八章【願いを彩る為のパレット】

「おかーさんっ、目の色みせて!」
 ――幼い自分が、スケッチブックを手にして母を見上げている。
すぐに夢だと理解した。失われたはずの過去の記憶の中に入り込んだ事も、思い出す。
 抱えていた洗濯物を置いて、母――カーシャは微笑んだ。自分の瞳を指差して、目を輝かせる息子を前に、少しだけ首を傾げながら。
「目の色?」
「お空の絵、かくんだ」
「素敵ね。だけど、これだけ終わらせてからでもいい? みんなの大事なお洋服、お日様にたくさん乾かしてもらわないと」
「うん! ぼくも手伝うね」
 小さな手が、カーシャから洗濯物を受け取った。皺にならないように左右へ何度か引っ張ると、ぴんと張ったそれが真っ白なシャツである事が分かる。その大きさからして、おそらく〝父〟のものなのだろう。
「ぼく、おかあさんの目の色がいいな、って思って……ぼくも同じだけど、見るのたいへんだし。……おとうさんが〝レイメイの空の色〟だっておしえてくれたんだけど、レイメイってなに?」
 洗濯物を干しながら〝リィン〟が問う。五歳に満たないほどの子供に、黎明という単語は少々難しいのではないか――と思っていると、どうやら母も同じ事を考えたらしい。
 またあの人はリィンに難しい事を言って、と、カーシャは苦笑混じりに零した。
「黎明はね。夜が終わって、一日が始まる時間の事よ」
「朝のこと?」
「そうね……リィンは覚えてる? ちょっと前に、お父さんと三人で、早起きして出かけた時のこと」
「ちょっとおぼえてるよ! お空がきれいだった」
「ふふ、それなら良かった。あの空が見られる時間が〝黎明〟って覚えておいてね」
 父親の逞しい腕に抱えられて、見上げた夜明けの空。夜が静かに消えていき、彼方から差し込んだ光が時間と共に黒を覆う。
 覚えていないはずの記憶が、流れ込んできた。
「……リィンが生まれた時、お父さんと話をしたの。夜明けの空みたいな、綺麗な目をしたこの子は、きっと――ううん、絶対に何があっても負けないって」
「ぼく、なにがあっても負けない?」
「うん。お父さんもお母さんも、そう信じてるから」
 自分を指した〝リィン〟の手を握って、カーシャは優しく微笑む。
 ――信じている。

 たった一つの言葉は、底のない心に沈んでいった。

 ◆

 こんこん、と控えめに扉を叩く音。時計の針は日付変更の二時間前を指していた。
「空いてるぞ、入ってきてくれ」
 一体誰だろう、生徒だろうか。少なくとも、扉が開かれて、こちらが気が付いてからノックをするようなどこかの副教官ではないなと、リィンはペンを置きながら考える。
「夜分に失礼します」
 部屋へ入って来たのは、小脇にスケッチブックを抱えたアルティナだった。
「アルティナか。課題で何か分からないところでもあったのか?」
「課題……と言えば、課題にはなるのですが」
 彼女が持っている物からして、おそらく美術の課題なのだろう。芸術関連の授業にある、抽象的な設問が弱点であると自覚しているアルティナは、時折オーレリアから出される課題に頭を悩ませていた。一年前よりはこなせるようになった、と評価されているが、まだ引っ掛かる事が多いのだろう。
 迷っているのなら、何か掴むきっかけを与えられないだろうか――リィンがそう思っていると、じっ、と彼女はリィンを見つめてくる。穴が空くのではないかと思えるほどに。
「アルティナ?」
「少しだけ、屈んでもらえませんか」
 淡々と告げられた要望。意図が読めず、リィンは頭上に疑問符を浮かべた。
「? 構わないけど……」
 膝を立てて姿勢を低くしたリィンの瞳を、アルティナが覗き込む。
 無言の時間が続くが、互いに一言も喋らない。

      

