0-6 精霊さんと王子さま

 とある年の、太陽が長く空を照らした日。ヴァスタリアを導く王家に、新しい小さな命が生まれました。国王に抱き上げられたその体はとても小さいものでしたが、元気な産声を聞いて、王妃もほっとしたように笑います。
 その男の子は、第一の継承者として誕生した命でした。アルファルド、という名を授かった少年は、両親や周りの人々に見守られながら、真っ直ぐに健やかに育ちました。とても勇敢で心優しい、未来で王の名を背負う者として成長していきます。
 けれど、彼には、解決できない悩みごとがいくつかありました。それらはどれだけ調べても原因が分からず、王宮に仕える医者でさえ、治す方法が見つけられないものです。

 本来ならば持つはずのないものがあり、持っているはずのものがない。
 みんなと同じ〝人間〟なのに、そうなのか分からなくなる。
 自分は、本当に未来で王様になっていい存在なの?

 人々を心配させまいと明るく振る舞うその裏で、少年は自身のことを知ってから、ずっと思い悩んでいたのです。

 ◆

 ある日の夜。月が照らす城の中庭に、ぽつん、と影が一つありました。
 掴めるはずのないそれへと何回か手を伸ばして、石段に腰かけていた少年――アルファルドは、少しだけ息を吐きます。溜息を吐くと幸せが逃げてしまいますよ、と側近のカーロが話していたのを覚えていたからです。
「母上。……僕もう、八歳になったんだ。でも、おかしいこと、何も分からないんだよ……」
 気持ちの曇りが取れない時、或いは一人で落ち着きたい時、アルファルドはこっそりとこの中庭を訪れていました。聖樹が見下ろす中庭は、王族しか入ることのできない神聖な場所だからです。
 常に葉を広げる聖樹のそれには、一枚一枚に今までの王の名が刻まれている、という伝承がありました。下から見上げても確認することはできませんが、目を凝らしてよく見ると、葉にはうっすらと、光の文字のようなものが刻まれています。
 王を見守る者の加護が宿っている、と言われている聖樹。その肩書に対して悩んでいても、アルファルドは自然と、ここへ足を運んでいました。
 そして、いつものように亡き母へ語りかけた、その時――遠くない場所から、風に乗って何かの音が聴こえてきました。
「…………んん?」
 その音色には聞き覚えがありました。それは前に城を訪問してきた詩人が奏でていたもの、竪琴だとすぐに気づきます。
 ぐるぐるとしていた思考を一旦止めて、アルファルドは音を辿りました。聴いたことのない、優しく穏やかな音の連なりは、風と共に静かに葉を揺らしています。
 どうやら、その名前のない旋律は、聖樹の上から流れてきているようでした。
「そこに誰かいるの?」
 幽霊などの類を一切恐れないアルファルドは、何の躊躇いもなく、聖樹のほうへと声をかけました。
 すると、竪琴の音が止まります。聖樹の葉の中に何かの気配が現れたのも、ほぼ同時でした。
「君は、この音が聴こえるのか」
 降ってきた声の主が人なのか、そうでないのか、アルファルドからは判断ができません。人語を喋る動物もいる、というお伽噺を読んだことがあるからです。
「えっ、と。普通の人には、聴こえないものなのか?」
「さっきの曲は、歴代の王へ贈る歌のようなものだ。魔法がかかっている特殊な弦を使っているから、王の血を引いている者にしか聴こえないんだよ」
「王の血を、引いている者にだけ……」
 悩みに直接降りかかるような言葉。ふわりと浮上した複雑な気持ちを押し込んで、月光が透ける聖樹を見上げました。
 竪琴を弾くということは、声の主は人間なのか――聖樹へと一歩踏み出して、アルファルドは問いかけます。
「……。あなたは誰? おばけ、じゃないんだよな」
「好きに捉えてくれて構わないよ」
「へんなの」
「…………うん、そうだな。少し変な返し方だったな」
 声色から判断する限りでは、そこにいるのは青年のようでした。
 葉が生い茂る中から姿を見つけることはアルファルドにはできませんが、敵意がないことは伝わってきます。
「それじゃ、君が好きなように呼んでくれ」
「もしかして、名前がないのか? それなら、出てきてくれないと名前つけにくいよ。たぶん、男のひと? ってことしか分からないんだから」
「今はまだその時じゃないんだ、許してくれないか」
「もっとへんなの……」
