。
「旧校舎でお前が初めて〝鬼の力〟を使った日、覚えてるか?」
「あ、ああ。もちろん」
「驚きはしたが、そんだけだっただろ。お前が俺の中で〝リィン・シュバルツァー〟である事には変わりねぇ。それと同じだ」
「…………」
 かつてパンタグリュエルでしたのと同じように、ぽん、とクロウは俺の頭へ手を置く。手袋をしていない今は、直接温かさが伝わっていた。
 今の俺はどんな表情をしているのだろう。目の奥が少しだけ熱い。突き刺さっていた棘が優しく引き抜かれたようだった。
 だがすぐに、本当に話さなければいけない事を思い出して、俺は真剣な表情でクロウへと向き直る。
「……クロウ、本題は他にあるんだ。お前は察しがいいから、もう気付いてるかもしれないけど」
 クロウは何も言わない。腕を組んで見つめたまま、黙って言葉を待ってくれている。
「俺は……お前が〝これからどうしたいか〟を聞きたくて、クロチルダさんに頼んだんだ。俺の意識を、クロウの精神世界に飛ばしてくれって」
「……」
「お前がどう答えようと、俺はちゃんと帰るよ。方法は分からないけどなんとかする。やらなきゃいけない事もあるからな。だけど……一人で帰るか、二人で帰るか。そこが変わるんだ」
 このままこの世界と共に消える気はないし、命を捨てに来たわけではない。俺はそう告げる。そう言っておかないとクロウはきっと、本心を話してはくれないだろうと思っていたからだ。
 俺の問いに、クロウは沈黙する。それは言い返す気がない、といった沈黙ではなく、発する言葉を選んでいるようだった。
「……俺は……」
 再び夕暮れと朝焼けが混じり合った時、クロウは、開きかけた口を閉じてしまう。迷っているのか、上手く纏まらないのか。ずるずると背を引き摺りながらその場に屈んだクロウは、一歩歩み寄ってきた俺を、苦笑しながら見上げた。
「……なぁ、リィン」
「?」
「もし俺が〝このまま消えても構わないから、お前はとっとと帰れ〟って言ったらどうするつもりなんだ?」
「…………そうだな」
 クロウの前に屈んで、続ける。
「それがお前の本心なら、俺は認めるしかない。潔く一人で帰るよ」
「へぇ、意外と素直なんだな?」
「ああ。けど……俺が、そう答えたくなるクロウの気持ちが分かるように……俺がそう言う気持ちも、分かると思うんだ」
 今のお前なら、と。付け足された言葉に、クロウははっとしたように目を瞬かせる。
「俺は〝リィン・アームブラスト〟だった時もあった。当然、俺とお前は性格は違うけど……感じたものは、きっと同じなんじゃないかって思うよ」
「……」
「〝今の俺〟は、お前の立場なら、内戦が終わった後にケジメとして死ぬ事も考えるよ。死んでしまったら元も子もないだろう、とは思わなくもないけど……してきた事を考えれば、当然の事だからな。だけど……もう一つ、落とし所はあったんだ」
 俺の手のひらの上できらりと光ったのは、五十ミラコインだった。それを指で弾いて、宙へと舞った銀色の軌跡を目で追いかける。
 落ちてきたコインを掴めば、それは掌の上で表向きになっていた。

「皆のところになんとか帰って、とりあえず一発ずつ殴られて……卒業まで掃除当番をして、サボったぶんの授業をこれでもかってくらいに詰め込まれて、毎日くたくたになる。……勿論、罪の償いも必要だろうけど。……夢みたいでも……心の奥底では、落とし所として見えていたものなんじゃないか? 冗談だったのかもしれないけど――お前が士官学院を襲撃したあの時……俺が勝ったら戻ってきてもらうって言葉に対して、〝そのあたりが落とし所ってヤツだな〟って……言ってただろう」

