君のいる夢、その彼方

※スレイ帰還ifエンド。但し設定がちょいちょい本編と異なるので(特にドラゴンの扱い)あくまでパラレルワールドとして見てください。
※スレアリサルベージ本に寄稿させていただいた話。

 その身に神を宿し立ちはだかった災禍の顕主が、眩いばかりに辺りを覆った浄化の光の中へと消えていく。それを見届けた後、は、と息を吐いて、スレイが一度地に膝をついた。刀身に僅かに雷が残っている儀礼剣を支えにして、彼が消滅した方を見つめ直す。
「オレ、終わらせたよ……みんな……ジイジ」
 災禍の顕主――ヘルダルフ。永遠の孤独に縛られ、どんな苦しみを与えられても死ぬ事さえ許されなかった、ローランス帝国のかつての騎士団長。
 激戦が繰り広げられた後とは思えないほど静かな広い空間には、まだ獅子の咆哮が響いているような気さえした。セルゲイから教わった〝獅子戦吼〟――仲間達が見守る中、スレイはヘルダルフとこの技を打ち合い、決着をつけた。同じ技、大差はなかった力量、互いに満身創痍な身。どちらが勝つか分からない状況だった。だが、育ての親であるジイジの遺した雷の力を上乗せして、スレイは災禍の顕主に打ち勝ったのだ。
 よくやったな、と、優しく撫でてくれた、ジイジの手のひら。思い返してまた零れそうになった涙を、スレイは頭を振って追い返す。
 今はもう、泣くべきじゃない。前へ進まないといけない。
「スレイさん」
「……大丈夫。オレはオレの答えを信じて、ここまで来たから」
 ゆっくりと立ち上がるスレイ。頬に付いた誰のものか分からない血を拭って、儀礼剣を鞘に収め、彼は自分を支え、共に戦ってくれた七人の仲間へ向き直る。
 一つ、深呼吸をして、スレイは言う。

「みんな。……今まで、ありが――」

「これから死ぬみたいじゃない。却下」
「いたっ!」
 丁寧にぺこりと頭を下げて礼を言おうとしたスレイの足を、ばしん、という音と共にエドナが傘で叩く。顔を上げれば、彼の言う事を察していた仲間達が、様々な表情を浮かべながらスレイを見ていた。
 叩かれた箇所を摩りながら、いつの間に、などと呟くスレイの前にザビーダが屈む。
「〝可能性はゼロじゃねぇ。なら、少しでも明るい方を信じてればいい〟」
「それは?」
「あそこで壁に寄っかかって帽子イジってるヤツの台詞を代弁してみました~ってな」
「まあ! 素敵な言葉ですわね」
「おい、ザビーダ! 俺は何も言ってねえ!」
「けどそんな感じの事、思ってたでしょ? あたしにも分かったよ」
「ぐっ……」
 ますます帽子を深く被ってしまったデゼル。正直じゃないなデゼ坊は、と言って面白そうに笑うザビーダはまるで彼の兄のようで、スレイは思わずつられて笑った。ヘッドロックを仕掛けてきたロゼに帽子を奪われてしまったその様子は相変わらずで、可笑しかったからだ。
「……」
 そんな和やかな雰囲気の中、アリーシャは、隣のミクリオと視線を合わせる。ミクリオの紫の瞳には、少しだけ不安げなアリーシャが映っていた。
「アリーシャ。……アリーシャは、スレイを信じてくれる?」
「……ミクリオ様?」
「僕は信じてる。スレイは消えたりなんか、絶対にしないって」
 世界の中心へと繋がる光の回廊。そこへ一歩踏み出せば、スレイはここから消えてしまう。災厄を根本的に鎮めるために〝導師スレイ〟として最後の役割を果たしに行ってしまう。
 しかし、強大な存在であるマオテラスの力を借りて行使する浄化の力に、スレイの肉体が耐え切れるかは誰にも分からない。グリンウッドの大地に宿るほどの存在だ。反動で消滅してしまう可能性も、十分にあった。
 それでも、信じている、と。ミクリオだけではなく、他の皆もそうだ。スレイのところへと歩いて行ったミクリオは、彼といつものように腕を合わせて、笑い合う。スレイが消滅する未来など初めから見えていない、とでも言うかのように。
 スレイに、なんと言葉をかけようか。それがすぐに思い浮かばず、アリーシャは彼が他の仲間と言葉を交わしているのを、ただ傍観することしか出来ない。
「……っ」
 会話をするのは、これが〝最後〟になってしまうかもしれないというのに――それを否定する感情が、言葉を詰まらせる。別れの言葉も、励ます言葉も、今は発せない。
 胸の前でぎゅっと手を握るアリーシャ。そんな彼女に、スレイが声をかける。いつもと何も変わらない、優しい声色で。
「アリーシャ」
 スレイは、彼女の目の前まで歩いてきた。
「…………スレイ」
 スレイの表情は穏やかだった。これから何が待ち受けているか分からないのに、それを恐れている様子はまったくない。
 ああそうだ、この真っ直ぐで優しい瞳が好きだったのだと、アリーシャは視線を合わせて思う。導師として世界の未来を見据え、人々のために各地を駆けるその姿は、いつだってあたたかな光のようだった。否、光そのものだったのだろう。
 スレイがそっと、アリーシャの手を握る。従士契約をした、あの時のように。そしてアリーシャは、言葉の奔流の中から、一つの小さな光を拾い上げた。

