五章【君が生まれた日】

 リィンはいつの間にか、どこかの家の中に立っていた。

 懐かしい声がする。懐かしい、匂いがする。それは自分のもののようで、自分のものではないような、不思議な感覚だ。
『リィン』
 ぼんやりと、目前の光景を彼は傍観する。
 温和そうな黒髪の女性が呼んだ名と、持っている名は同じであるというのに、リィンの記憶の中にその声は存在していない。初めて聞いたような響きと共に、己の中へと溶けていく。
 優しく頭を撫でられて、女性の足元にいた子供が、嬉しそうに顔を綻ばせた。
 ぬくもりと安らぎが満たす空間に、扉が開く音が差し込まれる。はっとした女性は穏やかに笑んで、音のした方向へと歩いて行った。
『おかえりなさい』
 掛けられている時計が秒を刻んで、ゆっくりと部屋の扉が開かれた。
 ぱっと表情を明るくした子供が走って行き、扉の向こうから現れた男性に、飛び付く勢いでしがみ付く。
『おかえり!』
『ただいま。リィン、カーシャ』
 五歳くらいの子供を軽々と持ち上げて笑っているその人の、顔が――特に、目元が見えない。濃い影が覆って、表情を半分ほど隠してしまっている。尤も、そうなっていたところで、リィンはそれが誰だかすぐに分かってしまったが。
 少し離れた場所からその光景を見ていて、沸き上がった想いの名前は分からない。揺蕩った後、それは泡沫のように消えていってしまうからだ。
『子供の成長は早いな。――――、リィン』
 奇妙なノイズが入って、彼の言葉の一部が掻き消される。
『ありがとう、おとーさん!』
 抱き上げてくれている人を大好きだと言うように、子供は無邪気に笑う。 
 どうやらこれは〝シュバルツァー〟ではなかった時のものらしい。どんなに手を伸ばしても、拾おうとしても、届く事のない記憶の欠片だ。
 愛しくて――否、子供らしく簡単に言うならば〝大好き〟だったはずの、今となっては遠い刻。偽りなどでは決してない、鉄と血の下に確かに在ったもの。