 今がその時ではない、ということは、いつか姿を見せてくれるのでしょうか。
 アルファルドには、彼の言うことがよく分かりませんでした。
「…………」
「…………」
 聖樹に寄りかかり、すぐそこにいる不思議な存在の呼び方を考えます。
 アルファルドは八歳になったばかりですが、幼い頃から勉学に励み、様々な伝承や伝説が記された本も読んでいました。名前の候補はたくさん出てきます。
 そこから引っ張ってくるべきか、それとも、もっと簡単なものにするべきか。
「…………よし、決めた! ほんとになんでもいいんだよな?」
 数分考えた末、アルファルドが辿り着いたところにあった名は、とても単純なものでした。
「何でもいいよ」
「精霊さん!」
「え?」
「だから、精霊さん。間違ってないだろ?」
 名前がないのか、という問いに対して返答をしなかったということは、彼にはちゃんとした名前があるのかもしれない。名前さえ分かれば伝承や伝説を調べることができるから、教えてくれないんだ――おそらくは。
 精霊さん、は、そのようなことを踏まえて考えた結果の呼び名でした。あらゆるものに宿ると言われている、大昔からヴァスタリアに伝わる不思議なものの呼称です。
「分かった。好きに呼んでいい、って言ったのはこっちだからな。文句はない」
 声でしか判断できませんでしたが、彼は微かに笑っているようでした。
「そういえばさ、どうしてそんなところで演奏してるんだ? 僕は登っちゃダメだって父上に言われているのに」
 葉に刻まれた名前を見てみたくて、登って見ていいのかと尋ねたことがありました。
 ――アルファルド。あの樹は神聖なものだから、どれだけ気になっても、登ってはいけないぞ。
 苦笑しながら頭を撫でてきた父親。足場にできそうな部分はたくさんあるのになあ、と、惜しく感じたのは少し前のことでした。
「定期的にやる儀式、という感じだな。君こそ、こんな時間にどうしたんだ?」
「……」
 ふうん、そうなんだ、と返答しようとして、アルファルドは言葉を詰まらせます。正直に話すか、いつものように明るく笑ってごまかすか。母親への言葉は耳に入っていただろうに、彼はそれについては触れてきません。
 精霊さんから悪意は感じませんが、出会っていきなり悩みごとを話すのは、少々気が引けてしまいます。
「あ……そ、そろそろ戻らないと。あのさ、精霊さん、また会えるよな?」
 いつの間にか、月がだいぶ上へと昇ってきていました。
 父親やカーロはアルファルドが部屋から脱走していることに気づいていても見逃してくれることが多いですが、あまりにも遅いと心配させてしまいます。
「君がここへ来る時に、オレも来るよ」
 ちかり、と聖樹が淡く光ります。それと同時に、城へと繋がる扉が控えめに叩かれる音がしました。どちらかが迎えに来たようです。

 それからアルファルドは数日おきに、中庭を訪れました。精霊さんはそのたびに聖樹の葉の中に現れて、短い時間でしたが話し相手になってくれました。
 まだ難しい政治のこと、城下町の美味しい食べ物のこと、夜空に瞬く星々の名前のこと。
 ある時は、秘境に住む守護竜のこと、天から落ちてきた塔のこと、長い長い旅をしている猫と蜂と兎のこと――。
 精霊さんは遠くに住んでいるようで、アルファルドの知らない話をたくさんしてくれました。
「最近よく中庭に行っているようだが、誰かと会っているのか?」
「そ、その……なんと、言えばいいのか」
「隠さずともよい。あの中庭には、昔から不思議な人が現れるからな」
 ある日、勉強を終えて寝ようとした時、アルファルドの部屋を父親が訪れます。
 さすがに気づいて、不思議に思ったのでしょう。そう問いかけてきましたが、咎めるようなものではありませんでした。
「……父上も、精霊さんに会ったことがあるのですか?」
「お前ほどの頻度ではないが、私も子どもの頃、あの中庭で不思議な声と話をしたことがある。同じ〝精霊さん〟かは分からないが」
 懐かしいな、と窓から聖樹を見た父親は、少しだけ〝精霊さん〟の話をしてくれました。
 残るものに自分のことはなるべく明確に記さないでくれ、と言ってくる、少々変わった不思議な存在。いつも竪琴を弾いていますが、聖樹の葉に紛れて姿を見せてくれません。
 一度だけ、王となった後にその姿を目にしたそうですが、容姿を思い出そうとするとぼんやりと脳裏で霞んでしまう、と父親は言いました。

