九章【小さくも大きなネガイ】

 魔獣の中には、状態異常を引き起こす攻撃を仕掛けてくるものがいる。
時間経過と共に身を蝕む火傷、自由を奪う麻痺。時に一撃で行動不能に陥ってしまったり、治してもしばらく後遺症が残るものもある。対策を立てていても、初めて訪れる地では情報不足故に、それらを受けてしまう事も時折あった。
「戦闘開始――やや不利な状況ですね」
「冷静に対処するんだ。オーダーを聞き逃さないでくれ!」
「了解です!」
 オルディスで請け負った依頼を達成し、街へ引き返そうとしていたリィン達は、魔獣の群れに遭遇してしまう。的確な指示と連携のおかげで追い詰められはしなかったものの、魔獣は徐々に数を増やしていた。
 隙を見て撤退すべきか、それとも。リィンが思案していると、視界の端で、アッシュが魔獣の爪を受け止めて後退りする。
 大丈夫か――そう声を掛けようとしたが、彼はそのまま蹲ってしまった。
「アッシュ?」
 大きな怪我をしているようには見えない。様子が妙だと、リィンは足を止める。
「…………違う…………あいつは……ッ!」
「!」
 一度苦しげに蹲ったアッシュは、立ち上がって虚空を切り裂き始めた。
「ちょ、ちょっとアッシュ! どうしちゃったのよ!?」
「ユウナ、離れろ! 混乱しているんだ!」
 尋常でない気配を察知して、リィンは動揺するユウナの腕を引いた。
 片方の目を抑えて、アッシュは何かを追い払うようにヴァリアブルアクスを振るっている。目の前には、何も居ないというのに。
「アッシュさん!」
「来るな! くそっ、殺す……!!」
 仲間に呼びかけられても、アッシュにはなかなか届かない。敵と味方の判別がつかなくなってしまっているのか、近寄るものには無差別に攻撃していた。
 おかげで魔獣は倒されていくが、このまま放っておくのはあまりにも危険だ。
「ミュゼ、アーツを早く……」
 双剣で魔獣を斬り伏せながらクルトが叫ぶが、相手の数が多く、ミュゼは駆動を遮られてしまっている。
 それなら――と、リィンは一旦群れの中から抜けて、手を翳した。
「響け、絶唱陣・神楽!」
 リィンがミュゼの方を見遣ると、任せてください、と言うように彼女は小さく頷いた。
「今、治します!」
 ミュゼが瞬時に発動させたレキュリアの淡い光がアッシュを包んで、彼の瞳に小さな光が戻る。が、勢いよく手元を離れた鎌は止まらず、真っ直ぐに飛んでいた。
「ユウナさん、危険です!」
 アルティナがそう叫ぶと、その先に居たユウナは、振り上げていたガンブレイカーを下ろして飛来するものを捉える――が、魔獣が放った蔦のようなものに足を取られて、その場から動けずにいた。
 正気に戻ったばかりのアッシュは、目の前の状況を把握するのに微かに時間を要して、得物を引き戻す事が間に合いそうにない。
 考えるよりも先に、体が動く。リィンは強く地を蹴り、ユウナと鎌の間に割って入った。
「ユウナ――……っ!」
「リィン教官!?」
 庇うようにしてユウナを抱え、離れようとするが、避けきれずリィンの背に鎌の柄が当たる。息が詰まるような衝撃が一瞬したものの、この程度ならば問題はない。
「……?」
 立ち上がり、ユウナへ声を掛けようとして、視界が揺らぐ。目前の景色が不安定に揺れ、色彩が混じり、景色の中の線が増えていく。
 何かがおかしい、とリィンが気付いた時にはもう、黒い欠片が、声と重なりながら脳内に流れ込んできていた。

