0-4 はじまりの約束

 ――R.W.??????

 エーヴィの視線の先、地上は穏やかな空気に満たされていた。――もちろん、見えないところに潜むものはあるが、そういったものを取り除くのが役目なのだ、ということは分かっている。今日もそれを一つ、打ち倒してきたのだから。
「よし、平和だな」
 朝暮れに向かう青空の下に広がる花畑の中を駆けまわる子どもや、楽しそうに談笑する大人たち。その風景に混じって、蝶や小鳥が飛んでいく。村の外れの木に寄りかかってそれを見ていると、うっかり寝てしまいそうになるほどだ。こんな時間が少しでも長く続けばいい、と願わずにはいられない。
 この光景も、平穏さも、永遠に続くものではないのだろう。常に移ろう世界の中では、あまりにも儚いものだ。けれど、数えるのを忘れるほど長い時を生きてきたエーヴィにとっては、その儚さは同時に美しくも感じられる。その中に瞬くものを守るために戦っているのだと、改めて認識した。
「あっ、いたいた。お兄さんっ、これ! さっきのお礼!」
 エーヴィに駆け寄ってきた少女が、白い花の冠を差し出してくる。川に流されてしまった帽子を拾ってあげただけだったが、お礼がしたい、と言われたのだ。
 可愛らしい善意を断る理由などなく、のんびり過ごしながら一時間ほど待っていたところだった。
「ん、花の冠か。ありがとう、上手に編めたんだな」
「えへへっ、そうでしょ? お姉ちゃんがケッコンするときも、わたしが作ったんだ!」
 得意げに笑う少女。手渡された冠は丁寧に編まれており、茎がしっかりと固定されていた。多少持ち運んでも、崩れることはなさそうだ。
 見たところまだ五、六歳くらいだろうに、随分器用なのだなと感心する。
「へえ、そうなのか。……ん? ということは、これは女性に渡したほうがいいのかな」
「女の人用、かなぁ。でも、お兄さんがかぶってもかわいいと思う!」
「そ、そうか」
 フェリシアにでも渡してみようかと、エーヴィはぼんやり考える。
「そういえば、あなたはどこからきた人なの? あんまり見たことない服だね」
 無邪気な眼差し。それは、定期的に地上の人間から受ける質問だった。本当のことを言うわけにもいかない以上、ほとんどの場合、適当にはぐらかして会話を逸らしている。
 少女の前に屈む。大人相手にはなかなか使いにくいが、子どもになら返答としては十分な一言があるのだ。
「お兄さんはな、すっごく遠いところから来たんだ」
 だからもう帰らないと、と返すと、少女は少し寂しそうに肩を落とす。
「おうち、そんなに遠いんだね。せっかくだから、いっしょに遊びたかったな……」
「またいつか来るから、その時に編み方を教えてくれないか?」
「うん……わかった!」
 またね、と言った小さな人影が、手を振りながら走り去っていく。
 次にここを訪れる時には、あの子は何歳になっているだろう――という感情は、地上を巡っていると何度も抱くものだった。時の流れが異なる地上と浮遊大陸を行き来しているため、時間の感覚がほとんどなくなっている。気づけば地上では数十年が経過していることもあり、再会を約束した子どもが大人になっていた、ということは今までに数えきれないほどあった。
 ただ、叶えられない約束はしなくない。そう遠くないうちにあの村をまた訪問しよう、とエーヴィはすぐに決めた。

