0-5 終夜の果て、キミと見た黄昏

「幻想を造り出す石、ですか」
 浮遊大陸の書庫には、表に出ていない伝承や魔法の本に加えて、地上のことを記した本も多く並べられている。すべてを読み切るのに何年かかるのか、と思えるほどの量だ。
 そこで数時間かけて調べ物をしていたシアリィは、その片隅で不思議な装丁の本を見つける。中は絵本のようになっており、最後のページには半分欠けた魔法陣が描かれていた。
「はるか昔の話が描かれている本だ。ヴァスタとリアーレという二つの国が争いをしていた時代――多くの禁呪が生み出され、多くの命が失われていった。そこで造られたものだな」
 ほかとは異なる気配を持つその本が気になって、シアリィはエーヴィのところへ本を持っていく。
表紙を見ただけで分かったらしく、この本に描かれているのは〝幻想を造り出す石〟のお伽噺だ、と彼は言った。
 今ではお伽噺として語られていても、遠い過去では事実だったこともある、とエーヴィは付け足す。そのような言い方をするからには、これもお伽噺ではないのだろう。
「代償を支払って〝幻想〟を造り出す魔法が当時、戦争のために地上で量産されていた魔法石に宿ったものになる」
「だ、代償……」
「それについては……知らずに済むなら、知らないほうがいい。気分が良いものじゃないから」
 苦笑しつつそう返したエーヴィ。こういった場合、彼はそれ以上深く話してくれることはない。エーヴィと出会ってから五十年ほど経ち、シアリィもようやく、彼のそのような〝癖〟が分かるようになった。
 それをもどかしく思いながらも、踏み入ってはならない空気も感じ取っており、シアリィがそういった状況のあとに質問を重ねたことはない。
「とにかく……それもあって、大戦が終結したあと、女神たちはそれらを禁呪とともに地上からすべて回収した」
 歴史を語る彼は、書庫の窓の外、淡い紫の空へと視線を向ける。その先には、流れない時間を包んだ色が広がっていた。
 手にしていた分厚い本を閉じて、エーヴィは静かに言う。
「誰かを傷つけて叶う願いなんて、あってはいけない――その時、彼女はそう言っていたらしい」

