断章【B.Destination-Side.C】

 封をされた心に届く。絶望の淵で為す術もなく、今はもう届かない光の水面を見上げて、深い悲しみと憤りを抱えた、声のない叫びが。
 封をされた心が開く。黄昏の来訪に――悪友の危機に、呼応するかのように。
「……ったく、このタイミングで思い出すとはな」
 彼の中で、二つの記憶が鬩ぎ合う。おかげで、今の状況を理解するのに、そう時間はかからなかった。一体何が、と思考する猶予など与えられていないのだという事も、すぐに分かった。
 もがくヴァリマールを捕らえたまま、ギリアス・オズボーンは、リィンに告げる。世界を絶望で染め上げる、昏き終末の御伽噺の始動を。
「……」
 あまりにも時間がなさすぎて、すべてが把握出来たわけではない。まだ知らない事も多いし、分かっていない事もある。今は下手に動くべきではないという事を、彼は己に言い聞かせた。
 目の前の状況をどうにもする事が出来ず、もどかしく感じるそれが、彼の内側で静かに揺らめく焔を煽る。
 ギリアス・オズボーンの行動は、そこに結び付いていたのか。思わず、祖父の姿が過ぎる。

 何が絶望だ。何が終末だ。――ああ、なんてクソったれな御伽噺なんだ。

 どこまでも昏い世界を――そうさせたトリガーを引いてしまったリィンの事を思い、〝クロウ・アームブラスト〟は心の中でそう吐き捨てた。

 ◆

 ある日、クロウは妙な夢を見た。真っ白な空間の中に、ぽつんと扉が一つだけあるのだ。
 近寄って、しばらくその何の変哲もない扉を眺める。後ろを覗き込んでも何もなく、ただの扉なのか――と、取っ手へと手を伸ばした時だった。
「その先に行くの? 簡単には帰れないわよ」
 聞き慣れた声がして手を離す。なんでここに、などと聞く必要はなかった。彼女が魔女である以上、どこにだって現れる可能性はあるだろうと、クロウの中ですぐに結論が出たからだ。
「ヴィータ……何か知ってんのか?」
「稀に、夢と夢が交わる事がある。その扉の先は〝リィン・シュバルツァー〟のそれに繋がっているわ」
「リィンの?」
「他人の夢に立ち入る事は容易い――けれど、出る事は容易ではない。夢の主がその世界を〝夢だ〟と認識しなければ、クロウも囚われて目覚めなくなってしまうのよ」
「……」
 ヴィータは警告する。リィンの夢の中の世界――気を抜けば、自分も飲み込まれる。小さな願いと優しい光に包まれた揺り籠の中に、永久に囚われてしまう。自分でも気が付けないほど自然に意識を溶かされていき、夢の世界の中の存在として成り立ってしまえば、目覚める事は二度とない。もう、脱出する術はなくなってしまうのだと。
 そう告げる彼女と目を合わせて、数秒。
 クロウは微かに不敵に笑んで、リィンの世界へと繋がる扉へ向き直った。
「それでも、アンタに俺を止める気はねぇんだろ?」
「ふふ……正解寄りの答え、といったところかしら。流石ね」
「そんくらい分かるっつの」
 浅くはない付き合いがある。言葉がなくとも、通じるものだってあるのだ。
 扉の取っ手を掴んで、クロウはそれを開く直前に、一度だけヴィータの方を振り返る。
「クロウ」
「ん?」
「気を付けてね」
 背を向けてしまったヴィータの表情は、クロウからは分からない。想像する事は容易かったが。
「おう。忠告あんがとよ」
 開いた扉の向こう側には、緋色の空間が広がっていた。一日が終わりへと向かう時の空を、真っ赤な花弁が幾つも舞い落ちている。
 心の中で弾かれたコインを掴み取って、クロウは黄昏の中へと踏み出した。