 人気のない場所へ移動して、呼び出した転移の光を通り抜けると、一瞬で浮遊大陸へと移動する。空の色が黎明に染まり、大陸の中では端のほうにある遺跡の中へと降り立った。
 少し歩いて聖域内の神殿に入ると、遠くから駆け寄ってくる赤髪の少年が見えた。戻ってきたことを察知したのか、相変わらず出迎えが早い。
「兄さん、おかえり。地上はどうだった?」
 エーヴィにとって一応〝弟〟とも言える存在である彼は、いつも同じ質問を真っ先にしてくる。巡回なら何度も交代で行っているというのに、心配されているのだろうか。返す言葉もほぼ同じになりつつある。
「平和だったよ」
「じゃあ、強いやつはいた?」
「いたな」
 とある集落の地下深く、奇妙な地響きの原因となっていた、岩を固めたかのような魔物。山の洞窟に入って進んだ先は、異様な姿となったそれの住処となっていた。二十分ほど交戦した末、どうにか打ち倒して元の岩に戻したが、自然が魔物となるのは見たことがなかった。もう少し調査が必要かもしれない、とエーヴィは感じている。
「ちぇ、おれも戦いたかったな」
「こら、ルーシェ。何もないのがいいに決まってるだろ」
「そうじゃなくて、兄さんの助けになりたかったなぁって」
「その気持ちは受け取っておくよ。けど、今日のやつはめちゃくちゃ面倒だったから、おまえはいなくてよかったと思ってるぞ。ほら」
 隠すように持っていたロッドをルーシェに見せる。その一部分には、黒いものが付着していた。
「うわっ、泥? 早く洗ったほうがよさそうだね」
 その魔物が吐き出してきた、川の水ですすいでも落とせなかった泥は、まだロッドの先端にこびりついていた。
 岩の魔物と戦った時のことを思い返す。洞窟のあちこちに撒き散らされたその泥の中からは、獣のような魔物が呼び出された。大元の魔物が倒れて効力を失ったのか、変色して残っていても特に悪い影響はなさそうだったが、少量でも釣り合わない重みがあるそれを、そのままにしておくのは少し気が引ける。
「エーヴィさん、戻っていたんですね」
 まずは炎で炙ってみるか、と考えていると、聖域の奥から足音が近づいてくる。
「ああ。ただいま、フェリシア」
「地上世界の巡回、お疲れ様です。いつもあなたたちに任せてしまって、すみません……」
「なんで謝るの、おれたちは気にしてないよ? 手伝うのは当たり前だしさ」
 清浄な空気の中、深い青の髪が揺れた。申し訳なさそうに目を伏せた彼女の前で、ルーシェが首を横に振る。
「ありがとうございます。私も、出られればよかったのですが」
 創世の神が失われた今のヴァスタリアでは、女神であるフェリシアは最高位の神とも言える存在だった。世界の調整機構とも言える世界の種アルトラ・ヴォルタを管理できる唯一の存在でもあるため、彼女はあまり浮遊大陸を離れることができない。使徒として在る自分たちが代わりに行動するのは当然だと、エーヴィもルーシェも思っていた。
 フェリシアが手をかざすと、宙に文字が浮かび、半透明な魔物の姿がその横に描かれる。先ほどエーヴィが倒してきた岩の魔物だった。
「あなたが遭遇した魔物……本来はおとなしいのですが、地底から影響を受けて、持つ魔力が変質したようです。それが暴走に繋がり、地震を引き起こしていました。以前も同じようなことがありましたよね」
「一年くらい前におれがぶっ飛ばした、鮫の魔物だよね」
「はい。……やはり、封印が弱まっているのでしょうか」
「……」
 フェリシアが危惧していることが、何なのかはすぐに分かった。
 ヴァスタリアの地下深くに眠っている、世界に破滅をもたらすもの。強固な封印を施しても、数千年保てばいいほうだと思えるほど、あの存在が抱えている力は強大だった。エーヴィたちがそのもの――破壊神と交戦したのは、今から三千年ほど前になる。不滅同然の強さを持つ破壊神と刺し違え、ヴァスタリアを築いた〝創世神〟が失われたのも、その時だった。
 破壊神を抑える封印の状況は目では確認できず、地底より更に深層にあるため、様子を直に見に行くこともできない。ただ、最近地上にいる魔物たちが奇妙な形で活性化しているのは、無関係ではないのだろうと思っていた。
「〝創魔法〟のこと、急がないといけないな」
 避けられないものだとしても、諦めはしない。そのための手段を模索した結果、エーヴィはとある方法に辿り着いた。
「戻ってきたばかりなのに? 少しは休みなよ」
「こういうのは、気力がある時にやっておかないと」
 軽く手を振り、神殿の奥へと向かう。何か言いたげなルーシェを遮るようにして。
「それじゃ、これ落とすついでにちょっと禁書区画に籠るから。何か用事があったら呼んでくれ」
 微かな焦りは覆い隠して、いつも通り振る舞う。世界を背負うものの一人として、妥協するわけにはいかない。
 どんなに小さくとも、希望となるものがあるのなら手繰り寄せなければならないのだから。