 ああ、きっと。目覚めたら、覚えてはいないのだろう――。
 リィンは遠のく意識の中で、穏やかな笑い声を聞いた。

 ◆

「昨日決まった事だし、間に合うかな……ううん、あたしが言い出しっぺみたいなものだからやらなきゃ……そうしたら後は時間稼ぎを――」

 五月のある日。リィンが分校へと向かう道を歩いていると、数アージュ先の曲がり角から、そこそこ大きめの紙袋を持ったユウナが現れた。
 彼に気付いていないのか、ぶつぶつと独り言を言いながら、早歩きで学院の方へと向かって行く。
「?」
 声を掛けようとすると、ユウナの懐に引っかかるようにして入っていたものが風に飛ばされて、リィンの目の前に落ちた。
 二つ折りにされていた白い小さなメモをそのまま、リィンは拾い上げる。
「ユウナ。これ、落としたぞ?」
 小走りで追いかけて、リィンはユウナの肩を叩いた。
「あ、すみませ――――って、り、リィン教官! そ、その、見てないですよね!?」
 メモを拾ってくれたのがリィンだと知ったからか、ユウナはその場から半歩後ずさる。
 驚かすつもりはなかったんだが、とは言えず、リィンは拾ったメモを差し出した。
「読んでないけど、これがどうかして……」
「ありがとうございます! それじゃあたし、行くのでっ!」
 メモを受け取り、どこかぎこちない笑顔を見せた後、ユウナは全速力と言っても過言ではないスピードで走り去って行った。
「あんなに慌てて、どうしたんだ……?」
 時間的に、普段よりも早い登校だ。そんなに急ぐ理由があるのだろうか。さっきの走りはエクセル・ブレイカーの加速よりも速いのではないか――と、取り残されたリィンは、小首を傾げる。
「リィン教官、おはようございます」
「今日も良いお天気ですね~」
 後ろから声を掛けられ、リィンは一旦疑問を置いておく事にした。
「ゼシカ、ルイゼ。おはよう。そうだ、二人に聞きたいんだが……ユウナに何かあったのか?」
「ユウナですか?」
「いや、なんとなく、何か隠し事をしているような感じがしてさ」
「ああ……」
「うーん、そうですねぇ。多分、そんなに深刻~ってほどでもないと思うんですけど、相談するのが難しいのかもしれませんね」
 苦笑いを浮かべる二人。ゼシカもルイゼも、何か知っているらしい。
 大切な教え子の事だから気になりはするものの、リィンの中で少々躊躇いが生じた。相談しにくい、という事ならば、ここは自分が無闇に出るべきではないと思ったからだ。
「そうか……二人は一年の頃から特にユウナと親しかったし、良ければ話を聞いてやってくれないか?」
「それは勿論。放っておくつもりはありませんから」
「助かるよ。ありがとう」
 ユウナが何か悩んでいるのなら、担当教官として力になれないのはもどかしい。けれど、生徒同士で相談して解決する事も時には必要だろうと、彼は自分に言い聞かせた。
 ――皆、確かに成長しているからな。
 ユウナと同じように、小さめの紙袋を持った二人の背を見送って、リィンは思い出す。かつてアッシュに〝過保護な親か!〟と言われた事を。
「おはようございます、教官。こんなところで立ち止まって、何かあったんですか?」
 聞き慣れた声に呼ばれて、リィンはそちらを振り返る。道の真ん中で立ちっぱなしの彼を見たからか、不思議そうな面持ちでクルトが立っていた。
「クルトか、おはよう。それが……」
 彼も紙袋を持っている事が気になったが、偶然だろうとリィンは思う事にした。
 リィンが簡潔に先程の状況を説明すると、クルトもまた、ゼシカやルイゼ同様に苦笑する。
「ユウナが……まあ、心当たりがない訳ではありませんが」
「何か知っているのか?」
「ええ、幾つか。それにしても、ユウナは相変わらずだな……」
「……?」
 呆れている、という様子ではなかった。寧ろユウナが相変わらずである事に安堵しているような、そんな想いが、クルトの声色には含まれている。
「すみません、話が逸れました。なのでユウナの事は――」
「ハッ。あのジャジャ馬に落ち着きがねぇのなんざ、いつもの事だろうが」
 クルトは言葉を中断する。呆れたような表情を浮かべたアッシュに、突然肩を組まれたからだ。
「アッシュ。君も早いんだな?」
「ヤボ用があんだよ。……面倒くせぇ事に巻き込みやがって……坊ちゃんもさっさと行くぞ」
 一年前と比べると変わったな、と、リィンは二人を見て素直に感じた。
距離感、と言うべきだろうか。あの頃はこうして肩を組むところなんて、これっぽっちも想像出来なかったというのに。仲が良くなった事は嬉しく感じる。
「教官、それではまた後で」
 並んで歩いて行くクルトとアッシュ。彼らも何かを隠しているような気がしてならなかったが、尋ねる事をなんとなく、リィンはやめておいた。何でもかんでも探ろうとするのも良くないと、心の中で言う自分が居たからだろう。

 そして、始業後も、なんとも言い表せない〝違和感〟は続いた。
 何も、どこにもおかしな事はない、普段通りの時間が流れている。それは間違いない。
 ただ時折、学院へ向かう途中で出会った生徒達から感じたようなものが、空気に溶け込んでいるような気がしていた。学院内を歩いていて向けられる視線の数も、心なしか多い。リィンの様子を伺うようなもので、負の感情だとか、そういったものが含まれているわけではなかったが。
 ――やっぱり、何か隠し事をされている?
 リィンの鋭い勘は一つの予測を改めて弾き出したが、かといってどうするのか、という部分までは辿り着けず、時間は過ぎていく。