 空を落ちていく。砕けた宝石のような欠片が幾つも空間の中を漂い、壊れた時計のパーツが不安定に浮遊していた。
 彼方に光が見える。遠くにあると思っていたそれは徐々に近付いてきて、モノクロの街がその中で揺らいでいた。
 ――士官学院か。
 小高い丘の上に建つ学院は、自分が通っていた場所ではない。周辺の景色もトリスタとは異なっている。おそらく、あそこがリーヴスなのだろう。
 クロウが光の中の街に降り立った直後、白黒で構成されていた世界に色が付いていく。あたたかい世界。けれど、その周りを覆うものはそれとは程遠い――そう感じずにはいられないくらいに、その場所は儚いものだった。
 早朝の街中は、澄んだ空気に満たされている。人影はなく、遠くの空には夜明けの光が滲んでいた。
 辺りをぐるりと見回して、クロウは頭の中の地図と照らし合わせる。蒼のジークフリードとして存在していた頃に、情報としての知識は得ていたリーヴスの街。実際に立つのは初めてだが、不思議とそうではないような気にさせられていた。 
 そこでふと、クロウは自分の服装が見慣れないものである事に気付く。
「俺も〝教官〟ってことかよ」
 懐かしさを感じる蒼いネクタイを引っ張って、彼は直感でそうぼやいた。
 制服、のように見えなくもないが、第二の制服とは異なっている。自分の立場は生徒ではないのだろう。さしずめ、Ⅶ組の副教官といったところか。
 ――トワに聞いてみるとするか。
 置かれた立場は、この世界の状況は、自分で調べるしかない。
 脳内で行動の順序を組み上げて、クロウは着慣れない上着を翻し歩き出した。

 ◆

 寮へ戻る前に一休みしようと思ったのは、ただの気紛れだった。
 誰かと待ち合わせているわけでもなく、急いでもいないので、のんびりと階段を上がっていくが、屋上が妙に遠く感じられる。
 唐突な手合わせから、二日が経った。迷いに似たものを抱えているのではないか、と指摘され、重く鋭い宝剣と刃を交えた後、心から広がりかけていた靄を振り払った。
 迷っている。あの時は生徒達の前だったからそう言いはしたものの、正確には違っている。この世界の一部として在る〝自分〟が、元の〝自分〟を呑み込みかけていて、小さな揺らぎが生じている事に気が付いたが故に、といったところだろうか。
 ヴィータの警告を思い出す。どんなに気を強く持っていても、世界を作り出したリィンの願いに抗い切るのは、どうしたって難しいようだ。
 時間は何も、待ってはくれない。
『アームブラスト、一つ再認識をしてもらおうか。――ここは〝夢〟であっても〝現実〟であり、フェイクではないと』
 零れ落ちるように過ぎった言葉に、足を止める。
 クロウは未だに、あの言葉の意味が、明確に胸に落ちていない気がしてならなかった。

 ――まるで、この世界が〝リィンの見ている夢〟だと分かっているかのような言葉。

 流石にそんなはずはない、と自分で浮かんだ仮説を否定してはいるものの、そうとも言い切れない。とはいえ、直接問うわけにもいかず、渦巻いたそれは沈殿したままだ。
 今は考えてもどうしようもないか、と心の底に一旦それを置いた時――そう遠くない場所、おそらく芸術室から、ピアノの音が聴こえてくる。
「……?」
 聴いた事のない曲であるというのに、何度も耳にしたような、不思議な感覚が沸き上がった。綺麗な旋律ではあるものの、そこに滲む哀惜に似たものが、見えない引力のごとくクロウを引き止める。
 一体、誰が弾いているのか。少し気になったクロウは、芸術室の僅かに開いている扉の隙間から、中の様子を窺った。

「丁度良いところに来た、アームブラスト」

 窓から吹き込む微風に揺れている、長い銀髪と深い青の外套。扉は完全に開けていないのに、彼女は――オーレリアはそう言う。
 気配だけで誰なのかをあっさりと当ててしまう彼女に、お株を奪わないでくださいよ、とリィンが苦笑していた事を思い出した。
「……その様子だと、俺に何か話があるみてーだな?」
 止まる曲。鍵盤から手は離さないまま、オーレリアは楽譜から視線を外す。
「ああ。単刀直入に言わせてもらおう」
 芸術室へ入り、クロウが横に立つと、薄明の刻を切り取ったような、オーレリアの瞳が向けられる。そこに鋭さはないが、穏やかなものでもない。
 少しだけ間を空けてから、彼女は口を開く。

