0-3 災厄の中の希望を求めて・後

 白亜の神殿、と表現できる建造物の前には鏡の湖があり、その周囲には夜空に染まった花びらがひらひらと舞っている。空は黎明から移り変わることがないようで、常に、薄紫が混じった色が広がっていた。
 エーヴィ、と名乗ったその青年に導かれて、アルファルドはリューラと共に空の聖域という場所を訪れた。彼曰く、浮遊大陸を支える源がある場所で、ここから地上世界の異常を察知することができるのだという。巨大な水晶を通して見えるのだと、彼はアルファルドに説明した。
 真っ白な壁には、植物が詰められた小瓶や、何かを測るのに使いそうな器具が幾つも掛けられていた。それらに混じっている長剣や、刃のない剣は一体誰が使う武器なのだろうか。
「人間がここへ来たのは、多分数万年ぶりになるな。茶は……確かこのあたりに……」
 さらりととんでもないことを言いつつ、エーヴィは部屋の隅の棚を開く。
「気遣いはありがたいんだが、俺たちにはあまり――」
「時間のことなら心配しなくていい。浮遊大陸は、地上とはその流れが切り離されているから」
 アルファルドが言いたいことを察したのか、茶葉らしきものが入っている瓶を手にした彼が振り返った。
「切り離されている?」
「たとえば……ここで一日が経過したとする。けど、地上では六時間しか経っていないんだ」
「そんな仕組みになっているのか」
「だから、その羽根を使って、急いで貴方が城へ戻るようなことにはしない。あと一時間もあれば、必要なことは全部話せるはずだ」
 見せていないはずの転移の羽根に気づいたのか、エーヴィは苦笑しつつロッドを振るう。
 宙に水の球が浮かび、その下で炎が揺らめく。地上に生きる人とは少々異なる淹れ方だった。そこから一人と一匹分の茶ができるのに、そこまで時間はかからなかった。
「リューラのぶんまで、申し訳ない。ありがとう」
 飛竜は何でも飲むため、王城で侍女から紅茶を貰っていたこともあった。出された茶が口に合ったのか、リューラは機嫌がよさそうな鳴き声を上げる。
「むしろ、ちょうどいいところに来てくれた。魔法で保存しているとはいえ、なかなか減らないからどうしようかと思っていたんだ」
「ん……君は使わないのか?」
「オレは基本的に食事をしないから、あまり使わない。弟子が消費してはいるんだが」
 見た目はどう見ても普通の人間なのに、食事をしない。改めて、同じようでまったく異なる存在なのだと実感して、アルファルドは自分の頬を引っ張りたい衝動に駆られる。
 ここまで来たのなら、夢ではないと信じたいからだ。
「まず、一つ聞きたい。守り人は、地上にどれくらい関わっているんだ?」
 それを堪えて、アルファルドは話を切り出す。
「過度な干渉はしない、が、定期的に巡回はしているよ。ただ、異変を感知したら、すぐに出ていくこともある。特に今は、地上に長時間留まることも多いな」
 たまたま戻っていた時に貴方が来てよかった、とエーヴィは続ける。確かに、彼が居ない時に訪問していたら、どうなっていたことか――運が良かったと、アルファルドは思うしかなかった。
「アルファルド王。貴方は“災厄”を阻止する方法を探すためにここへ来た、と言っていたが……城内に、ここへ渡るための呪文が残されていたんだな?」
「ああ。俺たちの力の及ばない、何かが絡んでいる気がしてならなかった……だから伝承を調べて、それに辿り着き、ここへ来たんだ」
「……オレ一人では限界がある、か」
「?」
「気にしないでくれ、独り言だ。それより……」
 僅かに目を伏せて呟かれたその言葉には、どういう感情が籠っているのだろうか。
 エーヴィが何か続けようとしたその時、部屋の入り口から、勢いよく誰かが駆け込んでくる。
「師匠! 戻りましたっ」
 人懐っこそうな少女が、木製の剣を手にしてエーヴィに駆け寄る――前に、アルファルドとリューラに気づいて立ち止まった。
