六章【平穏なる刻、リーヴスの夜】

「やっほー、リィン! アーちゃんも!」

 一日が終わりへと向かう刻。学院での用事を終えたリィンとアルティナが寮への道を歩いていると、駅の方から元気よく声を掛けられる。
 ぶんぶんと勢いよく手を振る声の主は、薄暗くなり始めている中でもはっきりと認識出来るほどの笑顔を浮かべていた。その隣には、私服に身を包んだクレアが居る。
「ミリアムさん」
「それにクレア少佐も……どうしたんですか?」
「ミリアムちゃんが、長期の任務に出る事になりまして。その前に、どうしてもリィンさん達にお会いしたいと」
「長期の任務?」
 そんなに長いものなのかと、問いかけようとしてリィンは口を閉ざした。
 ――聞いてはいけない、そんな気がしてならなかったからだ。
「いつ戻って来られるか分からないしさー。そしたら、オジさんが一日だけ時間をくれたから来たんだ」
 ミリアムの言う〝オジさん〟が誰を指しているのかは、すぐに分かる。該当する人物は一人しか居ないのだから。
 リィンは自分の中で、言葉が詰まるのを感じた。
「……オズボーン宰相が……少々、意外ですね」
 隣のアルティナに見上げられながらそう言われて、彼はハッとする。
「…………。その貴重な時間で来てくれたんだな、俺達も嬉しいよ」
 それはリィンの素直な想いだ。決して長い時間ではないだろうに、それをここへ来る時間として使ってくれた事が嬉しかった。
「そこで一個お願いがあるんだけど、いいかな?」
 手で〝一〟を作り、リィンを見上げるミリアム。無垢な瞳は変わらないまま、真っ直ぐに色々なものを映し出す。
「お願い……何だ?」
「リィンは《Ⅶ組》のミニアルバム持ってるでしょ? それ、ちょっとでいいから見せて欲しいなーって」
「わたしが撮影した写真で、二冊目を作り始めたアルバムですね」
「そうそう! アーちゃんからその話聞いて、昔のも含めて見てみたいなって思ったんだ。ボクがあげたトイカメラ、使ってくれてるんだ、って嬉しかったし」
 きらきらとした思い出が、最初から最後までぎっしりと詰められたアルバム。リィンの机の奥に大切にしまってあるそれは、昨年の夏至祭を機に二冊目を作り始めた。
 分校での日々を切り取り、半分以上埋まりつつあるアルバムは、アルティナが撮った写真が大半だ。あの黒兎のトイカメラは、沢山の輝く季節を写している。
「構わないけど……写真、結構あるぞ? 時間は大丈夫なのか?」
「うん! 夜もこっちに居られるから、ボクの事は気にしないで。クレアも来る?」
「いえ、私は外しますね。この後、人と会う約束があるので……」
「あ、あの人だね。分かった、また連絡するよ!」
 誰と会う予定があるのか、リィンにはなんとなく察しがついた。あくまでなんとなく、でしかなかったが。
「私はそろそろ待ち合わせ場所に向かいます。ミリアムちゃんを宜しくお願いしますね」
「はい。目を離さないようにしますので」
「アーちゃん~?」
「はは……」
 じとりとした目でアルティナを見つめるミリアム。妹のように思っているアルティナにそう言われてしまっては、姉として納得がいかないのだろう。
 ぴょこんとした碧の髪が揺れて、まるで風に吹かれる双葉のようだった。
「一応ボクがお姉ちゃんなのになー」
「ミリアムさんも放っておけませんから」
「〝も〟……だってさ、リィン」
「そ、そこでどうして俺に振られるんだ?」