 ◆

 ――W.T.2895

 浮遊大陸にある観測石が地上の異変を察知すると、守り人はそれを確認、及び解決しに向かう。その後は周辺の地域も時間をかけて見回り、異変は解消したと判断したのち、浮遊大陸へと引き返す――それは、エーヴィが世界の守護者として、おおよそ三千年前からたった一人で担ってきた役目だった。
 そんな彼に、シアリィは今回、初めて同行することとなった。魔物との交戦も予想されるため、今までは留守を任されていたが、魔法剣を習得したことで同行の許可を得た形となる。修行を頑張ってよかった、と、エーヴィの後ろを歩きながらシアリィは思っていた。
「師匠、今回はどこへ行くんですか?」
「聖域で確認した範囲では、この先に妙な魔力の乱れがあった。五百年ほど前まで、レピオ村という集落があったところだ」
「レピオ村、ですね! 分かりましたっ!」
 浮かれていてはいけない、戦いが起こる可能性もあるのだから。そう分かっていても、ようやく恩を返せる、という嬉しさがシアリィの心を満たしていた。
 シアリィはその場に立ち止まり、勢いよく敬礼をして返答した。地上の人間が書いた物語にあった〝相手に心配をかけない、元気な返事のしかた〟の真似でもある。
 すると、エーヴィは不思議そうな表情を浮かべた。
「……シアリィ、ずいぶん張り切ってるな?」
「はっ……すみません! ちゃ、ちゃんと怪しいところがないか見ますので……!」
 さすがに変だったかな、と思い、シアリィが慌ててそう付け足すと、彼は苦笑する。
「そんなに気を張らなくていいよ。油断さえしなければ、大丈夫だから」
 修行の最中は厳しい一面を見せることはあったものの、エーヴィは基本的に優しく、シアリィにとって師でありながら兄のような存在でもある。同時に、いつかその横で少しでも使命を支えたい、と感じるひとだった。
 どこからどう見ても普通の人間と変わらないエーヴィはかつて、世界に遺された神の欠片のようなものだ、と自身のことを表現した。地図を書き換えることすら可能なほど強大なものを抱えつつ、数えるのも気が遠くなるほどの時間の中で、彼は創造主の代行者としてたった一人でヴァスタリアの地を守っている。
 守り人に至ったエーヴィの過去について詳しく知らず、その間が孤独であったかどうかを、シアリィの口から問いかけたことはない。
ただ、その背にあるものをほんの僅かでも、と、心の底にいる何かが告げていた。
それがそのまま、シアリィ自身の想いに繋がっている。
「……あの、師匠。これがきっと、嬉しいって気持ちなんですよね。やっと師匠の力になれるんだって、つい張り切っちゃっていたみたいで」
「そうだったのか?」
「あなたはあの日、わたしを瓦礫から救ってくれましたから。ずっと、力になりたいって思っていたんです」
 そのうち崩壊するかもしれないから、と伸ばされた手。広い世界があることを教えてくれた人。
 シアリィが魔法剣という特殊な技能を習得したい、と思ったのも、魔法を放つ彼と相性が良い戦い方を調べた末に辿り着いたからだった。
「ありがとう。魔物と戦いになったら、その時は頼んだ」
「頑張りますっ」
「ただ、一人で突っ込みすぎないこと。それだけは守って――」
 何かに気づいたのか、言葉を切ってエーヴィが前方を見遣る。がさがさ、という草を描き分ける音が近づいてきた直後、少し離れた場所にある藪から、少年が勢いよく飛び出してきた。
「うわあああ! こっち来ないでよ~っ!」
「!」
 悲鳴と共に姿を現したのは、栗色の髪の少年だった。大事そうに小さな箱を抱えていたその少年を、狼の魔物三匹が追いかけている。
 逃げるのに必死でシアリィたちに気づかず、被っていた帽子をその場に落としたまま、少年は反対側の藪の中へと走り去ってしまった。
「今のは……」
「大変です、助けに行かないと!」
 エーヴィが頷き、帽子を拾って駆け出した。シアリィもその横に並んで、少年が入っていった藪を突っ切る。
 再びそう遠くない場所から叫び声が聞こえて、走っていくと湖の畔にある集落に出る。その手前に、狼の魔物に追い詰められた少年の姿があった。
「ヤメテヤメテ! ぼく、どこから食べてもおいしくないからっ!!」
「お食事なんてさせません!」
「だ、誰!?」
 シアリィが素早くその前へ割り込み、エーヴィが魔物の背後に立つ。開かれたままの口から涎をこぼす魔物は、虚ろな目のまま低く唸った。間近で初めて見た魔物、地上で初めて剣を振るう戦い――微かな緊張を振り払い、シアリィは魔力を柄に籠めて刃を顕現させる。
「怖がらないでください、わたしたちはあなたを助けに来たんです」
「ほ、ほんとっ!?」
「魔物たちを引きつけるので、そのあいだに向こうへ逃げてください!」
「わ、分かった! お姉ちゃんたちも気をつけてね!」
 少年が後ろへ下がり、湖の桟橋前に置かれている木箱の裏に身を隠す。
 標的を切り替えたのか、狼の魔物たちはその場で円を描くように、ゆっくりと歩き始めた。どちらから襲うべきか見定めるような視線が、嫌なものとなってシアリィの背を伝う。
 ――もし、この剣が通じなかったら?
 ――もし、彼の足手まといになってしまったら?
 剣を握る手に力が籠る。目の前にいる魔物への恐怖よりも、そういった不安が心の端にじわりじわりと滲み出てくるのを感じて、シアリィは頭を振った。戦いに集中しないと本当に迷惑をかけてしまう、と判断したためだ。
「心配するな、オレがついてる」
「!」
 表情に出てしまっていたのだろう。魔物たちの唸り声を上書きする、落ち着いた声が耳に入る。その一言で、シアリィの心の内にかかっていたものが払われた。
 泳がせかけていた視線を正面に戻すと、エーヴィが得物に淡い光を宿している。何かの魔法を発動させようとしていた。
「動きを止めよう」
 直後、水が魔力を通してシアリィの脳裏に映った。不思議と、彼が唱えようとしているものが伝わってくる。
 エーヴィの意図を読み取ったシアリィは頷き、駆け出す。飛び上がろうとしていた狼の足元を狙って刃を突き出した。血らしきものは出ず、代わりに黒い煙が噴き出す。食物が腐敗したような臭いに一瞬顔を歪めたくなるも、ぐっと堪えた。
「シアリィ! ――水流纏えアリアス!」
「受け取りますっ!」
 何度も練習をした、エーヴィが放った魔法を受け取る技。飛来する水球を刃で裂き、同時に〝手繰り寄せる〟ように魔力を伸ばす。一度消えたそれは、薄い青の光を纏って再度、刃となって現れた。狼の魔物は知性に欠けているのか、シアリィたちの狙いには気づいている様子はない。
 シアリィは修行中のことを思い出す。仮想の敵を打ち倒した時、どう動いたか。どう剣を振るったか。
積み上げて得たものを活かす時が来たのだと、黒い煤が付着した牙を振り払いつつ思う。
 ――魔法剣は難しいのに、ここまでよく頑張ったな。
 宙を裂く。直接当たらずとも、水流を宿した剣は魔物の体毛を濡らしてゆく。下でエーヴィが、迫っていた魔物をロッドで突き飛ばした。三匹が一ヶ所に纏められ、滴る水が涎と共に地面を濡らす。
 地を強く蹴って飛び上がり、シアリィは剣を強く握った。漂い始めた冷気から、逃れる術は残されていない。
氷冷の枷をアイジング
 描かれた薄氷の魔法陣が瞬時に氷を生み出して、魔物を中へと閉じ込める。
 表面の一点に狙いを定め、シアリィは勢いよく剣を突き立てた。ぱき、という音が耳に入る。
「還ってください……!」
 氷塊が割れ、中にいる魔物を肉体ごと打ち砕く。そこに断末魔はなく、静かな三つの最期が横たわっているだけだった。魔物たちの骸は残されることなく、その場で地面に吸い込まれるように消えていく。
 しばらく宙を舞っていた氷が消えた後、エーヴィがシアリィの肩を軽く叩いた。
「初めての戦いだとは思えないな」
「そんなことないです、師匠がああ言ってくれなかったら……」
「オレが使おうとした魔法を感じ取って、ちゃんと動けていただろ? 最初にしては十分すぎるよ」
 反省点があるなら次に活かせばいい、と付け足して、彼は少年が身を隠した木箱へ近寄る。
 まだ戦いが終わっていないと思っているのか、少年は体を丸めたままだ。
「少年、怪我はないか」
「間に合ってよかったです……もう大丈夫ですよ?」
 箱を抱えながら樹木の横で震えていた少年は、ゆっくりと顔を上げる。
「怖かったぁ……助けてくれてありがとう――って、ラノス!?」
 はっとした表情を浮かべた直後、少年が勢いよくエーヴィにしがみつく。明らかに違う人物の名を言っていることに、エーヴィもシアリィも触れる隙間がないほど素早かった。
「おっと」
「え?」
「さっきは言えなかったけど、ラノス、帰って来たにゃ――じゃなくて帰って来たんだね!」
「にゃ……?」
「! あう、違うんだ……つい、口癖で」
「口癖……?」
「あー、気にしないで! 気にしないでちょうだいネ、この子のためにも!」
 突然声が聞こえ、藪の中から青色の蜂のような魔物が姿を現す。やや控えめな羽音が、同時に近づいてきた。
「ま、魔物!?」
「待って待って、攻撃するつもりはないから! そのコは俺たちの友だちなの!」
「そんなことをいきなり言われても……そもそもどうして魔物が喋ってるんですか!?」
 知識と現実があまりにも食い違っていると混乱する、というのは本当のことなのだとシアリィは実感する。喋る魔物の話など聞いたことがなく、本で読んだこともなかったからだ。
 信じていいのかどうか、自分には判断ができない。シアリィが隣にいたエーヴィを見ると、彼はまじまじと蜂の魔物を観察していた。
「あまり聞いたことはないな。突然変異か?」
「頑張って練習しただけダヨ」
「練習して、人間の言葉って習得できるものなんですか……?」
「……。ひとまず置いておこう。この子のほうも気になるから」
 しがみついたままの少年は、不思議そうな顔でエーヴィを見ている。魔物たちが言っていることが本当であるならば、この少年は魔物と友だちだということになる。人と魔物が相容れないヴァスタリアでは、かなり珍しい存在だった。
「そ、そうでしたね。師匠、知っている子なんですか?」
「記憶の中にはいないな。初対面のはずだが……」
 エーヴィの言葉に、少年ががっくりと肩を落とす。その様子からすると、彼が探している人物に似ていたのだろうか。
 半歩下がった少年は、申し訳なさそうに頭を下げた。
「うう、ごめんなさい。違う人だったんだ……」
「あら、またなの。うちのラノがごめんなさいね〜」
 別の声がしたほうを見ると、今度は額に紅色の宝石が付いた兎の魔物が木から降りてきた。身軽に跳ねながら蜂の魔物の横に並ぶも、その場でぴたりと止まってしまう。
「…………ちょっと待った、あなたに近づいたらいけない気がする。ラノも下がって」
 その視線の先には、少年の前に屈んでいるエーヴィがいた。
 毛を逆立てている彼女は、彼から何を感じ取ったのか。魔物にしか分からないものがあるらしい。
「あの、師匠は悪い人じゃないですよ?」
「そうじゃない、そうじゃないの。魔物の本能的なアレよ」
 そこまで聞いてようやく、シアリィは自分たちの立場を思い出す。先ほど初めて魔物を倒した自分はともかく、エーヴィは何度も魔物と交戦し、彼らを大地へと還している。それを察知された、と考えるのが自然な流れだった。
「……人に害を与えないなら、オレが君たちを討つ理由はどこにもない」
 二匹の魔力を探っていたのか、少し間を置いてから、エーヴィは苦笑しつつそう言う。
「ほ、ほらっ! やっぱりそういう存在なんじゃない――って、今なんて?」
「君たちを無闇に倒すようなことはしないよ。オレも、すべての魔物を還してきたわけじゃない」
 初めて聞いた話に、シアリィは首を傾げる。倒さず、大地へ還すこともしなかった魔物とは、どのような存在だったのだろうか、と。
 問いかける前に、エーヴィは集落のほうを向いて歩き出す。
「シアリィ」
「は、はい」
「ここは君に任せてもいいか? オレは少し向こうを見てくるよ」
「分かり、ました……?」
 そのまま振り返らず、彼は村の中へと入っていった。声色から感情は読み取れず、浮遊大陸を任せて地上へ降りる時のそれと何も変わらない。
 足元に寄ってきた兎の魔物は、その場で小さく身を震わせる。
「ちょ、ちょっと言いすぎたかしら」
「えっと……大丈夫、だと思いますよ? 師匠、そんなに気にする性格じゃないですから……」
「むしろ、気を遣ってくれたのかもネ。意外とイイヤツ?」
「ひゃっ」
 ぶーん、と羽音が近くで鳴る。なかなか間近で聞く機会がないその音に、シアリィは思わず一歩飛び退いた。
蜂の魔物は特に気にしていないのか、その場でくるりと綺麗に回転する。
「それにしても、びっくりしました。人を襲わない魔物さんもいるんですね」
「大半が野蛮な連中だけど、俺たちは違うよ! 人間の肉、美味しくなさそうだしネ」
「コラッ、トーネット! そんなこと言わないの!」
 冗談なのか本気なのか分からず、シアリィは困惑する。ただ、エーヴィが魔力を探った後、自分一人にこの場を任せたということはきっと問題ないのだろう。
 すると、蜂に一発拳を当てた兎が、毛づくろいをしてからシアリィに向き直った。
「そういえば、名乗り忘れていたわね。アタシはフィサっていうの。この子はラノで、こっちの蜂ヤロウは今言った通り、トーネットって呼んで」
「魔物さんから自己紹介されるのも、ちょっと不思議です……。わたしはシアリィ、といいます。一緒にいた師――じゃなくて、彼はエーヴィって名乗っています」
「シアリィにエーヴィね、覚えておくわ」
 魔物たち、フィサとトーネットから敵意はまったく感じられず、一緒にいる少年・ラノからも悪意はない。
「アタシとトーネットは、ラノに付き合ってここで〝約束の時間〟を待っているのよ。人探しもしててね、さっきは失礼したわ」
「約束の時間?」
「ええ。詳しいことは本人……本猫? から聞いてね」
「うん、ぼくからあとで話すよ。あのお兄さんもいたほうがいいだろうし」
 そういえば、ラノが一瞬、猫のような口調で喋っていたのはどういうことなのか。
 問おうとした時、トーネットがシアリィの近くを一周した。
「で、オマエたちがここへ来たのは、この村の揺らぎを感知したから?」
「揺らぎ……あ、そういえば師匠が言ってました」
「だから多分、あっちの兄ちゃんは気づいてるんだろうけど。この村って、全部〝幻想〟だからサ」
「確かに、安定している感じはしませんけど……魔法で村が作れるんですね」
 湖畔の集落は曖昧で、建物もよく見ると向こう側の風景が透けてしまっている。例えるならば蜃気楼のそれに近い。
 少し集中するだけで、ここにあるもので本物なのは草木と横に存在する湖くらいなのだと分かった。
「魔法っていうより、変な石の力よ。大昔に空から降ってきた、っていうお宝があるの」
「ラノがつけてる石ネ。もう光らなくなっちゃったケド」
 数歩歩み寄ってきたラノの首には編まれた黒い紐がかかっており、その先端には光を織り交ぜた蒼い石が下がっている。拾われてから加工されたのか、少々いびつな穴が空けられていた。
「あれ? これどこかで……」
 海をそのまま吸い込んだような色彩を宿す美しさと、中に何かを隠している神秘的な雰囲気を持つ石。初めて見たような気はせず、その色はシアリィの頭の片隅に引っかかる。
「見たことあるの?」
「うーん……すぐには思い出せないんですけど。王都の宝石屋さん……じゃなくて、きっと何かの本で……」
 記憶のどこかに落ちているものを拾い上げられず、シアリィの中で追憶が渦を巻く。浮遊大陸の本であることには違いなかったが、あまりにも多くのものを見すぎて、未だに整頓しきれていないからだ。
 鏡のような石、中に物語が詰まった宝石、割ると一瞬だけ強い輝きを放つ鉱石――等、ヴァスタリア各地にある石の特徴をまとめた膨大な資料に無言で目を通した、長い長い時間を思い出す。体を動かすほうが好きなシアリィにとって、かなりの眠気を誘うものだったことも含めて。
「? ちょっと師匠のところに行ってきますね」
 本棚を探すように思考を巡らせていると、遠くでエーヴィが屈んだのが見えた。立ち上がらず、その場で地面に置かれたものを見ている。
 シアリィは一旦ラノたちから離れて、彼に駆け寄った。
「師匠、何か見つけたんですか?」
「誰かの日記だな。ただ……」
 地面の上にある、端が焼けた古い日記。捲ろうと伸ばしたエーヴィの手は、触れることなく通り抜けてしまった。
「手がすり抜けちゃいました」
「これも幻ということは、この地の源ではなさそうだ」
「源……この村を作っている何か、ということですね」
 幻想で生成された村に人の姿はなく、生き物が住み着いている気配もない。そこにあるのは揺らぐ幻影と、元々ここにあったであろう自然だけだった。
「古の魔法、だとは思う。どこかにあるはずなんだが……あとでもう少し探してみよう」
「禁呪ということでしょうか?」
「それが造り出したものと捉えていいだろうな。ただ、何故今まで感知できなかったのか……。こんなに不安定な場所を、観測石が見落とすとは思えない」
 地上を昔から見守り続けてきた観測石。小さな災害の種も見逃さず、危険に発展しそうなものはすべて映し出して守り人に伝えてきた。ヴァスタリアの均衡を管理する世界の種と結びついているそれを、信頼しない理由はない。
 観測石と共に長く生きてきたエーヴィにも原因は分からないのか、彼は目の前で揺れる幻を見ながら考え込んでいるようだった。
「ふ、不思議ですね……あっ。そういえば、ラノさんたちはもう大丈夫みたいです。師匠が一緒のときにお話ししたいこともあるみたいですし、ひょっとしたら、そのことについて教えてくれるかもしれません」
「そうか、それならいいんだが」