「って、え」
 珍しいもの、というよりとんでもないものを見たような表情を浮かべて、その場で綺麗に静止した少女。金色の瞳が丸くなり、エーヴィとアルファルドたちを交互に見て、どう反応すべきなのかを必死に考えているようだった。
「早かったな。おかえり」
「そ、そそその人は誰ですか!? 人間、ですよね……どうしてここに……? もしかして、師匠が連れてきたんですか?」
「いや、彼は自力で来たんだよ」
「ええええっ!?」
 渡る手段があれしかないのなら驚くのも当たり前か、とアルファルドは思った。
 とりあえず挨拶すべきだろう、と感じて、怖がっている様子はないものの、ポカンとしてしまっているその少女の前に歩み寄る。
「初めまして、になるな。アルファルドという。よろしく頼む、お嬢さん」
「えっと……わたしはシアリィです。よろしくお願いします」
 少し屈んで自己紹介を済ませたアルファルドは、改めてシアリィと名乗った少女を見る。エーヴィを師匠、と呼んでいたということは、彼女が先ほどの話に出ていた弟子になるのだろう。見上げてくる金色の瞳は、吸い込まれそうなほどに真っ直ぐだった。
 地上にその色の瞳を持つ人間は存在しない。生まれが特殊なのだろうか、それとも――とアルファルドが思っていると、エーヴィが彼女の名を呼ぶ。
「シアリィ。彼は二十五年前、カイナス王とメヴィア妃が誕生を告げた子だよ。王都まで見に行ったのを覚えているか?」
「!?」
「あ、もしかしてあの時の……あれ? ということは、王様なんですか!?」
 ぱっと表情を明るくして、シアリィはアルファルドを見つめた。こんなに大きくなったんですね、人間の成長ってすごいなぁ、という言葉が次々と出てくる。
 どう見ても二十五は越えていない彼女が、おそらく赤子の頃の自分を知っている――理解が追いつかない状況に、アルファルドは思わずエーヴィのほうを振り返った。
「ちょ、ちょっと待った。エーヴィ、このお嬢さんは一体……? ここにいるからには、俺たちのような人間ではない、とは思ったが」
「説明すると長くなるんだ。簡潔に伝えると“元々白百合の花だった子”ってところかな」
 簡潔すぎてほとんど分からない、という感想が、アルファルドの中で真っ先に浮上した。
「…………なる、ほど?」
「というより、それ以外のことが何も分からなくてな……本人にも、自分の名以外の記憶がなかった。出会ってから二百年は経つが、一向に手がかりがない」
「…………」
 もう頬を引っ張らなくてもいいような気がする、と、アルファルドは背比べをしてくるシアリィを見つつ感じていた。
 頭の中で受け取った情報を整理する。黙ってしまったアルファルドに、リューラが心配して擦り寄ってくる。大丈夫か、と言いたげな目で見られて、思わず苦笑した。
「アルファルド王?」
「うん、なんでもないんだ、気にしないでほしい……俺は本当に“そういう地”に来られたのだなと、再認識していたんだ」
 世界は広い。とにかく広い。知らないことはたくさんあるし、きっとこの先も出てくるのだろう。
 そんな気持ちを抱きながら、一度軽く咳ばらいをして、アルファルドは再び話を切り出した。
「さて、挨拶もできたことだし……ここまできたのなら、率直に言うべきだな」
「?」
「先ほど、災厄を止める方法を探すためと言ったが……俺は、守り人――君と協力したいと思い、ここへ来た」
「協力? それって……」
 エーヴィの代わりに、シアリィがぽつりと呟く。彼はその横で、静かにアルファルドの言葉を聞いていた。
「伝承を調べる中で感じたんだ。君に守られているだけでは、俺たちは前には進めないのではないかと」
 強大な力を持つわけでもない、神から見ればちっぽけな存在であろう人間。魔物を武器で倒すのが精一杯で、未知の災厄に真正面から立ち向かうことなどできはしない。命を狩られ、蹂躙される結末しか見えないからだ。奇跡でも起こらない限り、覆しようのない現実だった。