 ◆

 薄暗い中、言葉のない呪文を発動させる。音のない魔法が発動した直後、少し埃が舞う禁書区画を、光の風が吹き抜ける。
 風が通った後、目の前にある本の破けたページが復元されていた。隣に置いておいた切れ端と比較しても、異なる箇所は一つもない。発動させた魔法は成功した区分に入る――血の味が込み上げたことを除けば。
 足元に予め治癒の陣を敷いておいても、反動は軽減することが叶わないのだと証明されたようなものだった。
「……っ、やっぱり負担は減らせそうにないか」
 それを押し込んで、エーヴィは重い息を吐いた。打開策の一つとして見出した〝創魔法〟は、通常の魔法よりもはるかに負担がかかる。
 全身の回路が一瞬凍結し、発動した瞬間、一気に沸騰するような感覚。慣れないそれは少しでも大きなものを造ろうとしただけで、眩暈すら覚えるほど危険なものだった。それで済まなかったこともあるものの、エーヴィはそのことをルーシェやフェリシアに相談できずにいる。
「この状態じゃ、すべてを創造するとなると……」
 創世神アヴァルスから〝創造〟の力を三人の中で一番強く引き継いだ身として、ここで折れるわけにはいかない。そのように自身を奮い立てる一方、実行するにはどう考えても足りないものがあり、そこをどう補うか、という点が解決できずにいた。それに対して焦りがない、というのは噓になる。
 諦めて、ほかの方法を探すべきなのか。破壊神の封印から数千年間探し続けても見つからなかったものを、再び。
「エーヴィさん」
 静かに名前を呼ぶ声。いつの間に入ってきていたのか、フェリシアが、入り口の扉を背にして立っていた。
 エーヴィが彼女を見ると、フェリシアはどこか不安げな表情を浮かべている。
「フェリシア? 何かあったのか」
「いえ……」
 どうやら、何か問題が起こったわけではないようだった。が、彼女が気まぐれで訪れるような人物ではないことを、エーヴィはよく知っている。
 何か言いたいことがあるのだろうか。それを裏側に潜めた問いかけに対して、一度はやや気まずそうに目を逸らしたものの、彼女はゆっくりと歩み寄ってくる。
「こんなことを聞くのも申し訳ない、のですが。何か、隠し事をしていませんか?」
「隠し事……?」
「すみません、変なことを言ってしまって。ですが……二つ前の巡回から戻ってきてから、時々、あなたの様子がおかしいと思ったので……」
 二つ前の巡回。フェリシアがいつのことを言っているのか、記憶を掘り返すまでもなかった。
「言いづらいこともあるかもしれません。それでも、私たちは創世神によってヴァスタリアに生まれ落ちてから、長い時間共にあります……それを共有できないのは、少し寂しいです」
 そう言うフェリシアは心底、といった様子だった。彼女の金色の瞳には、どこまでも純粋で真っ直ぐな感情が映し出されている。すべてを見通すかのような、果てのない透明さがそこには秘められていた。
 ああ、もうこうなってしまったら、素直になっておくべきだろう――エーヴィは持ったままの本を置く。
 確かにその通りだと、思わざるをえなかった。意地を張っても仕方のない、潔く認めたほうが正しいのだと自身に告げる。
「……創魔法について……確かに、二人には話せていないことがある」
 先ほどのような反動について、発覚してからずっと伏せている。すぐに治せば気づかれることはなかったのと、そもそも言えるはずがない、と思っていた。
 家族同然の二人だからこそ、話したくないと感じてしまっていたことだったのだ。
「言うべきか迷っていたんだ。話せば心配かけるだろうから」
「それは、逆です」
「……だよな。ごめん」
「寂しいっていうか、おれは殴りたくなるかな」
 突然割って入ってきた声。それが誰なのかは確認するまでもない。
 開かれっぱなしだった扉に寄りかかっていたルーシェは、不満そうだった。
「今更変な気を遣うなよ、おれたち兄弟だろ。フェリシアだって、ずっと一緒にいる家族みたいなひとなのにさ」
「それもそう、だったな」
 正論だ、と申し訳ない気持ちになる。自分の性格上、どうしてもそのようにしてしまう癖があるのは直さなければ、と感じていた。
 フェリシアに言われた〝二つ前の巡回〟の時のことを正直に話そうと、エーヴィは二人に向き直った。