「アーちゃん、よく言ってたよ? リィンの事、ほっとけないって」
「ほっとけない、か……アルティナも、この前ユウナ達に言われたじゃないか」
「リィンさん共々、でしたね」
「うんうん、すっごく分かるな――――って、わっ」
 にこにこしながら二人の話を聞くミリアムの頭から、ひょいと帽子が取られる。そのまま、誰かの手がくしゃりと碧い髪を撫で回した。
「よう、チビすけ。久々だな」
 声の主はミリアムの帽子をくるりと指で回して、また彼女の頭にそれを被せた。
「あ、クロウだ! ひっさしぶりー!」
「元気そうで何よりだぜ。……長い任務に行くんだってな?」
「あれ、どうして知ってるの?」
「そこでばったり出くわした少佐サンから聞いたんだよ」
「……クレア、クロウと話ししてくれたの?」
「まあな」
「……そっか」
 クレアが去っていった方向を見遣り、クロウは一言そう返す。
 表情が見えず、クロウが何を想っているのか、リィンには分からない。
 蟠りは、簡単には消せないのだろう。私は外します、と言った時のやや複雑そうな表情に、きっとそれも含まれている。
「……、クロウも買い物があったのか?」
 ここで思考の海に沈んでいても仕方がない。リィンは一旦、渦巻きかけたものを隅へと追いやる。
「おう。こいつがないと夜は過ごせねぇっつーか」
 良い笑顔と共に持ち上げられた袋の中で、瓶が軽くぶつかる音がした。
「お酒ですか」
「それと雑誌があればもう文句はねえよ」
「雑誌って……だいたい想像はつくけど、それならランディさんと気が合いそうだな」
「あー……まだちゃんと話した事はねぇな」
 意外だな、と、口にはしなかったものの、リィンは思った。
 分校へ着任して一年目の時、夜に彼とバーニーズで飲みながら交わしたある意味濃厚なトークは、未だによく覚えている。クロウなら更に盛り上がるのではないか、とつい考えてしまった事も含めて。
「にしても、まさかお前が下ネタやエロトークに付いていけるなんて思わなかったぜ。今度付き合ってもらおうじゃねーの」
 クロウに肩を組まれる。楽しそうな笑みを浮かべているが、どうしてクロウがそれを知っているのか。
 誤魔化しは効かないと判断したリィンは、小さな溜め息を吐いた。
「……ランディさんか、トワ先輩から聞いたのか?」
「や、分校長サンなんだけどよ」
「え」
「なになに、オトナな話?」
「……不埒な匂いがしますね」
 オーレリアは一体、どこまで地獄耳なのか。あの場には居なかったはずなのに、どうして知っているのか。
 疑問は、アルティナとミリアムが割り込んで来た事によって、萎むように姿を消した。
「んー、お前らにはちっとばかし早いな」
「いやいや、そういう問題じゃないから」
 この純粋な少女二人に、あのようなディープな話を聞かせるわけにはいかない――。聞かれてしまった時の事を想像しただけで頭痛がする。酒の勢いで話を始めてしまうと、本当に止まらなくなってしまうのだ。自分でも驚くほどに。
「……っと、だいぶ暗くなって来たな。寮に戻ろうぜ」
 リィンが額を抑えていると、クロウが空を見上げる。暗くなり始めた夕暮れの空は、リーヴスの彼方に夜の闇を滲ませていた。
「それじゃあ、レッツゴー!」
「ミリアムさん、張り切ってますね」
 アルティナの手を引いて、ミリアムが駆け出す。リィンはクロウと並んで、すぐに駆けていく兎達を追いかける。
 頭上で輝いた星は、まるで見守ってくれているかのようだった。