 ヴァルカンは言った。《S》や《C》にはいい落とし所を見付けてやってくれと。
 スカーレットは言った。クロウの気持ちが分かるからこそ、俺達ならばクロウを引き戻せるかもしれないと。
 一つの言葉に含まれた意味はきっと、幾つもある。少しでもズレてしまえば、それは別の解釈になってしまう。それでも、心で感じたものを包み隠さない事にした。〝アームブラスト〟の名を背負って生きた時間の中で得たものも、偽物などではなかったのだから。
「落とし所、か」
 五十ミラコインを受け取って、クロウはそれを翳す。
「ハハ、こんなとこまで追っかけて来られてそう言われちまうと――――……!」
 どこか吹っ切れたような、そうでないような。そんな表情を浮かべたと思いきや、そこでクロウは言葉を切ってしまう。
「どうしたんだ?」
 立ち上がり、窓から距離を取ったクロウは、さりげなく俺を窓側から引き離した。目を細めて遠くを見つめる彼から只事ではない予感を察知して、その後ろからクロウの肩を叩こうとした瞬間――軽く突き飛ばされる。

「っ、下がれリィン!」
「!」

 耳を劈くような音と共に、閉まっていたところの窓硝子が何者かによって割られる。舞い散る破片。鋭利なそれから俺を庇ったクロウは、所々が切られて赤の線を肌に浮かべる。
 割られた窓から、教室に飛び込んできた影。それを見て、クロウは不敵に笑む。まるで初めから、来るのが分かっていたかのように。
「……へっ、随分早ぇお迎えじゃねえか」
「お迎え……?」
 ゆらり、と立ち上がってクロウへ刃を突き付けたのは、紛れもなく〝クロウ〟だった。帝国解放戦線の衣服に身を包んだクロウのその影は、空虚な瞳で二人を見据える。
 目を疑いかけたが、ここがどういう場所なのかを再度思い出してようやく、状況が飲み込めてきた。何が起きたって、おかしくはない場所なのだ。
「こいつが悪夢の原因だ。俺の記憶の場所を、片っ端からブッ壊して回ってやがる。多分全部壊されちまったら、永遠にここから出られなくなる……それか、俺を殺して世界ごとさようなら、ってトコだろうな」
 俺の姿でそんな事して来るなんて悪趣味だぜ、と。吐き捨てるようにクロウは言った。
 俺の背を、冷たいものが伝う。
 クロウがこの影に殺されれば、クロウは本当の意味での〝死〟を迎える事になる。目覚める事のない、永遠の眠りへと連れて行かれてしまうのだ。
 けれど、この影が原因だという事は。
「つまり、このクロウの影を倒せば……!」
 身を引いて斬撃を回避したクロウは、素早く二丁拳銃を取り出して後方へ軽く跳ぶ。が、クロウの影は一瞬で距離を詰め、黒板の前で微かに火花が散った。
「…………そう簡単に、行けばいいけど、なっ!」
 鍔迫り合いになる双刃剣と拳銃。どちらが不利かなど、火を見るよりも明らかだ。
 ぎりりと嫌な音を立てるそれに眉を顰めたクロウは、わざと力を緩める。崩れる体勢。その僅かな隙に下から抜け出し、クロウは開いた窓から身を乗り出した。
「クロウ!」
「お前はそこに居ろ、武器持ってねえだろうが! こいつ相手に無手じゃ不利だ!」
「っ!」
 下へ飛び降りたクロウを追って、影も教室から姿を消す。クロウの方が狙う優先度は高いようだった。
 腰へ伸ばした手が虚しく宙を彷徨う。いつも刀がある場所には、今は何もない。何故得物を持っていないんだろうと歯痒く思う。手元にあるのはARCUSくらいだ。アーツによる援護でもするべきか、なんとか無手の型で戦うべきか。それとも何か武器になりそうなものを探して共に立ち向かうべきか――。
「……そういえば」
 そこでふと脳裏を過ぎったのは、クロウを追いかけている最中、目前に突然現れたバリケードだった。
『夢って便利だよなぁ、こんなのも一瞬で作れるんだぜ?』
「……もしかして……」
 ここの持ち主であるクロウならば、刀もああやって作り出せるのではないか。
「……」
 それ以上何かを考える前に、俺は足を動かしていた。