「この前、ルーシュス村付近の遺跡の一部が焼失した話は聞いたと思うんだが」
「魔法が暴発した事故だっけ」
「幸い、怪我人はいませんでしたが……壁画のある地下の一部が崩落した、という話でしたね」
 西大陸の森の奥地にある村、ルーシュス。広大な遺跡と共に、独自の伝統を守る人々が静かに暮らす地だったが、魔物による被害が出ていると聞き、立ち寄った場所だった。
 先の破壊神との戦いで使徒に直接力を貸してくれた場所でもあるため、村人たちが遺跡の調査を拒むことはなかった。
「あの時、巡回がてらオレは創魔法を試しに行った。確かに成功はしたし、焼失したところは復元できたが――体に激痛が走ったんだ。立っていられなくなるほどの」
「痛み……?」
 村長の許可を取って封鎖されている地下へ入り、崩れ落ちたそこへロッドを翳して、大地から記憶を読み取る。これで再現できるだろう、というところまで集まったら、魔力と記憶を合わせて創魔法として発動させた――ところまではよかった。視界が点滅し、体の内側から痛みを感じたのはその直後だった。
 あまりにも戻ってこないから何かあったのでは、とルーシュスの戦士が捜索に来てしまうほど、長い時間その場から動けずにいた。体の中心を刃で刺し貫かれるような、生命力をどこかへ持っていかれそうになるその痛みは、人ではない身でも耐えきるのにかなりの時間を要する。
「それを経て確信したんだ。破壊神への対抗手段として考えていたこと……創魔法で、白紙の世界の上に〝今〟を再現しようものなら、オレはおそらく命を落とすと」
「!」
「もちろん、まだ完成していない魔法だ。改良の余地はある……と、思う。オレの命を懸けて発動させたとしても、それを踏まえたら世界の代価としては釣り合わない可能性が高いから」
「兄さん、何言ってるんだよ! そんなの……」
「仮の話だ。死ぬつもりはないし、そんな無謀な賭けはしたくない」
 破壊神に対して、魂を昇華する寸前に創世神が残した最後の希望――それは、世界の種による〝新たな世界の創造〟だった。
 破滅の危機が訪れた時、今ある世界を捨て、次の世界を造り出す。創世神はその仕組みを残して、もの言わぬ存在へと姿を変えてしまった。
 エーヴィたちがそのことを知ったのは、致命傷を負った彼が消える間際だった。
『造り出された次の世界は、オレたち以外すべて白紙になる……? そんなの、希望と言えるのか!?』
『落ちこぼれの神である僕には、こんな道しか選べなかった。……本当に、ごめん。三人とも』
『待ってよアヴァルス、ほかに方法は……!』
 遠い記憶がよぎる。目の前で消えていく創世神が残した言葉を、エーヴィたちはどうしてもすんなりと受け入れることができなかった。
 そこからどうにか三人であらゆる手段を模索して、世界が白に還ることだけは避けようと奔走してきたのだ。
「となるとやっぱり、破壊神を滅ぼすしか、人々を守る確実な方法はなさそうだね」
「せめて奴の正体が明確に分かれば、倒す手立ても見つかりそうなんだが……現状、世界の種から出てきたもの、ということしか掴めていないからな」
「世界の種って、あれこれ計算してヴァスタリアの均衡を保つためのものなんでしょ? 今更だけど、なんでそこからあんなのが出てきたんだろうね」
 創世神が今のヴァスタリアとなる地を築く際に、生命の手助けとなるように造り出した世界の種。地上の命の声を聞き、最善となる方法で均衡を保つ、意思のない機構のようなものだった。その動きすべてが平穏へ繋がっている――と思えたのは、数千年前までだ。
「海を行く者を導く羅針盤も、狂うことがあります。……きっと、それと同じようなものなのでしょう」
 ヴァスタリアに生きるもの全部を喰らい尽くすような破壊神が、なぜ均衡を司るものから誕生したのか。
 生みの親も同然である創世神を疑いたくなった時期もあったが、答え合わせはもう叶わない。
「……暗くなっても仕方ない、やれる限りのことをしよう。とりあえず、そろそろ夕飯にしないか」
 今ここで考えていても、解決に繋がるものは見つからないだろう、と感じて、二人を禁書区画から一緒に出るように促す。特に空腹ではないが、こういう時は食事をするのも悪くはない選択だ、とエーヴィは思っていた。