「帰って、来て」

 零れ落ちた言葉。絞り出そうとしていたものや並んでいた候補はすべて消え、抱いた想いがすべてその一言に集約される。一番手前にあったのに、なかなか掴めず、拾い上げられずにいたものだ。
 アリーシャの言葉に、スレイは笑った。まるで、分かっていたかのように。
「うん。オレは帰って来るよ」
 消えちゃったら、いつか会った時にみんなに怒られちゃいそうだしな。
 そう言って笑ったスレイは、再びエドナの傘にど突かれる。ミクリオは額に手をやって困ったような仕草をし、ライラはそれを微笑ましそうに見ていて、ザビーダはデゼルとロゼの肩を組んで笑った。
 アリーシャの前に立つと、スレイは耳に下げていた羽根飾りの片方を外して彼女に手渡す。契約をした時のようにしっかりと手を握って、大丈夫だから、と告げるかのように。
「だから……待っててほしいんだ」
 頷くアリーシャ。スレイの瞳に映った彼女は、浮かびかけた涙を拭い笑った。
 淡い光が、踵を返したスレイを包む。光の粒子に交じって消えていく姿。思わずエドナが傘を握り締めた。ミクリオはそんな彼女の肩にそっと手を置く。そして、信じてる――そう告げる代わりに、スレイに向かって頷いた。

「ミクリオ! オレがいない間に新しい遺跡とか見付けても、一人で探検しちゃダメだからな」
「分かってるよ。なら、早く帰ってくるんだね」
「ロゼ! マーボーカレーまん、イズチのみんなにも紹介してほしいな。一緒に食べたい!」
「任せて! いずれ全世界に広めちゃうんだから!」
「ライラ! ……カムラン、帰ってきたら再興したいから手伝ってくれる?」
「……! はい!」
「エドナ! 今度、お兄さんと会ってみたいな」
「……。いいけど、ワタシ抜きではダメよ」
「デゼル! オレ、デゼルの傭兵時代の話、聞いてみたいな」
「…………期待はするなよ」
「ザビーダ! ペンデュラムでも戦ってみたいから、教えてくれる?」
「おうよ。俺様のありがた~いご指導、楽しみにしときな」