 ◆

「こちらは、リィンさん達が学生の頃の……学院祭でしょうか?」
「そうだな。エリオットのスパルタっぷりは、昨日のように思い出せるよ」
 色鮮やかな記憶が、写真として残っている。何年経とうと愛おしいままの、大切な欠片達だ。
 褪せる事なく残ってくれている事が嬉しくある一方で、あの日々が遠くなっていく事に寂しさも感じてしまう。

      

 アルティナが広げているアルバムを、三人が覗き込む。時間はあっという間に過ぎて行き、時計の針が何周したのか忘れてしまいそうだった。
「あははっ、この写真も懐かしいなー! 写真っていいね。ボク達の思い出、綺麗にそのまんま残してくれるし」
 ミリアムは目を輝かせてアルバムを眺めていた。Ⅶ組で過ごした時間も大切で大好きだ、と言ってくれた時の事が過って、リィンは微かに笑った。
 綺麗に、そのまんま――ミリアムの言葉は、リィンの胸に少しずつ染みていく。ずっと、心の中にも在って欲しいと願うばかりだ。
「お前らも、去年の学院祭でライブをやったんだよな?」
「はい。慣れない事ばかりでしたが……ヴァレリーさん達にも助けていただいて、全力で頑張りました」
「あーあ。ボクも見に行きたかったなー、アーちゃん達のライブ。リィンが最後にステージに引っ張り上げられたんだよね?」
 笑って、ミリアムは腕を頭の上で組む。
「そうだ。ちょっと戸惑ったけどな……当然、事前に何も聞いてなかったしさ」
 それでも楽しかったし、良い思い出の一つだった。
後でこうして振り返って、そう思える事が何よりの証拠だ。
 心のアルバムを開く。そこには〝去年の学院祭〟の思い出が刻まれていた。