「よ、リィン。寮に戻んのか?」

 違和感の理由は掴めないまま、日が傾いた頃にリィンは学院を後にする。街へと伸びていく緩やかな下り坂へ踏み出そうとした瞬間、彼はクロウに呼び止められた。
「時間が時間だし、そのつもりだけど――って、アルティナと一緒だったのか。珍しい組み合わせだな?」
「偶然、お会いしましたので」
「なんだかんだのんびり話をする機会もなかったし、これから《バーニーズ》でも行こうと思ってるんだが、お前もどうだ?」
「……言っておくけど、奢らないからな?」
「あのなぁ……財布くらいちゃんと持ってきてるっつの」
 ぽん、と空中に軽く一度放られた財布に、一体どれくらい入っているのか――五十ミラを返すと言って、十ミラしか入っていないと言われた時の記憶が過ぎる。

      

「行きましょう、リィン教官」
「あ、ああ」
 アルティナに腕を引っ張られ、リィンはそのまま歩き出した。

 ◆

 焼き立てのピザから漂う、トマトソースとチーズの香り。
新鮮な野菜を使用したサラダには、バーニーズ特製のドレッシングが添えられている。門外不出、企業秘密のレシピで作られたというそれは、どんな野菜にも合うとジーナが言っていた。
 運ばれてきた食事を前に、リィンとクロウはグラスを軽く合わせる。空腹を訴えていた体にまずは一口、ワインを流し込んだ。特有の苦味と酸味の合間に、年月が生み出した芳醇な風味が混じり合う。まだ素直に美味しいとは感じられないが、一年前よりはそれを味わう余裕が出てきていた。
「酒には慣れたかよ?」
「うーん……慣れた、と自信を持っては言えないな。顔が赤くなる事も多いし……勿論、物にもよるけどさ」
「お酒、ですか。苦そうな印象がありますね」
「はは……慣れればそれも美味く感じるって、サラ教官が言ってたな」
 ホットミルクで二人の乾杯に参加したアルティナは、少し息を吹きかけて、冷ましてからマグカップを傾けていた。
「こうしてお前と酒を飲み交わす日が来るなんて、あの頃は思いもしなかったぜ。〝夢〟なんじゃないか、って思っちまうくらいだ」
 クロウは近くもあり、遠くもある日々に思いを馳せている。常に揺らぎ、不安定な未来という名の幾つかの可能性の中に、今、目の前にある光景は含まれていなかったようだ。
 夢なんじゃないか、という部分にリィンは少々引っ掛かりを覚えたが、再びワインを飲んだ時には泡沫のように消えていた。
「そうだな。士官学院を卒業して、もう一年が――……」
 心の中の暦を戻して、一年前の春で止めた時だった。
 ぐぅ、と短くもやや大きな腹の音がどこかから聞こえて、リィンはその方向を見る。
「…………っと、早く飯にしようぜ。アルティナが腹空かせてるしよ」
「あの、クロウさん。今のお腹の音はわたしでは……」
「気のせいか。まあ食えって」
 どう考えても気のせいではなく、確実に聞こえたのだが、気が付かなかった事にしてあげた方がいいのだろうか。
 決してシリアスではない葛藤が過って、リィンは溜め息に近いものを吐く。
「教官生活はどうだ? 慣れない部分も多いだろうけど」
 手際よく取り分けられたサラダを受け取って、ドレッシングとよく絡ませてから口に運んだ。散りばめられたクルトンのさくさくとした食感が癖になって、つい食べる手が止まらなくなる。
 サラダを味わう合間に、リィンは反対側でオニオンリングをつまむクロウへ、そう尋ねた。
「どう……って言われてもな。現時点じゃ問題ナシ、ってトコかね」
「まさか貴方が《Ⅶ組》の副教官になるとは思いませんでしたが……わたしから見ても、特に解決すべき問題はないように見受けられます」
「クク、それに頼れる〝先輩〟が居るから心配いらねーって」
 な? と同意を求めるように、クロウが片目を瞑る。そういう仕草が相変わらず似合うなお前は、などとぼんやりする頭で考えつつ、リィンは傾けようとしたグラスを置いた。
「…………クロウの方が年上なのにそう呼ばれるの、やっぱり変な感じだな」
「そう約束してきたのはリィンの方だろ? きっちり守らせてもらうぜ~」
 かつて先輩と呼んでいた人からの〝先輩〟呼び。職場によっては年下の先輩が居たり、年上の後輩が居る事もあるのだろう、それは分かっている。
 けれど、むず痒いような、慣れないような――幾つもの感情を混ぜこぜにしたような固まりは、行き先を見失ったまま、リィンの中をずっと転がり続けていた。