 なんだか拍子抜けしてしまうような、そうでないような。〝スレイ〟からの言葉にそれぞれが応じるのを見ているうちに、アリーシャの心の底にあった何かは消えていた。
 スレイが浄化を終えて、帰ってきて、それから――。当たり前のように、皆は未来の話をしている。 
「アリーシャ」
 名を呼ばれて、改めて向き直った。交わる視線。口を開きかけたスレイが何かを言いかけるも、思い留まるかのように一度閉じる。
「……。――行ってくる!」
 一瞬強くなる光。それが消えた時にはもう、スレイの姿はなかった。
 祈るように目を閉じ手を組んだライラの肩へ腕を置いて、ザビーダが無言で頷く。デゼルは相変わらず表情が見えないが、スレイをしっかりと見送っていた事に間違いはない。ロゼは一瞬だけ真剣な面持ちをしたが、すぐに腰へ手をやってそれを穏やかなものへと変えた。ミクリオは何故か、エドナに傘でつつかれている。

 アリーシャが、ゆっくりとスレイが居たところに歩み寄る。
 宙を漂っている光は、次第に消えていった。

 ◇ ◇

 陽光のようにあたたかなその場所は、世界の〝中〟に存在していた。
 そこにある一本の樹木に身を預けて、眠るスレイ。彼は長い夢を見ていた。それは、ここではない、似て異なる世界の記憶だ。水面の向こう側で揺らめく儚い幻は、手を伸ばしても遠ざかるばかりで、掴む事は叶わない。
 そんな彼にそっと歩み寄る、小さな影が一つ。体をそっと揺すられて、スレイはゆっくりと目を開く。次第に鮮明になった視界の中、彼の目の前には、ぴょんとした一本の毛が特徴的な、一人の少年がいた。
「…………君は……?」
 どこかで会った事があるような、ないような。
 半分くらいは目覚めきっていない意識の中、スレイは目を擦りながら問いかける。初めて見るはずなのに、初対面ではないような気がしてならなかったのだ。
 少年は、その無垢な瞳をぱちりと瞬かせて、にこりと笑った。
「僕はライ……いや――マオテラス、だよ」
「マオテラス…………って、ええっ!?」
 光のドラゴンだったマオテラスが、今は小さな少年となって、スレイの前に居る。
 一体何がどうなったのやら、と、目を瞬かせるスレイ。彼の中に残っている記憶の最後に映っているのは、白の光に包まれる寸前に見た、大きなドラゴンの姿だった。
「……オレ、あの後どうなって……」
「君は五年間眠ってたんだ」
「ご、五年間!?」
 少し首を傾げて、少年はぽつりとそう告げる。
 想像以上に経過していた刻。スレイは息を詰まらせる。が、すぐに、ほっと胸を撫で下ろして息を吐いた。
「……だけど……よかった。それじゃあ、あれはきっと……」
 彼の心に、不安という名の薄暗さを齎していた暗雲が、一旦振り払われる。スレイの瞳の翠の中を小さな光が駆け抜けて、安堵感は一度、彼の目を閉じさせる。
「……」
 少年は、そんなスレイを黙って見つめている。何かを言おうとして、奥へと言葉を引っ込めたようだった。
「行こう」
 無垢な瞳に見上げられ、手をそっと握られて、スレイは頷いた。

 ――遠く彼方で、作られる夢。光の紙に刻まれるのは、可能性の一節。

 スレイが少年と共に外へ出ると、見渡す限りに澄み渡る空が広がっていた。
 そして、二人の前には、黄昏の瞳を持った巨大なドラゴンが居る。スレイは一瞬踏み出すのを躊躇うが、そのドラゴンは、襲ってくる様子はない。
「このドラゴンは……?」
 待っていたかのように、そこに佇んでいたドラゴン。
 少年はそのドラゴンと面識があるらしく、歩み寄って、そっとその体へ触れる。
「君の事を迎えに来たみたいだ。……ありがとう、〝    〟」
 小さく呟かれた名を、スレイは聞き取る事が出来なかった。
「スレイ」
 少年が振り返って、体の後ろで手を組んだ。
 無垢なその瞳には、遠い昔に暗い闇を抜け出して、輝きを増した光が宿っている。