 ◇

「ユウナちゃん達、頑張ってるね!」
「ええ。まさか、本当にライブをやりたいと言い出すなんて思いませんでしたが……」
 リィン達が見守る先――クラブハウス内に作られた特設ステージの上では、特注の衣装を纏ったユウナ達がライブをしている。眩しすぎるくらいのスポットライトにも、会場を包む熱気にも負けず、五人は全力で演奏し、マイクを手に歌っていた。
「確かリィンが学生の時にも、ライブをやったんだったか?」
「ランディさん、ご存知だったんですか?」
「分校長から聞いたんだよ。青春だねぇ」
「話した記憶はないのに、どうして知ってるんだ……?」
「あはは……誰かから聞いたんだと思うよ?」
 練習期間はそう長くなかったというのに、誰一人として間違える事なく、次々と曲を奏でていく。少し緊張しながら見守っていたリィンは、ほっと胸を撫で下ろしていた。
 彼らがシュミットに頼み込んで、アインヘル小要塞の安全なエリアで遅くまで必死に練習していた事は知っている。故に、疲労を残してしまっていないかという心配もあったが、完全に杞憂だったようだ。
「リィン。ユウ坊、こっち見てないか?」
 手書きで作られたセットリストには、最後の曲の前に謎の空白が設けられていた。
 なんとなくそれを眺めて、これは一体何なのかとリィンが考えていると、ランディが彼の肩を叩く。
「ミュゼちゃんも、リィン君を見てるように見えるけど……」
 小首を傾げるトワにもそう言われて、リィンはセットリストから視線を外してステージを見た。
「へ……?」
 良い笑顔を浮かべながら、ユウナとミュゼは間違いなくリィンを見ていた。片目をぱちりと瞑って、ミュゼは悪戯っぽい表情をする。
 一体どうしたというのか――否、そこまで深く考える必要はない。リィンの頭の奥で、一つの予測が急速に膨れ上がってきていたからだ。
『教官もこの歌、ちゃーんと練習しておいてくださいね!』
『分かった。君達の練習に付き合うくらいはしたいしな』
 歌詞を手渡されていた曲は何度か一緒に歌ったし、通しの練習に付き合った時もあった。
本番は自分が抜ける事になるから、バランスがおかしくなったりしてしまわないか――そう聞いた事はあったが、
『全員で歌うから大丈夫です』
 アルティナに、シンプルにそう返されていた事を思い出す。そしてその返答の意味に、リィンは今になって気付いた。
「皆さん、ここまで聴いてくれてありがとうございました!」
「あっという間でしたが、お楽しみいただけたでしょうか」
「次で最後の曲になります。――こちらは〝Ⅶ組全員で〟歌いたいと思います」
「……と、言うワケだ。勘が良いアンタならとっくに察してるとは思うが、さっさと上がって来いや」
「それではお呼びしますね。私達〝特務科Ⅶ組〟担当――リィン・シュバルツァー教官!」
 観客の視線が一斉に後方へ向く。会場を一周したスポットライトに照らされて、リィンは予測が現実になった事に対して苦笑いを浮かべるしかなかった。
「……やっぱり……」
「ま、教官を巻き込むなって決まりはないからなぁ」
「リィン君も、みんなと一緒に歌うんだねっ。頑張って!」
「こうなった以上、教官としてなんとかやってみますよ」
 そう言いはしたものの、生徒達がそのようにしたいと思ってくれたのなら嬉しい、とも感じる自分が居る事を、リィンは認めていた。
 観客の合間を小走りで抜けて、リィンはステージに上がる。ユウナとミュゼはハイタッチを交わして、アルティナがマイクを彼に手渡した。
「まったく……事前に言ってくれれば、もっと練習したのにな」
「さぷらいず、というものですね」
「アンタの間の抜けたツラが見られただけでも、オレとしちゃ上等だがな」
「そう言っているアッシュさんが、一番反対されていましたよね? 教官とは合わせる回数が少ないのにどうだとか……」
「エセふわ、次何か暴露したら容赦しねぇからな」
「アッシュさんが怖いです、教官っ」
「はいそこー、ステージの上なんだから自重するー」
 いつも通りの空気に、いつも通りのやり取り。
 何も飾っていない〝Ⅶ〟の姿に、リィンは自然と笑みを零していた。
「……少々、雑談が入りました。では、曲の前に教官から一言お願いします」
「え、俺なのか?」
「はい。〝僕達の教官〟としての姿を見せる、良い機会になると思ったので」
「……ああ、そうだな。ありがとう」
 今ここに立っているのは、灰色の騎士、英雄ではなく、教官としての〝リィン・シュバルツァー〟だ。
 クルトに促され、受け取ったマイクの電源を確認してから、彼は一歩前に踏み出す。
「戦闘の時、俺達を繋いでくれているARCUSは、今はありません。それでも、きっと一つに出来ると信じています。正直、少し緊張もしていますが……それ以上に、嬉しく思う自分もいます。〝Ⅶ〟を背負う一員として、全力でやり切ろうと思うので――宜しくお願いします!」
 痞える事なく、逆さにした瓶から水が零れ落ちるように、言葉が流れ出る。
 観客達から上がった歓声を耳にして、アッシュが頭を掻いた。
「ハッ、相変わらず小っ恥ずかしい台詞をサラッと言いやがる」
「リィン教官は、それならではという感じもしますが」
「僕も同意する」
 軽く確認だけ行って、それぞれが位置につく。
 リィンが振り向くと、楽器を手にした生徒達が力強く頷いた。見えない光が全員を繋いだ気がして、体の奥底からはあたたかいものが湧き上がってくる。
「よし、準備はいいな」
「なんだかんだでノリノリですね」
「懐かしい、のかもしれないな」
 やり切るし、楽しんでみせる。彼は素直に、心底、そう思っていた。
「それでは〝特務科Ⅶ組〟最後の曲です! 曲名は――――」
 今までに得たものや培ったものを、未来へ繋げる。
 たとえ見失ったとしても、また立ち上がって〝明日への軌跡〟を描きながら駆ける――その曲に対して、そんな印象を彼は抱いていた。
 満ちた静寂を、始まりの音が破る。
 マイクを握る手に力を籠めて、リィンは暗闇に瞬く閃光を見た。