 ◇ ◇

 自分と戦うのはこんなにも、面倒で厄介なものなのか――。肩で息をしながら、クロウは斬られた腕から流れ出る血を反対の袖で拭う。じわじわと削り取られてゆく体力は、回復させている時間などなかった。
「ハッ、随分ご丁寧に俺をコピーしてくれてるじゃねぇか? 完璧すぎて気味が悪ぃくらいだぜ」
「……」
 双刃剣を作り出せれば良かったものの、何故かそれは叶わなかった。向こうが既に所有しているからか。便利なようで便利でない理に舌打ちして、クロウは高速で飛来した双刃剣を屈んで避ける。即座に彼は銃口を向け氷結の弾丸を撃ち出すが、それは一秒前まで影が居た場所へと着弾する。撃っても撃っても当たらないが、間髪入れずに今度は通常の弾を容赦なく撃ち込む。
 一見無駄撃ちのように思えるが、クロウはある事を確認する為に撃ち続けていた。
「…………やっぱりな」
 衝突によって何度散らしたか分からない火花。どうにか押し返して素早く撃つと、影は僅かに後退してアーツの詠唱を始める。纏う雰囲気からしてかなり高威力のものだと判断したクロウは、淡い光を放つARCUSを握り締め、背を向けて走り出した。あれはもう止められないし、撃ったところでどうせ避けられる。ならばその隙を狙う事はせずに、全力で駆けてとにかく距離を離す事に専念する事にしたのだ。
 次第に高まり満ちてゆく黒の霊力。渦巻く闇と、時の脈動。捕らえたものを逃すまいと上空から放たれるのは、異常なほどに巨大化した、非情なる魔の剣。
「――――シャドーアポクリフ」
 士官学院の校舎の一部が破壊され瓦礫と化すまで、一体何秒だっただろうか。

