二章【君達に言っておきたい事がある】

 セピア色の世界の中、リィンはどこかの家の隅に立って目の前の光景を見つめていた。

 体を動かす事も、自分に触れる事も出来るが、物には触れられない。
 夢なのだという事は理解したが、初めて見る場所ではなかった。見覚えのない場所のはずなのに、そうではないと心の奥に潜む自分が告げている。
「はい、まずは手を洗ってね」
「うん!」
 声のする方を見ると、温和な雰囲気を持つ女性――おそらく母親が、小さな少年と一緒にお弁当を作っている。
「お母さん、ぼくは何をすればいい?」
 きらきらした目で母親にそう訊きながら、洗った手をタオルの中に突っ込む少年。癖のある黒髪が、動くたびにぴょこぴょこと揺れていた。
 リィンは反射的に、自分の髪に触れる。もしかして――と、思わざるを得なかった。
「そうしたら、リィンはおにぎりを作ってちょうだい。ここに入るくらいのもの、作れる?」
「わかった!」
 呼ばれた名は、やはり自分と同じものだった。となると、今、目の前に在る穏やかで、見ていると胸が苦しくなるような光景は、自分が〝持っていたはずの〟記憶なのだろう。
 五歳以前の失われた記憶。何かをきっかけに消え去り、白紙となってしまった刻。
「うーん。おにぎりってむずかしいね……」
 夢の内容を、目覚めてから覚えている事は多い。けれど、この夢を覚えておく事が出来るのか――目覚めたら、忘れてしまっている気がしてならなかった。
「愛情を籠めれば大丈夫――……なんて、内緒よ? あの人、きっと照れちゃうから」
「あいじょう……よし、がんばる!」
 感情が沸き上がっても、言葉には出来ない。
 口は動かせても、音として出てこないのだ。

 ――幸せな家庭、だったんだな。

 微笑ましい親子の様子を、リィンはただ見つめていた。
 胸の苦しみが生まれる理由には、気付かなかったフリをして。

 ◆

 誰でも失敗はする。手順を知っていても、そばに教えてくれる人が居たとしても、失敗する時はしてしまう。してしまうのだ。
 リィンは手に持ったフライパンを左右へ揺らすが、その中の黒い塊はぴくりともしない。どうやらただの焦げのようだ。前に失敗した料理を魔獣へ投げ、爆薬代わりにする事も出来たが、こびり付いたこれはまずフライパンから剥がす事が叶いそうにない。
 どうしてこうなったのか――。レシピは横に置いていたし、以前ミュゼが作っているのを近くで見ていた。記憶に間違いでもあったのだろうか。それとも、何か入れ忘れたか、或いは入れ過ぎたのか。
「り、リィン教官?」
 作りたかったものとはかけ離れた物体が完成してしまった事にリィンが項垂れていると、厨房の入り口から声が掛けられた。
 苦笑いを浮かべながら彼が振り返ると、食材を抱えていたユウナが、それを置きながら問う。
「なんか焦げ臭いんですけど……そのフライパンの中身、無事なんですか?」
「平気か駄目かで答えるなら、後者だろうな……」
「なんだなんだ、誰か焦がしたのかよ?」
 彼女に続いて、臭いが気になったのかひょっこりとクロウが顔を出す。リィンの姿を見るなり、彼は何か察したような表情をした。
「クロウ。……何か言いたそうだな?」
 ユウナとクロウに続いて、一緒に居たらしいミュゼとアルティナも厨房に入ってくる。
「お前、何作ろうとした?」
 リィンの横に立ち、コホン、と咳払いをするクロウ。
「パンケーキ、だけど」
「わーった。……誰でもミスする事はあるからな」
「肩を叩かれながら言われると、逆に突き刺さるんだが……」
 謎の塊と化しているそれは、到底パンケーキとは呼べそうにない。塊をつついたリィンの横から、ミュゼが顔を出して覗き込んだ。
「でも、珍しいですね。リィン教官がパンケーキを作ろうとするなんて」
「時間があったから何か作ろうと思ったんだが、ルセットでアルティナが食べていたのを思い出して……それで」
「ダークマターを生み出したんだな」
「ぐっ……い、言わないでくれ」
「……」
 置いてあるレシピノートが、どこからか吹き込んできた風によって捲られてしまう。
 とりあえずこれをどうにかして取らないと――と、リィンがフライパンに向き直った時、アルティナが彼の腕をそっと引っ張った。
「教官」
 捲られてしまったノートをパンケーキのページに戻して、彼女は残っていた材料を指差した。
「わたしも、たまには自分で作ってみたいと思っていたところです」
「?」
「もう一度、作ってみませんか」