 シアリィがエーヴィを伴って戻ると、ラノは地面に小枝で絵を描いて遊んでいた。隣では、トーネットも針を使って器用に何かを描いている。独特な感性を持っているのか、その絵はかなり芸術的で、何が描かれているのかは本人たちに聞いてみないと分かりそうにない。
「待たせてしまってすみません!」
「気にしないで。この子、絵を描くのが好きだから」
 丸が二つに、幾何学的な図形が三つ。人間が五人ほど描かれている場所を囲うように、巨大な三角が枝で作られていた。
 顔を上げて服に付いた土埃を軽く払ったラノは、エーヴィの前に進み出る。どこか申し訳なさそうな様子なのは、先ほどの件があるからだろうか。
「改めて――お兄さん、初めまして。ぼくはラノっていうんだ。フィサ、トーネットは一緒に暮らしてる仲間なの」
「なるほど。今見て分かったが、君は元々猫の魔物だったんだな」
 当然のようにさらりと言われた言葉。ラノが人間の少年だと思い込んでいたシアリィは、思わず半歩踏み出して彼を見る。
「ら、ラノさんは猫さんなんですか?」
「うん、そうだよ。猫に戻ろうと思えば戻れるけど……待ってる友だちがいる。だから、驚かしたいんだ」
 初めて会った時に不思議な喋り方をしていたのは、そこに理由があるようだった。自由自在に変化する猫の話もまた、どこかで聞いたことがあるような気がしていた。
 ――耳やしっぽはない、ですよね。
 納得しつつ、つい猫の特徴であるそれらをシアリィが探していると、ラノは不安そうな表情を浮かべる。
「だけど最近、村の様子がヘンなんだ。トーネットが言う通り、ゆらぎ始めてて消えそうで……少し前から地震も起こるし、どうしちゃったんだろう」
「村を造り出している、魔法の効力が限界なのかもしれない。そう遠くない場所に源があると思うんだが、場所を知らないか?」
「んんー、ミナモト……フィサは知ってる?」
 思い当たるところがないのか、ラノは足元で丸まっていたフィサを抱き上げながら問う。
 薄い桃色の兎は特に気にしていないのか、抱きかかえられたままの姿勢でラノを見上げた。
「アタシはあとからここへ来たのよ? 心当たりは……ないわね」
「トーネットは? ずっと村の近くに住んでたんだよね」
「俺にも分からないヨ。不思議な気配は村中に広がってるし」
 民のいない静寂の村は、途切れることのない魔力によって包まれている。その濃度はシアリィにも分かるほどだった。
「フィサさんが言っていた、約束の時間と関係があるんでしょうか?」
「あっ、そうだった。その話をしないとだよね。関係があるのかは分からないんだけど……」
 フィサを抱えたまま、ラノは幻影のレピオ村の過去について話し始める。
 曰く、おおよそ五百年前、村と隣り合わせの湖から巨大な魔物が姿を現し、周辺の地域に災害をもたらした。それは人間だけでなく、多くの魔物も飲み込んでいった。
 魔物でありながら人間を襲うことを嫌っていた猫は、同族の群れから追い出され、その災害に巻き込まれて湖に落ちてしまう――が、猫に死は訪れなかった。溺れかけたところを、ラノスという少年が助けてくれたのだという。
「ぼくはただの猫のふりをして、ラノスと友だちになったんだ。魔物だって知られたら怖がられちゃうし、聞きつけた大人に殺されるかもしれないから」
「……。普通は、魔物の持つ善悪の判断はできないからな」
「そう、それを分かってた。だから、内緒にしてたんだ。ラノスは気づかなかったし、毎日、村のはずれに来てぼくと遊んでくれたの。でも……」
 ラノが俯く。自身の過去が絡んだ物語の続きを語ろうとして、一度、開きかけた口を閉ざしてしまう。苦い記憶が絡んでいるのか、少年の表情が少し曇った。
 唸るような風の音が、幻影を飛ばしそうな勢いで吹きつけた。それを受けて、ラノは頭を振る。
「ラノスは、病気を持ってた。もう治らないものだったんだ」
 出会ってから五年後に、別れは唐突に訪れた、とラノは続ける。
 いつもの時間に村のはずれに来ないラノスを心配して、家までこっそり様子を見に行くと、少年は窓側の寝台の上でぼうっとしていた。生きているのに、半分抜け殻のような、ひどく曖昧な気配がそこにはあった。
 何かがおかしい、と察したラノは、窓枠を必死に叩いて外からラノスを呼んだ。
 ――ごめんね、ラノ。
 気がついて窓を開けてくれたラノスがどうして謝るのか、分かるようで分からなかった。そんなことを言わないで、と祈るような想いだった、と。
 ――でも、この世界では、生まれ変われるって話があるから。……また……会えるといいな。
 その言葉の意味を理解しようとして、行かないで、とラノは思わず叫んでしまった。
 ――あれ、不思議だなぁ。ラノの、声が聞こえるよ。
 共通の言葉を持たない人間と魔物。その時どうして言葉が通じたのかは、未だに分かっていない。
 ――ラノ、またね。また一緒に、空を見よう。
 少年は猫をそっと抱き締めて、消え入りそうな声で唄う。子守唄として、よく森の中で聞かせてくれていたものだった。
 それから、ラノスがラノのところへ来ることはなかった。数日後、村の中に彼の名前が彫られた石を見つけてようやく、いなくなってしまったのだということを知った、とラノは言う。
「……それで、ぼくはお願いしたの。またここで、ラノスと空を観察したいなぁって」
 千年に一度の、黄昏の空を彗星が満たす現象。彼が見たがっていたそれを、できたら一緒に眺めたい。そのように願ったのだという。
「そうしたら、この石が光って……幻のレピオ村ができたのは、そのあとだったんだ。きっと、ラノスが帰ってきても寂しくないように、この石が村を作ってくれたんだよ!」
「石?」
 エーヴィが屈んで、ラノの首元にある蒼い石を見る。止まった時間を閉じ込めているかのように光を失っている石は、沈黙を保っていた。
「この石は……まさか」
「あら、あなたは知っているの?」
「代――……じゃなくて、幻想を造り出すはるか昔の禁呪が宿っていた〝魔法石〟だ。地上に残っていたのか……?」
「魔法石……あ! 前に、わたしが見つけた絵本に描いてあった……!」
 エーヴィが言いかけた言葉。伏せられた、代償、という部分をシアリィも口にせず、その本に描かれていたことを思い返した。
 目の前の状況と照らし合わせると、レピオ村は何かを代償にして幻として生成されており、魔法石に蓄えられた魔力の残量が尽きかけているがゆえに不安定に揺らいでいる、ということとなる。
 シアリィが考えていることを感じ取ったのか、彼はこくりと頷いて、きょとんとしたままのラノと目線を合わせた。
「この村の状況は理解した。君のその、願いがおそらく絡んでいるということも」
「じゃ、じゃあ、オマエはこれをなんとかできるの!?」
「無理矢理払うことはできなくもないが、幻影を保ち続けることは、残念ながらできない。魔力の循環に異常を発生させているから、このままにしておくことも」
「そ、そんなぁ。ラノスが帰ってきたら、寂しくなっちゃうじゃんか……」
 トーネットが落胆するのと同時に、ラノも視線を逸らしてしまう。何も言わないものの、ラノは薄々分かっていたのかもしれない。そんなラノへ声をかけようとして、シアリィは伸ばしかけた手を下ろす。エーヴィが言っていることは何も間違っていないと、理解できていたからだった。
「師匠……どうにもならない、ですよね?」
「……」
 魔力の流れに影響を与えていることには違いない幻影を、異変の一つとして彼は収めようとしているだけ――放っておけば、どんな現象を引き起こすか分からない。
 ――こういう時、どうするのが〝正しい〟のか。なんとか、解決する方法はないのか。彼はどうするのか?
 言葉を探すと会話は消える。やや重い沈黙が数秒落ちたあと、フィサがラノの足元にあるものを見た。
「そういえばラノ、その箱どうしたの?」
「…………え、あ、これ? ええと……昔ね、ラノスと一緒に埋めたの」
 泥がついた小箱は何かの魔法で保護されていたらしく、破損している部分は見られない。ただ、元々は別の色だったのであろう縁取りが落ちて、あちこちが銀色になっていた。
 魔法が切れるまで開かない仕組みになっていたようで、ラノはそれの効力がなくなるまで待っていたらしい。
「すごく古い箱みたいですね。何が入ってるんですか?」
「それが、ぼくにも分からなくて」
「?」
「ラノスがね、いなくなっちゃう少し前に言ってたんだ。いっぱい時間が経ったら開けてほしい、って。それがどれくらいか分からなかったから、ちょっと前から毎日開けようとしてたの」
 レピオ村をどうにかしなければ、という感情を抱いたまま、シアリィはラノが開けた箱を覗き込む。
 中には茶色い紙きれが一枚だけ入っていた。そこには、地図のような模様が描かれている。
「これ、森の地図だ」
「端っこのところ、何て書いてあるんでしょうか」
「うーん。秘密の遺跡……かな? ラノスは、秘密の場所をいっぱい知ってたから。宝探しをするのも好きだったんだよ」
 冒険に出る前の子どもが目を輝かせながら描いた、と表現できる宝の地図。古い地図の中には赤い印が付いている場所がある。そこに何かがあるのかもしれない、ということは、深く考えなくても分かる。
「お、お兄さん」
 ラノがおずおずと顔を上げる。すると、彼が言いたいことを察したのか、エーヴィはそっと屈んだ。
「分かってるよ。そこへ行ってみよう」
「いいの?」
 予想していなかった返答だったのか、エーヴィの言葉に、ラノは目を丸くする。
「さっきはああ言ったが、無理に幻影を払うのはすごく疲れるんだ。だから、あまりやりたくなくてな」
「で、でもっ……ミナモトを見つけたら、すぐ消しちゃうんでしょ? そうしなくてもいつか消えちゃう、けど」
「……」
 シアリィが見守っていると、俯くラノの肩にエーヴィはそっと手を置き、ゆっくりと首を横に振った。
「何も分からないまま、無闇に消すようなことはしない――それは異変も同じだ。判断するのは、ちゃんと状況を把握してからだよ」
「なぁんだ! やっぱりイイヤツなんだ、オマエ」
「……少なくとも、悪いやつではないかな。君たち魔物からしたら、違うかもしれないが」