「気付いているのだろう? ここは〝現〟ではないと」

 薄らと予測はしていたものの、あり得るはずがない、と否定していたものが、確かな音となってクロウの耳に入ってきた。
 返す言葉を探す時間は与えられず、そのままオーレリアは続ける。
「いや……気付いている、というのは誤謬か。〝この世界の者ではない〟そなたに対しては、な」
 何と言えばいいのか。どうして分かったのか、だの、何故その考えに行き着いたのか、だの、彼の脳内には疑問しか浮かんで来なかった。
 沈黙が落ちる。空を飛ぶ鳥の鳴き声だけが、それを少しだけ切り裂いていく。
 彼女相手に、最早誤魔化しは通用しない――。
 クロウは頭を掻いた。世界の真実に気付いてしまうなんて一体どこまで規格外なんだ、と、言葉にはせずに息を吐く。
「アンタ、いつから……」
「はっきりと言い表すのは難しいが……そう返すという事は、私の推測は間違っていないようだな」
「……」
「案ずるな、他言はしない。無用な混乱を招くつもりはないからな」
 尤も、正直に話したところで、まず信じてはもらえないだろうが――。オーレリアはそう付け足して、硝子の向こうの夕暮れを数秒だけ見つめた。
 薄明の色の中に橙を映しながら、彼女は何を想っているのか。クロウには、それを汲み取る事は叶わない。
「…………そなたは、シュバルツァーに気付かせようとしているのだろう? 〝矛盾した発言をする〟事でな」
「矛盾、ねぇ」
 やや厚めの楽譜をぱらぱらと捲って、オーレリアは鍵盤に手を置く。数え切れないほどの音符が踊る線の上には〝輝ける明日へ〟と書かれていた。
「最初は、得物の話をしている時だったか。そなたが十月戦役の終結を〝一年半前〟と言っていたのが気になってな。その時は言い間違えただけなのかと思っていたが……違うのだろう?」
「そこまでお見通し、ってワケか。……練武場に俺を呼んだのも、つまるところそういう事かよ?」
「そうだ。確信をしたのはあの時だと言ってもいい。それに……〝彼女〟が言っていた。この世界の〝盤〟が、どこか歪であると」
「盤?」
「痛みを伴わぬ歪み。小さくも大きな願いが――夢が満ち、盤を覆っている、といったところか」
 静寂に染み込むように、奏でられる曲。優しい音が集まり、未来への希望が籠められたような旋律は、クロウの心にも届けられた。
 弾きながら、オーレリアは続ける。

「夢を抱く者は理想を持ち、未来を得る。抱く者同士が寇するのならば、その強さが勝敗を決する事もあるだろう。――何を願い、何処を目指すか? その答えを抱いて進む事だ。昏黒の中でも行く先を見失わずにいられる、何よりも確かな道標となるからな」

 ふと、クロウの脳裏を記憶の断片が駆け抜けていく。
 乗り越えても、形のあるものは何も得られない試練。あの遊撃士の身を借りて、先輩として――そして《Ⅶ組》の一人として挑んだ、最後の戦い。白が舞い散る中、別れを実感して涙する彼らの姿は、未だに色濃く焼き付いていた。
「俺の願い、か」
「そなたの事だ、あまり心配はしていないがな。先日の手合わせで、掴んだものもあるのだろう?」
「掴んだ、っつーか……切っ先が向けられて、取り戻した、って感じか。何にせよ、アンタには礼を言うぜ」
 もう一度与えられてしまった有限の刻の中で、道を示すものとなるであろうそれは、今はまだ、心の裏側に器用に隠れたままだ。
 彼は自分の胸に手を置く。止まった鼓動は、ある。〝クロウ・アームブラスト〟として為すべき事、何を成したいかは、わざわざここに問いかけるまでもないのだろう。
「アームブラスト」
「?」
 オーレリアは微かに笑う。瞳の中に、途切れない白と黒を映しながら。