 ◇

「ライブねぇ」
 話を聞いていたクロウは、どこか遠くを見ていた。緋色の瞳に懐かしさを滲ませて、過ぎ去った日々に思いを馳せるように。
 その先にあるもの――ある景色が何なのかは、想像に難くない。
「……懐かしいか?」
「そりゃそうだろ。トワやゼリカ、ジョルジュと演奏したのが昨日のように思い出せるぜ。……それで、今年はどうすんだよ?」
「分校長はまだ何も言っていないけど、出し物はあると思う。今のうちに幾つか候補を出しておいても良いかもしれないな。去年候補として出したものを、また検討しても良いだろうし」
 選択肢は幾つもあったが、今年が〝最後〟だ。悔いのないように選んで欲しい、とリィンは思っていた。
 ――最後。出会いがあれば別れがあるのだから、当たり前の事だと分かってはいるけれど、寂しさは感じてしまう。
 次の春を思って、リィンは心の内に浮き上がった想いを、壊さないようにそっと握り締めた。
「日程が決まったら教えてね。ボクも今年こそは絶対行くから!」
「分かった。約束するよ」
「うん、約束! ほらっ、アーちゃんとクロウも!」
 ミリアムが小指を出す。約束を交わす指切りだ。
 数秒それをじっと見つめていたアルティナは、微笑と苦笑の中間のような表情で、同じように小指を出す。
「仕方ないですね」
「とか言って、満更でもねーんだろ?」
「……」
「つまり、そーいう事だよね! えへへ……ありがとう、アーちゃん!」
 四人の小指が絡んで、小さくささやかな約束が交わされた。嬉しそうなミリアムの笑顔に引っ張られたのか、アルティナも微笑んでいた。
「そういえば、ミリアムは今日はどうするんだ? クレア少佐と合流するのか?」
「んー? 許可もらえたから、ボクはアーちゃん達の部屋に泊まるよ。クレアは最終の列車で帝都に戻るって言ってた」
「それでは、明日の朝にミリアムさんを迎えに来られるのですか?」
「そうなるかなぁ。せっかくだから泊まっていけばいいのにさー。色々とフクザツなのは分かるけど……」
「……」
 僅かな沈黙。長いものではなかったが、それは妙に突き刺さる。
 かちり、と時計の針が動いた直後、クロウが大きく伸びをした。欠伸がわざとらしく感じてしまったのは、おそらく気のせいではないのだろう。
「――っと、もうこんな時間かよ。ほれ、お前らは寝る時間だぞ」
「むー、相変わらずクロウはボクの事を子供扱いするんだから」
「それだけじゃねぇっつの。……って事で、待たせちまったな」
「開いてるぞ、ユウナ。それにミュゼ、レオノーラも」
 控えめに開かれた扉の向こうから、ユウナが顔を出す。
「あ、あはは……クロウ教官、リィン教官も……やっぱり気付いてたんですか?」
 苦笑いを浮かべるユウナの肩を、レオノーラが叩いた。
「そもそも、気配を隠そうともしなかったしね」
「気付いているのに放置するなんて、お二人とも意地悪です」
「……なんだか既視感のある流れですね」
「既視感……エリゼが来た時だったか」
 男子禁制、女子だけの〝会〟――あの夜に行われたのがどういったものなのか、リィンは当然詳細を知らない。華やか、煌びやかなイメージはあるものの、それは果たしてどれくらい正解に近いのか。答えを得る日はきっと来ないのだろう。
「アルにミリアムさん、色々と準備は出来てるよ!」
「夕方から急いで準備をしてたんだ。間に合って良かったよ」
「はい。〝女子会〟の始まりです」
「賑やかになりそうですね」
「それじゃ、ボク達はその〝ジョシカイ〟にお邪魔しよっかなー! また明日ね、二人とも!」
 わくわくして仕方がない、といった様子のミリアムに対して、アルティナは一見普段と変わらないようにも見える――が、なんだかんだ楽しみにしているという事は、なんとなく分かった。
「おやすみ。あんまり夜更かししないようにな?」
「はーい」
 ミリアムとアルティナが、ユウナ達と一緒に〝ジョシカイ〟へと向かう。扉が閉まっても、その向こうから賑やかな声がしばらく聞こえていた。どうやら他の女子生徒も集まっているらしい。
 夜更かししないように、とは言ったものの、あまり意味はなかったかもしれない――。
 自然と苦笑が零れて、リィンは開きっぱなしのアルバムをそっと閉じた。
「……〝また明日〟……か」
 何気ない言葉が、リィンの心に残り続ける。それは良い意味でも、悪い意味でもない。
 理由を探せば見付かりそうな気がするが、探す事を拒む自分も居る。透明な壁に阻まれているようだった。
「眠れそうにねえなら、バーニーズで一杯いっとくか?」
 クロウが悪戯っぽい笑みを浮かべながら、ジョッキを傾ける仕草をする。
「あのな……もう遅い時間だぞ」
「クク、冗談だっての」
 きっとそうだろうとは思っていても、言わずにはいられなかった。何故なのかは、自分に問いかける必要はない。
 懐かしさと心地よさが合わさったようなやり取りを交わした後、リィンは反響し続ける言葉を拾い上げる。
「なあ、クロウ。……一つ、聞いてもいいか?」
「何だよ?」
「どうして〝また明日〟って、言いたくなるんだろうな」
 視線は合わせていない。窓の向こうに広がる星空を見て、リィンはクロウへぽつりと問いかけた。
「……突然どうしたよ? おセンチ気分ってヤツか?」
 珍しく困惑を滲ませているような、そうでないような――返ってきたのは、なんとも言い難い声色だった。
 クロウはリィンのベッドへ腰掛ける。その膝の上には、もう一冊のアルバムが乗せられていた。
「……。ごめん、なんでお前にこんな事を聞いてるんだろうな。忘れてくれ」
「…………」
 積み重なった思い出を捲る音。クロウが開いていたのは、まだ学生だった――リィンが一年で、クロウが二年だった時の、十月末頃のページだった。
 賑やかな空間の中、他愛ない話をしながら食事をする、Ⅶ組の面々の写真が貼り付けられている。確か学院祭の話で盛り上がっていたのだと、リィンは記憶していた。
「簡単だろ。会いたくねえヤツに、また明日、なんて言わねえだろうが?」
「それはそうだけど……」
 答えとして納得出来るような、そうでないような――。
 クロウは、顔を上げて困ったように微笑んだ。その表情の意味をリィンが考えていると、クロウは肩を竦めて立ち上がり、やや雑に彼の頭を撫でる。
「……小さい約束、って事でいいんじゃねーか」
「約束、か……お前がそれを言――――」
 言葉を切って、リィンは暁の瞳に昏い影を落とした。