 ◆

 地図に残されていた洞窟の入り口は、ラノが魔物の襲撃を受けたところから比較的近い場所だった。
 レピオ村からおおよそ百セート。静かな森の中で巨木に守られるように、大地をくり抜いた穴が佇んでいる。
「太い植物の根が、扉みたいになってるのね」
「ラノス、どうしてこんな場所にある洞窟のことを知ってたんだろう」
「でも、五百年経ってるんですよね? ラノスさんが洞窟を見つけた頃は、こんなに根が大きくなかったのかもしれません」
 村の近くに区分されるとはいえ、周囲に広がる鬱蒼とした森林は、どこか不思議な気配を漂わせていた。人の住むところにはまず存在しないもの――と考えかけて、浮遊大陸にある聖域のそれに近いことに気づく。
 関係があるのかも、とシアリィがエーヴィのほうを見ると、彼も何かに気がついたようだった。
「それに、神聖な魔力の気配を感じる。封印魔法に近いような……」
 シアリィはそっと根に触れる。生きているものの鼓動が伝わり、奥からはあたたかな反応が返ってきた。
 そのまま魔力を飛ばすと、目の前の巨木全体から、音のない〝声〟が伝わってくる。
「この根、わたしの力で動かせるかもしれません。ちょっと待っていてください、下に降りられる蔦もなんとかしてみますね」
 木へと話しかける。どうしてこの先に行きたがるのか、という感情がまっすぐに跳ね返ってきた。
 ――洞窟に、彼の友だちが遺した何かがあるかもしれない。それを確かめに行きたいんです、道を開けてもらえませんか?
 正直に理由を伝えれば、よほど頑固な樹木でない限り通してくれるはずだった。
「へ、そんなことできるの?」
「シアリィは植物にある程度干渉できるんだ。任せて問題ないよ」
 人の身を得た時から備わっていた、魔法とはまた異なる、植物の声を聞いて干渉する力。シアリィ自身、なぜ扱えるのかは分からず、空白の記憶の中にある手がかりは未だに手繰り寄せられていない。エーヴィと出会ってからおおよそ五十年が経過した今でも、失ったそれの欠片一つすら手元にはなかった。
 自分が何者なのか、分からないまま生きてきた日々。人のかたちをした人ではない何かであるということ以外、何も掴めないままだ。
 それでも己を恐れることはなく、欠落した〝今まで〟がなくとも笑って過ごせたのは、エーヴィに出会えたからだとシアリィは思っている。
「はい! わたしの力が役に立てるなら嬉しいです」
 恩はまだまだ返しきれない。ほかにもやれそうなことがあったら、全力で手伝いたい――シアリィの中で、気力が高まってゆく。
「……聞き損ねてたんだけどサ、オマエたちって何者なの?」
 数セート上を飛んでいたトーネットが降りてきて、シアリィとエーヴィの間に入ってくる。
 くるりくるり、とその場で器用に回って、トーネットは何気ない質問をぶつけた。
「アンタ、今更それ聞くの?」
「だって気になるじゃんか。フィサだって、はっきりとは分かってないでしょ?」
「まあ、確かにそうだけど」
 エーヴィの足元にいたフィサが、一度跳ねて彼を見上げる。
 兎と蜂に、無垢な少年の瞳。それらを一斉に向けられて、エーヴィが短く息を吐くのが聞こえた。
「…………。説明すると長くなってしまうな」
「簡潔に頼むわ」
「……師匠は、世界を守ってる人なんです! わたしはそのお手伝いで」
 この説明で間違っていないはず、と、シアリィは木との対話を再開しながら思う。
 守り人は神でもなければ勇者でもなく、英雄とも違う――と、かつて本人が言っていたからだ。
「えっ、そうなの!?」
 それを聞いて、地図を広げていたラノが、目を輝かせてエーヴィの前に割って入ってくる。
 物語に出てくる人物を見るような、純粋な眼差しだった。
「二人とも、すごいんだね! ラノスから聞いたお伽噺のひとみたいだ」
「お伽噺?」
「ずっと昔に、このヴァスタリアを悪いやつから救った神さまの話! すっごく強い魔法を使って、みんなを怖がらせるやつをやっつけちゃうんだ」
 エーヴィたち――女神や創造・破壊の使徒、守り人の戦いは、さまざまな形の伝承やお伽噺となって、ヴァスタリアの各地で語り継がれている。時に詩人に詠われ、時に親から子へ語られ、時に大衆が楽しむ物語として、世界に刻まれた記憶の一つになっていると、前にエーヴィは話していた。
「……。昔は、そういう立派なひとがいたかもしれないな」
 もう手が届かない、彼方にあるものを見つめている。穏やかさの中に、ほんの微かに寂しさが滲んだもの。
 シアリィからはそのように感じ取れる声色で、エーヴィはラノにそう返した。
「お兄さんは違うの?」
「違うよ。オレは、神さまにはなれないから」
 ラノと話すエーヴィの表情は、シアリィからは見えない。そこに含まれた意味は何なのだろう、という想いが心に溜まる。
 言葉が出そうになった直後、目の前の巨木の根がゆっくりと広がった。ぽっかりと空いた穴を、太い蔦が下まで伸びていく。
「おお~、おっきい蔦がどいてくれたネ。壁にあるトゲトゲ植物は俺たちがどかすよ」
「大丈夫なんですか?」
「任せなさいな、触ってもなんともないから平気よ。それに、むしったりしないから」
 先に穴に入り、少しずつ壁を降りながら、トーネットたちは針のある植物を土ごと避けていく。蔦を伝っても影響のない範囲で、安全を確保してくれていた。
 そうして二匹の姿が見えなくなった少し後に、下からトーネットが上がってくる。
「これで、オマエたちも安全に降りられると思うヨ。気をつけてねー」
「ありがとう、助かったよ。シアリィ、オレが最後に行くから先に降りてくれ。ラノはそのあいだで」
「分かった、ちょっと怖いけど……行くよ!」
 先が見えず、冷えた風が奥から吹き上がっている洞穴。どこに繋がっているかも分からないのもあって、踏み込むのに多少の勇気は必要な雰囲気があった。万が一のことがあっても助けられるよう、ラノから離れすぎず、シアリィはゆっくりと地下へ降りる。