「君は、あのお姫様の事が好き?」

 純粋な問いかけに、スレイは今度は言葉を詰まらせた。
「えっ? うーん、そ、そうだなあ……」
 何と返せばいいんだろう――?
 頭を掻いて、答えを自分の中で探すスレイ。
「……僕にはね、名前をくれた〝大好きな人〟が居るんだ」
「名前……?」
「うん。僕は、彼女にはもう会えない。でも、僕は決めたんだ。その人が繋いでくれているこの世界を〝マオテラス〟として生きる、って」
 そう言いながら空の彼方を見た少年。伸ばされた小さな手の先には、一体何があるのか――それは、スレイには分からない事だった。
 再びスレイと目を合わせた少年は、少しだけ息を吸う。胸元でそっと手を握り、真剣な面持ちで、彼はスレイを見上げた。
 すぐには発されない声。どうやら、言葉を探しているらしい。その一連の仕草だけで、スレイはなんとなく、少年がどういう事を言おうとしているのかを察する。
 一度風が吹いて、舞い上がった葉がひらりと落ちた。
 小さな〝聖主〟は、口を開く。

「スレイ。君は、大切な人を何人も見送る事になる」

 穏やかな声色でありながらも、それはまるで、刃のような言の葉だ。
「それって……」
「仮説、ではあるよ。でも……きっと、浄化の為に僕の力を受け止め続けた君の命は、長いから。それでもスレイは、彼女に会いたいって思う?」
 少年は言う。浄化の為に振るった力の影響で、半分天族に近い存在になってしまっている可能性があると。
 少年は問う。いつか取り残されると分かっていても、あの場所へ帰るのかと。
「……オレは……」
 最後に交わした言葉を思い返して、スレイは自分の中で、何かの感情が線を越えて来ようとしている事に気が付く。
 押し戻したくとも、押し戻せない。
 流れていった数多の記憶を、手繰り寄せる。
 スレイの脳裏を、セピアがかったアリーシャの笑顔が過った。

「……約束したんだ。絶対に帰るって」

 スレイがそう言えば、まるで初めから分かっていたように、少年が笑った。
「うん。それなら……僕に見せて欲しいんだ。君達が一緒に〝大地で夢を紡ぐ〟――明日へ向かって、歩いて行く姿を」
「ああ! オレは行くよ。〝夢〟の続きに!」
 そして、その夢が繋がっていくように、歩き続けていきたい。
 その部分を、敢えて口にはしなかったスレイ。それでも、少年は察したらしい。一度だけ頷いて、少年は澄んだ瞳をゆっくりと閉ざす。
「……。また会えたら、たくさん話がしたいな。マオテラス――……ううん。僕が〝ライフィセット〟として、旅をした時の話を」
「ライフィセット……。分かった、約束するよ!」
 スレイを乗せたドラゴンが、一度咆哮を上げる。震える空気。自分を乗せてくれているドラゴンの正体を、スレイはなんとなく察してはいたが、今は触れない事にした。
 ライフィセットは、手を振ろうとして――何かを思い出したように、あ、と小さく声を零す。
「そうだ。死神の呪い、まだ働いてるだろうし……気を付けてね。スレイは起きたばかりだし、あんまりスリリングにしちゃうと、大変だろうから」
「? 死神の呪い、って……うわあっ!?」
 ドラゴンが勢いよく翼を広げ、蒼穹の中へと飛んでいく。どんどん小さくなっていくその影の中にかつての〝仲間〟の姿を見て、ライフィセットはどこか切なげな面持ちをする。
 見上げた空。陽の光が眩しくて、少年は手を翳した。
「…………〝ここ〟での君も、間違ってなんかいないんだ」
 ライフィセットは、ドラゴンが飛び去った空を見る。小さくもあり、大きくもある少年は、一つの可能性をしっかりと瞳に映し出した。
「この夢も、きっと世界を作ってくれるって……僕は信じてるよ」
 白の光が一度瞬いて、紙葉の如くそれは舞う。
 新緑の風が吹いた時には、そこにはもう、誰も居なかった。