『僕が……この熊を、殺した……?』
『普通じゃない。みんなと同じじゃない。それなら僕は、何なの?』
『良い落とし所を見つけてやってくれや』
『死んだら終わり、そんな事は知っている……そうなれば何も、何もないんだぞ!』
『何が英雄だ、人一人の命すら守れないくせに――すくいたいものもすくえない、無力な手しか持っていないくせに……!』
『頼りになるねぇ、灰色の騎士様は。――だが甘い。人を殺さないように戦うなんて、殺すより難しいんだ。分かってるだろ?』
『あれを爆発させれば、一体何人死ぬ事になるんだろうな。人の命ってものは、重いくせに軽い』
『この子はハリアスクの街中で逃げ遅れて、その時に飛んできた瓦礫のせいで、目が見えなくなったんです。もう一生、光を見る事はない……』
『無血占領? よく言うぜ。それの影響で誰かが死ぬかもしれないのに』
『人間はみんな、人殺しになっちまう可能性を持っているのさ。些細な事も、大きな事も、巡り巡って誰かの命を奪う事がある。それは英雄様だって例外じゃあないんだよ』

 幾度も響くそれらは、鎖のようにリィンの意識に絡まり縛っていく。心の奥底に沈殿したものが、消える事のない枷となって纏わり付く。
「リィンさん、大丈夫ですか……リィンさんっ!」
 呼びかけられ、色が混じって揺らいでいた世界が元に戻る。
 いつの間にか倒れていたらしく、すぐ横で覗き込んできていたアルティナと目が合った。
「アル、ティナ……? 俺は大丈夫、だが……魔獣達は?」
「戦闘は終了しました。周辺に魔獣の気配はありません」
「……そう、か。それなら……良かった……」
 鉛のような重さがある体を、思うように動かす事が出来ない。起き上がろうとしても起き上がれず、まるで地面に縫い止められたかのようだった。
「……これは」
 ARCUSを握り屈んだミュゼが、レキュリアを発動させる。その直前に、彼女が一瞬だけ表情を曇らせた理由を、問う気力はなかった。
「ミュゼさん、リィンさんは……」
「大丈夫ですよ、アルティナさん。命に別状はありませんから」
 それなら良かった、と零したのは誰の声だったか。音として届いているはずなのに、認識する前に、脳内で溶けるようにして消えてしまう。
「一旦、オルディスに戻りましょう。お二人とも安静にした方が良いでしょうし」
「街の近くなのが幸いだったな……教官、宿まで歩けますか?」
 クルトが心配そうな面持ちで、手を伸ばしてきた。
「大丈夫、だ。……すまない、クルト」
「謝らないでください……というより、これくらいさせてください」
「アッシュさんは私がクラウ=ソラスで支えます」
 申し訳ないと思いつつも、リィンはクルトの肩を借りてゆっくりと歩き出した。

「……」
 オルディスが近付くにつれて、頭が徐々に重くなる。何かが侵食してくるかのように、じわじわと広がっているのが自分でも分かった。小さな頭痛は大きくなり、色彩が戻った世界から再び色が消えていく。
 ミュゼに施してもらったアーツが効いていないのか。幾つかの可能性を浮かべかけて、何度目か分からない頭痛に阻まれる。

 ――こんなところで倒れて、大切な教え子達に迷惑はかけられない。

 その一心でリィンはどうにか気力を保ち、足を動かしていた。先行するユウナ、自分を支えてくれているクルト、片目を抑えて歩くアッシュ、彼を支えるアルティナ、周囲への警戒を続けるミュゼの姿を見て、頼もしいなと感じながらも、守らなければという想いも同時に沸き上がっている。
「すみません、怪我人が――――」
 アルティナが受付へ小走りで向かうのを見送った直後、引きずっていた痛みがリィンへと一気に襲いかかってきた。糸が切れる音が聞こえた気さえしたのだ。
「きょ、教官っ!」
 視界が突然、真っ暗になる。景色が崩れ落ちて、ぷっつりと世界から遮断される。
 名前を呼ばれているのは分かっていても、途絶えようとしている意識を引き戻す事はもう、出来なかった。