「……」
「……」
 時計の針の音が、どこからか響いていた。
 言葉を発してもいいものなのか、リィンは若干戸惑う。それほど、アルティナの眼差しが真剣だったからだ。
「…………」
「…………」
 短いようで長い時間が過ぎていく。
 納得したように一度頷いたアルティナは、手にしていたスケッチブックに何かを書き込んだ。
「ありがとうございます、教官。これで空の色が塗れそうです」
 既に描くものは決まっており、彩色で詰まっていた、という事らしい。
 スケッチブックには、モノクロで描かれた景色の中に付箋が幾つも貼られていた。
「空の絵を描いていたのか?」
「《Ⅶ組》の皆さんの色をお借りして、夜明けの景色を描いていました。空の色は、リィン教官の瞳の色にすべきだと思ったので」
「――!」
 ぱちり、と。アルティナの言葉が耳に入った直後、リィンの頭の中で〝何か〟が弾けた。
それは泡沫のような、或いは揺らめく灯火のような――掴もうとしても叶わない、儚くてあたたかいものだ。
「瞳の色……空……」
 白紙の記憶が落ちていく。手の届かない追憶が、形作られないままリィンの胸中を焦がす。どうして、と問いかけても誰も答えてはくれない。
 そう問いかけたくなる理由も、リィンには分からなくなっていく。
『ぼく、レイメイの空が好きだよ』
『夜はしずかで落ち着くけど、ちょっとこわいから……』
 ひらりと舞いながら消えていく、大切だったもの。留めようとしても許されない。
 それは確かに存在したはずの、今は遠い――――
「教官?」
 アルティナがリィンを覗き込む。
 心配するように声を掛けられて、彼は緩く頭を振った。
「! ごめん、何でもないんだ。力になれたなら良かったよ。――それにしても、俺達の色を集めて描いた風景画か……」
「はい。〝所属するクラスを表現した絵〟……漠然としたものだったので、何を描こうか迷いましたが……《Ⅶ組》というクラスの在り方を考えた結果、でしょうか」
「俺達の在り方?」
「上手く言えないのですが……わたしから見た《Ⅶ組》は、今描こうとしている絵のような感じです」
 真っ直ぐに表現する言葉が見付からないらしく、アルティナはスケッチブックを開いて、改めてリィンに見せた。
 広い海を見下ろす小高い丘のような場所で、草花が風に揺れている。

 〝所属クラスに対するイメージ画。Ⅶ、イコール七色〟
 〝ユウナさんとアッシュさんの色は草花、自然〟
 〝クロウ教官は雲〟
 〝クルトさんとミュゼさんの色は海、空(一部)〟
 〝リィン教官は空〟

 貼られた付箋には、色に関するメモ書きがあった。何度も書き直しているのか、消しゴムで消した跡が残っている。自分の色をどこに入れるかはまだ考えている途中なのか、一つだけ、何も書かれていないものも貼られていた。
『このクラスは、様々な色が混じって一つになっている……オレが素直に感じた事だ』
 ガイウスがそう言っていたのを、リィンは思い出す。ばらばらでも、皆異なっていても、一つ。輪として繋がっている。それが《Ⅶ組》なのだと。
「それなら、尚更完成が楽しみだな」
 リィンは心底、嬉しいと思った。アルティナが士官学院での日々を経て、そう感じ取ってくれた事を。
「完成させられるように、頑張ります」
 スケッチブックを閉じて、アルティナは微笑んだ。