 ◇ ◇

「……二人とも、どこまで行ったんだ?」
 奇妙すぎる静寂の中、俺は崩れた瓦礫の上を歩いていた。近くにはクロウも、クロウの影の気配もない。そこまで時間は経過していないはずなのに、激しさを物語る戦いの跡だけが目の前に残されていた。
 廃墟のようなそこを吹き抜ける、冷たい風。崩れた校舎を囲うようにして、何故か凍り付いている。入り口を上手く塞ぐようにそれが広がっているのは、偶然か否か。
 思わず、俺は首を傾げる。クロウと繋がっているリンクの青い光は、その中へと伸びているからだった。
 どうやら、クロウはあの中に居るようだ。ゆっくりと扉があった場所へと近付くと、薄い氷に覆われたそれの向こう側でがたりと音がする。
「!」
 影が居るのかと、身構える。だが、音はそれきりで、瓦礫を突破して誰かが出てくるような気配はない。居るのが影だったならば、双刃剣の斬撃で破壊して出てくるくらいは容易いはずだ。
 だとすると――。そこでふと気が付く。リンクの光は、丁度扉の向こう側へと続いている事に。
「クロウ?」
 ごく僅かな隙間を見付け、そこに向かって声を投げると。
「…………リィン? そこにいるのか?」
「……あ……クロウ!」
「しっ、あんまデカい声出すなって――と、言いたいところだが……奴は近くに居ないんだな?」
「ご、ごめん。……ああ、俺がここに来る間には出くわさなかったよ。近くに気配もないしな」
「そうか」
 下がっとけ、と声がしてその場から離れる。クロウが何をしようとしているのか、すぐに伝わってきたからだ。
 数秒後、扉が軋む。向こうで何かアーツを撃ったのだろう。押されてゆっくりと開いた扉は、そのままばたんと押された方向へ倒れ込んだ。
「ったく……血が止まらねえし、さすがに回復しとかなきゃ危ねぇと思ってよ。籠城させてもらったぜ」
「籠城?」
「奴がアーツで校舎をブッ壊した直後に、俺がクリスタルフラッドを撃った。そんで、崩れてくる瓦礫をなんとか凍らせて、その中に隠れてたってワケだ……ま、駆動時間はこっちの方が短いからな」
 銀髪に付着した氷の破片を払って落とすクロウ。きらきらと落ちたそれを、つい目で追ってしまう。
 クロウ曰く、あの影は標的の姿を完全に見失うと追跡をしてこないという。一旦視界から姿を消してしまえば、また〝クロウの記憶の場所〟の破壊を続ける為に移動をする、と。
「さっきは教室に居たせいで、あそこを壊しに来た奴と出くわしちまったが……今度はこっちから迎えに行ってやらねーとな」
 クロウが見つめる先は、トリスタの街がある方向だった。それだけで影がどこに居るのかを察してしまった俺は、自然と、握り拳を作る。
「……その事なんだけど」
 あたたかな想い出に亀裂が走るような感覚。胸が締め付けられるのは、クロウの姿をした何かがそれを破壊しているから、だろうか。
 そうだ、今はそんな事に惑わされている場合じゃない、急がなければ。
 口を開きかけた時、俺に向かってびしりとクロウの指が突き付けられる。
「わーってるよ。〝俺も一緒に戦う〟だろ?」
「それなら、」
「……。んー…………そうだな。お前の刀は……っと」
 目を閉じて、片手を前に出すクロウ。数秒もしないうちに、光と共にその手の中には俺が愛用していた太刀が現れる。使っていたものとまったく違いのないそれに安堵して、クロウからそれを受け取った。
 ゆっくりと抜刀すれば、雲間から差し込んだ橙の光に刀身が照らされる。未来を拓く刃となるのか、それとも――。軽く数回太刀を振って、一度息を吐く。朝焼けの彼方に昇った陽のように、小さな光が瞬いた。
 それを見たクロウは、くるりと背を向ける。
「そんじゃ、始めるとしようぜ。〝最後の勝負〟を」
「……?」
 クロウの二丁拳銃に、仄かな光が宿る。ARCUSが一瞬強い光で繋がり、思わず顔を上げて彼の背を見つめた。表情は見えず、声色でしかそれを推測する術はない。
「立ち止まっちまった……なんて、言えねえし言わせられねえからな」
 俺の反応を待たずに駆け出したクロウ。一度取り出された五十ミラコインは、すぐに上着のポケットに入れられた。