 並ぶ書棚の間を、冷たい風が吹き抜けていく。光を纏わないそれは、埃だけを連れ去っていった。

 ◆

 レテ川が流れ込む大鏡湖――透き通った水の中には、地上世界の夜空が映し出されていた。雫が落ちるたびに映る景色が変わる水面は、同じ場所を描くことはない。
 その忘却の湖畔で水と風の音だけを聞きながら、即興で竪琴を弾く。行き詰まった時の気分転換、のようなものだった。空にも水にも溶けていくようなこの音色を聴いていると、自分でも落ち着くのが分かるからだ。
 硝子の花が、冥府の花が、音と風の中で穏やかに揺れる。目覚めと眠りの狭間にあるこの地では、竪琴の音色はいつも、息づくものたちの子守唄のようになっていた。
「兄さん」
 特に名前のない曲を一人で奏でていると、草を踏む音が近づいてくる。
 弾くのを一旦止めてエーヴィが振り返ると、ルーシェが少し眠そうに目を擦りながら歩いてきていた。
「まだ起きていたのか」
「寝つけないんだよ。妙な胸騒ぎがする」
「おまえのそれは当たるからな……」
「まあ、常に破壊神の視線に晒されてるようなものだしね。この世界はさ」
 背を預けていた白い樹木に、同じように寄りかかったルーシェ。
 足元にあった硝子の花をそっと避けて、彼はそのまま静かにその場に腰かけた。
「っていうのは、一旦置いといて。この前地上で聞いたんだけど、人間って、約束する時にすることがあるらしいんだ」
「すること?」
「ちょっと手貸して」
「?」
 返事をする前に手を掴まれ、小指が絡められる。見慣れないそれに、思わず首を傾げた。
 特殊な魔法を発動させる儀式か何かなのか、と思っていると、ルーシェが口を開く。
「これ、ユビキリって言うみたいなんだけど」
「ゆびきり」
 聞き慣れない言葉のような、遠い昔に聞いたことがあるような、不思議な響きだった。
「約束守らなかったら、針を千本飲ませたりするんだって」
「それは……さすがに死ぬんじゃないか?」
「おれも、人間は何考えてるのかなって思った。でもそれくらい、大事な約束を交わす時にやるってことなのかな」
 遠回しだな、とエーヴィが感じていると、ルーシェが顔の横の髪を一房、くるくると指でいじる。言いたいことが裏にある時にやりがちな癖だった。
 正直にものを言う時は遠慮がないほどぶつけてくるというのに、彼は自分のこととなると、時々不器用になってしまうのだ。
「どうしたんだ、いきなり。何か約束したいことでも?」
「あるよ」
 こういう時は直球に限る、と思ってエーヴィがそう言うと、ルーシェは空いていた手を握ってきた。
 何かを離すまいとするようにも、縋る子どものようにも見える。