 次の日。魔法の勉強をした直後、アルファルドは中庭へと足を運びます。
 気分はやや重く、明るい話ができるか分かりませんでした。それでも、話をすれば気分転換になるかもしれない、と思ったからです。
「何かあったのか? 前から、悩んでいたようだったが」
 今までは無難な話題を切り出してきていた精霊さんでしたが、初めて、彼はアルファルドにそう尋ねてきました。
 どうにもならない悩み。精霊さんに相談しても、おそらく解決することはないもの――と思っている以上、打ち明けようとしても喉で詰まってしまいます。
 けれど、ずっとそうしていても仕方がない、とも思っていました。いつか己が乗り越えるべきものだ、と感じていたのです。
「…………。精霊さんなら、いっか。こんなこと、ほかの人には話せないし」
「?」
 ぽすん、と聖樹に寄りかかり、アルファルドは口を開きました。
 そして、沈みかけた言葉を探すように、ゆっくり、ゆっくりと息を吐きます。
「人間が持ってないはずのものを持ってる人って、みんなと同じ人間なのかな」
「持ってないはずのもの?」
「人がみんな持ってる属性。僕は……それで、なんでか分からないけど〝闇〟って判定されちゃった」
 ヴァスタリアに生きる民一人一人が必ず宿す、地水火風いずれかの属性。光と闇は、精霊や魔物のみが扱えるとされているものでした。人間がそれを宿していたことは、今まで一度もありません。
 いつか国を導く者が、人が持つはずのないものを持っている。そのことから、アルファルドの属性の件は秘匿事項として扱われています。
「さっきも勉強してきたけど、みんな使える魔法は何も発動させられないし……父上たちは、何も言わないけど。僕、どうしたらいいんだろうって」
 アルファルドは生まれつき簡単な魔法すら扱えず、手にしている剣にどうにか宿すことができる程度でした。それは逆に、普通の人にはできないことだったのですが、自分のことを不安に感じる理由としては十分です。
 何かが混じっているのか、本当は親が違うのか――そのことを知ってから、あらゆる可能性が真実としてあることを想定していました。父親やカーロから告げられる覚悟もしていましたが、誰からも真相を教えられることはありません。勇気を出して尋ねたことはありましたが、返ってきたのは「どれだけ調べても、理由が分からなかった」というものでした。
 誰も真実を知らず、一生自分が分からない、ということもあり得ます。アルファルドの中では不安と自身への僅かな恐さが入り混じっていましたが、王子として、弱音を吐くわけにもいかなかったのです。
「君のその話を聞いて、とある〝人間〟のことを思い出したよ」
 アルファルドの話を聞いていた精霊さんでしたが、聖樹が風に揺られてざわめいた後、ぽつりとそう言いました。
「とある人間?」
「……。これは山奥の村にいた、ごく普通の〝人間〟の話なんだが――」
 ここにはいない誰かの物語を語るように、精霊さんは言葉を紡ぎます。