 ◆ ◆ ◆

 狂った時の流れは、トリスタに夜を齎していた。
 第三学生寮へ辿り着いた時には、そこは既に半壊状態になっていた。容赦なく歪められた扉、木っ端微塵に砕かれた窓硝子、いつもシャロンさんが使っていた調理場は食材が散乱し、足の踏み場さえもない。
「……酷いな」
「フン、容赦なくやってくれるじゃねえか」
 そう言いながらも周囲への警戒を怠らないクロウの手には、俺が振るうはずだった太刀が握られている。見慣れたそれがクロウの手中にある事に違和感を覚えっぱなしの俺は、本来ならばクロウが持っているはずの二丁拳銃を顔の高さまで持ち上げて再度、困惑する。
「クロウ……本当にこれで行くつもりなのか?」
「おうよ。そうしないと奴には勝てそうにねーからな」
 あいつは俺自身だ、と。クロウは続ける。
 第三学生寮の前に着くなり、思い出したようにクロウは武器を交換するように提案をしてきた。自分自身である以上、クロウの影にはどうしても動きを読まれてしまう。それならば、太刀を持っている自分と、二丁拳銃を使う俺の動きは読めないのではないかと考えたらしい。
「それにしたって……使ってた記憶はあるけど、お前ほど上手く使いこなせるかどうか」
 俺がそれを握ったのは、前回の学院生の時が最後だ。
 それは随分と昔であるような、そうでもないような――なんとも言い難い。
 俺の中に扱っていた感覚は残ってはいるが、〝今回は〟太刀の方が手に馴染んでいるのは確かだった。
「クク、間違って俺を撃たなきゃ平気だっての」
「ふ、不安になるような事を言わないでくれ……」
 茶化すようにそう言ったクロウ。これから生死が決まる戦いが始まるというのに、クロウには緊迫感というものがあまり見られない。敢えて、そうしているのかもしれないが。
 俺の頭を空いている手で軽く叩いて、クロウは抜刀する。何も言葉がなくとも、その行動が意味するものは。
「〝その為の戦術リンク〟――だろ? 行くぞ!」
 上の方から感じ取った気配。俺とクロウが同時にその場から飛び退けば、天井を破壊して光弾が降り注いでくる。
「っ…………ああ!」
 破壊の音に掻き消されないように返答をして、現れた者へと銃口を向けた。相変わらず瞳に光の宿っていない〝クロウ〟は、それから逃れるようにして身を逸らす。
 そんな影へと、光弾を弾きつつ迫るもう一つの影。
「リィンばっか見てっと怪我するぜ?」
「!」
 すかさず斬りかかったクロウの太刀と、影の双刃剣が真正面から衝突する。微かに散った火花。半壊状態の学生寮に響く甲高い音。先程とは違ってクロウが押し負ける事はなさそうだったが、力量がまったく同じだからか、そのまま弾かれる事も弾く事もなく、永遠に押し合ってしまうのではないかと思った。
 ――どうする。俺は、何をすればいい?
 銃口を向けるだけでは、意味がない。撃たなければ。さすがにそれくらいは分かっているが、やや遠い記憶の中から二丁拳銃の扱い方を取り出すのには、少し時間がかかる。
 ――思い出せ、思い出さなければ。クロウは何をしてくれた? 前に立つ俺の後ろから、どうやって援護をしてくれた?
 数え切れないほどの記憶の本を捲って、その中から数枚のページを引っ張り出す。まだ色が鮮やかなものもあれば、色褪せてセピア色になりかけてしまっているものもある。
 無意識に閉じていた瞳を開く。結集する霊力。注がれるのは氷の力。影と鍔迫り合いをしていたクロウが、上手く力を込めて刃を逸らした、その瞬間。
「凍れ!」
 フリーズバレット――確か、そんな名だったか。影の足元へと向けて俺が撃った弾丸は、着弾するなり氷柱となって影を拘束する。
「そこだ!」
 氷に気を取られた影の隙を突いて、クロウがすれ違うように斬りかかる。それは紅葉切りに似てはいるが、僅かに動作が違っているように思えた。クロウも記憶の中から太刀の扱い方を引き出しながら戦っているが故に、完全に同じようには動く事は出来ないらしい。けれど、そのおかげで逆に有利に立ち回れているようだった。
 鳴り止まない剣戟の音。弾丸を上手く撃ち込みながら、俺は適度な距離を保つ。
 武器を取り替えて正解だったのかもしれない。影はクロウの動きを読み切れていないし、俺の銃撃も幾つか避けられずに掠めている。
 けれど、油断は禁物だった。何せ、相手は〝クロウ〟なのだから。
「リィン!」
 その一言だけで、クロウの言いたい事は俺の心に直接伝わってくる。
 ――今だ、俺の事は気にせずに撃て!
 一見無謀すぎる言葉でも、今は道を切り拓く刃となる。俺とクロウを繋ぐ光は、ちょっとやそっとでは切れはしないのだ。心の中で僅かな躊躇いは生じたものの、それはすぐに払拭される。意図が伝わったからだ。
 クロウの背中へと、銃口を向ける。影はその事に気付いてはいるが、クロウが妨害をしてこちらへ向かう事が出来ない。
「一回だけだからな!」
 そう叫んで引き金を引く。影と刃を合わせていたクロウは不敵に笑う。弾丸が当たる寸前、繋がっているからこそ掴めたタイミングで、彼は身を屈めてそれを回避する。影は弾丸を立て続けに撃ち込まれ、大きくよろめいた。
 俺は思わず息を吐く。危険な事には変わりない。クロウの意図が分かっていても、俺の心臓には悪いに決まっているのだ。
 手元で淡い光を放ったままのものをちらりと見て、顔を上げる。ARCUSに感謝しないといけない。
 再度、クロウと衝突した影。双刃剣と太刀に込められた魔力。相殺され、互いに弾かれた一瞬の間に影が懐から取り出したものを見て、クロウは刃をぶつけながら軽く舌打ちをする。
「……あれは!?」
 ワイルドカード――カードを引くまで何が起こるか分からない、クロウらしい技の一つ。
 影はどうやら力を増すものを引き当てたようで、先程まで互角だったクロウが一気に押し返されてしまう。
「ったく、俺の影とはいえ……そいつまで持ってやがるとは、な!」
 ふらついた瞬間を狙って、影が衝撃波を放った。まともに防ぐ事も出来ず、クロウはそのまま後方の壁へと叩き付けられる。
「っ……がはっ!」
「クロウッ――ぐっ……!」
 吹っ飛ばしたクロウを追撃する影。すれ違う一瞬の間で、リーチに優れる双刃剣が、気を取られてしまった俺も壁へと叩き付けていく。
 痛みを癒す間も与えてはくれないようだ。容赦なく突き立てられようとした切っ先を避けようとするが回避しきれなかったのか、クロウの右肩には双刃剣が深々と突き刺さる。
 からん、と取り落とした太刀。力なく下がった腕。咳き込むと同時に、口の端から伝うものは。
「……っ……!」
 なんとか立ち上がろうとする俺の頭の中でフラッシュバックするのは、追憶の中の深紅。光の消えていく瞳と、冷えていく体。失われていく、あるはずの温もり。心臓をやられたわけじゃない、クロウは大丈夫だ――そう自身へ言い聞かせても、積み重なった鮮血の記憶が心を掻き乱そうとする。まるで、何かの状態異常のように。
 ――動かなくては。動かなくてはいけない。何をしているんだ。早くしないと、クロウが。
 自分以外の時間が止まってしまった、そんな感覚が襲ってくる。
 ――また立ち止まるのか? また、繰り返すのか?
 揺らぐ。光を通じて、動揺が伝わったらしい。すぐにそれに気が付いたクロウは、歯を食い縛って腕を持ち上げた。
「リィン、気をしっかり持て! こんくらい平気だ! それより……前を向いて、お前に出来る事をやれ!」
「!」
 敢えて発されたらしい〝あの時〟と同じ言葉。クロウに呼びかけられてハッとした俺は、軽く頭を振る。脳内を侵食するかのようにじわりと広がったものは、掻き消された。
「受け取れ!」
 地を滑るようにして寄越された太刀。円を描きながら足元へ来たそれを拾い上げ、クロウを見遣る。
 相当な痛みに襲われているはずなのに、自身の肩を刺し貫いている双刃剣を掴んで、クロウが叫ぶ。もう逃がしはしないと、瞳に確かな強さを宿らせながら。

