白紙地図

 二人の中の世界地図は、ずっと白紙のままだった。
 天族の杜から見る景色は、いつも変わらない。雲海に覆われた下界はほとんど見えず、どんな建物があるのかも、どんな生き物や植物が息づいているのかも、二人には分からない。
「ミクリオはさ」
 果てしなく広がるそれを前にして、ある時スレイはミクリオにこう問いかけた。
「あの雲の下に行ってみたいって、思ったことはある?」
 雲海を指差してそう言うスレイの腕には、天遺見聞録が抱えられている。
「雲の下?」
「オレ、思ったんだ。あの下は、オレたちが思ってる以上にすごいところなんだって」
 見えない“世界”を見つめるスレイは、いつも目を輝かせている。白紙の地図を持ったまま、見た事のない未知への期待を胸に、想像を膨らませている。
 隣に腰掛けて、ミクリオは“敢えて”訊く。
「すごいところ?」
「ここから見えている範囲だけが“世界”じゃない。ずっと向こう、見えなくなるほど遠くまで続いてて、そこにはオレたちが想像もしなかったような場所がいっぱいあるんだ」
 イズチから見えるのは、世界のほんの一部でしかない。そうスレイは言う。雲と空の境界線、その向こうにも、世界は広がっている。繋がっている、と。
 かつて、二人は“海”の話をした。空を映し出す大きな鏡。塩気のある水で満ちた、広大な水の平野。人々はその恩恵を受けて生活を営んでいて、そこを“船”というものが行き来しており、その船に積まれた荷物は海を通して各地に届けられる――そう記載された本を読んだのは、何年前の事だったか。
 その後は、“街”の話もした。用途に合わせて建てられた建造物がいくつも並び、様々な目的を持つ人が行き交い、色々な物が店で売られている。そこには見た事もない物が沢山あるのだろうと、長い時間その想像に二人は没頭した。
「オレ、見てみたいんだ。見たことのない世界を」
 言葉と共に、スレイがミクリオを見る。先程まで世界を映していた碧の瞳には、長年一緒に過ごした幼馴染が映り込んでいた。
 スレイの言葉に、ミクリオが頷き口を開く。
「僕も見てみたいよ。君の言う、その“世界”を」
「ミクリオも?」
「興味がないわけないだろ? 君としょっちゅう話してれば、気になるに決まってる」
 あんなに目を輝かせながら話すスレイを何度も見ていて、興味を惹かれないはずがない。
 そんなミクリオの言葉に、スレイは思わず立ち上がった。
「! じゃあ、いつか見に行こう! それで、世界中の遺跡を探検するんだ」
「遺跡の数だけ、解明されていない伝説もあるだろうしね。きっと、探検しがいがある」
「だよな! よっし、いつか必ず、オレたちの旅を始めるんだ!」
 旅。それは、抱えた白紙の地図を埋めるもの。まだ見ぬ未知を求めて未知へ飛び込む事。故に、人は探求心赴くままに、広大な世界へ踏み出すという。
 スレイもミクリオも、イズチという名の箱庭の外をまったく知らない。沢山、外の話はした。何度その会話を交わしたか数え切れないほど、二人は世界に思いを馳せていた。けれどそれらはあくまで、“想像”でしかない。
 自分の目で見なければ、世界も、伝承の本当の意味も見えはしない。自分の足で歩かなければ、海や草原の広さも、山の険しさも分からない。
「僕たちの、旅……」
 ミクリオは再び、雲海を見る。
 先程よりもほんの少しだけ、下界を覆うそれは薄くなっている気がした。

 決して良好ではない視界の中、薄暗い山道を歩いてゆく。先に何があるのか。何が待ち受けているのか。そんなものは、進んでみなければ分かりはしない。
 そよぐ風が、草花を揺らす。次第に白み始めた空。
 二人は見晴らしの良い場所で立ち止まり、僅かに光が顔を出した方角を見る。
「……! すごい……」
 スレイの碧とミクリオの紫に映し出される、幻想的な風景。瞬きをするのが惜しくなるほどに美しく色付いた景色は、並ぶ二人からそれ以上の言葉を奪い去ってしまう。
 ゆっくりと流れる雲が、朝焼けに染まる。遥か彼方の山の向こうから太陽が現れ、旅立った彼らを出迎えるかのように、まだ眠っていた雄大な“世界”を照らし出す。
 夜の闇が払われ、見渡す限りに朝の光が広がった。彼方まで見える。どこまでも行ける。どこまでも、歩いてゆける。
「これが――――世界!!」
 スレイの言葉が空へ消える。再びの静寂の中、彼らはしばらく“世界”を見つめていた。
 そうして夜明けと共に目覚めた世界を、二人は行く。二人で進む。白紙の地図を持ち、それを広げ、歩む道がいつか夢へ繋がる――そう信じながら。

2014.06.22