 ――その少年には、親がいませんでした。それもそのはず、少年は赤子の頃、村の近くで拾われたからです。けれど、優しい村人たちや、面倒を見てくれたお爺さんのおかげで、病気になることもなく元気に成長していきます。どこの子どもかも分からない少年は、自分のことを不安に感じる時もありましたが……周りの人たちのあたたかさが、いつも少年を支えてくれていました。
 ――少年はやがて、青年へと成長します。生きていくための狩りをしたり、森で採取をしつつ、村の子どもたちの面倒を見て、育ての親であるお爺さんとのんびり過ごす。穏やかで、楽しい日々を過ごしていました。
 ――しかし、彼には一つだけ、悩みがありました。みんなは簡単な魔法しか使えないのに、何故か彼は、小さな魔物なら倒せるほどの強い魔法が使えたのです。頑丈な魔物の皮膚を焼く炎、鋭利な毒針を壊す風、邪な焔を掻き消す水流。年齢を重ねるほど、徐々にその力は強くなっていました。自分は人間ではないのではないか、と疑いたくなるほどに。

「僕と逆……?」
 世の中にはそんな人もいるのだと、アルファルドは思わず呟きます。

 ――ある夏の日。青年はお爺さんに、魔法のことを打ち明けます。しかし、お爺さんは、もうそのことをとっくに見抜いていました。無理に聞き出そうとはせず、話す気になるまで待ってくれていたのです。静かに話を聞いていたお爺さんは、青年が一通り話し終えた後、肩へそっと手を置いて口を開きます。
 ――もうそこにあるものを、消すことはできない。それなら、自分なりの生き方に活かせばいい。この世界にまったく同じ人間はいないのだから、その力を持つお前にしかできないことが、きっとある。その力と、一人で向き合う必要はないんだ。

「自分にしか、できないこと」
「……そして、その青年は、魔法を活かすことを考えた。恐れていた力を、みんなを守るためのものとして使えるようにしたんだ」
 再び揺れる葉。遠い記憶を振り返るような精霊さんの語りは、そこで一区切りとなったようです。
 その人はどうなったのだろうとアルファルドは思いましたが、問いかけるよりも、彼が今、それを話してくれた意味を考えることを優先しました。
「魔法が使えなくても、この世界で生きていくことはできる。君の場合、剣に宿す鍛錬をしているんだろ?」
 剣に魔法を宿す戦い方は、前例がありません。人の戦術の幅を広げるべく、昔から研究されてきたことではありましたが、武器に魔法を付与しようとしても弾かれてしまうからです。
 アルファルドがそれを行えるのは王家の特殊な血筋ゆえ、とされていますが、その考えが正しいのかを判断することは誰にもできませんでした。
「う、うん。まだ上手にはできないけど……」
「それは必ず、未来で国を導く君の力になる。闇の属性も、容易なことではないが……力として制御できるようになれば、大きな助けになるはずだ」
 城に仕える宮廷魔術師も、少し前に闇の魔法のことを話していました。人にとって貴重な属性だからこそ、扱いは難しくとも強力なものである、と。
「……人は、先に〝存在〟がある。目的のためにその命が造り出されたわけじゃない」
「存在?」
「剣は何かを斬るために作られるけど、人間はそうじゃない、ということだ。どう在るかを決めるのはあとになる。君が王子という立場であっても、それは変わらない」
「どう在るか……」
「今すぐに分からなくてもいいんだ。心の片隅にでも置いてくれれば、それで大丈夫だから」
 王になるための勉強の中では、まだ触れたことのない言葉でした。頭の内側で反響するその言葉を、アルファルドはしっかりと記憶に刻みます。
 今は意味をはっきりと理解できなくても、自分の中で標になる時が来る、と感じたからです。
「……分かった。でも、それをちゃんと理解できたら、僕がなりたい〝王様〟に近づけると思うから……もっと、勉強頑張るよ」
「立派な心がけだ。君なら、掴めると信じているよ」
 もう一人の父親みたい――とは、口にしませんでした。
 精霊さんが何歳なのか分からないのもありますが、少し考えると、兄に近い感覚があったからです。
「ありがとう、精霊さん。父上とも、話をしてみる」
 完全に拭い去れたわけではありません。ですが、渦を巻いていたところが少しだけ晴れて、暗くなっていた道が見えるようになりました。
 小さくとも、一歩踏み出すことは大切です。母親の形見である本を抱え直して、アルファルドは聖樹を見上げました。