 ◇ ◇

 あれから何度、暦を捲った事だろう。何度季節が巡り、何度〝彼〟の事を想っただろう。
 穏やかな風を受けて、羽根飾りが揺れる。目を閉じたアリーシャは、そっとそれへと触れた。まるで、愛おしむように――懐かしむように。
「もう五年、か」
 消えていったスレイの後ろ姿は、未だにアリーシャの脳裏に焼き付いて離れない。褪せることのない絵画のように、ずっと、記憶の中で色を保ったままだ。
 湖上の王都では今日も、清浄な水流の恩恵を受けて人々が生きている。完全に問題がなくなったわけではないが、それでも、美しさを損なわずに前進している。レイクピロー高原には以前よりも花が咲くようになり、観光に訪れる人も増えた。
 城のテラスから見る、穢れのない故郷。願ってやまなかった景色。スレイが救った世界はこんなにも美しく、こうしている今も、どこかで良い方向に発展し続けている。
 これからも、世界は作られる。彼の望んだ世界へ――そしてその先へと、確かな歩みを進めている。
「……君にも見て欲しいよ。スレイ」
 翼の装飾が付いた首飾りをそっと握り、アリーシャは空を見上げた。澄んだ蒼穹は、どこまでも――どこへでも、繋がっている。そんな気さえした。
 もしここにスレイが戻ってきたら、あの時のように、新しい世界に対して好奇心に目を輝かせるだろうか。それともまた、古代の浪漫を追いかけて忙しなく世界を駆け回るだろうか。約束を守って、新たな遺跡を探検せずにいるミクリオが作った”新たな遺跡マップ”を見たらきっと、すぐにでも飛び出して行ってしまうのだろう。想像して、くすりとアリーシャは笑う。彼の、そんなところも好きなのだ。
 何気なく視線を下げれば、騎士団が訓練をしているのが目に入った。あそこに居た日々がとても懐かしく思えて、アリーシャは思わず笑う。ローランスとの合同訓練をしているらしく、その片隅にはセルゲイの姿もあった。後で挨拶に行かなければ、と彼女が考えていると、気付いたらしいセルゲイが礼儀正しく一礼する。
 会釈して、アリーシャが遠くの山々へと目を向けた――その時だった。

「ア、アリーシャ様!」

 一際声の大きい兵士が叫ぶと同時に、アリーシャの上に巨大な影が現れた。強い風が吹く。
「……?」
「ド、ドラゴンだ!」
 混じって聞こえた咆哮は、王都中へと響き渡るほど大きいものだった。
 突風に近いそれから、顔面を覆っていた腕を下ろす。顔を上げるアリーシャ。その視線の先、夕暮れに向かっている空を、大きなドラゴンが飛んでいた。
 その黄色い瞳と視線が合うも、敵意はまったく感じられない。安堵したように小さく鳴いて、ドラゴンは少しだけ高度を下げた。
 誰かが、その背に乗っている。
「!」
 その人影が、ひらりと身を翻す。橙が混じり始めた空色を切りながら重力に従う、白と青。
 よっと、と彼はアリーシャが居るバルコニーに着地すると、振り返って彼女の名を呼んだ。