 ――そう〝約束〟した。

 何気ないその一言が加わって、リィンは思考が止まりそうになる。戸惑いに似たものが生じる、明確な理由は見付からない。違和感があるのに違和感ではないと決めつける何かが潜んでいて、ワインのせいにしてしまっていいのか、分からなくなっていた。
「卒業したら、先輩と後輩が逆転する……そのような事もあるのですね」
 小さめに切り分けたピザを手に取って、アルティナが呟いた。勉強になりました、と続けてから、トマトソースをこぼさないよう、彼女は慎重に食べ進めていく。
 リィンは、僅かに酔いが醒めたような気がした。アルティナが言った〝卒業〟という単語を耳にして、そう遠くはない未来の光景が、心のキャンバスに描かれたからだ。
「……次に春が来たら、君達はトールズを発つんだな」
 二年なんてあっという間だと、リィンは巡る季節を数えて思う。戻した暦を今度は進めて、その少なさに寂しさすら感じた。愛しく大切な時間が増えていくほど、残された時間は等しく減っていくのだ。
「卒業、ですか。…………今、この辺りにあるものが〝寂しい〟という感情なのでしょうか。皆さんとお別れになる時の事を考えると、少しだけ、きゅっとしたような感覚があります」
「俺も同じだから、きっとそうだな。……別れの日、最後に笑って写真が撮れるような……そんな日々を作って行こう。それだって、俺達教官の役目の一つだ」
「……」
 頭の後ろで腕を組んで、クロウは黙って二人のやり取りを見ていた。
「来るといいな。そんな〝未来〟が」
 ライノの花が咲く中の、生徒達の卒業。雛鳥と呼ばれていた彼らが立派な一羽の鳥へと育ったのを嬉しく思いながら、その旅立ちを笑顔で見送る。
 訪れるはずの未来の話に、クロウはどこか遠くを見て呟いた。
「……え?」
「何でもねーよ、気にすんな。酒が回って来たかねぇ」
「飲むペースが早かったように感じますが」
 ミルクを飲み終えたアルティナが、空になったワインボトルを見た。二人で一本を分け合ったとはいえ、クロウが半分以上消費している。
「酔い潰れるのだけは勘弁してくれよ、クロウ。俺はお前を運べないからな……多分」
 クロウを担いで移動する自分を想像して、リィンは重い溜め息を吐く。
「背が五リジュ伸びたらしいが、まだまだだからなー」
 そこへクロウの何気ない一言が降ってくる。――ぴしり、と。本当に何気ない一言だったが、リィンの中で、そう音を立てるものがあった。怒った、というわけではない。不快だったわけでも、勿論ない。それらとは異なる、懐かしさがある感情が沸き上がってきたのだ。
 リィンは、じとりとした目でクロウを見ながら口を開く。

「…………訂正する。運べない、じゃなくて〝運ばない〟からな」
「って、見捨てる気満々じゃねえか」
「お前を見捨てるわけないだろう? 放っておけないしな」
「……微妙に矛盾してる気がするのは、俺の気のせいだな?」
「寮まで自力で戻ってくれたら、水くらいは用意するから」
「ったく、優しいんだかそうじゃねーんだか」
「色々あってスレたのかもな」
「はー、リィン君も大人になっちまって。昔は可愛げのある後輩だったのによ~」
「悪かったな。可愛げのない〝先輩〟で」
「ソウデシタネ」