 そして――その日から、精霊さんは中庭に現れなくなったのです。

 ◆

「……なあ、エーヴィ。すごく、すごく今更なんだが、一つ思い出したことがあるんだ」
 時が経ち、大人になったアルファルドは、ふと昔の記憶の扉を開きました。
「思い出した?」
「今から二十年以上前か……俺がまだ子どもだった頃、城の中庭にある聖樹のところで〝精霊さん〟に出会ったことがあってな。色々と、話を聞いてもらったんだが――君なんだな? あの時の〝精霊さん〟は」
 結局、アルファルドは父親と異なり、精霊さんの姿を見ることはありませんでした。少し寂しさを感じたこともありましたが、どこかで見守ってくれているのだと思って、彼がくれた言葉も大事にしながら生きてきました。
 人は声から先に忘れると言います。現に、アルファルドはもう、精霊さんの声を思い出すことはできません。
 それでも、不思議な直感が告げていました。今目の前にいるエーヴィが、あの日竪琴の音をきっかけに出会った〝精霊さん〟なのではないか、と。
「……。覚えていてくれたのか。君の言う通り、あのとき中庭にいたのはオレだよ」
 アルファルドの言葉を受けて、エーヴィは微かに驚いたような表情を浮かべました。
 そう言う彼の手のひらの上では、小鳥の形をした光が揺れています。
「きっと将来、王になった君とどこかで出会う。なんとなくそう思っていたから、敢えて姿は見せなかった」
「そうだったのか……その予感が当たったんだな」
「ああ。今になって言うのも変だとは思うが……君が浮遊大陸に現れたとき、あの王子が随分大きく成長したな、と思った。中庭で見たときはまだ、これくらいの背の高さだったのに」
 地上へ降りてきても城を訪れる機会がなかった、とエーヴィは言います。戴冠の際も直接見に行くことはできず、大人になったアルファルドを初めて見たのは、浮遊大陸で出会った時だったそうです。
 時間の流れる速さが異なる、浮遊大陸と地上。巡回を行う時以外はここに留まっているエーヴィにとって、時間とはあるようでないものでした。
「人の成長は早いからな」
 あの日に出会わなければ、今でも心の隅にある言葉は存在していませんでした。
 恩人の一人と言ってもいい彼と再会できたことがはっきりと分かって、アルファルドは安堵に近い気持ちを抱きます。
「それにしても、中庭か……なんだか懐かしいな。今でもたまに行くんだ。あそこは、いつ行っても変わらないな」
「聖樹の影響で、周辺のものが朽ちないようになっているんだ」
 光から生まれた空色の小鳥が飛び立ち、聖域の天井付近をぱたぱたと飛んでいきます。
 その様子を目で追ったのち、エーヴィは次に光の葉を生成しました。
「聖樹、といえば。数年前、あの葉に君の名前を記憶させたよ」
「! あの樹のどこかに、俺の名があるのか……そう思うと、更に気が引き締まるな。今更なんだが、刻むことに何か意味があるのか?」
 ヴァスタリアを導いた、歴代の王の魂が刻まれた聖樹。記録するためであろうことは分かりましたが、それ以外にも理由があるのか、アルファルドは少しだけ気になっていました。
 すると、エーヴィはこくりと頷いて、手にしていた葉を小さな粒子へ変えていきます。
「記録と、祈りのためだな。広大な世界に生きる人々を先導し、混迷に正面から立ち向かう者……災禍の中で王の名を継いだ君が穢れることなく、光を束ねて永遠に続く希望を紡げるように」
 物語の一文を引っ張り出したような言葉が、アルファルドの耳に入ってきます。
 宙へと溶けていく光の粒子を、海原を切り取った色の瞳が映していました。
「そして――王として歩む旅路の果て、その魂が空に還る日まで、守り人として君の行く道を見届ける。あの中庭は、オレが自身にそう誓約する場でもある」
「見届ける……か。そうか、そうだよな。君は俺より、ずっと長生きだ」