「夜は長い。だが――訪れぬ黎明はないぞ」

 ◆

 自由行動日に、クロウが帝都で〝彼女〟を見付けたのは、本当に偶然だった。
「アルティナ?」
「っ!」
 見慣れない私服に身を包んだアルティナは、妙に戸惑った様子で振り返る。周囲を一度見回してから、彼女は少しだけほっとした様子で、クロウに向き直った。
「ク、クロウ……さん」
 隠密行動は得意なはずなのに、らしくないな、と彼は思った。それに加えて、直感が告げたものと、脳内で照らし合わせた〝アルティナ〟の予定のズレは、一つの仮説を弾き出す。
「……。一人で買い物かよ? 珍しいじゃねーか」
「ちょうど、終えたところです。これからリーヴスへ戻ろうかと」
「お、それなら俺と同じだな。せっかくだし、一緒に〝戻る〟としようぜ」
 アルティナは少し間を空けてから、こくりと頷いた。

 一アージュほどの距離を保ったまま、クロウとアルティナは賑わう帝都を歩いていく。聞けば先日、セドリック皇太子とアルフィン皇女が市井に出て、民の声を直接聞いて回っていたという。すれ違う際に、お二人とも穏やかかつ親切で――といった声を、何度も聞いた。
 あの皇太子がなぁ、と、クロウは思わず出そうになった言葉を引っ込める。おそらく〝ここ〟では、セドリックは豹変していない。煌魔城の一件はあったものの、影響を及ぼされるような事はなく、穏やかな性格のまま育ったのだろう。
「クロウさん」
「何だよ?」
 くい、と、上着の裾が控えめに引っ張られる。
 アルティナが言いたい事は分かっていたが、クロウは敢えて、気付いていないふりをした。
「駅とは逆方向に向かっていませんか?」
「こっちでいいんだよ。話、あるんじゃねーのか?」
「……!」
「心配すんなって。俺は〝知ってる〟からな」
 浮かんだ仮説は、確信に限りなく近かった。瞳を揺らしたアルティナは、それ以上言葉を繋げる事はせず、僅かに俯く。
 クロウは立ち止まってしまった彼女を、ベンチに座らせた。ヴァンクール大通りから一本裏に入った裏道には、今は他に誰もいない。
 彼は小走りで近くの売店へ向かって、オレンジジュースを買う。 
「今日は俺の奢りな」
 手渡されたそれを、アルティナはやや遠慮がちに受け取った。ありがとうございます、と一言礼は言ったものの、それ以降は黙ったままのアルティナの隣に、クロウが腰掛ける。
 自分から切り出すべきではない事だと、クロウは思っていた。故に、彼女が話し始めるのを待っている。
「……あの、リィンさんは」
 数分の沈黙の後、彼女は口を開く。呟くように発された言葉だったが、クロウは聞き逃さなかった。
「何も変わらねぇよ。アルティナがよく知ってるあいつのままだ」
「気付いている、様子は」
「……五分五分、ってトコかね。にしても、まさかお前まで来るとはな。ここがどういう場所か、知ってるんだろ?」
「はい。……承知の上です」
 オレンジ色の中でゆらゆらと動く氷を見つめて、アルティナは顔を上げた。二つの透き通る翠は、まるで湖面のようだ。
「…………クロウさんは、死ななかった事になっていて……ミリアムさんだって居る……あたたかくて、優しい世界です。ですが……」
 アルティナが、必死に堪えているものがある事に気が付けないほど、クロウは鈍くはない。それでも、泣いてもいいのだと、言葉を掛ける事は出来なかった。
 感情を絞って落ちてくる言葉。クロウは黙って、アルティナの隣で耳を傾けていた。

「ここへ来る前……ミリアムさんに、会いました。背を押されたんです。〝リィンを、助けてあげて〟――そう、頼まれました」

 アルティナの声は震えている。失ったものがあまりにも大きすぎて、まだ、心の傷は癒えていないのだろう。
 親しい人を失い、遺された者の想い。クロウはそれを、痛いほど分かっている。失った側としても――遺した側としても、だ。
「そんなら、やってみせねえとな。……今度、リーヴスの街外れにあいつを呼び出す。その為に、アルティナに手伝って欲しい事がある」
 帽子の上から頭に手を乗せて、クロウがそう言うと、アルティナは一度だけ目元を擦った。
「リィンさんを……そこで、本当の事をお話しするという事でしょうか」
「半分正解だな」
「半分?」
「あいつを信じた賭け、ってトコだ」
 その賭けの為に、必要なものが幾つかあった。
 見上げた空の青さを少しだけ瞳に映してから、クロウは軽く伸びをする。
「……そういやリィンのヤツ、アルティナから料理ノートを借りたりして、色々作ってるんだよな。こないだなんて、パンケーキ焦がして大変だったんだぜ?」
「料理ノート……?」
「調理時間まで書いてあるから参考になる、って褒めてたな」
 そうして、クロウは一つ〝嘘〟を吐く。背負うのは自分だけでいい――というよりは、リィンの小さなパートナーが背負っているものを、少しでも減らしてやる為に。
 上手く繋がるかは分からない。ただ、可能性の一つとして、小さな種を蒔いておきたかった。