 
 数分後、視界が開けると真っ先に目に入ったのは、透き通った湖に沈む崩れた壁画や神殿の白い柱――そこには、洞窟と一体化するように造られた遺跡が広がっていた。
「うーん、結構深そうね。遺跡のようだけど、何のために造られたのかしら」
 壁画に描かれていた字や絵はほぼ見えず、水没した遺跡から読み取れるものはそう多くはなさそうだった。
「昔はおうちだったのかも?」
「破壊神が攻めてきた時に、地下に落ちて沈んだのかもしれないな。調べないと分かりそうにないが」
 エーヴィが降り立ち、同じように周辺を確認する。おそらく、浮遊大陸に戻ったら調べるつもりなのだろう。
「ま、ここで見てても全部予想になっちゃうしサ。奥に行けば分かるんじゃない?」 
 トーネットの言葉に頷いて、ラノが歩き出す。シアリィはその横に並んで、周りを注意深く観察した。魔物の気配はなくとも、老朽化した遺跡の一部が倒壊する可能性はある。
「村の地下にこんな空間があったなんて。ラノスと一緒に探検してみたかったな」
 時間の波によって消えていった遺跡には、生活の跡らしきものは何も残されていない。あるのは水の中で時を止めたものたちと静寂、足音だけだった。
「いつか叶うよ。そのために待ってるんでしょ?」
「そうだったね。ラノス、いつ帰ってきてくれるかなぁ」
 近くで繰り広げられる、純粋な会話。誤った言い伝えとして広まっているものを疑うことなく、ラノは遠い再会を信じて素直に待っている。
 転生について、本当のことを言うべきなのか。このまま叶わない願いを持ち続けるのは、彼らがあまりにも可哀想だ。
 迷ったシアリィは思わずエーヴィのほうを振り返るが、彼は小さく、否定するように首を振る。
「ん? あれ、なんだろ」
 ラノが前方に何かを見つけて走り出す。好奇心はすべてに打ち勝つのか、やや薄暗いところにも恐れることなく近寄っていった。
 慌ててシアリィが後を追うと、行き止まりを作り出している岩の壁の前に、背丈を超えるくらいの大きさを持つ水晶が置かれている。寄ってよく見ると、それの下敷きにされるように、石で造られた段差や皿があるのが視認できた。
「祭壇でしょうか。ずいぶん使われていないみたいですし、不思議な水晶が半分以上隠しちゃってますけど……」
 この場所が祭壇として使われる時は火が灯っていたであろう燭台は、横倒しにされて長い時が経っている。人が訪れなくなってから、どれくらいの時間が流れたのか。
「何か箱がある……あ! これ、ラノスの絵だ!」
 水晶の前に、小さな銀色の箱が落ちているのをラノが見つける。上の面には黒い子猫の絵が描かれていた。
「それじゃあ、地図にあった赤い印はこれのことなんでしょうか?」
「きっとそうだよ! ここはちょっと暗いし、外に出たら開けてみるね」
「ジメジメしてるし、早く出ましょう。キノコ生えちゃいそう」
 ラノが小箱をそっと振ると、ころころと音がする。中に入っているものが何なのか、それだけでは分かりそうになかった。
「君は……?」
 すると、シアリィの後ろで祭壇を観察していたエーヴィが水晶に手を当て、突然そう言った。ラノたちも足を止めて、彼のほうを振り返る。
 エーヴィは浮遊大陸を通る、死者の魂を導く役目も担っている。それゆえに、シアリィには認識できない魂だけの人間を、彼ははっきりと捉えることが可能だった。
「師匠? ま、まさか、そこに誰かいるんですか?」
「いや、いるというより、これは――」
 彼はそこで言葉を切り、洞窟の天井を見上げた。何かを察知したらしく、シアリィの中でも嫌な予感が弾ける。
 直後、洞窟全体を突き上げる大きな振動が襲ってきた。ぱらぱらと小石が落下し、地盤が軋む音も聞こえる。
「わああっ! 地震!?」
 徐々に大きくなるそれに尻もちをついてしまったラノに駆け寄って、シアリィはその体を支える。
「俺は飛んでるから平気だけど――ってあいたっ! 羽に岩がー!」
「トーネット!」
 ぶん、という羽音と共に、トーネットがエーヴィの足元に降りる。薄い羽に落石が当たったのか、飛ぶ力をなくしてしまったようだった。
 怪我をしたトーネットと近くにいたフィサを抱えて、エーヴィが顕現させた得物を翳しながら言う。
「シアリィ、君はラノを!」
「はい!」
 少年を抱えるようにして、姿勢を低くする。エーヴィの意図はその一言で伝わっていた。
 橙色の光が周囲を満たすのと、上から巨大な岩が落ちてきたのはほぼ同時だった。魔法陣が半球を描くように広がり、その場にいたシアリィたちを護るように覆う。
 揺れが収まったのは一分ほど後だった。砂煙が足元に漂う中、シアリィはラノの無事を確認する。
「シアリィさんたちがいてくれてよかった……」
 ラノに怪我はなく、自分にも痛むところはない。咄嗟に全員を護ることができる魔法を放ったのを見て、更に修行を積みたいという想いに駆られる。
「し、師匠~! そちらは大丈夫ですかー!?」
 心配は不要、と思いつつも、僅かな隙間から反対側へと声をかける。
 祭壇のあった広間に落ちた岩は、そこを真ん中で分断してしまっていた。天井が低めであることを踏まえると、よじ登って合流することはできそうにない。
「無事だ。シアリィたちも怪我はないか」
 数秒間を空けてから、エーヴィの声が返ってくる。
「ラノさんもわたしも大丈夫です!」
「分断されちゃったネ。この壁、壊せるのかな」
「ば、バカ! そんなことしたら天井が崩れるかもしれないでしょ!」
「だよねー」
「そもそもアンタにそんな力ないじゃない」
「分からないヨ? 俺にも秘められた力があって、こう、ズバババーンと」
「はい二人とも、一旦そこまで」
 向こう側から聞こえてくるやり取りに安堵して、シアリィは思わずラノと顔を見合わせて笑う。苦笑しながら止めるエーヴィの姿が、見えなくとも思い浮かんだ。
「途中に岐路があったはずだ。そこで合流できるかもしれない、しばらく別行動だな」
「分かりました、ラノさんは任せてください!」
 広間の入り口は二つあり、洞窟の入り口は一つしかない。どちらかが別の出口に繋がっている、ということがなければ、引き返す途中のどこかで合流できるはずだった。
 エーヴィたちの気配が動いたのを確認して、シアリィもラノの手を引いて歩き出した。