 ◆

 暗闇の向こうへと手を伸ばす。何もないと知りながら、光がある事を信じて歩く。
 心を染める絶望が、血が滲むほど縛り付けてくる鎖が、願っていた未来を残酷なほどに掻き乱して奪っていく。
 哀しみは声にならない。怒りも同じだ。自分の鮮血を、誰かの命を握り締めて、彼が振るった刃は呪いを撒いて世界を壊す。修復不可能な状態に追い詰める。
 内側で暴れるものが、彼の命と意識を食い荒らしていった。すべて受け入れろと、楽になってしまえばいいと、甘言を囁きながら途絶える事のない痛みと苦しみを与えていく。
 黒寄りの灰色に染まった世界の中、彼は蹲り、ひび割れた記憶が掌の上で砂塵となっていくのを、ただ黙って見ていた。

 ――リィン・シュバルツァーという存在が、消えていく。

「おい、教官」
 霞む景色。一度だけ体を揺すられて、リィンは目を覚ます。
「目ぇ覚めたかよ」
「! アッシュ……?」
「カッコつけて無茶しやがって。アンタ、ここに着いたらすぐにぶっ倒れたんだぞ」
 アッシュはリィンから目を逸らす。少々気まずそうな様子だった。先程の戦闘の事を覚えているからだろう。
 今後は注意が必要とはいえ、反省しているならばそこまで気にしなくてもいいのに――と、リィンが言おうとした時、彼は自分の懐から何かを取り出した。
「……。なぁ、妙な夢でも見なかったか」
「夢……それは、クオーツ?」
「〝悪夢〟を相手に見せるヤツだ。新しいのが手に入ったから、試しに使ってたんだよ。……アンタに当たったのは鎌の柄の部分だった、そんだけでアンタが気絶するとは思えねえ」
 自分の胸に手を置いて、リィンは言葉を詰まらせる。暗い世界の中に立っていたような、そうでないような――曖昧な感覚が、その辺りに確かに残っていた。
 それを夢と言っていいのかは、すぐに判断出来そうになかったが。
「……よく、覚えてないな。当たりどころが悪かったのかもしれないし……それよりアッシュ、怪我はないか?」
「は?」
「ユウナも大丈夫そうか? 足を怪我していただろう?」
 珍しく間の抜けたような表情を一瞬だけ見せた後、アッシュは眉を顰めた。
「……あのな、」
「リィン教官!」
 アッシュが何かを言いかけた瞬間、ばん、と扉が開かれる。タイミングが良すぎるのか否か、部屋に入ってきたのはユウナだった。
「ユウナ。怪我は……平気そうだな?」
 彼女の足には包帯が巻かれていたが、歩く事に影響はなさそうだ。血が滲んでいる事もない。そこまで怪我は深くないのだろう。
 ほっとしてリィンが笑うと、心配そうな面持ちで、ユウナが一歩詰め寄った。
「あたしは大丈夫です。それより教官が――……あたし、また、守られて……」
 僅かに俯いて、彼女は小声で零す。
 複雑な想いが入り混じったようなその呟きは、リィンの耳に届いていた。
「……〝また?〟」
「! し、四月の演習の時に、助けてくれたじゃないですか! だからそれはその時の事で――って、そうじゃなくて……」
 どこか不自然な感じは拭えないが、間違ってはいない。確かにそんな事もあったな、とリィンが半ば懐かしみながら思っていると、ユウナが勢いよく頭を下げた。 
「そのっ、教官。ありがとうございました――ほらっ、アッシュも!」
「言われなくてもそのつもりだから手ぇ離せや、だからジャジャ馬なんだよお前は」
「なんですって、プリン頭~!」
 笑い事ではないのだが、その様子が妙に可笑しくて、リィンは小さく吹き出してしまう。同時に、こんなやり取りが出来るのならもう大丈夫だろう、と安堵した。
「二人とも、後悔じゃなく、反省をしてくれればそれでいいんだ。……それはさておき。君達を引率していた俺にも、当然責任はある。今回の事を留めて、今後も一緒に精進していこうな」
 課題は多いが、新米教官として、生徒達と一緒に切磋琢磨して歩んでいきたい――リィンの真摯な瞳に、二人は少し間を空けてから、返答と共に頷き返した。