「アリーシャ」

 五年前と、何も変わっていない。その優しい声色も、あたたかい光を宿したその翠の瞳も、何一つ。
「……っ、スレイ……!」
 駆け寄ってきたアリーシャを、スレイはそっと受け止める。
 かつて、彼女が胸に縋ってきた時のように肩を支えようとして――僅かな逡巡のあと、その腕で、力強くアリーシャを抱き締めた。
「……ス、スレイ? こ、これはその……」
 あまりに突然の事すぎて、アリーシャは彼の腕の中で身動きさえ出来ずにいた。抱き締められているが故に、スレイの表情は伺うことが出来ない。
 戸惑いともう一つ、名前の分からない感情の合間で、彼女は揺れ動いていた。
「よかった。……夢なんかじゃ、ないんだ」
 微かに震える声で、スレイはそう言う。何かを恐れていたようなその声に、アリーシャはどうにか手を持ち上げて、彼を抱き締め返す。
 何があったのだろうか。その不安を少しでも払拭しようと、アリーシャはスレイへ優しい声で話しかけた。
「スレイ。私はここにいるよ」
「……」
「確かに触れているだろう?」
「…………うん」
 アリーシャが、何かあったのか、と問えば、スレイは口を開く。
「オレ、少しだけ――ううん、五年も経ってたら少しじゃないか……とにかく、反動で眠ってたんだ。……その時に、夢を見た」
 消滅は免れたものの、器の大きさを超越した浄化の力を振るった体に、反動がないわけがなかった。根元を浄化しさあ帰ろう、と歩き出したもののとてつもない疲労と眠気に襲われ、世界の内部にある巨大な樹木に身を預けて、数年間眠ってしまっていたらしい。
「どんな?」
「……たぶん、オレが見たのは、何百年も経っちゃってた世界」
「え……」
「ミクリオの髪が伸びて成長してて……アリーシャや、ロゼのお墓があって……オレの壁画もあったよ。目が覚めて夢だって分かったんだけど、もし本当だったらどうしよう、って……ちょっと怖かったんだ」
 約束したのに、果たせなかったら――果たせなくなってしまっていたら。それを恐れつつも、夢のはずだと言い聞かせて、起こしてくれた少年と一緒に外に出た。
 そうしたら、目覚めるのが分かっていたように、黄色い瞳をしたドラゴンが待ってくれていたのだと、彼は彼女に語る。
「また、会えてよかった」
 腕を解いて少しだけ距離を作ってから、心底安心した、といった声色でスレイは言った。
 二人の緑が交じり合う。少しの時間だけ、心地の良い沈黙が満ちる。
 スレイは、アリーシャの頬へと手を添えた。手袋は、今はしていない。懐に入れられているからだ。
 不思議と、スレイの鼓動は早まらない。逆にアリーシャの心臓は、これから起こる事を察して、早鐘を打ち始めていたが。
 ドラゴンが翼を広げて、バルコニーに咲いていた花の花弁が舞い上がる。――きっと、下からは何も見えない。
「……すれ……――んっ」
 風が吹き抜けた直後、優しく触れ合う。直接感じ取ったあたたかさ。アリーシャは自然と目を閉じていた。
 重ねられた唇。一秒が何倍にも感じられる中で、アリーシャはスレイから〝とある想い〟を受け取っていた。もう包み隠す必要はない真っ直ぐな感情を、スレイはアリーシャへと伝えた。
 そっと離れた後、僅かに頬を紅潮させて、アリーシャは何かを言おうとしているスレイの言葉を待つ。ここまで来ておいて気が付かないほど、鈍感ではないのだ。

「ただいま。アリーシャ」

 それは彼が言いたかった言葉であり、彼女が聞きたかった言葉だった。
 そっとスレイの右手を握って、アリーシャは笑う。遠い日に〝彼から与えられた真名〟を、思い返しながら。

「おかえり。おかえり――スレイ」

 導師と姫騎士の物語は、ここから始まる。たとえそれが、永遠のものでなかったとしても――光り輝く物語は、抱いた命の残り時間の差が二人を離すまで、大地へと刻まれ続ける。世界へと、動き始めた秒針の音が溶け込むようにして広がっていく。

 スレイとアリーシャの間を、白い花弁が風に乗って駆け抜けていった。

2017.03.18