「アルティナさん、クロウ教官も。こんな場所でどうしたんですか?」

 突然掛けられた声。二人が同時にそちらを見ると、ミント色の髪がふわりと揺れた。
 ヴァンクール大通りの裏とはいえ、この通りに店はほとんどない。その質問をそっくりそのまま返したくなったが、クロウはそれを押し込んでおいた。
「ミュゼさん」
「……ま、内緒話、ってトコだな」
「ふふ、そうでしたか。お邪魔してしまってすみません」
 ミュゼと目を合わせて、クロウは短く追憶する。
 公女ミルディーヌ――〝あちら〟では、ヴァイスラント決起軍の総主宰として動く少女。ギリアス・オズボーンにも劣らない先読みを行う力を持ち、オリヴァルト皇子亡き今、差し手として、彼に対抗する道を選んでいる。
 ここではどうなのだろう、と思いはしたが、追求しても仕方がない。そっと、心の隅に置いておく事にした。
「そういえば……〝アルティナさん〟にお渡ししたいものと、一つだけお話がありまして」
「?」
「明日でも大丈夫なので、少しだけお時間をいただけますか? こちらは先に渡しておきますね」
「分かりました。放課後にまた、声を掛けます」
 アルティナに小さな白い包みを渡して、ミュゼは微笑む。底知れない、というのが彼女に対する正直な感想だったが、こうしていると、どこにでも居そうな一人の少女でしかなかった。
 ――背負ったカイエンの名が、ミュゼをただの少女では居させてくれない。
 それでも、士官学院で過ごしている時の彼女は、心底楽しそうな表情を見せる時もある。副教官として、クロウが学院でミュゼに接していてそう思うのもまた、事実だった。
「ミュゼ」
「何でしょう?」
 ベンチから立ち上がり、クロウはミュゼをアルティナから少し離れたところへ誘導した。
 不思議そうに首を傾げているアルティナを一瞥してから、クロウは耳打ちする。
「……この世界の〝盤〟……お前さんには、どう見えてるんだ」
「……」
 オーレリアの言う〝彼女〟は、間違いなくミュゼの事だろう、とクロウは思っていた。
 目を瞬かせて、ミュゼは笑う。その端に、寂しさによく似たものを滲ませながら。
「……あらゆる事が曖昧になっているんです。辿ろうとしても許されない。歪んでいるけれど、痛みや、苦しみを伴う歪みではない。言い表すのなら、そのような感じでしょうか」
 夜と夜明けが混じったような色彩を持つミュゼの瞳には、一体何が映り込んでいるのか。数万手先まで見通してしまうというそこには、幾つの未来が見えているのか。
「けれど、この世界が何であっても……士官学院という所が、私にとって――〝ミュゼ・イーグレット〟にとって、大切で……何よりも、どんな宝石よりも綺麗な宝物を、沢山くれた場所である事には変わりありませんから」
 偽りのない、真っ直ぐな〝ミュゼ〟としての言葉。掌に乗せた宝物を大切にしながら、この少女は重いものを背負って歩んでいるのだ。
「それでは、私はこの辺りで失礼しますね。また後程」
 短く一礼をして、ミュゼは踵を返す。
 曲がり角の向こうに消えるまで、クロウはぼんやりと彼女の後ろ姿を見送った。