      

 励ましてくれているのだろうか、と感じつつ、珍しいな、ともリィンは思っていた。アルティナがここまで積極的なのは、今までにあまり見た事がなかったからだ。
士官学院へ来て、精神的にも成長したから――というのが最適な答えなのかもしれないが、何か理由があるのか。
 少し気になって、聞いてみる事にした。
「アルティナ、そんなにパンケーキが好きだったのか?」
「……ミリアムさんから〝生クリームがたくさん乗った真っ白なうさぎのパンケーキ〟の話を聞いたのを思い出しまして」
「へ?」
 頭の中でそれを思い描いて、甘そうだな、と素直な感想がすぐに浮かんだ。
「帝都で大人気のお店で、数時間は並ぶそうです。加えて数量限定、朝早く行かないとまず食べられないと」
「そのお店なら、エリゼ先輩から聞いた事があります。人気の喫茶店で、そのパンケーキ以外にもパフェやケーキが好評だとか」
「い、行ってみたい気もするけど、色々な意味で大変そうな予感……」
 遠方の国から取り寄せた果物をふんだんに使用した、一人では食べきれないほど大きなパフェ。甘さ控えめの生クリームがたっぷり盛り付けられた焼きたてワッフルに、パリパリとしたチョコレートで包まれた、ジャム入りのマシュマロ。
 暑い日にさっぱりと飲める柑橘系のサイダーに、東方出身の店主が厳選したものが使われた、抹茶ときなこを合わせたドリンク。それから――。
 スイーツの話で盛り上がる女子達。その様子はきらきら輝いて見える――というのが、正直な表現だ。自分が学生だった頃、アリサ達がよくこんな話をしていた事を思い出して、リィンは懐かしさを感じていた。
 そんな彼が、手に握っていたフライパンの存在を少しだけ忘れかけた時だった。
「何やら楽しそうな話をしているな」
 賑わう中でも正確に届く、凛とした声。
 振り向くと、オーレリアが厨房の入り口に立っており、その後ろにはトワも居る。
「分校長! トワ教官も」
「年頃の娘らしく、帝都の甘味の話か。――シュバルツァーとアームブラストまで混じっているのは、少々意外だが」
「オイオイ……混じってるように見えたのかよ」
「……? ちょっと焦げたような臭いがするけど、何かあったの?」
 不思議そうに首を傾げるトワ。そこで、自分の手で握っているものの存在を思い出したリィンは、一歩前に進み出た。
「トワ教官、すみません。原因は俺なんです」
「リィン君、それは……?」
「間食になる〝はずだった〟ものです。焦がしてしまって……」
「ですが、今からもう一度作ろうと思います」
 アルティナは気合十分といった様子で、リィンの前に立つ。これにはオーレリアも珍しいと感じたのか、一度だけ目を瞬かせた。
「良い心意気だ。挑戦する精神は、鍛えて損をするものではないからな」
「まだ材料もあるし……足りなかったら、買いに行ったっていいですし! やりましょう、リィン教官。あたしも手伝いますから!」
「ユウナ、助かるよ。宜しく頼む」
「では、さっそく作戦会議ですね」
「さ、作戦ってほどでもないと思うんだが……まあ、いいか」
 アルティナが取り出したノートには、白兎のシールが貼られている。ミリアムが任務で各地へ赴いた際に、美味しかったものを書き留めているというノートなのだろう。
 厨房を離れて、テーブルがある場所へ移動する。一旦部屋に戻ったユウナが、掻き集めて持ってきた雑誌の切り抜きを広げた。
 覗き込んだアルティナが、静かに目を輝かせている。あくまで静かに、だ。
「それじゃ、さくっと決めちゃいましょう! どういうパンケーキにしますか? 無難にプレーンタイプですか? それとも、フルーツを沢山乗せたりとか……」
 様々な切り抜きを指差すユウナ。真剣な眼差しで考え込むアルティナ。三人でリベンジを兼ねて作ろう――という話だったが、テーブルを囲う人数はそのおおよそ倍だった。
「ちょっと待った。人数が増えてないか……? 皆、予定があったりするんじゃ――」
「クク、あったら残ったりしねーって。たまにゃあいいだろ、こういうのも」
 椅子に座るリィンの肩に寄りかかって、クロウがひらりと手を振った。
「お料理をされるリィン教官、とても可愛らしいですから」
 語尾にハートが付きそうな声で、ミュゼは言う。
「純粋に興味があるな」
 オーレリアはいつの間に持参したのか、火酒の本を手にしていた。
「わたしも、いつか自分で作ってみたいなーって思ってて……あ、お買い物とかあったらもちろん手伝うからね」
 クロウの横で、トワが雑誌の切り抜きを手にして笑う。裏面にジュライ特区の写真が掲載されているのが気になったが、今は置いておく事にした。
「……そうだな。たまには良いよな」