 棒読みで返して、クロウはテーブルに突っ伏した。顔が赤いようには見えないが、そのままぴくりとも動かなくなる。
「クロウ?」
「少しこのままで居させてくれねーか……」
 額を抑えて、リィンは再度、溜め息を吐いた。
この状況でこうする理由など、たった一つしかないからだ。
「やっぱり酔ってるんじゃないか……すみません、水を貰えませんか」
「……」
 アルティナが微かに口元を緩める。微笑の半歩手前のような表情で、彼女はリィンとクロウのやり取りを見ていた。
「……アルティナ、今、笑ったか?」
「……? 笑っていましたか?」
「そう見えたよ。ごめん、騒がしくして」
 店員から受け取った水をリィンが渡すと、クロウは一気に飲んでいく。零すのではないか、と心配になるほどだ。コップの中の水はあっという間に減っていった。
「いえ、気にしないでください。……お二人の会話を見ていて、不思議な気持ちになったので」
「不思議な気持ち?」
「あのようなリィンさんを、あまり見た事がありませんでしたから」
「はは……クロウと話しているとつい、な」
 アルティナは、リィンとクロウの間にある〝悪友〟という名の関係をまだ知らない。一言では説明しきれない、何本もの糸を複雑に、ややこしく紡いで作り上げられたものだ。
「悪りぃな、二人とも」
 渡された水を飲んでいたクロウが、テーブルの上に空っぽのコップを置いた。そのまま頬杖を付いて、軽く息を吐く。
「大丈夫か……って、平気そうだな?」
「おう、心配すんな。そろそろ戻るとしますか」
「……そうですね、ちょうど良い頃かもしれませんし」
「?」
 何かあるような二人の言い方が気になったものの、尋ねる前にクロウが席を立ってしまう。アルティナはすぐに後を追いかけて、会計を済ませようとするクロウの横にぴったりと張り付き、金額を確認しているようだった。
「今日は俺の奢りって事で」
 信じられない単語と単語が組み合わさって、寝ぼけて聞き間違えたのかと疑いたくなるような言葉が完成していた。
 リィンは頬を抓る。――しっかりと、痛みがある。現実のようだ。
「やっほー、ですね」
「ク、クロウ……本当に全部払うつもりなのか?」
「……オイコラ、ありえねぇモン見るような目しやがって。言っとくが、酔ってねえからな?」
 ミラをカウンターに置いて、振り返ったクロウにじとりと睨まれる。クロウのこんな表情を見たのは、随分と久々だった。
「ご、ごめん。だけどいいのか? 結構食べたと思うんだが……」
「〝先輩孝行〟ってヤツだ。そんじゃ、行こうぜ」
「……ありがとう、クロウ。今度お礼はさせてくれ」
「ご馳走様です」
 アルティナがぺこりと頭を下げると、クロウは気にするな、と言うように笑って歩き出す。
 バーニーズの扉を開くと、リーヴスの街はすっかり夜に包まれていた。静かすぎず、賑やかすぎない空間の中で、深くなる闇をあたたかな灯りが照らし出している。
「それではリィンさん。寮へ戻りましょう」
 アルティナは、先程よりもがっちりとリィンの腕を掴んだ。
「ほれ、歩いた歩いた。突っ立ってたら邪魔になっちまうしなー」
 小さな腕に引っ張られていると、促すようにクロウが背を押す。え、という短い声を思わず彼は発したものの、特に逆らう理由など存在しない。そのまま、リィンは彼女に半ば連れて行かれるように歩き始めた。
「…………」
 リィンは歩きながら、二人の表情を見える範囲で窺う。アルティナもクロウも、どこか楽しそうだった。
 これは何かある、と確信を抱いたが、それが何なのかは予測が出来ない。思い当たるものや事が、すぐには見付からないからだ。
「さて、と。アルティナ」
「はい」
 バーニーズから寮へは、徒歩でほんの数分だ。皆戻ってきているのか、明かりがついている寮は、人の気配が多く感じられた。
 アルティナが扉を開くと、妙に眩しく感じる光が溢れ出す。
「皆さん。戻りました」
 開かれた扉の左右から、ぱんっ、と音がして、きらきらとしたものが飛び出した。目で追ってみると、細い紙のテープや、金銀の小さな紙吹雪がひらひらと舞い落ちていく。クラッカーを手にしていたのは、スタークとカイリだった。
「本日の主役登場だぜ~」
 反射的に数秒瞑った目を開けると、その先には、第二の生徒と教官が全員揃っていた。何が起こっているのか理解出来ず、ぽかんとしたままその場に立ちっぱなしのリィンの前に、ユウナが走り出てくる。
「リィン教官! 待ってました!」
「……これは? それに、皆揃ってどうしたんだ?」
 頭の中で照らし合わせても、寮へ着くなりクラッカーを鳴らされる理由が出てこない。それにどうして、皆に出迎えられるのか――思考をぐるぐると巡らせるリィン。
そんな彼の横に立つアルティナの肩を、ユウナが軽く叩いた。
 コホン、とアルティナが小さく咳払いをする。こっそりと手渡されたものを、後ろ手に隠しながら。