「悪りぃ、待たせたな」
「ミュゼさんと、何をお話しされていたのですか?」
「ん? 明日の事をちょっとな。っつーか、アルティナはこれからどうすんだよ? 寮じゃ〝アルティナ〟と鉢合わせちまうだろうし……何か良い方法は――」
 リーヴスに一緒に戻るか、とは言ったが、実際にはそうはいかない。この世界の〝アルティナ〟が居るからだ。万が一出会ってしまっても誤魔化す方法は幾らでもあるが、避けるに越した事はない。
 けれど、宿屋に泊まるにしても、リーヴスでは顔を知られている。別の街にするか、変装するか、いっそ仮面でも着けてみるか――などとクロウが思考を巡らせていると、アルティナが包みの中から何か取り出した。
「その点は心配無用、のようです」
「そいつは……部屋の鍵、か?」
「今しがた、ミュゼさんから受け取ったものです。場所は……ここから列車で三十分ほどの街、でしょうか。……それにしても、何故わたしにこのようなものを……? クロウさん、彼女は……」
 ミュゼが残した包みの中にはメモと鍵が入っていたらしく、アルティナはやや困惑した様子で、それを読んでいた。

 〝アルティナさんへ

  必要になる時が来ると思い、
  用意してある空き部屋があります。
  リーヴスからは少々遠いですが、
  ご自由に使ってください。

  それと、話、の件ですが……
  畏まった、堅いものではありません。
  ある方から良いおまじないを教えていただいたので、
  アルティナさんにもお裾分けしようと思いまして。
  きっと、リィン教官のためにもなりますよ。

                    ミュゼ 〟

「アルティナの推測通り、ってヤツだろうな」
「……ミュゼさん……」
 メモを丁寧に折り畳んで、アルティナは包みを懐にしまう。
 クロウは再び、空を見上げた。空の彼方にはまだ、橙が現れる刻ではない。
「連絡先だけ教えてくれ。詳しい事はまた伝える」
「……っ、はい……!」
 アルティナから、揺らぎが完全に消えたわけではない。それでも彼女は、翠の中に決意の光を含ませて、頷き返した。
 かけがえのない大切な存在を、取り戻す為に。

 ◆

「――帰らないとな。〝俺があるべき場所〟へ」

 〝現実〟で起きた記憶が一気に押し寄せているだろうに、リィンは混乱している様子はない。どこか寂しそうに夕暮れの空を見上げて、幸せで平穏だった毎日に思いを馳せて――泣きたくても泣けない、そんな表情だ。
「リィン教官――いえ、リィンさん」
「?」
「わたしは、あなたのパートナーです。今度こそ守ってみせます……いえ、わたしだけじゃありません。ユウナさんにクルトさん、アッシュさんやミュゼさん、分校とⅦ組の皆さんも……リィンさんに守られているからこそ、あなたを守りたいと思うようになりました」
 自分自身の胸元に手を置いて、アルティナは続ける。
「それを、忘れないでください。もちろん、ミリアムさんだって……同じだったはずですから」
「アルティナ……」
 目の前で散華してしまった〝姉〟の想いを乗せるように、アルティナは言葉を紡ぐ。
 微かに震えた声。クロウは俯いたリィンの肩へと手を置いて、敢えて、視線は合わせない。
「リィン。俺は虚ろな形……所詮《アルベリヒ》によって、仮初の命で繋がれた存在だ。いつどうなるかは俺自身にも分からない。お前らの方に付く事が許される身なのかさえも、な」
「……」
「ただ、与えられちまったモンは無駄にはしねぇ。……奴らの言いなりになる気はねえからな。このクソったれな御伽噺を見届けてやる為にも」
「クロウ……今は、その言葉だけでも十分だ」
 信じている、と言葉にはしなかった。する必要もないからだ。

「ありがとう、二人とも。――行こう。〝俺達の未来〟へ」

 真っ直ぐに、前を向いて歩いていく。その先にそれがあると信じて、いつか辿り着く事を願って、底の見えない螺旋のような暗黒へと踏み出す。
 空が霞んでいき、黄昏がすべてを塗り潰していく。光を吸い込んだリィンの髪は透けて、銀色にも見えた。

「はい。行きましょう、リィンさん」
「おうよ。行こうぜ、リィン」
 アルティナとクロウが差し伸べた手を、リィンがそれぞれ取った。一度強く握って、互いに頷き合ってから、そっと手を離して歩き出す。

 ――本当に〝利子〟を返すのは、まだ先になりそうだ。

FIN……?