 広間を出て少し歩くと、洞窟の中とは思えないような場所――螺旋状の地下道に辿り着く。高い吹き抜けになっているそこを見上げると、頭がくらくらしてしまった。
 くすんだ白い石が敷き詰められている、入ってきた時とは違う道を、地震の影響で崩落しないか慎重に確認しながら登っていく。
「ぼく、シアリィさんに聞きたかったんだけど」
 半分ほど登ったあたりで、横を歩いていたラノが口を開く。
「はい、なんでしょうか?」
「エーヴィさんとはどういう関係なの? 人間の兄妹、とはきっと違うんだよね」
 それは率直な質問かつ、面と向かって問いかけられたことは何度かあるものだった。
 地上の街をエーヴィと歩いている時、気になった店の商品を見ている時、買ってもらった食べ物を堪能している時――等、覚えているだけでも、約五十年の間で十回近くにはなる。
「関係……関係、ですか。うーん、どう言えばいいんでしょう」
「?」
「師匠は師匠なんですけど、わたしにとって……」
 義理の妹だ、と、エーヴィは少し前からシアリィのことをそう表現するようになった。義理の意味が分からず、こっそり書庫で人間界の辞書を引いて調べたこともある。そうなると、自分にとって、彼は〝義理の兄〟になるのだろうか。
 楽しい時間をくれるからずっと一緒にいたい人、という意味で〝コイビト〟という呼び方をしてもいいのかと聞いた時は、ぴしり、と一瞬彼が固まってしまったことも覚えていた。
『…………その言い方は、オレと君にはちょっと合わない。地上では言わないようにな』
 その後、数時間にわたって書庫に籠っていた後ろ姿を思い出す。別の表現を用いるべきだと、言葉を探し始めた。修行の合間に読んだ、いくつもの物語を振り返る。
 父、兄、義兄、大事な人、師匠、それから。ぐるぐると巡った思考の中で、ある言葉に辿り着く。
「……恩人、そう、恩人です! わたしは彼に、助けてもらったことがあるんです」
 今の状況とも綺麗に結び付くものだと判断して、シアリィは続ける。
「だから、いつか助けになりたいな、と思っていて。今回レピオ村へ師匠と来たのも、そのためだったんです」
「すっごくわかる! ぼくにとってラノスは恩人でもあるから、ぼくも彼に何かしてあげたいな、って思ったよ。あの時の〝ラノス〟には、ぼくは何もできなかったけど……」
 ラノが立ち止まるも、ぶんぶんと首を振って、暗い気持ちを振り払うように一歩踏み出した。
「だけど、悲しくないよ。さっきも話した約束を、ラノスはきっと果たしにきてくれる」
「転生のこと、本当に信じているんですね」
「うん。実際に転生した人を見たことなんてないけど……ずっと昔からあるお話だから」
「……」
 心が痛むのを感じるのと同時に、シアリィの中で、エーヴィと出会ってから数年経ったあとの会話がよぎる。
『浮遊大陸を通して、冥界へ行った人はどうなるんですか?』
『ここを通る時に転生の証を受け取るんだが、静かにその順番を待つことになる。秘匿事項だからって、詳しいことは共有されていないんだ』
『転生、ですか。生まれ変わった人って、その前のことを覚えているんでしょうか』
『ごく稀に、思い出す人もいるみたいだ。ただ、大半は忘れてしまっている。全部引き継いで命が巡っていたら、あまりにも負荷が大きいから――とは聞いたことがあるな』
 遠く、遠くを見ながらそう語ったエーヴィ。地上を覆う雲の先に、何を見ていたのかは聞くことができなかった。
 彼はあの時、誰かのことを思い出していたのだろうか。
「シアリィさん、どうしたの?」
「! っ、ぼーっとしちゃってました、すみません。先を急がないと、ですよね」
「この先から気配がするんだ。もしかしたらフィサたちがいるかも!」
 螺旋の地下道の終わりは近づいており、遠くにあったエーヴィたちの気配が徐々に近づいていた。降り積もりそうになった名前のない感情が、その安心感によって零へと戻される。
 走り出したラノを追っていくと、地下道の出口の前に見慣れた姿が三つあった。
「あ、いたいた!」
「合流できてよかったです」
 向こうも気がついたのか、フィサが跳ねながら駆け寄ってきた。布が巻かれた羽を動かして、その後ろをトーネットが飛んでくる。手当てをしてもらえたようで、飛ぶのに支障はないようだった。
「ラノ、無事だったのね。……ありがとう、この子を守ってくれて」
「…………」
 シアリィとラノの前で止まった二人は、どこか落ち込んでいるように見える。別れる前にあのように言い合っていたとは思えないほどに。
 地震の影響で、体力も気力もごっそり削られるほど険しくなってしまった道を戻ってきた――ということではなさそうだった。
「フィサ? トーネットも、どうしたの。なんだか元気がないけど」
「……エート、ね」
 目を泳がせるトーネット。フィサも俯いたまま、口を閉ざしてしまう。こうなれば、状況を聞ける人物はエーヴィしかいない。
「あの、向こう側で何かあったんですか?」
 壁に寄りかかっていたエーヴィは、シアリィに声をかけられて瞑っていた目を開く。睡眠を必要としない彼がそうしているのは珍しい。
 そんな彼も元気がない、というより、少し疲れている様子だった。反対側では魔物の襲撃があったのかもしれない、とシアリィは考える。
「向こう側……というより、祭壇で、というほうが正しいな」
「? 師匠、目の色がいつもと違うような……?」
 目を合わせて、エーヴィの海原と同じ深い青を宿した瞳が、浮遊大陸から見える黎明の色に染まっていることに気がついた。
 そこにいるのは間違いなく彼なのに、違う誰かが立っているような感覚が伝わる。
「ここは危ないから、外に出て話そう。そのことも、ラノスのことも含めて」
 