 ――ユウナとアッシュの昨年度のレポートには、オルディス実習でのその事が、事細かにきちんと書かれていた。

 自由行動日の午後。頼まれていた依頼を終えて自室へ引き返したリィンは、オーレリアから渡されていた生徒達のレポートをなんとなく手に取った。
 目を通していると、懐かしさでつい手が止まってしまう。眠気覚ましに持ってきたコーヒーは、すっかり冷めてしまっていた。
 三人目を見終えた後、リィンは目元を軽く擦って、込み上げる欠伸を堪える。
「……昨日、ちょっと夜更かししたからな……」
 副教官のように、少々いかがわしい本を読んでいたわけではない。稽古に集中していたら、いつの間か日付を越え、更にそこから数時間が経ってしまっていたのだ。
 にも関わらず、朝は学院に行く日と同じ時間に目が覚めてしまったのだから、睡眠時間は不足していて当然だった。
 一度眠い、と考えてしまうと、内側に潜む睡魔は容赦なく引っ張り込もうとしてくる。
「……少し、三十分、だけ……」
 ベッドに寝転んでしまったら夜まで目が覚めない気がして、リィンは仮眠場所に机を選んだ。レポートの束は端に寄せて、確保したスペースへ腕を枕にしてから伏せる。
 目を閉じてからは、すぐに周囲の音が聞こえなくなった。

 ――寒くて、冷たい。

 どこかの墓地に、リィンは立っていた。周りにはⅦ組の仲間がいて、そばにはトワが立っている。小さく肩が震えているのは、気温のせい――ではないのだろう。
 顔を上げると、棺が見えた。土が少しずつ被せられていき、徐々にそれは見えなくなっていく。
 ――誰か、亡くなったのか?
 周りの面子からして、自分の夢を見ているはずなのに、目前の光景は一致しない。この、遠くに帝都が見える墓地を訪れた事もない。
 ――本当に、そうなのか?
 緋色に染まる景色。冷える心臓。遠ざかる映像。
 それは誰の問いかけなのか分からないままで、答える事も出来なかった。

 脳裏で弾けた閃光が、強制的にリィンの意識を叩き起こした。短い仮眠から目覚めて、彼は机に伏せていた体を起こす。
 眠っていた時間と釣り合わないほど、見ている夢は長く感じられた。
「……今の、夢は……?」
 落ち着かない心臓。手を当てて、リィンは深呼吸を繰り返す。
 知らない場所だった。知らない光景だった。ただ、自分の周りに居た人は知っていた。けれど、思い返そうとすればするほど、霞がかかってぼやけていってしまう。思い出すなと、警告するかのように。
「……」
 重い体を引きずるようにして、リィンは机から地図を引っ張り出した。
 辛うじて覚えている断片。記憶から消えてしまう前に、見えていた景色から、夢の中で居た場所を割り出す。実際に存在する場所かもしれないからだ。
 ペンで直線を引いていくリィン。微かに手が震える理由は、彼自身にも分からない。どうしてそこを探そうとするのかも、分からなかった。
 やがて、帝都の中心から伸びていく線は、とある場所へと辿り着く。
「ヒンメル、霊園……墓地か」
 誰かの埋葬に立ち会っていた事を踏まえると、ここで間違いないかもしれない。
 訪れた事のない、初めて名前を知ったはずのそこに、何があるのか。行くべきではないという気持ちと、相反するそれの二つの狭間で、しばらくリィンは揺れ動く。
「…………」
 音もなく、傾いた天秤。ゆっくりと立ち上がって、リィンは掛かっていた上着を手に取った。