「お前が終わらせろ……――その太刀で!」

 返答をする代わりに、俺は太刀を携えて走り出していた。クロウは最後の力を振り絞って双刃剣を引き抜き、影を押し返す。すべての時の流れが、遅くなったかのようだった。よろめく影も、壁へ向かって倒れ込むクロウも、すべてが。
 俺の中で、秒針の音が鳴り響く。一秒一秒、刻み込むかのように。まるで、壊したはずの懐中時計が、進む事のなかった未来の時間へと動き出すようだった。
『俺には、出来なかったんだ』
 始まりの言葉を抱いて、足を止める。

「無明を切り裂く、閃火の一刀――」

 瞳を閉じた先、瞼の裏側の暗闇には月夜の草原が浮かび上がる。
 時は動かない。俺以外に唯一動く事を許された風だけが、駆け抜け薄を揺らしていくような気がしていた。
 空間を静が満たした瞬間、閉じていた瞳を開き、抜刀する。
 振り下ろした太刀。風が切られる。
「終わらせる!」
 駆け出した俺の太刀には、二つの焔が宿っている。その一つは、肩で息をしつつも見守ってくれていた、クロウの意志でもあるのだろう。
 舞うように振るった焔と蒼焔。刹那の斬撃。影に反応する時間さえ与えずに、鋭い一閃を幾つも作り出す。