 それでも、アルファルドは言わずにはいられなかった。
「確かに、人の力ではどうにもならないこともあるかもしれない。だが、何もできないわけではないはずだ。そうでなければ、今のヴァスタリアは存在しない……俺はそう思っている」
「……」
 シアリィがきょとんとした表情を浮かべながら、エーヴィを見上げている。彼がどのように返すのか、少し緊張しながら見守っているようにも感じられた。
 人が手を出せることじゃない、と言われてしまうだろうか。或いは、協力することはできないから大人しくしていてほしい、と断られてしまうだろうか。
 アルファルドはそれ以上は言葉を付け足さずに、エーヴィの返答を待った。
「――分かった。というより、オレからも頼みたい。城の中のことには、手が出せないから」
 少しだけ考えたあと、エーヴィは水晶の中央を見ながらそう言った。
 視線の先には王都があり、彼の言う〝城〟がフェグダのものであるということはすぐに伝わった。
「城の中?」
「災厄を止める手がかりがあるかもしれない、ということが分かったんだ。実はこちらからも、どう貴方に接触しようか考えていた」
 宙からロッドを取り出した彼は、少し離れたところに光の陣を描く。数秒後には、虹の塔の最上階で見た黎明の光を湛える渦が現れていた。
 そちらへ一歩踏み出して、エーヴィはシアリィのほうを見る。
「しばらくここを任せる。構わないな?」
「はいっ。任せてください! 師匠もお気をつけて」
 渦の前で立ち止まったエーヴィは、アルファルドとリューラのほうへと振り返った。
「行こう、アルファルド王、リューラ。オレも一緒に地上へ降りる」
「来てくれるのはありがたいが、大丈夫なのか?」
「頼りになる弟子がいるからな。それに、何かあっても戻るのは容易い」
 エーヴィの言葉に、にこにこと笑うシアリィ。彼に信頼されているのが嬉しい、という気持ちが表情にまであふれ出ていた。

 ◆

 王都を守る城壁に、空の青さを吸い込んだ湖――黎明の渦を通り抜けると、目の前には見慣れた景色が広がっていた。アルファルドが上を見てみると、浮遊大陸はいつも通り、そこにある。
 エーヴィ曰く、世界各地にある紋様が描かれた白い岩には転移の力が籠められており、魔法を用いればこのように一瞬で行き来が可能なのだという。魔力の高度な制御が必要となるため、普通の人間には扱えないものの、いつか人の世界に広められる機会があれば、と思っているらしい。
「災厄について、君はどこまで掴んでいるんだ?」
 城へ向かいながら、アルファルドは疑問に思ったことを聞いておくことにした。
「共有しておくべきか。……此度の災厄だが、“古の時代に人間が放棄した禁呪”と同じものだ。本来は、創造の使徒――じゃなくて、守り人にしか使えないもののはず、なんだが」
「禁呪……禁じられた魔法、ということか。そしてそれは君にしか使えない、と」
「そうなる……が、申し訳ない。一体なぜ、それが具現化して地上を襲っているのかまでは、まだオレのほうでもはっきりとした原因を掴めていないんだ。ただ、この世界の深層で眠っている、破壊神の影響であることは間違いないと思う」
 彼の口から出た〝破壊神〟という存在。それについて、読み解いた本の中に記されていたことを、アルファルドは思い出す。
「破壊神……数千年おきに目覚めて、世界を襲うと言われている存在か。書物で読んではいたが……そうか、本当にいるんだな。まさか、そいつが目覚める予兆だったりするのか?」
「可能性は、ある。周期はおおよそ三千年――前回の戦いから、それくらい経過しているからな。数十年から百年単位で、前後することはあるが」
「!」
「ルルル……」
 世界に滅びをもたらす存在が、いつ目覚めてもおかしくはない時期。背筋を冷たいものが伝うような感覚がするも、アルファルドは沸き上がった感情を一旦振り払う。隣にいるリューラに、不安に感じたことが伝わってしまいそうだったからだ。