 その後は、流れるように事が進んでいった。
『白いうさぎパンケーキに対抗して、黒いうさぎパンケーキなんていかがでしょう?』
『……惹かれます』
『となると、味付けは黒胡麻あたりか』
『それなら厨房にストックがあるよ。買ったばかりだから、余裕はあると思う……一応、料理部のみんなに確認しておくね』
『あとは、適当にフルーツでも買って来ればいいんじゃねえか?』
『生クリームはまだあるし、決まりだな』
『そうだ! あたし、キャラメルかけたいなって思ったんだけど……』
『予算に問題はありません。追加しましょう』
『では、私も買い出しに付き合うとしよう』
『ぶ、分校長がですか!? いやいやそんな、とんでもないですよ!』
『解禁日が今日の火酒があってな。引き取るのも兼ねている』
 パンケーキを作る――というシンプルだったはずの話が次第に膨れてしまい、各々の好みの味に仕上げる為に買うものを纏めたメモは、三枚にもなってしまった。
『よいしょ、っと。結構大荷物になっちゃったね』
『……ん? トワ、ちっとばかしそっちの袋見せてくれねーか?』
『うん。何か探してるの?』
『買い忘れたモンがあった気がしたが……や、何でもねえ。気のせいだな、行こうぜ』
『あっ、クロウ君! わたしも一つ持つよっ』
『袋、重くないか?』
『問題ありません。分校長の袋の方が、重量があるのでは……』
『分校長のは酒瓶が入ってるからな。……引き取った火酒以外にも買われたんですね?』
『気になっていたものがあってな。シュバルツァー、そなたは酒に強い方か?』
『俺ですか? そうですね……』
『教官は、強くも弱くもないと思います。疲労の蓄積具合と、飲酒中の気分にもよるかと』
『? アルティナの前で飲んだ事、あったか……?』
『そういった事情を把握しておくのも、わたしの役目ですから。任務ではなく、パートナーとして』
『フフ、そうか。そなたともいつか飲み比べをしたいものだ』
『お、俺が先に潰れる気しかしないんですが……』
 抱えた袋の重さを忘れてしまいそうになるくらい他愛のない、平穏な時間の中に居るからこそ、交わす事の出来る会話。
 ――学生として、学院に通っていた頃を思い出すな。
 宝石のように輝いている季節は続いていく。宝箱に入れたそれらはきらきらと輝き続けて、心を照らす光となってくれる。当たり前のようにやってくる保証のない、その時間がどうしようもなく愛しく感じて、リィンはその感情を笑顔として表に出していた。
 その反面、一度、笑顔を失ったような――凍り付いた心を抉じ開けているような、妙な感覚がある事からは、彼自身も気が付かないうちに目を逸らしていた。