 過ぎる。果たせなかった約束が、砕け散った夢と共に消え去る光景が。
 刺さる。血の流れない傷が、癒えないまま深くなっていく。
 崩れる。曖昧な追憶の中で拾い上げた記憶の破片が、砂のごとく。思い出すな、と告げる代わりに。

「リィン?」
 クロウに顔の前でひらりと手を振られて、リィンは昏い〝何か〟から解放される。
「……なんでもない。何か思い出しそうになったんだけど、忘れちゃってさ」
「? ま、疲れてるなら早く寝とけよ」
「ああ。おやすみ、クロウ」
 手渡しで返されたアルバムは、少しだけ重く感じた。

 ◆

 翌朝。太陽はまだ高くない時間に、始発から数本後の列車に乗るというミリアムを、三人は駅まで送って行った。
「クレア、そろそろ着くかなー。……リィン達には、次はいつ会えるかなぁ。まだ話したい事、いっぱいあるんだ」
「連絡してくれれば、時間は作るよ。今度は他に誰か誘ってもいいかもな」
「うんうん。みんな忙しいだろうけど、また一緒にご飯食べたりしたいし」
 ごく普通の別れの言葉を交わして、互いにまた連絡をすると言い、長期の任務に向かうミリアムを見送る。

 ――じゃあな、気を付けろよ。
 ――今度はルセットに行きましょう。
 ――楽しみにしてるね!

 目の前で交わされているやり取りが、ミリアムの姿が、妙に遠く感じた。沸き上がったのは、そのままどこかへ行ってしまうのではないかと、思ってしまうような感覚と、それから――。
 リィンの中に冷え切った雫が一滴、落とされる。
「……」
 今、名前を呼ばなければならない気がした。そうしたところで何の意味もないと分かっているのに、感情という名の水が零れ出るようだった。
 何の根拠もないはずの想いに突き動かされて、リィンは一歩前へと踏み出す。
「ミリアム!」
 呼び止められて、振り返ったミリアムは一瞬だけきょとんとした表情を見せた。
「――……」
 何かを言おうとしたのか一度口を開いたが、ゆっくりと頭を振る。飲み込んだらしい言葉の行方を、追いかける事は敵わない。

「リィン、アーちゃん、クロウも! まったねー!」

 変わらない笑顔を見せながら、駅舎の中へと向かうミリアム。リィン達が見えなくなるであろう瞬間まで、彼女は振り向きながらずっと手を振っていた。
 アルティナは少しだけ名残惜しそうな顔をしたまま、ミリアムが完全に見えなくなっても、しばらく駅を見つめていた。
「……次はいつ会えるでしょうか」
「珍しいじゃねーか。何かあったのかよ?」
「約束をしたので」
「約束?」
「はい」
 アルティナとミリアムの約束――リィンにも幾つか想像は出来たが、その中に正解があるかは分からない。
「大丈夫だ、ミリアムなら無事に戻って来るよ。約束を交わしたなら尚更だ」
 たとえどんなに小さくささやかな約束でも、それは時に人を強くする。想いと想いが繋ぎ合わせられて、叶える為に運命すら動かす事もある。
 リィンの心に焼き付いたミリアムの姿が、優しい残像になっていった。
 戻ってきたら、いつもの屈託のない笑顔を見せてくれる。前みたいに突然タックルをされるかもしれないし、昨日のように元気よく声を掛けられるかもしれない。

 ――きっと。きっと、帰ってくる。また会えるから。

 どこからか響いた、言い聞かせるような誰かの声はひどく儚げで、今にも消え入りそうだ。
「そうですね。その時の為に、わたしも頑張ります」
 何の約束をしたのかは、二人だけの秘密なのだろう。無理に聞き出す事はしたくないので、話はそこで終わらせておいた。
「俺達も行こう」
 アルティナの肩を軽く叩いて、リィンは心を伝い続ける、冷えたものから目を逸らす。
 手を振るミリアムの姿が脳裏で霞んでいく事に、微かに恐怖に似た感情を抱きながら。