 ――終ノ太刀・暁。

 無数の軌跡が宵闇を駆け抜け、彼方からは暁の光が広がり始める。俺の描いたそれによって、影は優しい紫の光の中へと溶けるようにして消えていった。
 鞘へと納めた太刀。小さな金属音と共に俺が振り返れば、視線が合ったクロウが微かに笑う。
「……これで、やっと……」
 クロウへと歩み寄る。拳を軽くぶつけ合って、硝子がなくなった窓から外を見遣る。

 終わらないはずの悪夢の世界には、夜明けが訪れた。

 ◆ ◆ ◆

「……へへっ、やっぱお前は太刀じゃねえとな」
「……クロウ……大丈夫、なのか?」
「おうよ。応急処置はしたからな……それに、ここは夢の中だろ。本体の方には影響ねぇって」
 多分だけどな、と続けたクロウ。込み上げた不安は溜め息にして、半壊した学生寮をぐるりと見回す。だいぶ変わり果ててしまったが、辛うじて残ってくれたものもあるようだ。
 ――それに、守れたものだってある。
 壁へ背を預けていたクロウは、ゆっくりと立ち上がる。いつの間にアーツで癒したのか、流れ出ていた血はどうにか止まっていた。軽くクロウが肩を払えば、赤の制服が緑のものへと変わる。生々しい傷跡は、一応、見えなくなった。
 ほっと息を吐く。クロウが影に肩を刺し貫かれた時は、正直、生きた心地がしなかったのだから。
「……」
「……」
 交差しているであろう、黄昏と暁。それはもう、何度目の事か誰にも分からない。
「クロウ」
 心の底に眠っていた錠を、そっと開け放つ。
 本の一番最後のページに挟んでそのままにしていた言葉を、ようやく引っ張り出す事が出来る。

「行こう。俺達と………明日へ」

 まずは一歩を踏み出そう。遠く先の未来へ行く為の、小さな一歩を。
 それはずっと、言いたくとも言えなかった言葉だった。それほどに、それほどまでに、クロウ・アームブラストという男は逃げ足が速かったのだ。
 勿論、理由はそれだけではない。俺は心のどこかで、鉄血宰相に言われた通り、クロウを取り戻すという事が自分のエゴでしかない、と思ってはいた。幾度も残酷な運命に振り回され、取り戻せそうなところでどちらかの死によって願いは絶たれる。それを追いかける事が間違いなのではないか、と考えた事もあった。
 それでも、今ようやくクロウへそう言えたのは、きっと。何度も時を遡り、時々クロウの立場になる事で、見えてきたものもあったからなのだろう。先程の教室で語ったもののように。
「まだ、何も終わってない。終わってないんだ、クロウ。あんなに何度も繰り返しても、これから帝国で何が起こるか分からないし、結社や幻焔計画、騎神の事だって……分からない事ばかりだ」
 繰り返してしまった時間の巻き戻しと、因果の歪み。それを経ても、帝国に眠る伝承の真実、そして、結社の計画や鉄血宰相の目的には手が届かなかった。掠めてはいても本当に掠めただけで、それが何なのかを暴くには到底及ばない。
 終わりの始まり。そう言ってしまうのが妥当なのだろう。今回の内戦を上回るかのような、大きな〝何か〟が動き出そうとしているのを、薄らと感じるのだ。
「……戻ったらきっと、俺はクロスベルへ行ってカルバード共和国と戦う事になる。鉄血宰相からは、〝今は〟逃れられないんだ。だけど――」
 クロスベル行きを拒んだところで、状況は悪化するに違いない。それに、下手に抵抗すれば、周りがどうなるか分からないのだ。一か八かの賭けだった、時間が欲しいという望みだって、叶ったのが奇跡だと思ってしまうほどだ。
 今は、鉄血宰相の遊戯盤の上を駆け抜けるしかない。まだ、真正面から戦いを挑むには、違った意味での〝力〟が足りないのだ。鉄血宰相へも、彼が生み出そうとしている〝何か〟へも、今ぶつかってもきっと敵わない。