「伝承では確か、破壊神を女神と使徒が抑えて封じた、ということになっていたな。君は真実を知っていると思うんだが、それは本当なのか……?」
 破滅の来訪に、終わりだと絶望した人間を、白の光で救済したものたち。伝承が真実ならば、目の前にいる彼は間違いなくそのうちの一人であるはずだった。
 協力を申し出た以上、すべてを任せるつもりはなかった。ただ、それが事実なのかが気になって、アルファルドはそう問いかける。
「…………」
「エーヴィ?」
「……すべてが語られているわけではないんだ。オレが知っていることを全部貴方に話してもいいんだが、ちょっと時間が足りない。――だから今は、それは間違っていないし、破壊神が目覚めればこのヴァスタリアを守る為にオレは戦う、ということだけ覚えておいてくれればいいよ」
 問いに、エーヴィは一瞬黙り込む。が、すぐに苦笑しつつ、そう返答した。そうなのか、分かった、と返せば終わるようなものだったが、アルファルドの中では流れていかずに引っかかる。
 ――これは〝嘘が吐けなくて、ごまかすのが下手な人の表情〟だ。
 たとえば、魔物との戦いで同僚を失った騎士や、身内を亡くした者が気を遣われた時に「大丈夫」と言ってはぐらかす時のようなものに近い。普通ならば気づけないほどの些細なそれを、アルファルドは見逃さなかった。王族として培った観察眼は、時々役に立つ。
「……。そういえば、一つ君に言い損ねていたんだが。俺のことはアルファルド、で構わない。いっそ、貴方呼びも取り払っていいぞ?」
「え? いや、しかし……」
「今は――これから、俺と君は〝協力者〟だ。そうするからには、堅いのはなしにしないか」
 先行して歩き始めたエーヴィになんとなくそう投げかけると、振り向いた彼は、出会った時のような表情を浮かべた。そう言われるとは予想していなかったのだろう。
「それに、こう言うのも変だが、今まであんまり身近に歳が近い人がいなくてな。だから……うん、駄目だ……遠回しに言うのはらしくないな。素直に言う。〝普通に〟接してくれ! 敬語はないんだ、あと一歩頼む!」
 城を守る精鋭の騎士たちは、アルファルドより十は上の年齢の者が大半を占めている。同い年や年下の部下もいないわけではないものの、日常のことや政務に関係ないような話ができるはずがない。そういった内容の話し相手になれるのは、カーロとエイジスくらいだった。
 国王と騎士、部下である以上当然のことだったが、アルファルドはそこに微かに寂しさを感じていた。堅いのが苦手であるが故に、あまり圧をかけるような振る舞いはしていなくとも、立場という壁はどうしても作られてしまうのだ。
「ふ、普通に。あと一歩……」
「まあ、その……見た目の歳が近くても、実際は君のほうが、俺よりはるかに年上だとは思うんだが」
 そう言っておいたものの、アルファルドの中に、本音はもう一つある。要するに、先ほどのような一面を見てしまった以上、放っておくのが性に合わないのだ。
 エーヴィの過去は何一つ知らない。深入りすべきではない、ということは、アルファルドは理解している。けれど、これから共に戦うからには少しでもなんとかしてやりたい、という、おせっかいに近いものがどうしても消し去れずにいた。立場が立場だから、気を張っていることも多いのではないかと感じてあのような頼みをした、ということになる。
「そこまで言うなら……断れないな」
 言葉を復唱したエーヴィは、先ほどとは異なる笑い方をして、アルファルドを見る。
 そこには世界を背負う者ではなく、年齢相応の〝人〟がいるように感じられた。
「改めて、よろしく頼む。アルファルド」
「ああ、俺のほうこそ!」
 世界は災厄に襲われ、破滅を与えるものがいつ蘇るか分からない状況。
 それでも、アルファルドはこの瞬間、必ず乗り越えられると信じることができた。