 ◆

 洞窟から出て、幻影のレピオ村に移動するまでのあいだ、誰も言葉を発しなかった。
 気になることがあまりにも多すぎて、今断片的に問いかけるよりも、まとめて話してもらったほうがいい――と、シアリィは思っていた。ただ、その沈黙は重く感じられ、足取りにも引っ張られそうになる。
 あの後、エーヴィたちに何があったのか。彼らの様子からするに、良いことではなかったのかもしれない。
「師匠、このあたりで大丈夫ですか?」
 緊張が心の中に広がるのを抑えつつ、シアリィは村の入り口で声をかける。願いが造り出した幻は更に揺れており、風が吹いただけで消えてしまいそうなほど儚い。
 静かに頷いたエーヴィは、ラノへと向き直った。
「ラノ。君にとってつらい真実になると思うが、それでも聞くのか?」
 長身の部類ゆえに、子どもと話す時に屈む癖があるのか、エーヴィは再びそうしてラノと目線を合わせる。
「う、うん。…………なんでだろう、それを知らないと、ぼくはラノスに会えないと思うから……」
「……分かった」
 脅しているわけではなく、最後の確認のような問い。
ここまで来て目を逸らせるものではない、とラノも感じたようだった。
 間を置いてから、エーヴィは自身の胸元に手を置き、ラノをまっすぐに見る。そこにいる〝もう一人〟の代理をするかのように。
「結論を先に言う。――ラノスは今、ここにいるんだ」
「……え?」
「ま、待ってください。師匠の中にいる、って、どういうことですか」
 五百年は前の死者の魂が、エーヴィと共に在る。生きてきた中で得た知識を並べても、その理由には短い時間では辿り着けない。
 フィサとトーネットは先に知らされていたのか、驚いている様子はなかった。
「ここからは順に説明するよ。そのほうが状況を把握しやすいだろうから」
 なぜか変わっている瞳のことと関係しているのか、と聞こうとして、苦笑いと共にやんわりと制止される。
「まず、ラノの首輪に付いていた魔法石は、禁呪が宿っているものだと話したと思うが」
「まぼろしを作る、ってものだよネ」
 はるか昔、世界を二分した国が争っていた時代の遺産。代償となる何かを用いて、石の中の魔力が尽きるまで、幻を作り続けるもの。エーヴィはその代償が何なのかまでは教えてくれなかったが、薄らと察せないほどシアリィは鈍くはない。
 今までの状況とそれらの情報が、少しずつ組み合わさっていく。
「不思議に思ったことはないか。ラノ、君は災厄で壊滅したあとの村しか知らないのに、魔法石は君の願いを拾い上げて〝壊滅前〟の村を造り出した」
「そ、それは……この土地に宿ってる記憶を拾ったとか、そういうのじゃないの……?」
「地の記憶を参照して、物を創造する魔法は確かに存在する。ただ、それは高度な魔力操作が要るから、人間には扱えない。魔法石に宿るものとは別物だ」
 あらゆることに対応できる魔法が生み出され、創造者ごと消えていった時代があったという。
 残酷で無慈悲な研究の末、人の道を外れたものが世に出てしまったこともあったと古い文献には記されていた。
「君の願いの代償に魔法石が選んだのは、壊滅前の村のことをよく知っていて、よほどのことがない限りもう寿命などで尽きることのないもの――ラノスの魂だ」
「!」
 息を呑むラノ。彼が手に持ったままだった小箱が落ちて、からん、という音がする。それをそっと拾って手渡しながら、エーヴィは続けた。
 ラノの小さな願い――またレピオ村近くの森で一緒に空を見たい、というものを救い上げた魔法は、その代わりとして、彼がいつか帰ってきてほしいと望んだ少年の魂を選んでしまう。その時、ラノスは魂の状態でたまたま、あの祭壇にいた。そこで魔法に包まれ、幻影の元としてあの水晶になった。
 自我をもたない魔法が、幻影の果てにどうやってラノの願いを叶えるつもりだったのか、今となっては知る術がない。魔法石に蓄積されていた魔力が尽き、レピオ村の幻影が消えた時、解放されたラノスがラノと再会できる確率は、極めて低かった。
「本来は、肉体を離れた魂が一定の日数以上、地上に留まることはできない。ラノスの魂は魔法で保護されていたから、今まで消えることはなかったが」
 死者の魂は、本人が望めば少しの間は地上に残ることができる。それを過ぎるか未練がなくなると、昼夜の狭間の時間黎昏刻に浮遊大陸へと導かれる、という仕組みだった。
「オレはあの時、祭壇の水晶の中に少年の姿を見た。君が変化していたから、すぐにラノスだと分かったんだ」
「師匠は、気づいていたんですね」
「揺れ始めた時、オレは彼に呼びかけた。ラノスは魂だけの存在で、崩壊した遺跡に巻き込まれて水晶が壊れれば、繋ぎ止めているものがなくなる。君はどうなるか分からないから、ひとまず一緒に来てくれと」
「それで、師匠は自分にラノスさんを宿したんですか?」
「一時的に一部を貸している、という感じだな。だから、そう長くは保たないが……」
 エーヴィの前で、ラノが座り込む。力が抜けてしまったかのように。
「………………ウソ、だよね。つまり、ラノスはあの日から何百年も、あそこに?」
 手渡された小箱を見つめたまま、ラノは震える声で言う。
 自分の願いが、一番大事な人をつらい目に遭わせていた。なぜ、という感情と、どうして、という感情が入り混じった声が、シアリィにも悲痛さを伝えてくる。
「ぼくが……ぼくがあの時、石にお願いをしちゃったから……っ、ラノスはずっと、あの場所から動けなかったの……? ずっとひとりぼっち、だったの…………?」
「ラノ……」
「うぅ、ラノス、どうしよう……ぼく、ラノスに謝りたいよ。どうすれば、いいの…………」
 エーヴィに縋りついて、ラノは涙をこぼす。そこにいても認識できない友だちに声を届けようと必死だった。
「皮肉なものね。この子はラノスのために、って願ったのに、その人を依代にして魔法が発動していたなんて」
「願いを叶える魔法、と言っていた人もいたそうだ。でも、戦争時は拷問にも使われたという記録がある」
「これを、拷問に……?」
 多くの血が流れ、いくつもの夢がかき消された時、そこにあったのは禁断の魔法だったと聞く。世界からの恵みのはずが、世界を傷つけるものへと変えられてしまっていた。誰かを救うためのものばかりではない、ということを痛感して、シアリィは言葉を途切れさせてしまう。
「…………。今回は……仕方ないか」
 しがみついて泣く少年を受け止め、エーヴィはぽつりとそう口にする。
「師匠?」
「ラノ。ここに残留しているラノスは、どうしても君と話がしたいようなんだ」
「ぼくと、話を?」
「ただ、君に微弱な魂魄の状態であるラノスは見えないし、言葉を交わすこともできない。……君たちさえよければ、オレを通じて少しだけ対話の時間を作れるが、どうする?」
「!?」
 思いがけない提案だったのか、ラノは目を見張って彼を見る。隣に来ていたフィサとトーネットも驚いていた。
 シアリィにはなんとなく、エーヴィが考えていることが伝わる。同時に、危ないことなのではないか、という心配が込み上げた。
「し、師匠、それってつまり……?」
「別の禁呪で、今は裏側にいるラノスの意識を表に出す。短い時間にはなるが、直接言葉を交わすことはできるはずだ」
「魔法、怖すぎるヨ!」
「そんなことして、あなたは大丈夫なの?」
「負担は軽いほうだ、気にしなくていい。体を貸していてもオレの意識はちゃんと起きてるから、出られない、なんてことにはならないよ」
 あとは君の気持ち次第だと、エーヴィがラノへ告げる。あくまで魂を表へ出すだけで、姿かたちまでは変えられないし、何度も名前を呼んでいた声も再現できない、と付け足す。
 シアリィたちが見守る中、小箱を抱き締めて、ラノが顔を上げた。顔に残っていた涙の跡を拭う。
「お願い……お兄さん。このままお別れなんて、嫌だから……」
「……そう言ってもらえてよかった。少し待っていてくれ」
 立ち上がり、ラノから離れるエーヴィ。光を帯びているロッドを手に、シアリィたちには背を向けたまま、幻影へと向き直った。
 聞き取れない声量で数回別のものを唱えたのち、新緑の旋風と魔法陣の上で、彼は生成された光の中へと踏み出す。
汝の風を此処へリトゥス・ルーアヴェルト
 強い風が吹き、エーヴィへ向けて光が収束する。
 それらが消えたあと、そこには特に変わった様子は見られない彼が立ったままだった。
「…………」
 穏やかな風が、草木を揺らす。ラノが数歩近寄って、おそるおそる、彼の服の裾を引っ張った。
「ら、ラノス……?」
『っ!』
 はっとした様子で振り返ったエーヴィは、だいぶ下から見上げてきているラノを見たあと、きょろきょろと村を見回した。
『えっ、なんでボクがいて……こんなに背が高いの? 話す時間をくれるって、こういうこと!?』
 声も姿もそのままで、中は少年ラノスとなったエーヴィ。その差は端から見ていて不思議なものだった。
「ふ、ふふっ。ちょっと珍しい感じがする光景ね」
「新鮮です……」
 それを見ていて、ラノスが表へ出てきたのだとラノは確信したようだった。
 驚かせるという作戦はもうよくなったのか、魔法が解ける音がした直後、一匹の黒猫が、勢いよく彼へと飛びつく。
「ラノス、ラノス! 会いたかったにゃ!」
『わあ、ラノだ! 相変わらずふかふかだね!』
 飛び込んできた黒猫――ラノを受け止めて、ラノスが笑う。服に黒い毛が付いてしまっていたが、エーヴィなら気にしないのだろう。
「にゃにゃにゃ……ごろごろ」
「ラノさん、すっかり猫さんに戻っちゃってますね」
「本来の姿ってトコロだネ」
 こんな形でも、短い時間でしかなくても、彼らが再会できてよかった。戦っていなくとも、これも守り人の使命の一つなのかもしれない――と、シアリィは微笑ましい光景を見ながら思っていた。
 同時に、禁断の呪文に対して抱いていた、怖いものという印象も少し薄れたのを感じた。恐ろしい魔法でも、使い方によっては誰かを傷つけず、救うこともできるのだと分かったからだ。
『あのね、ラノ。ボク、嬉しかったんだ』
「うれしい……?」
『短い時間しか一緒にいられなかったけど、ラノがボクとの約束を覚えていてくれたこと。……だからこそつらかったかな、ごめんね、とも思うんだけど』
「そっ……そんなことない!」
 ラノスが謝った内容に対して、ラノはすぐに否定する。
「あの約束があったからぼくは今ここにいるし、フィサとトーネットとも会えたんだ。それに、謝らないといけないのはぼくのほうだよ! ぼくが石にお願いをしちゃったから、ラノスはあんな場所で、ずっとひとりで」
『確かに、どうしようって思った。でも、また君と会えたんだ。だからもう大丈夫だよ』
 罪悪感から丸くなってしまったラノを抱き上げて、ラノスはそう諭す。
 心優しい少年だったのだと、あまり彼のことを知らなくても、やり取りを見ているだけでシアリィにも伝わってくる。
「そうだ。ラノスがいたところに、こんな箱があったの。これ、なに?」
『あっ、見つけてくれたんだね。よかった。開けてみて』
「石……? 中に村が見えるよ!」
 ラノが小箱を開けると、雲一つない高い空のような色をした、菱形の石が出てくる。
 その中には、レピオ村がぼんやりと映し出されていた。
『北のほうにある街で作られてる、記憶を入れられる石なんだ。お小遣い、このために頑張って貯めたんだよ』
 ラノスが言う街とは、水晶の都・オリクトのことに違いない。エーヴィの知り合いが治めており、シアリィも話を聞く機会が何度かあった。
 その地の名産品の一つに、人の記憶を閉じ込めた鉱石がある。思い出の場所、忘れたくない風景を形で残しておきたい人々が、オリクトの長に頼んで造ってもらっているものだ。
「ど、どうしてぼくに? それに、地図が入ってた箱、最近まで開かなかったんだよ」
『レピオ村のこと、長生きする君に覚えていてもらいたかった。黄昏彗星の空を見ながら、思い出を振り返ってくれたらいいなぁって思ったから。そこにボクがいなくても、ラノがそうやって思い出してくれればきっと、ボクは君の中で生きてることになる』
「ラノ、ス……ぼくの中で、君が、生きてる」
 千年に一度しか機会がない黄昏彗星の空。周期的にはそろそろのはずだったが、正確な日付までは知る手段がない。
 限りがある命を持つものだからこその選択。おそらく無限の時間を生きることになるシアリィにとって、まだ抱いたことのないものだ。
 いつかそういう想いを、誰かに対して持つ時が来るのか――ラノスを見ながら、そう感じずにはいられなかった。
「……? 待って、長生き、って」
 石を大事に腕の中に収めたラノは、目を丸くする。普通の猫は、人間よりも寿命が短いからだ。
『君が魔物だってことは気づいてたよ。だって、君を助けたとき、ツノがあったから』
「…………あっ。ツノ……」
『うん、ツノ』
 毛をぼわりと膨らませて、ラノが一度だけ跳ねる。魔物であることを知られたくない、と思って普通の猫のふりをしていたのだから、当然の反応だった。
 そんなラノを見て、ラノスは苦笑いを浮かべる。
『その後、美味しそうにご飯を食べてボクの後ろをついてくる君を見て、悪い子じゃないのかなって思ったんだ。そうじゃなきゃ、名前をつけたり、世話したりしなかったよ』
「ラノス……」
『楽しい時間をくれた君は、ボクの恩人だよ。だからそれは、ボクからの最後の贈り物。受け取ってくれるかな、ラノ』
「っ、当たり前だよ! 大事にするし、これと一緒に、いつか絶対に黄昏彗星の空を見るから……!」
 よかった、とラノスが小箱に石を戻す。
 膝の上にぽろぽろとこぼれる猫の涙を拭って、橙色が混じる空を見た。
『……そろそろ行かなきゃ』
 元々短い、とされていた時間。これでも十分だと言うように、ラノスは笑った。
『ラノ。こうして会えたんだし、せっかくだから新しい約束をしようよ』
「あ、新しい約束?」
『ボクの代わりに、色んなところに行って、色んな景色を見て。それで、もしいつか会えたら、その話をいっぱい聞かせてほしいな』
「……っ、もちろん! 任せて、ぼくは冒険得意だから!」
『ケガだけは気をつけてね。友だちがいるなら、大丈夫だろうけど』
 浮遊大陸のある方角を見上げて、ラノスは深く、深く息を吸った。
『ほら。短い時間だけど、一緒に空を見よう。好きだった唄、歌ってあげるから』
 夜と昼の境界、狭間の時間。魂が空へと旅立つ刻。あたたかさと寂しさを含んだ色彩は、彼方までヴァスタリアの空を覆っていた。
 恩人である黒猫のそばで唄うラノスの体は、淡い光に包まれている。
『ありがとう。ラノがあなたたちに出会えてよかった』
 一筋の光が空へ昇っていった後、優しい旋律は少しずつ遠くなる。
『また会おうね、ラノ』
 最後の子守唄が、森へと溶けるように消えていった。