 ――目を逸らしてはならないと、誰かが言った気がした。

 橙色の光が差し込む寮の階下へと向かうと、寛いでいるⅦ組の面々が居た。
「リィン? こんな時間からどこ行くんだよ、もう日が暮れるぜ?」
 アッシュとカードゲームをしていたクロウが、足早に通り過ぎようとしたリィンを呼び止める。この二人の場合ミラを賭けている事もあり、その時は止めるのだが、今はそこまで気が回らない。
 リィンはぴたりと足を止めて、苦笑いを浮かべながら振り返った。
「帝都の方だ。ちょっと、忘れてた事があってさ」
 我ながら下手なごまかし方だと、彼は分かっていた。
「買い物ですか? それならわたしも――」
「ごめん、買い物じゃないんだけど……俺一人で間に合うから、大丈夫だよ」
 それ以上の追及から逃れるべく、リィンはひらりと手を振って駆け出した。

 ◆

 導力バイクを走らせる事、おおよそ三十分。リィンが辿り着いたヒンメル霊園は、街道から少し離れた場所にひっそりと存在していた。
 おそるおそる、彼はそこへ足を踏み入れる。外から切り離されたかのような静けさだけが、霊園の中を満たしていた。
 ゆっくりと周囲を見回して、残っている記憶の断片と照らし合わせる。
「……間違いない。ここで俺は、誰かを見送って……」
 夢の記憶は、かなり朧げになってしまっていた。誰の埋葬を見届けていたのか、もう思い出す事は叶いそうにない。
 立ち尽くしていたリィンに、いつの間にか擦り寄って来ていた猫が鳴く。そっと撫でてやった後、彼は霊園の奥に向かって歩き出した。
 墓石の横を通りかかるたびに、リィンは刻まれている名を確認していたが、知っている名はない。糸のように絡み合う感情を抱いたまま、リィンは少しづつ歩いていく。
「……!」
 霊園の端の方、柵の向こうには、夕陽の中に佇む帝都が見える。ぽつんと立っている木に覚えがあったリィンは、その少し前で足を止めた。
 鼓動が早まる。己のものであり、己のものではないようなそれが、やけに大きく反響する。
 Ⅶ組の仲間と、先輩達と一緒に〝誰か〟の埋葬を見届けた場所。らしくもなく、満足したような顔をして棺の中で眠っていた〝   〟を――。
「……っ……!」
 そこには、何もない。追憶の中で誰を見送ったのか、滲んだ光景が再び鮮明になる事はない。
 ぽっかりと空いているその場所に違和感しかなく、リィンはその前に屈み込む。込み上げる感情が、堰き止めていたものを壊して流れ込んできていた。
 大切な何かが、消えてしまったかのような。
 取り戻したかった何かを、喪ってしまったかのような。
 愛おしいと思っていた場所が、音もなく崩れ去ってしまったかのような――そんな、正体の分からない感情が、リィンの心を掻き乱す。
「…………俺は、どうして泣いてるんだ……?」
 頬に何かが伝っているのに気付いて、リィンは顔を上げる。理由の分からない涙ではあったが、間違っているものでもないような気さえしていた。頭を振って、彼は自分自身の胸元を強く握り締める。
「はは、何なんだ……これ……」
 足場が揺らぐような感覚と遠のく意識が、彼に幻を見せる。そこにないはずのものが、幻影となって現れる。
 リィンの前に現れた一つの墓石は、まだ新しい。ぼやける視界の中、リィンは墓碑の文へと目を向けた。
「……〝Cro――〟」
 その墓石に刻まれている名は――――