 時折忘れそうになってしまいますが、エーヴィはとてもとても長生きでした。正確な年齢は本人も忘れてしまったそうですが、おおよそ三千年前の大災厄で女神とともに破壊神と交戦した、ということから、それ以上の歳月を生きていることには間違いありませんでした。
 数千年の命。人間であるアルファルドには、想像もつかないことでした。それだけ長い時間が経てば、世界の何もかもが変わっていてもおかしくはありません。移ろう世界の中、エーヴィはひとり、守り人として立ち続けているのです。
 王の使命が永遠であったとして、自分はすんなりと運命を受け入れただろうか。彼と出会ってから抱いた自身への問いかけに、アルファルドは未だに答えを出せていません。
 ヴァスタリアという〝守るべきもの〟を愛しているのなら、終わりのないそれも苦ではなくなるのでしょうか。
「アルファルド?」
「ん、すまん。ちょっと考えごとをしてしまった」
 何十年先になるかは分かりませんが、伝承を辿って出会い、立場に関係なく友人となったエーヴィとも、いつか別れる時が来ます。そのときのことを思うと寂しさに近い感情は出てきてしまいますが、それ以上に、自分が去ったあとの世を見守り続けてくれる存在がいるということに、改めて安堵したとアルファルドは気づきます。
「君が見守っていきたいと思える世界が、続くようにしないとな。重荷になってしまうかもしれないが……それがあのとき、中庭できっかけをくれた君に対する、一番の恩返しになると思っているんだ」
「友人が大切にしているものを、見守っていくことは重い荷なんかじゃないよ。それに、守る理由はいくら増えてもいい」
 人が立ち続けるための理由は生きている限り増えていく、とアルファルドは思っています。長くとも百年前後の寿命である人間ですらそうなのですから、数千年生きているエーヴィの中には、どれくらいの理由が降り積もっているのでしょうか。守る理由は願いでもあり、夢、希望とも言えます。
「友人……か。本当に、ここへ来て正解だった。けど、大人になったら守り人と友だちになる、なんて、子どもの頃の俺が知っても信じてくれないだろうな」
「…………」
 アルファルドをじっと見ていたエーヴィは、ふむ、と小さく声を零しました。
「ん、どうしたんだ?」
「……やっぱり、君はちょっと変わってるな。もちろん、良い意味でだが」
「変わって……?」
「色々な王がいたが、浮遊大陸まで乗り込んできて、更に〝普通に接してくれ〟なんて頼んできたのは君くらいだ」
「うっ……そ、それはそうかもしれないが……本心を言うしかないと思ったんだ、あの時は。この立場だと、友人が作りにくいのは本当なんだぞ?」
 包み隠さず告げた、アルファルドの本音。畏まらずに接してほしい、という言葉を正直にぶつけたのは、もう半年ほど前のことになります。
 アルファルドがそのように返すと、エーヴィは笑います。基本的にあまり大きく表情が動くことのない彼でしたが、時々、見た目の年相応の姿を見せるようになりました。
「それはオレも同じだ。出会えてよかった、と思ってるよ。守り人として、だけじゃない――君とただの友人として話せる時間は、オレにとっても貴重なものだから」
 立場は違っていても、共にヴァスタリアのために力を尽くそうと約束した守り人、兼、友人。自分が王という立場にあることを自覚してからは、一生得られることのないものだとアルファルドは思っていました。
「そう思ってくれているなら何よりだ。……ということで、久々に時間が取れたんだ。少しそれらしい話をしよう」
「何か新しいものを見つけたんだな」
「城下町に、海鮮料理が美味しい店ができたんだ。シアリィちゃんの好きな苺の甘味もあるし、今度行ってみないか」
「君は大丈夫なのか?」
「俺のことは気にするな! 帽子を被っていれば意外と気づかれないんだ」

 あのとき〝精霊さん〟として出会った彼と、この先も友として、平凡な時間を共有したい。
 そんなアルファルドの小さな願いが壊されずに済むのかは――今はまだ、誰も知らないことでした。