 けれど、その遊戯盤をいつか――いつか必ず、脱出してみせる。

 過ぎったのは〝かつて〟ジオフロントで出会ったあの捜査官と《銀》だった。ある意味再会をする事になるが、どうにか以前とは違った形でジオフロントでの邂逅を終わらせる事が出来ないだろうか。クロスベル併合へ加担する事になってしまうのは心苦しいが、帝国の支配からクロスベルを解放しようと、彼らが動く時が来るのならば――その時は。
「……」
 言葉を飲み込む。本格的に始動する為の、下準備が必要だ。水面下で動き出さなくてはならない。底知れない鉄血宰相にも、気付かれぬように。
「力を貸してくれ、クロウ。帝国の闇をこのままにはしておけない。〝後始末〟は、まだ終わってないんだ」
「ハハ……言ってくれるじゃねーか。……俺もどうなるか分からねえが……事が進んでいくのを、黙って見過ごす気はないからな。〝最終幕〟に向けて、せいぜい気張るとしようぜ」
 クロウの言葉を聞いて、安堵したように肩の力が抜けた。
 そっと瞳を閉じて、自身の胸へと手を当てる。丁度、痣がある辺りだった。マクバーン曰く〝混じっている〟。それが何なのかは未だに分からない。ようやく向き合う事が出来た鬼の力だって、まだ得体の知れないものである事に違いはないのだ。

「俺は、知らないといけないんだ。俺自身の事を……」

 俺はまだ、自分が何者なのかすら知らなかった。鉄血宰相が実の父親だという事は、その欠片でしかないのだから。
 帝国の闇を一閃する。その先にあるものは、暁の空か、それとも――。
 その途中で立ち塞がるであろう、自分の正体という名の壁を、俺は乗り越えなければいけないのだ。現時点でも半分ほどよじ登ってはいるが、そこはまだ折り返し地点にすぎない。
 そんな俺の肩へと手を置いて、クロウは口を開く。
「正体が何だろうと、お前はお前でしかねぇ。……そうだろ?」
「ああ。分かってる」
 息を吐く。そこで、ふと思い出した事があり、顔を上げた。
「そうだ……今だから聞くけど。本当なら〝前回〟で終わっているはずだったのに、俺は今ここに居る……憶測でしかないけど……クロウ、お前が俺を助けてくれたんだよな?」
 一度は巻き込んでしまった贖罪で消滅を選んだ。未来への道を、ただひたすらに走り続ける事を諦めた。けれど、今ここに居るという事は、誰かが同じように時間を戻したという事くらいしか考えられない。
 そんな事が出来そうなのは、自分が知る限りでは一人しか思い当たらなかった。
「んー……そう、なのかもしれねぇな」
「クロウにも分からないのか?」
「お前が消えそうになった時、握った手から〝何か〟が流れていくような気はしたぜ。だから何だって話だけどな」
 よく覚えてねぇな、と頭を掻きながら零すクロウ。
「そうかもしれないけど……俺は、そんな気がしてるんだ。だから――ありがとう。クロウ」
 そう言って笑い、俺は太刀を握っていた右手を差し出す。
「ったく、勘違いかもしれねーってのに」
 俺が差し出した手を見た後、クロウは自身の手を見つめる。応じかけて躊躇うような仕草を見せた理由と感情には、なんとなく気付いていた。それでも、敢えてそれ以上の言葉は発さずにクロウを待つ。
「……ま、その……なんだ。今更、あれこれ言う事もなさそうだが」
 もう、言葉を濁す必要もないのだろう。一度、吐いた息。奥底に留まっていたのであろうそれを、クロウは掬い上げてしっかりと音にしてくれた。

      

「これも、俺の〝  〟だ」

 白に染まっていく世界。その中で、クロウは笑った。