 ◆

 暑さ到来――というほどでもないが、運動すれば汗が出る季節になった。
 それでも暑さを感じるのは日中くらいのもので、夕方になれば気温は下がる。湿っぽさを若干含んではいるものの、まだ心地良さが打ち勝つ風が校舎内にも吹き込んで、リィンは足を止めた。
 勿論、理由はそれだけではなかったが。
「アルティナ。今から寮に帰るのか?」 
 数冊のノートを抱えて階段を降りてきたアルティナが、声を掛けられてリィンの方を向く。
「はい。部活が終わりましたので」
 アルティナが抱えていたノートの表紙に、水泳部の活動記録、というタイトルがちらりと見えた。二年目になってから書き始めたというそれは、部内で言われたからではなく、自主的に始めたものだという。
 良い心掛けだな、とリィンが思っていると、アルティナが降りてきた階段を見上げた。
「……? 何か聴こえますね」
「ピアノか。誰かが弾いてるみたいだな」
 何の曲かまでは分からなかったが、穏やかな風と夕暮れの陽光に混じって、優しい音色が二人の耳に届く。
「パブロさん達……は、ピアノは使いませんでしたね」
「それに、軽音部はさっき寮に戻って行ったな。となると……」
「……」
 アルティナは音のする方を見つめていた。言い表すのは難しい、なんとも言えないような表情で。
「気になるのか?」
 リィンが尋ねると、彼女は自分の胸に当てていた手を握る。
「そう、ですね。聴いていると、この辺りが不思議なものに包まれるような感覚を覚えます」
「はは、アルティナらしい表現だな」
 そう言いはしたものの、彼自身、微かに聴こえてくる旋律を耳にして、思慕と寂寥が入り混じったような複雑な想いに心が覆われていた。気にならない、と言えばそれは嘘になる。
 名前の分からない想いを沸き上がらせる曲が何なのか、知りたいという気持ちはあった。
「まだ時間はあるし、せっかくだから見に行ってみるか?」
「ですが、弾いている方の邪魔になってしまうのでは……」
「少しだけなら大丈夫だと思う。それに……俺達に見に来られて、不快に思うような人じゃないさ」
 誰がピアノを弾いているのか、リィンには分かっていた。部活動が終わった後である事を踏まえると、該当する人は一人しか居ないからだ。
 それなら、と頷いたアルティナを伴って、リィンは階段を上がる。人気のない橙を帯びた校舎内に、二人分の足音が静かに響く。

「シュバルツァー、オライオン。気を遣わなくていい」

 二人が芸術室の前に立ち、中の様子を伺おうとすると、来る事が分かっていたかのように声がする。
 アルティナと顔を見合わせた後、リィンは扉に手を掛けた。
「失礼します、分校長」
「演奏の途中だったのに、申し訳ありません」
 オーレリアが譜面から視線を外し、鍵盤に重ねていた手を膝に乗せる。申し訳なさそうなアルティナに対して、彼女は気にするな、と言うように笑った。
「この曲に惹かれたか? 以前、アームブラストも引き寄せた事があったが」
「クロウがですか? 珍しいな……」
 楽譜を数ページ捲って、オーレリアは再びピアノを弾き始めた。体を通り越して魂にまで染み入るような旋律が、心に直接響いてくる。初めて聴いたはずの曲なのに、不思議と、そうではない気がした。
 リィンは左手を自然と握っていた。そしてそのまま、心に立った波に呑まれる。
 ただひたすらに駆けていた刻、大切な〝誰か〟を喪った時――映像も音もない感覚だけの追憶が、焔となって音と共に揺さぶってくる。
「綺麗な曲ですね。ですが、誰かと別れる時のような……そんな寂しさも感じました」
「ほう、そなたはこの曲を聴いてそう感じるのか」
 リィンはアルティナと同じ感想を抱いていたが、黙っておいた。そうした理由は、彼にもはっきりとは分からない。揺蕩う想いを拾い上げる事が出来ず、追い求めて水中に沈めた手が彷徨っているような心地だった。
 演奏を中断する事なく、オーレリアは続ける。
「〝蒼の行き着く先〟……この曲の名だ。訳されたもの故に、諸説あるらしいが」
「蒼の行き着く先……ですか」
 一度引いた波が、再度押し寄せた。曲名をぽつりと口にしたリィンは、記憶の海へと手を伸ばす。