 ◆

 ラノが泣き止んだ頃には、空の果てに青空が見え始めていた。
 レピオ村の幻影は、砂の城が崩れるように、風に混じってゆっくりと消えてしまった。魔法石の効力が完全に切れてしまったかららしい。
「君はこのあと、どうするんだ?」
 猫の姿に戻ったままのラノは、括りつけてもらった小箱を見ながら小さく跳んだ。
「答えなんて一個しかないよ! フィサやトーネットと一緒に旅に出る。それで、いつかラノスにいっぱい旅の話をするんだ。ラノスが見られなかったもの、ぼくが見てくるの」
 新しく交わされた約束は、ラノにとって、外へと踏み出す大きなきっかけとなった。好奇心が旺盛な彼らとは、世界のどこかで再会することもあるかもしれない。
「それなら、まずはオリクトを目指してみたらどうだ?」
「おりくと? 何それ、お菓子?」
「この大陸の北方にある、水晶の都市の名前だよ。そこにはオレの知り合いがいる。その石を、持ち運びしやすいように加工してくれるはずだ」
 猫の体では少し運びにくい、菱形の石。首輪にでも付ければ、冒険の最中でも落としてしまう可能性はかなり減る。
「そんなことができるの!? 素敵だなぁ。お願いしようかな」
「んじゃ、最初の目的地はそこだネ! 人間にばれないようにしなきゃ」
「長には伝えておくよ。街へ入らなくてもどうにかできるようにする」
 彼にしか扱えない、裏の技があるという。確かに、魔物であるラノたちが、そのまま人のいる街へ入るのは少々危険だ。
 シアリィがほっとしていると、フィサが森の中に作られた道に先に出て行く。
「さて、と。道は長そうだし、朝暮れの前に寝られるところを探さないといけないから、このへんで出発しましょ」
 レピオ村周辺の森は広大で、人の足でも抜けるのに二日は要すると言われている。
 同族に襲われにくいとはいえ、安全に休める場所を探しておきたい、というのは正しい判断だった。
「じゃあね、兄ちゃんたち! ……それにしても、野宿はイヤだなぁー」
「あのねぇ、魔物が宿に泊まれるわけないでしょ」
「えっへへ、人間のマネ!」
「まったく……」
「賑やかな冒険になりそうですね?」
「うん、ぼくもそう思う。楽しみになってきた!」
 一人での旅路は自由と寂しさが合わさったものであると、王都で詩人が詠っているのを聞いたことがあった。そこでしか得られないものもある、と続けられている、勇敢さに満ちた若者の冒険譚の詩だったはずだ。
 それならば三人で進む路、冒険の旅には何が含まれて、得られるのだろう。時間がある時に考えてみよう、と、シアリィは自分に課しておいた。
「そうだ、君に一つ聞きたいんだが」
「どうしたの?」
「レピオ村の幻ができた後、誰か、来たことはあるか?」
 エーヴィの問いかけを聞いて、そういえば、とシアリィも思い出す。異変を起こしている幻影のレピオ村が、今まで観測石で見つけられなかった理由だ。
「誰か……人……。……そういえば、だいぶ前に一回だけ、赤い髪のお兄ちゃん? が来たよ」
「!」
「赤い髪の人、ですか?」
「ぼくがここで、ラノスを待ってることを話したの。そうしたら〝しばらく見つからないようにしないとね〟って言って、不思議な魔法を使っていったっけ」
 エーヴィ以外の人間とはそう多く接していないため、シアリィは誰のことなのか分からない。観測石の探知を逃れられるようにしていたのだから、ただの人間ではないのだろう。
 が、彼は思い当たる人物がいたのか、一瞬だけ動揺したような素振りを見せた。
「…………そうだったのか。時間を取らせて悪かった、ありがとう」
「大丈夫だよ、急ぐ旅じゃないから!」
 フィサたちを追おうと歩き出したラノ。が、数歩進んだところで立ち止まり、エーヴィの前に戻ってくる。
「あのさ、お兄さん。ぼくからも、一ついい?」
「?」
「禁呪、っていうのを使ってまで、どうしてぼくとラノスに話す時間を作ってくれたの? ……本当は、よくないんでしょ?」
 ラノの黒いしっぽが揺れる。提案を受け入れはしたものの、禁呪という言葉の響きから、多用はできないものであると理解していたようだった。
 現に、負担は軽いほうと言っていたエーヴィは、ラノスの魂が離れたあと、三十分は目を覚まさなかった。本当に大丈夫なのかと、見守りながらもひどく緊張したのをシアリィは当分忘れられそうにない。
 申し訳なさそうなラノを少し撫でて、彼は微かに笑った。
「救えるものを救おうとした――そう思っておいてくれ」
 世界を守護するものとして、永遠に切り離せることはない信念。時には相手が魔物でも救いの手を差し伸べることがあるのだと、今回の一件でシアリィは認識した。
「……いなくなってしまったものの願いが、小さな約束が、遺されたものにとっての呪いになることだってある。それは悲しいし、寂しいことだと思うから」
「お兄さんも、そういうことがあったの?」
「長く生きてるんだ。たくさんあるさ」
 そこで触れられたのは自分のことなのか、それとも。言葉を紡ぐ裏側で彼は何を想っているのか、掴めるようで掴めない。
 エーヴィの過去を深くは知らないシアリィには、推測することしかできないからだ。
「旅が良いものになることを祈っているよ。道中気をつけて」
「うん! 二人とも、ありがとう!」
 黒猫が、兎と蜂を追いかけていく。姿が見えなくなる直前、彼らが振り返ったのが見えて、シアリィは大きく手を振った。

 
「師匠」
「ん?」
「守り人の役目って、魔物と戦うだけじゃないんですね。わたし、ちょっと色々考えちゃいました」
 ラノたちを見送ってから、シアリィは自然にそう言っていた。
 語り継がれる物語の中では、魔物や悪しきものと戦う姿が多く描かれている守り人。光に属する者として、世界に混沌を連れてくる存在と戦い続ける――魔物を救う話など見たことがなく、彼らの旅立ちを見送ったあともずっと、不思議なものが心を満たしていた。
「ただ戦うことが使命じゃない。救済の形はそれぞれ、ということだ」
 黄昏の空を塗り替える青空が、白い雲と共に流れていった。夜まではまだ遠く、星々は裏側で眠っている。
 その合間に浮いている浮遊大陸を見て、エーヴィは言う。
「このヴァスタリアに生きるみんなが、願った未来へ辿り着けるように戦う。それを使命の理由として、オレはここに立つことにしたんだ」
「願った未来へ、辿り着けるように?」
「願いを叶える魔法はない。オレにできるのは、その手助けをすることだけだから」
 自分が直接叶えるのではなく、あくまで道を作るだけ。その過程で戦う必要があるのなら、引き継いだ力で果てのない闇を払う。
 それが守り人の在り方だと定めたエーヴィ。揺らがない想いは、数千年にわたってヴァスタリアを守る彼の支えになってきたようだった。
「歪な形とはいえ、ラノスを現世に繋ぎ止めていたのは魔法だった。けど、ラノが約束のために今まで待っていなければ、再会は叶わなかったはずだ」
「人はそういうのを、運命、って言うんでしたっけ」
「そう表現してもいいかもしれない。ただ、神が繋いだものじゃなくて、二人の願いが導いたものだと思っているよ」
 いつも通りの穏やかな表情からは、心の底まで読み取ることは叶わない。
 そのように静かに語ったエーヴィは、どこか彼方を見据えていた。 

Special Thanks!:おいどん様(上サークルカットイラスト)