「リィン!」
「!」

 聞き慣れた声で名前を呼ばれて、彼は慌てて頬を拭った。
 幾つかの足音が近付いて来る。振り返るまでもなかったが、ゆっくりと、リィンは背後を見た。
「みん、な……? 何かあったのか?」
 絞り出すように呟いたリィン。彼の前に屈んだクロウが、溜め息に似たものを吐いてから苦笑した。
「ったく、それは俺らの台詞だろ」
「あんなに顔色が悪い教官を、放っておけるわけないじゃないですか!」
「ヴァリマールも心配していました。教官の霊力が揺らいでいるような気がする、と言っていたので」
 アルティナがリィンの前、クロウが屈んでいる辺りを見遣って首を傾げた。青い花が一本生えているだけの、墓地の端、空っぽの地面がそこにある。
「リィンさん、ここがどうかしたんですか……?」
「分からない……分からないんだ。だけど……」
 幻影は消えていた。墓石は跡形もなく、花だけが風に吹かれて揺れている。
 握りっぱなしだった胸元から手を下ろして、蓄積する何かを吐き出すように、リィンは普段よりも長く息を吐いた。
「……。離れた方が良いんじゃねぇか?」
「ああ、そう……だな」
 夕陽が遠くの空へと溶けていく。毎日のように見ているその色が、世界を覆っていく。微かな恐怖のような感情が沸いて、リィンは広がる橙から目を逸らした。
 背を向けて、霊園の出口へと向かう途中、彼は一度だけ、墓石の幻影を見た場所を振り返った。

 ――やっぱりそこには、何もないのだ。

「リィン教官?」
「っ!」
 意識が数日前の追憶から引き戻される。ぼんやりとしていた事に気が付き、弾かれたように顔を上げる。手には確認中の書類を持ったままだった。
 思わず、教員室のカレンダーの日付を確認する。千二百八年――何も、おかしくはない。
 珈琲の入ったカップを置いて、リィンは自分の名を呼んだ声の主の方を向いた。
「アルティナ……早いな。部活はもう終わったのか?」
「……」
 水泳部はまだ活動している時間のはずだったが、早く切り上げたのだろうか。リィンの問いかけに、アルティナは何故か、気まずそうに視線を逸らす。
「……これを、渡したかったので」
 視線を逸らした、というわけではなく、懐に入っているものを取り出そうとしていたようだ。
 アルティナからリィンに渡されたのは、小さな御守りだった。

      

「ミュゼさんに教わりました。……大切な人が傷付かないように、祈りをこめて渡すものだそうです」
「……どうしたんだ、突然?」
 手を握って、アルティナはリィンを見つめた。
 風が吹いて、湖の水面のように揺らいだ翠を見て、彼は戸惑う。
「リィン教官。わたし達は〝ここにいます〟」
「…………?」
「どこにも、行きません。だから――」
 ここにいる、という一言が、リィンの心を覆っていた暗雲を払っていく。伝わるあたたかさが、冷え切った何かを優しく包んでいく。
 突然どうしたのだろう、とリィンは思ったが、ふと、ヒンメル霊園の件が過ぎった。
「気を遣わせてごめんな。三日前の事、だろう?」
 間を空けてから、こくり、とアルティナは頷く。
「わたしには、言いづらい事もあるかもしれません。まだまだ未熟で、頼れないかもしれません。ですが……リィン教官を、リィンさんを、支えたいし守りたい。それは任務だからではありません。わたし自身が、そうしたいと強く願ってここにいます」
 気付けそうで気付けない想いが彼女の心の中にあり、突き動かしているようだった。
 翠と黎明の色が交わる。向けられる想いが優しく溶け込んでいく。
 目を閉じて、リィンは裏側に映し出された朧げな幾つもの〝映像〟を見る。ペンで塗り潰されかけたそれは、断片的に、何なのかを理解する事が出来た。
「…………それなら……少しだけ、いいか?」
「はい。その為に来ましたから」
 リィンはぽつりぽつりと、アルティナに〝夢〟の話をする。
 妙に現実味のある夢を見る。明るいものではなく、薄暗くて冷たい、胸を締め付けるようなものが多い。はっきりとは覚えていられないものの、そんな感覚だけが残されている時もある。
 今いるこの場所が現実のはずなのに、その夢こそが〝現実〟なのだと告げる誰かの声が、時々響いていた。目覚めてからもぼんやりとその事を覚えていて、しばらくベッドの上から動けなかった日もあった。
「少しだけ、怖くなったんだ。知らない自分の夢を見ているみたいで……ここが夢なのか、現実なのか、分からなくなりそうになった。――だから、安心したんだ。アルティナに〝ここにいる〟って言ってもらえた時に、こっちがちゃんと現実なんだ、って……」
 こんな弱音を吐くなんて情けないと、リィンは自覚していた。けれど、アルティナから伝わるあたたかな光は、巻かれていた紐を少しだけ解く。
「……リィンさん。それがもし〝現実〟だとしても、リィンさんを支えます」
 ふわり、と銀髪が揺れて、アルティナはリィンをそっと抱き締めた。二人分の鼓動が重なって、強く、ぎゅっと彼女は腕に力を籠める。
「わたしは、信じていますから。リィンさんの事を」
「……アルティナ」
 リィンから、アルティナの表情は見えない。幾つか想像はつくものの、どれが正解なのかを識る手段はなかった。
 アルティナは、小さく震えているようだった。どうしたのか――という感情を抱くのは、この短い時間で何度目になるだろう。彼女も何か悪い夢を見たのではないか、と思ってしまう。
 リィンは抱き締められたまま、アルティナの頭を撫でた。気休めにしかならないかもしれないが、それでも、そうせずにはいられなかった。
 と、その時――部屋の外で、幾つかの気配が動く。
 先程から、誰かが居るのは気付いていた。集中して探れば、それが誰なのかを判別する事は出来たが、そこまでする必要はなかった。こちらから声を掛ける事も、だ。
 きっと、しばらくそこに居るからには、途中でタイミングを見計らって入ってくる。リィンにはそう分かっていたからだ。