 ――果たせなかった約束。砕けた夢。壊れてしまった〝俺達の〟明日。

 ただ漠然とした言の葉を掴み取るだけで、伴っているはずの思い出はすり抜けていく。ちくりとした、癒えない痛みだけを与えながら。
 一瞥してきたオーレリアと一瞬目が合ったが、彼女は鍵盤から手を離さない。
「シュテーヘンフラーヴ・fという作曲者らしき名と共に、楽譜だけが帝国西部のとある街に残されていた。調べたところ、英雄譚にもし曲を入れるとしたら――という目的で作られた事だけは分かっているが、他の事は一切不明だ。その英雄譚が何なのか、という事も含めてな」
「本が見付かっていない、という事ですか?」
「ああ。楽譜の隅に書名らしきものが書かれてはいたが、世界中を探しても該当する書物は見付からなかったと聞いた」
「不思議な話ですね……」
 オーレリアとアルティナのやり取りが、音として耳に入ってはいるのに、頭に落ちてこない。内容をはっきりと留める前に、砂のようにさらさらと流れていってしまう。
 時間の流れに取り残されるような感覚。世界からも切り離されて、底のない深淵に落とされるような――。
「シュバルツァー。聴き入るのは構わないが、疑問があるならば問うがいい」
 弾きながら、オーレリアが口を開いた。先程、僅かに目を合わせた際に、何かを感じ取ったらしい。
 彼女の声で引き戻され、リィンは肩に入っていた力をそっと抜く。
「……。分校長は、この曲をどう思いますか」
 止まる曲。オーレリアは、リィンに問いかけられて演奏を中断する。場が静止画になったかのような静寂が芸術室に落ちた。
「別れと前進――私なりに表現するならば、その言葉が妥当だろう」
 リィンとオーレリアの視線が絡む。オーレリアの瞳もまた、夜明けを迎えた空のような色を帯びている。リィンのそれよりもより朝に近い、薄明の刻の色彩だった。
「私はこの旋律からそう捉えた。同時に黄昏の空も想起する」
 アルティナを見遣った後、オーレリアはそのまま視線を鍵盤へと戻す。
 規則的な白と黒を見つめながら返答した彼女は、リィンから見ると、目を伏せているようにも見えた。
「前進……」
「別れは確かに悲しいものだ。だが、無意味なそれなど存在しない――シュバルツァー、そなたはその意味が分かるのではないか?」
 オーレリアは、鍵盤を瞳に映し出しながら何を想っているのか。リィンには汲み取る事が出来そうになかった。
 ――そりゃあ、嫌だったさ。あんなに仲が良かった旧Ⅶ組のみんなと、一年で離れ離れになったのは。政府の腹立つ要請を引き受けて、灰色の騎士なんて持ち上げられたのも。もっと言えば、捨てられて拾われて、気味の悪い力を持っていた事も……。
 記憶の引っ掛かりを感じながらも、彼は回想する。かつて、夜の演習場でアッシュに話した事を。
「……ええ、仰る通りです。理解も納得もしていても……みんなと離れ離れになるのは嫌だと言う俺が、心の中に居ました。ですが……その時に交わした約束が、今の俺に繋がっている。聴いていると、その気持ちが沸き上がってくる感じがします」
「私もⅦ組の面々と同様、同窓生よりも先に、特例で一年早く士官学院を出た身。シュバルツァーを残して、学院を繰り上げで卒業した彼らの気持ち――多少は分かるつもりだ」
 再度、リィンとアルティナを瞳の中に映すオーレリア。彼女の銀髪が、深い青色の上でさらりと揺れた。深海の遥か上の水面を漂う、光の網のように。

「この先、そなた達は幾つもの出会いと別れを繰り返すだろう。中には、心を締め付けるような痛みや苦しさを伴うものもある。それでも、見失わぬ事だ。築かれた繋がり……残されたものが持つ意味をな」

 ――……大切な仲間を失った事も……。
 自分の声で響いた言葉が、染み込んでくる。そんな経験があっただろうかと、過去を振り返ろうとしても、錠が掛かっている場所を開く事は敵わない。その閉ざされた扉の向こうに何があるのか――心の空間をどれだけ探しても、差し込む鍵が見付からないのだ。
 アルティナが、リィンの服の裾を掴む。見上げてくる彼女と目を合わせて、リィンは頷いた。
「分校長の言葉……改めて、刻み込んでおきます。俺が、学院生活を通して生徒達に教えたい事の一つですから」
「そなたも教官として頼もしくなったな。その調子で頼むぞ。勿論、オライオンもな」
「はい。教官のパートナーとして、サポートは引き続きお任せください」
 アルティナの返答に笑ってから、オーレリアが演奏を再開する。リィンとアルティナはその場で、美しくもあり儚くも感じられる、音と音の連なりに聞き入っていた。

 黄昏に溶け込んでいく曲は、彼方へ沈んでいく光と一緒に、空間に見えない色を付けていく。
 空に蒼が塗られるまで、オーレリアが奏でる旋律は優しく響き続けていた。