「教官。――誕生日、おめでとうございます」
「!」

 祝いの言葉と一緒に手渡されたのは、メッセージカードが添えられた赤い箱だった。
 リィンは目を瞬かせる。今日が自分にとってどういう日だったか、彼は今になって、漸く気付いたのだ。
「変なトコで鈍いのは相変わらずかよ? ま、おかげで準備が間に合ったみてぇだが」
「気付かれるかと思いましたが、せーふ、でしたね」
「クロウ教官、助かりました。アルもありがとう!」
 アルティナ、クロウと軽く手を合わせるユウナを見て、朝から感じていた違和感や、不思議に思った事すべてに合点がいった。
「……そういう事だったんだな? ユウナの態度が妙だったのも、皆が何か隠してる様子だったのも」
 心の隅から、少しずつあたたかな感情が滲む。
そこには若干の照れ臭さが含まれているものの、嬉しいという感情が上書きしていった。
「ったく。隠し事がヘタすぎんだよ、ジャジャ馬は」
「朝、教官にユウナちゃんの事を聞かれた時は、これは気付かれちゃったかなーって思いましたよ~」
「け、結果オーライでしょ! ……まあ確かに、昨日教官の誕生日が今日だと知ったからって、焦っちゃったな、って反省はしてるけど」
「今回は結果おーらい、ですね」
 リィンは、その場で周囲を見回した。外は夜でも、今居る場所は昼間のように明るく、あたたかい。染み込んだ光が、隅々まで行き渡っているようにも感じられた。
「誰かの誕生日を祝うのは初めてです。……わたしは、なかなかこういった事に縁がありませんでしたから……祝う側も、心があたたかくなるんですね」
 ケーキが用意してあるという食堂へ移動する最中、アルティナがぽつりと零した。生徒達が交わす会話に紛れてしまいそうだったそれを聞いて、リィンはふと思う。
「これは、俺の憶測なんだが……もしかして、君がユウナに俺の誕生日を教えたのか?」
「!」
 リィンは生徒達に、自分の誕生日を教えた記憶はなかった。特にそういった話をする機会がなかったから、というのも理由になる。気が付けば年齢を重ねていて、誰かに言われて思い出す事も多く、特別な日という認識もあまりなかった。クラスメイトや家族のそれは覚えているというのに、自分の事に関しては無頓着なのだ。
 情報局の出身であるアルティナは、リィンの一通りのプロフィールを把握していてもおかしくはない。情報の出所は彼女しか考えられなかった。 
「仰る通りです。昨日の夜、今日が教官の誕生日である事を思い出しまして。とはいえ……何をするのか、わたしにはよく分かりませんでした。そこでユウナさんに声をかけられて、今に至りますね」
 寮の飾り付けにケーキ、渡された贈り物――昨日の夜に知ってここまで準備してみせるとは、さすがの行動力だと思わざるを得なかった。
 同時に、彼女と一緒にプレッツェルを作った時の手際の良さを思い出して、リィンは納得する。後で、ユウナにも改めて礼を言わなければいけない。

「来年も祝わせてください。……いえ、祝いに来ます。必ず」

 笑ったアルティナは、リィンの手を握る。
 その小さな約束が、遠いようで、あっという間に訪れる未来に作用するような――そんな予感がした。