「アル。そこは〝わたし達は〟じゃ、ダメかな?」
「え……」

 予測が的中――いや、やはり〝彼ら〟はそういう子達だったなと、リィンは素直に再認識した。
 振り向くアルティナ。開きっぱなしだった扉の向こうには、ユウナが立っていた。彼女の後ろには、クルト、アッシュ、ミュゼも居る。
「皆さん……いつからそこに?」
「ちょっと前だな」
「長い針が五回ほど回る前でしょうか」
「すみません。立ち聞きをするつもりはなかったのですが……」
 指で時計の針を回すような仕草をして、ミュゼが苦笑する。彼女の隣のアッシュは目を逸らして頭を掻き、クルトは若干申し訳なさそうな面持ちだ。
 ユウナはアルティナに歩み寄ると、少し屈んで、目線を合わせる。
「アルはずっとリィン教官を支えて来ているから、きっと、あたし達が知らない事も沢山知ってる。その分、教官を支えて守りたい、って気持ちが強いのも分かるよ」
「だけど〝それ〟は、僕達も同じだ。教官が支えて守ってくれるのなら、僕達もただそうされるだけじゃないようにありたい、と思っているよ」
「一方的なのは気に食わねぇ、俺はそんだけだがな」
「アッシュさん、今日は素直なんですね?」
「肝心なところで茶化すなっつの。……チッ、だからこういうのはガラじゃねえんだよ」
「ふふっ。……私も皆さんと同じ気持ちです、教官。リィン教官は、私にとっての宝物――この分校で過ごした、かけがえのない日々をくれた一人ですから」
 まったく、敵わないな――。
 敢えて言葉にはせず、リィンは内心に浮き上がったものを掴む。真っ直ぐで飾らない彼らの言葉と想いは眩しく、誇らしくも感じられる。
 この第二分校という場所で、彼らに出会えた事を、心の底から嬉しく思った。