 自由行動日は時計の針が進むのは早く感じると、最初に言ったのは誰だったか。
 生地を作り、トッピングする材料がテーブルの上に揃った頃には、一般的な間食の時間から一時間程過ぎてしまっていた。
「よし、後はこれを焼くだけだな」
「さっきは、ここで失敗してしまったんですよね?」
「それで思ったんだが……火力を強くしすぎたのかもしれない。なかなか色が付かないから、途中で少し火を強めて……」
「……待て待て。そこからどうやってあの暗黒物体が生まれたんだよ?」
「俺にも分からないんだ」
 フライパンはどこにでも売っている、至って普通のものだ。生地に変なものを入れた記憶もない。手順も無視してはいなかった。
 多少火力を強くしただけで、魔獣に投げれば攻撃道具になる事もあるあの物体が、何故リィンの手の中で爆誕したのか――真相は闇の中だ。
「ふふっ。世の中不思議な事もありますし、その類という事で」
「ミュゼさん……上手くまとめましたね」
「ま、まとまってるのか……?」
 順調に調理していたはずのオムレツが突然爆裂したり、空気を含みすぎた侘しいケーキが何の前触れもなく出来る事もある。世の中、追求しても分からない事はあるのだ。
「……っと、準備は出来たな。焼いていこう」
 お玉を手に取り、リィンは生地を持ち上げる。とろりとしたそれは加減が難しく、手慣れているユウナも慎重に調整をしていた。
 程よい高さからフライパンへと流し込むと、生地は自然と綺麗な丸になる。
「生地は大丈夫そうですね!」
 横から覗き込んでいたユウナが、ほっとしたように笑う。
「後は裏返すタイミングか……気泡が少なすぎず、とはいえ多すぎない時に――って事だったよな?」
「はい。それが最適かと」
 すぐ横で、アルティナもリィンと同じように生地を流し込んだ。そちらもちゃんと丸になったのを確認して、リィンは自分の持つフライパンへと視線を戻す。
 ふつふつと、小さな穴が生地の表面に生まれる。控えめな気泡は、ひっくり返されるのを待ち侘びているかのようだった。

 ――集中しろ。裏返す好機を見逃すな。

 フライ返しを握り締めるリィンの、内心を読める者は居ない。
「教官、後一つくらい気泡が出来たらひっくり返しちゃってください」
「分かった」
 フライパンを見つめたまま、リィンはこくりと頷く。
その数秒後、薄い黄色の生地の下から、一つ新しい気泡がぷっくりと浮かび上がった。
 今だ――と、声には出さずに心の中で呟いて、彼は生地の下へとフライ返しを入れる。張り付く事もなく、片面が焼けたパンケーキは、そのままくるりと裏返った。
「よし……!」
「焼き色が綺麗ですね。成功、という事でしょうか」
「もう片面あるから、油断は出来ないけどな」
 コツを掴んだリィンは、そのまま何枚かパンケーキを焼いていった。
 何段も皿に積み重なったそれは、ほのかに甘い香りを漂わせている。程よいきつね色の表面には、何を乗せても美味しく仕上げられそうだった。
「無事に焼き上がったようだな」
「ええ。……ところで、それを持っているという事は、分校長もご自身で……?」
「うむ。挑んだ事のないものには、是非とも挑戦してみたいものだ」
 どこまでも向上心がある人だなと、リィンは改めて思った。
 見習わないとな――そう彼が思っていると、袖をくいと引っ張られる。
「リィン教官」
 いつの間にトッピングを終えていたのか、アルティナの持つ皿の上には、水色のアイスと苺に、シーソルトぺっきーが添えられたパンケーキが乗っていた。
「あれ……黒兎パンケーキにはしなかったのか?」
「半分ずつにしました。という事で、こちらは教官に」
「俺に?」
「そのつもりでしたから。この前のお礼です」
 爽やかな色合いをしたパンケーキの皿を受け取って、リィンは苦笑する。勿論、貰って困るからではない。そこには別の感情があった。
「考えてる事、同じだったみたいだな」
「え……」
「俺も〝そのつもり〟だったんだ。盛り付けるから、ちょっとだけ待っていてくれないか?」
 リィンも同じだった。小さなパートナーへの、日頃のささやかな御礼として用意しようとしていたのだ。
 事前に考えていたものと、先程アルティナが見て興味を示していた切り抜きを合わせて、リィンはパンケーキへ生クリームやフルーツ、予め買っておいたチョコレートの飾りを盛り付けていく。
「てんこ盛り、ですね」
「……ちょっと多いか?」
「いえ。甘いものは好みの中にカテゴライズされます。ご心配なく」
 冷めちゃいますから食べててください、とユウナに言われて、先に席についた二人は、交換したお互いのパンケーキを口に運んだ。
「うん。美味いな」
 シーソルトの塩っ気が、ふわりと広がる甘さの中に溶け込んでいく。
しょっぱすぎず甘すぎない、丁度いい仕上がりだった。
 アルティナはこんもりとした生クリームとフルーツを、パンケーキの上に乗せる。
「わたし好みの甘さです」
 一口頬張って、アルティナは微笑する。
「それなら良かった」
 彼女がこんな風に、自然に笑えるようになった事を嬉しく感じながら、リィンはアイスをシーソルトぺっきーで掬い取った。