「絶対に、世界のために死ぬな」

 絞り出すように告げられた願いは、何よりも重く感じられる一言だった。
「ルーシェ……?」
「兄さんは自分の身を放り投げがちだろ。誰かが傷つくくらいなら、ってさ。前の破壊神との戦いの時だってそうだった」
「うっ……それは、否定しきれないが」
 真正面からぐっさりと刺さるような言葉に、それ以上何も言えなくなってしまう。弟のような存在であるルーシェを、家族のようなフェリシアを、身を挺してでも守るのは当たり前だと思っていたからだ。その果てに自分が命を失うことになろうとも、希望を繋げられればいいのではないか、とさえ考えていた。
「でも、兄さんだけじゃない。おれもフェリシアもそうならないようにするための約束だよ。だから何としてでも、探すんだ」
 命に代えようとも、破壊神から世界を守るのが使命であり、存在理由でもある女神と使徒。
 それに反するものなのではないか、と一瞬考えたものの、彼が言っているのはきっとそういうことではないのだ、と気づく。
「いつか三人で、悠久の未来へ歩み出したヴァスタリアを見届けよう。そうしたら」
「人の世界を、旅しませんか。美しいものがたくさんありますから」
 ルーシェを追っていつの間にか来ていたらしく、フェリシアが現れ、前に屈んだ。
 白く細い彼女の小指も、そっと添えられる。
「旅、か」
「小さな願いでも、約束でもいいのです。互いを繋ぎ止めるものがあってもいいのではないかと、思いまして」
 人が故郷を離れ、どこか遠くへ行くことを旅と言うらしい。その目的はさまざまなのだと、地上で出会った村人は言った。
「アヴァルスに代わって、このヴァスタリアを守ることが私たちの役目です。ですが、未来を夢見ることが駄目だとは思いません。彼が私たちをただの〝機構〟として造ったのなら、このようなことを考える心など要らなかったはずですから……」
「…………分かった。約束するよ、いつか叶えるためにも」
 思い描く。そんな未来も悪くないだろう、と感じられる。
 叶えることが容易くないと分かっていても、掴み取れればいいと思ってしまうような、優しく眩しい光景だった。
「破ったら針千本じゃ済ませないからね」
「せめて千と一本にしてくれないか?」
「ツッコむところそこなの?」
「話を聞く限り、形状は問わないんだろ? 砕いて粉末にすればいけるんじゃないかと思ったんだが……まあ、美味しくはないか」
「……」
 真面目にそのように考えていると、ルーシェが黙り込む。
「って――破る前提の話すんな、バカ兄貴ッ!」
「痛っ!」
 まずい、と思った時にはもう遅かった。
 容赦のない拳が、避けられない速度で振り下ろされる。そこそこの大きさの石がぶつけられた時のような衝撃――重力を操作することに長けているルーシェにこれをされると、防げる確率はかなり低い。
 最初に話を振ってきたのはそっちじゃないか、という言葉を、エーヴィはぐっと飲み込む。破った時のことを考えるのはやめよう、と素直に感じたからだ。
「そういえば、聞き忘れてたけど……それ、どうしたの?」
「? ああ、この冠は……地上の子どもから貰ったんだ」
 じんじんと痛む頭を冷やしていると、ルーシェが提げっぱなしだった花の冠に気づいた。
 忘れるところだった、渡しておこう――そう思い、括っていた紐を外してフェリシアに差し出す。
「綺麗なんだが、オレが被るのはちょっと違和感あるし、部屋に飾りっぱなしになるのももったいない。良ければ、貰ってくれないか」
「いいのですか?」
「君のほうが似合うだろうから。そのほうが、冠も嬉しいと思うよ」
 白百合の花を好んでいる彼女に、白い花はよく似合う、と思っていた。青い髪に添えると引き立つのもある。
「そ、そうですか。ありがとうございます、エーヴィさん」
 微笑みつつ花の冠を受け取ったフェリシアの後ろで、ルーシェが妙な顔をしてこちらを見ていることに気がついた。
 にやにや、でもなく、にこにこ、でもない。なんとも形容しがたい表情だった。生温かい視線が突き刺さる。
「ルーシェ。なんだ、その顔?」
「んー? なんでもない」
「なんでもなくないだろ……今のおまえ、すごく面白いものを見てるような顔をしてるぞ」
「面白いのは間違ってないなぁ~」
「はぁ……」
 茶化すような声色に、追及してもこれ以上詳しくは答えてくれないだろう、ということを察する。
 たまにこういうことがあっても、毎回同じようなはぐらかし方をされてしまうのだ。
「……ずっと続けばいいのに」
 背を向けて、どこかへ歩いて行こうとしていたルーシェがぽつり、と零した独り言を、エーヴィは聞き逃さなかった。
 その声色は先ほどよりも随分と弱々しく、風の中で揺られる焔のような祈りのようだった。
「続かせるための約束、ですよ。ルーシェさん」
「そうだったね。ごめん、言い出したおれが弱気になってどうするんだか。……じゃ、眠くなってきたから、おれは先に休むね」
 無垢な部分が残る笑顔の片隅に滲んでいるように見えた、感情の名前はこちらからは分からなかった。
 踵を返したルーシェの背を見送って、再び、樹木に背を預ける。隣に座ったフェリシアは何も言わず、心地よい静寂がゆっくりと降ってきた。

 物事に、永遠はない。命に時間がない自分たちも、きっと例外ではない。
 それでもその小さな約束が、あまりにも儚い願いという名の閃光を繋ぎ止められるように、ただ祈っていた。