「……みんなも、ありがとうな。心配をかけてすまない」

 頼もしい教え子達。良い仲間に恵まれたと改めて感じて、リィンは笑った。旧《Ⅶ組》も合わされば、越えられないものなどないのではないか。
 ――皆の卒業を、必ず見届ける。何があっても。
 先の見えない道を歩いていたような感覚が消える。靄がなくなり、突っかかっていたものが取れたような気がしていると、教員室の入り口からクロウが顔を出した。
「おー、こんなトコで全員集まってどうしたんだよ、もうすぐ夕飯の準備が始まるぜ。今日は各クラス毎で作るって日だったろ? そいつの相談かよ?」
「い、いけない! もうそんな時間!?」
「まだ何にするか決めてなかったな」
 脳内を巡るメニューの数々。今から作れそうなものや、手間や仕込みがそこまでかからないものを、ずらりと並んだリストの中から選ばなければいけない。
 ぐるぐると考えを巡らせていると、腕をくい、と引かれる。
「リィン教官。わたしの料理ノートを使ってください」
「料理ノート?」
 聞き覚えのない単語に、リィンは首を傾げそうになるも、寸前で留める。
「わたしが教官に貸しているものです。調理時間を含めて書き留めていますので」
「……? あ、ああ。参考にさせてもらうよ」
 記憶を探しても見付からないものだった。借りたものを忘れるなんて事はないはずなのだが――今はそこに戸惑っていても仕方がない、と、リィンは頭を切り替える。
「ちょっと部屋に行って見てくるよ。候補を絞ってくるから、みんなは駅前で待っててくれ」
「教官が来たらぱぱっとメニュー決めて、材料買いに行っちゃおう!」
「了解です」
「しょうがねえ、手伝ってやるとするか」
 リィンは足早に教員室を後にして、途中で何気なく空へと視線を投げた。
 深くなる夕暮れが、街を包み込んでいく。明日に向かって、今日が終わっていく。
「……御守りか。大事にしないとな」
 アルティナから渡された御守りを優しく握って、リィンは寮まで走って行った。

 ◆

 多少慌ただしくなってしまったが、無事に作る事が出来た夕食を終え、リィンは自室で一人、ぼうっと椅子に腰掛けていた。
 特にする事がなければ、眠るべきなのは分かっている。なんとなくベッドに入る気になれず、眠くなるまでこうしていようと思ったのだ。
「……」
 リィンの机の上には、アルティナから借りた〝クラウ=ソラス運用メモ〟が置かれていた。アリサやティータに頼まれて、アルティナが気付いた事を書き留めている小さなノートだ。
 机を見回す。隅から隅まで、見落とさないように。けれど〝料理ノート〟は、どこにもない――そもそも借りていないものが、あるはずがないのだ。
「…………」
 アルティナの様子を思い返して、リィンは目を伏せた。窓の外の月が雲に隠れて、部屋に差し込んでいた月光が遮られる。
「よ、リィン」
「……クロウ」
 扉が開かれた後、軽くノックがされる。それじゃ意味がないじゃないか――とツッコむ事はせず、リィンは再び、遮られた月へと目を向けた。
「っと、そいつは……アルティナのノートか?」
「ああ。クラウ=ソラスを使っていて、何か気が付いた事があったら書いてもらうように頼んでいるんだ」
 小さな、小さな矛盾。植物の棘のようなものでありながら、それは見過ごす事が出来ない。否――見過ごしてはいけないと、リィンの中で告げる声があった。
「はは……新年度になって、アルティナも疲れてるのかもしれない。料理ノートなんて借りていないのにな……いや、アルティナだけじゃない。色々と忙しなかったし、俺達がみんなをサポートしないと」
「ったく。お前も人の事言えねえだろうが……早く寝られそうなら休んどけ。〝明日〟の為にもな」
「……クロウこそ、グラビア雑誌読んで夜更かしするんじゃないぞ?」
「休んでるうちに入るから問題ねぇって。そんじゃーな」
 クロウはリィンの頭を雑に撫でて、振り返らないまま部屋を出て行った。一体何をしに来たのやら、と考えても、リィンには分からない事だった。
 月光が再び差し込む。青白さを帯びた空間の中、アルティナのノートを手に取ったリィンは、立て掛けてある写真を見た。

「〝現実〟――――か」

 彼の黎明の瞳に、黄昏の影が過ぎる。
 世界が揺らいだような、妙な感覚がした。